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脱構築研究会・設立記念イベント「ポール・ド・マンと脱構築」
(西山雄二)

2013年8月3日(土)、脱構築研究会の設立記念イベント「ポール・ド・マンと脱構築」が、 一橋大学にて開催された。用意していた会場のキャパを越える90名以上の聴衆が詰めかけて盛会となった。



開催趣旨:かつてデリダは、脱構築(ディコンストラクション)を「plus d'une langue(ひとつならずの言語/もはやひとつの言語はない)」と定義した。脱構築は、主唱者デリダにさえも中心化されることなく、いまなお多方向に展開しつつある複数形の出来事の名である。このたび設立された「脱構築研究会」第1回目の研究会では「脱構築批評」の領袖ポール・ド・マン(1919-1983年)をとりあげる。デリダと共闘しつつも、しばしばデリダと拮抗するかたちで脱構築の多様な可能性を押し広げた存在こそド・マンであった。第1回目は、ド・マン没後30年を迎えるにあたり、『盲目と洞察』および『読むことのアレゴリー』という二つの主著の日本語訳がようやく出そろったいま、両著の訳者によるド・マンの著作の検討を出発として、脱構築の新たな諸可能性を模索することを試みる。



宮﨑裕助「ジャック・デリダとポール・ド・マン」
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1. Deconstruction is/in America
 デリダ(1930 年生)とド・マン(1919 年生)の出会いは国際シンポジウム「批評の諸言語と人間諸科学」(1966 年10 月、ジョンズ・ホプキンズ大学、於合衆国ボルチモア)にさかのぼる。フレンチ・セオリーがアメリカの導入されたこの大規模シンポジウムにおいて、デリダのアメリカ進出が始まり、デリダに共感するド・マンは脱構築のグローバル化の導き手となる。デリダは脱構築を「plus d'une langue(ひとつならずの言語/もはやひとつの言語はない)」としたが、まさに脱構築は複数の言語=語法の「あいだ」で生じるのである。

2.ポール・ド・マンによるデリダ『グラマトロジーについて』批判
 ド・マンとデリダはルソー、とくに『言語起源論』への着眼において意気投合したという。デリダは『グラマトロジーについて』(1967 年)において、エクリチュール(書き言葉)に対するパロール(話し言葉)優位の歴史的体制を「現前の形而上学」として批判した。ド・マンは「ルソー研究に対する際立った貢献」を認めつつ、なぜデリダはルソーに「現前の形而上学」を読み込んでしまうのか、と問う。すでにルソーのテクスト(「文学言語」)が現前の形而上学を逸脱する力を備えているがゆえに、「ルソーを脱構築する必要などない。しかしながら、ルソー解釈の既存の伝統こそただちに脱構築される必要がある」とド・マンは主張するのだ。

3. ド・マンの批判に対するデリダの反応〜ド・マンの自己反省
 デリダにとってド・マンの批判は容易に引き受けられないほど強烈な批判だったが、その後、公開の形での議論は展開されていない。ただし、両者のあいだに書簡のやりとりは続けられ、そのなかで、ド・マン自身の盲目性の問題が浮き彫りになっていく。ルソーを「なんとしても」盲目ではないテクストとして読もうとし、それを純粋な「文学言語」とみなそうとするド・マン自身こそがある意味で盲目ではないだろうか。ド・マンは「いくつかの不適切さを自覚」しつつ、脱構築という用語の使用にますます自覚的になっていく。

4.「ド・マン的脱構築」とは何か?
ド・マンは『読むことのアレゴリー』で「脱構築」を「論争的というよりもむしろ技術的=方法的な意味合いで用い」るとし、「この用語が中立的であったり、イデオロギーとは完全に無縁なものになったりするわけではない」と留保を付ける。ド・マンは脱構築を方法論的な意味において徹底して形式的に──あるいは「機械的に」──使用しようと試みる。ルソーの脱構築的読解を試みるにあたってイデオロギー的中立などないことを自覚するド・マンは、自らの盲目性を偽装することなく、脱構築の「発明的な厳密さの力(a power of inventive rigor)」にコミットしようとする。これは、脱構築の方法論化につねに警鐘を鳴らそうとするデリダのそれとは異なる姿勢であるだろう。
 哲学者デリダによる脱構築は、デリダという哲学的才能による「介入」によって生じる「過剰性と饒舌さ」のエクリチュールであり、文献学者ド・マンによる脱構築は、テクストの字義性そのものに内在する文献学による「稀少性と寡黙さ」のレクチュールと言えるだろう。

