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ジゼル・ベルクマン(国際哲学コレージュ)来日講演(2012年7-8月)
西山雄二

2012年7月、国際哲学コレージュのプログラム・ディレクターであるジゼル・ベルクマン氏が、日本学術振興会・外国人招聘研究者事業として来日され連続講演をおこなった。

講演原稿の日本語訳はすべて、首都大学東京の『人文学報』第481号(2013年)に掲載されており、Web上で閲覧可能である。
http://www.repository.lib.tmu.ac.jp/dspace/kiyo/zin-fra/第481号



ベルクマン氏は18世紀啓蒙期のフランス文学・思想を専門とし、ルソーやディドロなど啓蒙期の作家に関する多数の論考を発表している。博士論文「父子関係、起源、幻像――レチフ・ド・ラ・ブルトンヌの『ムシュー・ニコラ』における個体化の方途」(Filiation, origine, fantasme, les voies de l'individuation dans Monsieur Nicolas ou le coeur humain dévoilé de Rétif de la Bretonne, Champion, 2006)では、「自分の息子」になることを夢想する自己の寓話を同時代のルソーの『告白』と比較しつつ、明晰さと蒙昧さの両義性という視座から啓蒙と文学の複雑な関係を解き明かした。ベルクマン氏は20世紀の文学・思想にも造詣が深く、M・ブランショ、J・デリダ、M・ドゥギー、J-L・ナンシーなどに関する論考を多数発表している。近著『バートルビー効果――読者としての哲学者』(L'Effet Bartleby, philosophes lecteurs, Hermann, 2011)では、メルヴィルの『代書人バートルビー』の読解を起点として、エクリチュールと思考をめぐって文学と哲学の連続性に関する研究成果が披露された。ベルクマン氏の一貫した研究主題は、哲学と文学に共通する創造的起源を解き明かすことである。彼女は啓蒙期の作品において、哲学的概念と文学的表現、理性と感性の交錯から新たな思考様式が生み出されたことに着目し、現代にも共通する問いとして探究し続けている。これまで数々のシンポジウムや書籍の企画にも携わっており、編著に『自我の考古学』(Archéologie du moi, P.U.de Vincennes, 2009)、ジャン=リュック・ナンシーをめぐるシンポジウム記録集『外の形象』(Figures de dehors, Césile Defaut, 2012)がある。

ワークショップ「ジャック・デリダ/ジャン=リュック・ナンシー 脱構築は単数か、複数か」
2012年7月27日、立命館大学(衣笠キャンパス)



2012年7月27日、立命館大学(衣笠キャンパス)にてワークショップ「ジャック・デリダ/ジャン=リュック・ナンシー 脱構築は単数か、複数か」がおこなわれた。ジゼル・ベルクマン氏の講演の後に、亀井大輔(立命館大学)、松葉祥一(神戸市看護大学)、加藤恵介(神戸山手大学)らがコメントを加えた(司会:加國尚志〔立命館大学〕。主催:人文科学研究所研究プロジェクト「暴力からの人間存在の回復」。35名ほどの参加)デリダとナンシーはその思考のスタイル、概念、挙措において似通っていると同時にかけ離れている。両者の相違を浮き彫りにすることで、脱構築への署名とは何を意味するのかを考察することが目的である。

ベルクマン氏は講演「思考することを彼は何と呼ぶか? ジャン=リュック・ナンシーと脱構築」において、「ナンシーは、知と非‐知との境界、哲学とそれを超過するものとの境界に身を置く、ハイデガー以降の数少ない現代哲学者の一人である」と話を切り出す。彼は哲学的伝統とは一線を画しながら、思考の経験を形にしようとする。それゆえ、思考のなかの経験ではなく、経験としての思考が重視され、この意味で、あらゆる思考のなかには「他なる思考」――思考が自らを思考するような思考の過剰――がある。「思考」という語を何冊もの著作の表題に掲げるナンシーとは異なり、デリダは思考の身振りには敏感だが、「思考」という語を直裁に論じるわけではない。

