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国際会議Derrida Today(2012年7月11-13日、カリフォルニア大学アーヴァイン校)
西山雄二



2012年7月11-13日、カリフォルニア大学アーヴァイン校(UCI)にて国際会議Derrida Todayが開催された。Derrida Todayはデリダの没後、英米圏の研究者を中心に開始された会議で、シドニー、ロンドンと2年おきに開催されて今回で3回目である。ロサンゼルス郊外にあるアーヴァイン校は晩年にデリダが教鞭をとっていた大学で、膨大な資料群を収蔵・公開しているデリダ・アーカイヴがある。プログラムは→こちらからダウンロード

基調講演としては、近年「文学と気候変動」プロジェクトなどで注目されているTom Cohen氏が予定されていたが、直前に来られなくなってしまった。その他の基調講演としては、Penelope Deutscher ‘Sexual Immunities’では、メアリ・ウルストンクラフトの「女性の権利」の丁寧な読解が『獣と主権者』における女性の位置づけと関連づけられた。David Wills 'Machinery of Death or Machinic Life'では、死刑に関するデリダのセミネール(1999-2000年)に基づいて生/死の技術機械性が論じられた。


(Penelope Deutscherの講演は『獣と主権者』の一節「私が狼と口にするとき、雌狼のことを忘れないでください」から始まった。)

主催者による企画セッションとしては次の企画が組まれた。「デリダとナンシーにおけるエクリチュールと時間」では、両者の脱構築の共通性と相違を考察。「襞のマラルメ」は『骰子一擲』をめぐる討議。「残余するもの――師と自権性」ではデリダのシャルル・マラムー論を議論。「自己免疫性の諸相――デリダと生体医学」では、デリダが免疫概念をいかに自権性、主権、死の欲動と連関させているのかが討議された。


(休憩スペース)

公募企画パネルとしては次の企画が組まれた。「デリダ、フロイト、そして『かのように』の論理」では、カントの「かのように」と現象学の「そのもの」の関係を基点として、デリダにおけるメシア的な「かのように」と否定神学的な「そのもの」の二律背反から信の所在が考察された。「デリダと批判的動物研究」では、デリダの晩年の著作『動物故に我あり』と『獣と主権者』が提起する倫理的・政治的な論争を踏まえて、言語、主体性、世界、現前といった人間の固有性を脱構築することで人間と動物の境界が問い直された。「デリダとバデュウ」では、デリダの没後、英語圏でのバデュウの翻訳紹介が進展してきた状況を踏まえて、両者の方法上の連続性と思想的な相違を分析。とりわけ、バデュウによる出来事の数学的形式主義的な考察において、デリダ的な「決定不可能性」がいかに位置づけられているのかが要である。「文学の営み――対話するデリダ」では、エドモン・ジャベス、トーマス・マン、Dan Pagisといった文学者のテクストを、それぞれ彷徨、毒=薬、正義といったデリダ的着想で読解する試み。



公募パネルは5つの会場で並行して実施され、1パネル(90分)が2-3名の発表(質疑応答含めて各30分)で構成された。パネルのテーマを順に列挙すると、「形而上学・哲学と脱構築」(4回)、「政治と政策」(3回)、「エコ・クリティシズムと動物性」(2回)、「美学――映画、芸術、音楽」(2回)、そして、「エクリチュールと文学」「言語と翻訳」「エクリチュール、文学、言語」「法、正義、倫理」「精神分析」が各1回ずつである。今回目立つ主題は「芸術」と「動物」。「文学」系セッションはさほど多くはない。『獣と主権者』の英訳が出版され、近年の動物に関する研究や法整備とともにデリダにも注目が集まっている。また、昨今の政治を反映する発表もあり、アラブの春やNY占拠の来たるべき民主主義、メキシコ―アメリカ国境の歓待などが論じられた。



宮﨑裕助氏(新潟大学)の発表「民主主義の自己免疫における情動的生――デリダの『生政治的』思考に向けて」。晩年のデリダの政治思想とアガンベンの生政治やランシエールのデモス概念との差異が明確にされ、民主主義が自己破壊の恐れを含む自己脱構築的な過程であり、新たな「生政治」の発見をともなう「別の仕方による生の思考」であることが提起された。