5.まとめに代えて:「脱構築の応用可能性」をどのように考えるか
・ デリダの口吻を模倣して脱構築の方法論化不可能性を強調するだけでは「脱構築」の複数性を開くことはできない。いかに単純な模倣による形骸化に抗しつつ、形式化可能性を肯定しうるか。
・ド・マンの脱構築に対する功績は、脱構築の形式化の可能性について徹底して思考した点にある。脱構築の形式化を推し進めることによってこそ、当の不可能性との臨界点を浮き彫りにできるのである。
・「脱構築の教育」をどのように考えるか。テクストそのものに語らせるべく、当のテクストをめぐって読み書きすることの技法はいかに可能か。形式化可能性(ド・マン)と不可能性(デリダ)のあいだでの決定による「もうひとつの脱構築」をいかに遂行するか。テクストを読むことをめぐる「発明的な厳密さの力」への信、つまり、新たな文献学の問いが残される。



土田知則「文学理論家としてのポール・ド・マン」

ド・マンの翻訳の経験
 まず、ド・マンの翻訳の苦労話についてだが、若い頃の明晰な文章に比べると、後期のテクストは実に難しい。短い文章のなかにさまざまな要素や論点を詰め込むので、一読しただけでは飛躍の多い、意味の通らない文章に感じてしまう。主語と述部が論理的に上手くつながらない場合もあり、直訳では歯が立たない文体で、どうしても意訳に頼らざるを得ない。多少こなれすぎた訳文になったとしても、日本語として読める文章を目指した。

ド・マンにとっての言語の性質:アレゴリー・アイロニー・メトニミー
 ド・マンは修辞用語を言語一般の特質を表現するために使用する。アレゴリー(allegory)はギリシア語のallos(他)+agoreuein(話すこと)であり、ある対象を直接的に表現するのではなく、他の事物によって暗示的に表現する方法である。これは言語一般にも当てはまり、Aを表現するために「AはAである」と言うのではなく、「AとはBである、さらにはCである……」と言うことになる。

ド・マンがルソーから読み取った言語観=「機械」
 ド・マンは「機械」という独特の言語の機制を用いるが、その着想が得られたのはルソーの青年時代の盗みからである。イタリアの町トリノで貴族家庭の執事として雇われていたルソーはリボンを盗むという過ちを犯す。そのとき、何の関係もない女中マリオンのせいにして言い逃れをするが、二人とも解雇されてしまう──。この出来事からド・マンは言語を二つの機制で考える。一方で、修辞があり、他方で、機械(「文法のようなもの」)が言語において作用する。「機械」とは物質的な機制であり、話者の意図や意識に関係なく、機械的に口をついてしまう音である。言語の「機械性」とは主体や意図、意識、意味とは根本的に位相を異にする、機械的につかみとられた空虚なシニフィアンのようなものである。

ド・マンにおけるプルーストとニーチェの重要性
 ニーチェは言語の本性を「修辞性」とした類希な思想家であり、現代フランスの思想家たちがこうした言語=修辞観を発展的に継承した。ド・マンは早い時期にニーチェの言語観を取り入れ、主体が意図や欲望をもって言語を使用するという関係性ではなく、むしろ言語によって主体が突き動かされるという受動性に着目した。
 プルーストの存在もきわめて重要で、プルーストという作家がなければ、ド・マンの『読むことのアレゴリー』は書かれなかっただろう。プルーストは自身の書物を「隠喩による建築物」と表現するが、ド・マンは類似性にもとづく隠喩の深層を探究しようとはしない。なぜなら、異なるもののうちに同一なるものないし相似たものを追求しようとする姿勢は、諸事物を総体的に統合しようとする発想だからである。だが、言語は相反するもの同士が偶然的に共存することで作用しており、まさにアレゴリー的な機制をなしている。ド・マンは言語の表層でテクストを読み解き、隠喩の必然性がパラドックスに直面する地点を示すことで隠喩的な価値観を脱構築するのである。
 ド・マンは体系をつくらないラディカルな形式主義者だった。彼はもともと理科系の人間だが、自然科学的な学問体系(例えば、構造主義的な言語理論)とは距離を置いた。彼は言語の表層的な問いを追求することである種の倫理を打ち立て、言語分析から出発する社会参加を実践したのだった。



