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カトリーヌ・マラブー来日講演記
西山雄二



1 カトリーヌ・マラブーとは誰か

 カトリーヌ・マラブー(パリ第十大学)は、指導教授ジャック・デリダの脱構築思想を批判的に継承しながら、ヘーゲルやハイデガーの独創的な読解を続けている、現在のフランスで最も注目されている哲学者である。彼女は哲学と脳科学との対話にも着目し、自ら形を与える−形を受け取るという「可塑性(プラスティシテ)」の概念を練り上げている。

 そのマラブーが東京日仏学院とフランス大使館の招聘によって2005年7月に来日し、東京と京都で計五本の講演をおこなった。毎回、会場の収容人数をはるかに上回る聴衆が詰めかけ、日仏学院では同時通訳レシーバーが足りなくなるほどだった。各講演で異なる主題に即して、聴衆とのあいだで刺激的で有益な討論が展開された。熱気に包まれた来日講演のほんの一端をご紹介しよう。

2 来日講演─脳科学、ヘーゲル、ハイデガー

 七月五日、日仏会館において、『わたしたちの脳をどうするか−−ニューロサイエンスとグローバル資本主義』(春秋社)をめぐって、港千尋、桑田光平、増田文一朗とともに討論がおこなわれた。



 マラブーの発表「誰が命令するのか」は、脳の「可塑性(plasticité)」の定義づけから始まった。可塑性とは形を与える−形を受け取るという二重の能力である。また、「プラスティック爆弾(plastic)」という派生語からわかるように、可塑性は暴力的な爆発をも誘発する。すなわち、可塑性は形の取得や創造と同時に、形の爆破をも意味するのだ。具体的に言うと、脳はつねに発展途上にあるニューロン結合の塑造性、失敗や錯誤を通じて自己形成をおこなう調節機能、そして、損傷や欠損を自ら埋め合わせる修復機能をもつ。つまり、脳は命令を一元的に下す中央機関ではなく、むしろ中心性の問い直し、脱局所化、順応性といった特性をそなえた組織体である。

 マラブーはさらに、近年のグローバル資本主義が称揚する「柔軟性(フレキシビリティ)」の観念を脳の可塑性と対置させる。資本主義の論理は組織や個人にさまざまな労働状況につねに柔軟(フレキシブル)に適応できる能力を求める。柔軟性とは、そのような外的な影響に対してひたすら受動的に形を受け取る能力である。これに対して、可塑性は形を受容し創造するだけでなく、形を爆破するという抵抗の可能性を秘めている。実は、資本主義が強要する柔軟な労働主体の創出は脳の可塑性とは相容れず、可塑性はこうした資本主義の論理に抗う端緒となる。討議からは、脳科学の知見を政治的文脈へと置換することで、政治・経済的閉塞状況を打破する糸口を見出したいという強い意志がマラブーから感じられた。



 七日は東京日仏学院で藤本一勇との対談「哲学の使命」が拙司会で催された。発表後の討議セッションでは、司会からの「男根ロゴス中心的な哲学と女性の関係は?」との質問に対して、マラブーは「私が思うに、女性的なものなど存在しない。明言するが、私は女性として哲学活動に参与したことなど一度もない」と断言した。彼女は朋友ジュディス・バトラーに言及しながら、「それは私がバトラーなどのジェンダー理論に深い関心を寄せているから。ジェンダーは分類学的な固定された性差とは異なる。ジェンダー理論は、性の同一性を多数化し、さまざまな存在の循環を生み出す。女性中心主義に十分に配慮しながら、女性的なものの位置をさらにずらすことが必要だ」と返答した。また、「現在、哲学は希望を語ることはできるのか?」という質問に対して、彼女は、「明らかに、哲学者は少数者(マイナー)である。だが、ドゥルーズがいうように、マイナーになることとはひとつの生の形式であって、必ずしも消失することではない。それは同時に、知覚しえぬものになり、いたるところで循環することだ。自然と化したこの生の形式を哲学者が維持することこそが哲学の約束や希望であり、新しい意味を創造する可能性だ」と明答した。