ナンシーはあらゆる構築からも脱構築からも免れる「外部」を争点とする。露出(exposition)、外記(excriture)といった独特の表現を用いながら、思考の外部ではなく、思考そのものとしての外部(ex)が探求される。デリダが「不可能なもの」に至るまで遡行し、「原(archi)」と呼びうるものへ向かったのに対し、ナンシーの場合は、「露出」や「外記」と呼ばれる、内部の「外(ex)」への思考を重視する。来たるべき不可能なもの(デリダ)と、現在の間隔化に接した無限(ナンシー)。時間から出発して現在を思考するデリダに対して、有限な存在から出発して間隔化を思考するナンシー。いわば、不可能なもの至るほどの省略のパッション(デリダ)に対して、他者と限界上において接触し続ける誇張の省略(ナンシー)がみられる。両者のあいだには、ひとつ以上の脱構築があり、重要なことは、脱構築の複数性から思考のひとつ以上の方向づけを保持することである。


(左から亀井、松葉、加藤氏)

亀井氏は、ナンシーのデリダ論「省略的意味〔Sense elliptique〕」に言及し、Ellipseという語の二重の意味(「省略」「楕円」)を指摘。「楕円」は、完全に閉じた円ではなく、カーブが反れることで、線が出発点に戻ることなく、閉じることのない円であり、「楕円」こそが差延の運動である。形状上学の円環が中心をもち、内部と外部を峻別する閉域であるならば、楕円は脱中心的で、内外の境界を攪乱する幾何学的形象である。円環と楕円を同時に思考するアポリアこそがデリダの脱構築であるが、後期デリダは思考不可能なものの到来に力点を置き、むしろ楕円の思考の方に向かったのではないか。この後期デリダとナンシーの「他なる思考」を接近させることはできるのではないか。

加藤氏は、デリダとナンシーの思想をアポリアとリミットとして区別しつつ弁証法的媒介との比較を試みた。実際、ナンシーは行き場のない状態を意味するアポリアよりも、此岸と彼岸を含意するリミットを選好する。ナンシーにとって、他者とは絶対的に分離された大文字の他者ではありえず、あるリミット上で個々の他者に「直に接して」(接触して)いる。こうした他者との媒介に関して、ヘーゲル的弁証法の解釈や立場はデリダとナンシーの脱構築の特徴になっている。



松葉氏は、共同体概念をめぐってデリダとナンシーの思想を比較。ナンシーは「共同体」や「共存在」に関する考察を続けてきた。デリダは共同体概念には懐疑的で、何らかの共同性=共通性を前提とした合一と排除の論理に敏感だった。ブランショやナンシーの共同体論に対しても、『友愛のポリティックス』では「いっさいの共同性を前提とせず、なお共同性を求める呼びかけ」として留保をつけた。ただデリダは共同体概念を拒絶したわけではなく、「国際作家会議」などの実践ではインターナショナルという呼称である種の共同体を別の仕方で実践してきた。共同体の思考がますます緊急のものとなっている今日、ナンシーやデリダの共同体をいかに実現することができるのだろうか。

講演会「ジャックとジャン=ジャック(デリダとルソー)」
2012年8月2日、早稲田大学(戸山キャンパス)

2012年8月2日、早稲田大学(戸山キャンパス)にて、ジゼル・ベルクマン氏の講演会「ジャックとジャン=ジャック(デリダとルソー)」がおこなわれた。討論者として、藤本一勇(早稲田大学)、西山雄二(首都大学東京)が登壇した(約75名参加)。デリダは初期の『グラマトロジーについて』から晩年の『パピエ・マシン』に至るまでルソーに言及し続けた。デリダがいかにルソーを重視したのか、両者の複雑だが重要な関係について簡潔な見取り図が描き出された。



冒頭でベルクマンは、デリダにとって少なくとも二人のルソーがいると指摘。『割礼告白』『パピエ・マシン』などにおける親密なルソーと、『グラマトロジーについて』第二部で分析された、現前の形而上学の歴史に微妙な仕方で参与するルソーである。では、二人のルソーはもともと一人なのだろうか。一つの「同じ」哲学上の関心事が、一体をなす二つの射程において二重化されているのだろうか。『グラマトロジー』において、デリダはルソーの「奇妙な統一性」という表現を用いているが、この二人のルソーは統合された形象をもたないのだろう。「〔ルソーは〕現前の再構成を目指して、エクリチュールを価値づけると同時に失格させる。「同時に」というのは、分裂してはいるが首尾一貫した運動のなかにおいて、ということだ。この運動の奇妙な統一性を見失わないようにしなければならない。」