その後、2時間弱に及ぶ質疑応答では下記のような質問が寄せられた。
・デリダは読解テクストの論理的な矛盾や非徹底を問題化する。しかし見方を変えて言えば、デリダは著者(フッサール、ハイデガー、ルソーなど)のテクストにおける「現前の形而上学」を批判しつつ、相手の「脱構築効果」を転用し利用し我有化しているのではないか。つまり、デリダの脱構築的戦略において、テクストを二重化し、「現前の形而上学」にとらわれている部分を相手の落ち度とし、「現前の形而上学」を批判する部分を自分の手柄にしてはいないだろうか。
・発表者は二人とも「脱構築の教育」に着目したが、デリダ的教育、ド・マン的教育の現象の違いは考えられるのか。
・脱構築がテクストの出来事だとしても、どうしても「特定の名の作用」との関連は避けられない。文学作品が作者の名と切り離せないように、脱構築もデリダやド・マンという名と関係する。さらに言えば、通俗的な脱構築(例えば、アメリカで普及した脱構築セオリー)があり否定的に参照されることがあるが、こうした類いの脱構築に対抗して、デリダやド・マンという名は積極的、さらには特権的に作用するのではないか。
・脱構築研究会は、固有名を冠していない集まりだが、だとすれば、デリダやド・マンという名に依存することなく、自らが脱構築の具体的な実践や範例的なテクストを示した方が良いのではないか。
・脱構築はたんなる破壊とは異なり、構築していかなければならないものをともなう。1960年代当時は、文学作品という構築が価値づけられていたからこそ脱構築の戦略は有効に機能したが、文学の価値が凋落した現状において脱構築の意義とはどのようなものか。
・デリダは哲学史の新たな解釈をおこないつつ脱構築を実践したが、ド・マンには歴史の問いをあまり感じない。ド・マンは歴史の問いをどのように考えたのか。



 今回の研究会では、デリダとド・マンという二人の思想的交流から脱構築の可能性や課題をめぐって濃密な議論が展開された。最後に、ジャック・デリダが講演「タイプライターのリボン 有限責任会社II」(2001年1月25日、フランス国立図書館)の末尾で、ド・マンに宛てた言葉を引用しておきたい。



最後に私はわが友の精神に、すなわち幽霊に挨拶を送りたいと思います。
ある日、『理論への抵抗』に採録されたインタヴューで、
ポール・ド・マンはきわめて皮肉な友好性と
あいまいな寛大さをもって、こう語ったのです。

「デリダに何かが起こるならば
(あるいはデリダのなかで何かが起こるならば)、
それは彼と彼のテクストのあいだで起こるのです。
彼はルソーを必要としません。彼には誰も不要なのです。」

おわかりのように、これはもちろん間違っています。
ド・マンは間違っていました。
私はド・マンを必要としていました。
そしてルソーも、アウグスティヌスも、そのほかの多くの人々も。
しかし今度はわたしが、長い時間が経ってしまったけれども、ド・マンに代わって、
彼が私たちに伝えるべきだと考えていたことを示し証明するために、
ド・マンはルソーなどを必要としなかったことを明らかにする番でした。

私が模範性について強調していたとき、
例えばルソーについて、物質性について、その他の同様な事柄について、
ド・マンの自伝的・政治的なテクストの模範性について
強調していたのはこのことなのです。

ド・マンが生きていて、ここで私の意見に応答してくれたり、
反論してくれたりできないのは、なんとも悲しいことです。
しかし、今すでに彼の言葉を聞き分けることができるのではないでしょうか。
遅かれ早かれ、彼のテクストが彼の代わりに答えてくれるでしょう。

それが私たちがすべからく「機械」と呼ぶものなのです。
しかし、幽霊のような機械です。
この機械が私の議論の正しさを示しながら、同時にド・マンの議論の正しさを示してくれるでしょう。

そして、遅かれ早かれ、私たちの誰もが無辜であることが、
すべての人の目にも明らかになるでしょう。
私たちのすべての策謀がもたらす最善の意図として。

遅かれ早かれ、潜在的には、つねに、いま、ここで。

(Jacques Derrida, Papier Machine, Galilée, 2001, pp.146-147. / ジャック・デリダ『パピエ・マシン』上巻、中山元訳、ちくま学芸文庫、2005年、263-265頁。)



付記:ブログ「書肆短評」の詳細な報告を参照させていただきました。感謝申し上げます。
http://nag-nay.hatenablog.com/entry/2013/08/03/161050