 八日は一橋大学で「世界史と喪の可塑性」と題された講演がおこなわれた(司会・鵜飼哲)。
 マラブーによれば、「Die Welt weltet(世界は世界化する)」というハイデガーの定式には二つの解釈が考えられる。一方で、あらゆる歴史哲学を要約し完成させるというヘーゲル的な「歴史的」意味、他方で、歴史の世界的進展が隠蔽している「世界の存在」が各時代に開示されるというハイデガー的な「歴運的」意味である。この〈歴史と歴運の間〉に相当するもっとも顕著な現象はグローバル化であり、「Die Welt weltet」を敢えて「世界はグローバル化する」と訳すことができる。グローバル化は「歴史の完成」へと向かう西洋の一元的・同質的な拡張であると同時に新しい国際性の模索の始まりでもある。



 こうした歴史の過程をさらに考察するために、ヘーゲルの『歴史哲学講義』の二例(中国人による死体保存の過剰さ、ヒンドゥー教による死体焼却の過剰さ)が挙げられながら、喪が世界史の条件をなすことが確認された。喪の時間性によって各文化は固有の形を与えられ、その形を世界史に刻みつける。こうした喪の可塑性には保存と廃棄のちょうどよい尺度(「止揚」)が必要であり、世界史はこの喪の尺度を模索することで進展する、とマラブーはみる。

 現在、西洋的な近代化にともなって「喪の凡庸さ」が蔓延している。喪の時間を短縮し、喪のメランコリーを隠蔽するために努力が費やされる。世界規模で進展する喪の凡庸化のプロセスは、歴史の完成と破綻を促しているようだ。どうすれば「凡庸な喪」とは違う喪を考えることができるのか、という問いが最後に提起された。「喪のちょうどよい尺度」の模索とはまさに現在、「靖国問題」として日本社会で問われていることであり、ヘーゲル的な視座からアクチュアルな議論を聞くことができた。

 九日は東京大学(駒場)で講演「資本主義批判者ハイデガー−−エコノミーという隠喩の運命」がおこなわれた(司会進行・増田一夫・西山達也・千葉雅也)。
 マラブーの主旨は、ハイデガーにおける〈存在〉の問いとエコノミーの問いの一致をもとに、彼の思想を資本主義批判として読み解くことである。ハイデガーにおける〈存在〉をエコノミーと読み換える理由は、まず、ハイデガーのいくつかの鍵語(等価性、通用性、贈与、出来事)は経済的な表現とみなしうるものだからだ。第二に、ハイデガーが形而上学の破壊と克服を隠喩の破壊と克服と考えていたからだ。第三に、デリダによれば、隠喩の伝統的思考においてエコノミーは特権的な隠喩の役割を果たしてきたからだ。



 隠喩とは原義の忠実な移送であり、原義が住まう家−−そのエコノミー(「家の法(オイコス・ノモス)」)−−の境界を踏み越えることはしない。隠喩は原義が自分の家に還帰する可能性を支える。ハイデガーが「存在の家」という表現は通常の隠喩ではないと言うとき、本来の意味と隠喩的な意味という二分法を超過する〈存在〉の問いが問題となっている。では、原義と転義の対関係がもはや妥当ではないとき、この「家の法(エコノミー)」をどのように理解すればよいのか。

 ハイデガーは伝統的な自己固有性の価値にとどまっており、〈存在〉の意味は自らの家に留まり続ける(形而上学批判と資本主義批判は、自己固有性=所有物(プロプリエテ)の新たな定義づけを練り上げるという問いを共有する)。デリダは、自己固有化による交換原理とは異なる非エコノミーの論理、「存在の家」に意味が散種される「郵便の原理」を提起する。だが、マラブーによれば、ハイデガーが探求した、形而上学の完成以後の「別の思考」とは別のエコノミーである。〈存在〉とは、この来るべきエコノミーによって、〈存在〉と存在者が相手を自己固有化することなく相互交換をおこなう場である。

 通常の隠喩では身近なものから見知らぬものが敷衍されるが、「存在の家」という表現はその逆である。不確定な〈存在〉の本質から出発して、熟知しているはずの「家」や「住むこと」が何なのかを思考するべくうながす。隠喩という移送そのものが謎めいたものとして機能し始めるのだ。〈存在〉は〈存在〉自身の意味の交換可能性、変形可能性として作動する。交換や変化、置換の循環こそが〈存在〉の外部なきエコノミーの実相であって、そこで自己固有性や帰属の問いが問いに付される、という結論をマラブーは提示した。

 一六日、京都大学で講演「二つのメタモルフォーズのあいだのハイデガー」がおこなわれた(司会・多賀茂)。ハイデガーの〈存在〉の思考において重要な役割を果たすWandel-Wandlung-Verwandelung(変化−変形−変貌〔メタモルフォーズ〕)をめぐる発表である。