となると、「一人のルソー」に統合されえない「二人のルソー」のあいだで、「少なくとも三人以上のルソー」の場が見いだされるのだろう。ベルクマンは明快な系譜学的図式を提示し、啓蒙と現象学の等距離においてデリダの思想を位置づける。『グラマトロジー』でのルソーよりも以前に、フッサール現象学の批判的考察以来、デリダにはある種のルソー的なモティーフ(根源の代補)がすでに登場していた。ルソーやコンディヤックとともに、デリダは「フランス啓蒙思想における知られざる現象学的側面」を見ていたのだ。さらに、デリダはルソーとカントのあいだで、フランス啓蒙主義とドイツ啓蒙主義のあいだで移行しつつ思索を練り上げているところがある。ルソーは文学と哲学の連接そのものに依拠し続けて書き続けたが、この地点がデリダを魅了した。概念と虚構、論考と小説、真実と嘘のあいだの驚くべき不可分をよりよく感知しつつルソーを読むこと、ルソーを書くことが肝要である。

そして、デリダには政治的なルソーへの言及がある。『ならず者たち』では『社会契約論』の著名な文、「この語を厳密に受け取るなら、真の民主主義はかつて存在したことがなかったし、これからも決して存在しないだろう」への注釈に充てられている。非現前性と批判性への依拠はデリダとルソー、脱構築と啓蒙が共有するものである。ルソーによる民主主義は不可能ゆえの必然として考えられなくてはならないが、これはデリダの「来たるべき民主主義」と完全には一致しない。まず、ルソーは「葛藤や良心の呵責がないわけではない仕方で」はあるが、死刑に賛成の立場をとる。また、ルソーは主権の不可分性に依拠するのに対して、デリダの脱構築は、無条件性と主権とのほとんど不可能だが不可欠の分離を要請し、〈一〉なる主権の分割可能性を探求する。

デリダは「少なくとも三人のルソー」に触発され、さまざまなテクストと表現を生み出したが、両者の絡み合いは友愛と負債による独異な承認を示している。哲学にも文学にも明瞭に区別しえない、複数のルソーとの絡み合いをデリダ思想のなかでいかに読み解くのかは、デリダの特異性を解き明かす重要な鍵なのである。



講演を受けて藤本氏は、デリダにおける二人のルソーという指摘があったが、デリダ自身も二人だったのではないか、と問うた。「人間の終焉」(『哲学の余白』)では脱構築の二つの戦略が提示されるが、そこには、現前の形而上学の仕掛けを用いてこれを内破しようとするハイデガー的なデリダと、形而上学の地平をずらして外へと抜け出そうとするニーチェ的なデリダがいる。いずれかを決断するのではなく、この双方を同時に思考しようとするアポリアが複数のデリダを生み出しているのだ。

日本の大学における文学・哲学教育についての所見(ジゼル・ベルクマン)

今回の日本旅行と講演会開催に際して、私は格別な対応と歓待を受けた。この機会に、訪問先の全大学で、フランス哲学がどれほどの重要性を有しているかを見て取ることができた。ジャック・デリダの思想とジャン=リュック・ナンシーの思想との関係、デリダとルソーの関係、文学と哲学との関係についてなど、私に向けられた質問はいずれも非常に鋭いものであり、講演での私の発言を研究対象にまでさかのぼって相当研究したことをうかがわせるものであった。

他方、学生たちは非常に熱心に講演会に参加してくれ、頻繁にきわめて実りの多いやり取りができた。参加学生たちは、サルトルやメルロ=ポンティーであれ、ルソーや啓蒙主義であれ、フランスの哲学や文学にしばしば非常に通じており、多くの質問をしてくれた。また、アカデミックな知識の伝授に限られないある種の人間関係が、大学教師と学生との間に保たれていることも、はっきりと感じ取ることができた。

今回開催された6回の講演会を通じて、日本の受け入れ先の人々がいかに寛大であり知的であるのか、また訪問先の各大学ではいかに優秀で水準の高い教育が行われているのかを判断することができた。この機会に結ばれた関係が、今後フランスと日本との共同で行われる交流および出版事業の際にも継続されることを切に望むものである。