 ハイデガーに即したマラブーの問いは「形而上学の伝統の克服や乗り越えをどのように思考すればよいのか」という一見単純なものだ。ハイデガーによれば、思考が形而上学の根拠に帰着するとき、人間本質の変貌とともに「形而上学の変貌」が起こる。この「別の思考」への移行は相容れない二つの様態においてなされる。一つ目は連続的な移行の運動であり、生物が脱皮するように形而上学は生まれ変わる。二つ目は、カフカの『変身(メタモルフォーズ)』のように、目的論的連続性とは異なる、前触れのない突然変異的な移行である。では、形而上学の伝統を構成する同じものの変形過程と他者性の介入はどのように共存しうるのだろうか。

 講演では『根拠律』における孵化作用の例が引かれた。「いかなるものも根拠なしに存在するのではない」という命題が定立されるのはライプニッツにおいてであり、哲学の端初以来、それは二三〇〇年間の長い孵化状態にあった。ただし、孵化期間が終わって出現したものは期待された形而上学的原則とは異なっていた。逆に、この命題には「存在そのものが根拠なく存在する。根拠は根拠なく存在する」という期待外れの意味が付与されたのであり、根拠律は卵の殻を開くことなく誕生したのだ。形而上学の破壊や克服はこうした成熟しない存在論的成熟によってなされる。この意味で、成熟とは「あまりに遅れたもの」であると同時に「いまだ到来しないもの」だ。二つの変貌をもたらす、成熟へと到達しない成熟−−『ツァラトゥストラ』における三段変化のように、子供を何らかの仕方で完成させるような子供の変貌こそが、真正な変形のイメージではないだろうか。次回作のフロイト論で扱われる、来たるべき子供の形象という争点が披露されながら、マラブーの一連の来日講演は幕を閉じた。

 以上、脳科学、ヘーゲル哲学、ハイデガー存在論という異なる主題で講演がおこなわれたわけだが、マラブーは一貫して、自己変貌過程の哲学を主張し続けたと言える。脳の自己形成作用にしろ、ヘーゲルの「止揚」の運動にしろ、ハイデガーの〈存在〉のエコノミーにしろ、彼女は形の自己変換運動をつねに問題にしてきた。自己が以前の形を継承しながら真新しい形を獲得するという運動、つまり、形の反復と差異の思想が一連の講演を通じて明解に披露されたのである。

3 来日講演の後で

 マラブーは日本ではまだあまり知られていない哲学者だが、同時期に『ヘーゲルの未来』(未來社刊)、『わたしたちの脳をどうするか』(春秋社刊)という二冊の著作の日本語訳が刊行されたこともあって、来日講演は大盛況に終わった。マラブー自身、多くの人々の歓待を受けたことを心から喜んでおり、また、聴衆の方も彼女の大胆かつ斬新な哲学に感嘆し、日本の哲学活動への良い刺激を受け取ることができた。現在、フランス哲学界では「ハイデガー=ナチ問題」が再燃しており、ハイデガーの哲学的可能性を展開しようとするマラブーは困難な立場に追いやられているようだ。また、デリダ亡き後、哲学者による無益な主導権争いが既に始まっており、「デリダ派」の彼女は肩身が狭い思いをすることもあると嘆いていた。だからこそ、日本で久しぶりに自由闊達な哲学の議論がもてたことは、マラブーにとって貴重な機会だった。

 今回、マラブーは日本各地を旅行したが、その最終目的地は被爆六〇年目を迎える広島だった。実は二〇年前、マルグリット・デュラスの『ヒロシマ、我が愛』に惹かれて、大学生だったマラブーは広島を訪れたことがある。彼女は朝日新聞記者によるインタビューで、「広島平和記念資料館の印象は二〇年前と驚くほど同じだった」と告白した。また、「平和という言葉は戦争の反対語ではない。現在、私たちは戦争状態にある。平和を抽象的な概念としてではなく、現実の戦争や紛争に対置させて具体的に考えたい」と述べた(朝日新聞8月15日夕刊にインタビュー記事「「従順人間」の量産に危機感」掲載)。

 三週間の日本滞在が終わり、また必ず来日講演をおこなうことを切望し約束して、マラブーは帰国の途についた。

(初出=「未来」2005年9月号)