亀井大輔氏(立命館大学)の発表「目的論における終末論の裂け目――デリダにおける歴史の思考」。デリダは目的=終焉に向かう歴史の閉域を初期から批判していたが、それはたんなる歴史の無化ではなく、終末論によって目的論を中断させることで、出来事の到来が可能となる「別の歴史性の思考」を切り開くためだった。

今回は300名の応募から選出された120名ほどの発表が披露された。ただそれにしては、発表のレベルは玉石混交で、デリダ哲学に関して浅薄な知識しかないのに、デリダの鍵語だけを安易に流用して自説を縷々開陳するだけの発表もあった。デリダ思想が多岐の主題に関連付けられ、多彩な発表が披露されるのは良いとしても、アメリカ西海岸の陽気さのせいだろうか、どこかお祭り的な雰囲気が漂っていた。デリダ研究の水準を刷新するためには、文献学的研鑽や先行研究の蓄積を踏まえた緊張感ある討議が必要だが、そうした姿勢があまりみられなかったのは意外で残念だった。



英米系が中心のためだろうか、フランスからの参加は一名のみで、しかも彼女はナボコフ研究者である。フランスではデリダ研究はそもそも低調だが、英米圏とフランス圏の研究交流の溝を実感した。ただいずれにせよ、世界各国からのデリダ研究者と交流できることは貴重な機会である。インドや台湾、シンガポール、メキシコ、ポーランドなどのデリダ研究者と交流するは初めてだった。今回は3回目ということもあり、すでに参加経験のある者同士は顔見知りになっている。資料公開や研究交流など、デリダ研究はまだまだ生成途上ではあるが、今後も継続される国際会議Derrida Todayは研究進展のための礎になるだろう。


(アメリカ西海岸らしく、最後の夜はホテルのプールサイドで懇親会)

「第3回デリダ・トゥデイに参加して」宮﨑裕助(新潟大学)

二年ごとに開かれる国際学会デリダ・トゥデイへの参加は、前回のロンドン大会に引き続き今回で二回目。今回は、デリダが80年代半ば以降毎年集中講義をしに訪れていたカリフォルニア大学アーヴァイン校での開催だった。実のところ初めての渡米だったが、最初の訪問地が、乾いた日差しと時折吹き抜ける涼風とが妙に心地よいこのカリフォルニアの地であったことを幸運に思う。

この学会は、ふだんは論文上を通してしかお目にかかれない研究者たちとじかに話をしたり新たに知り合いができたりする点で、自分にとっては稀有の得がたい場なのだが、今回なによりもアーヴァイン校の擁するデリダ・アーカイヴを訪問して、生(なま)のデリダのテクストに接することができたことは、このうえなく貴重な経験だった。草稿そのものをフェティッシュの対象とする趣味は私にはないけれども、長年つきあってきた著者の手稿や講演のタイプ原稿に何度も校正が施されヴァージョンアップがなされてゆく過程につぶさに立ち会えることに感動を覚えぬ者はいないだろう。未刊行の膨大な草稿群に接し、デリダのエクリチュールの底知れぬ怪物性をあらためて確信することができたとともに、その筆跡に秘められた獰猛さともいうべき運動性を垣間見て大きく心を揺さぶられた。

デリダ・トゥデイは開かれた場所だ。デリダ研究そのものを専門とするか否かを問わずデリダに関心のある多くの研究者たちが参加している。それはつねに「今日(Today)」という現在進行形のうちにある。発展途上ゆえの「緩さ」も感じられなくはないが、それだけに主催者が手ずから注いでいる熱意と献身は並々ならぬものがあり、日本のような遠い地からの参加者を気遣ってくれるアットホームな雰囲気を私はとても気に入っている。

デリダ没後十年となる次回の開催地はニューヨークを予定していると聞いた。日本でのデリダの知名度の高さにもかかわらず日本からの参加者はとても多いとはいえない。とくにデリダに関心がありこれから研究対象にしてみたいという若手の研究者(目安としては博士課程以降ぐらい)は思いきって参加してもらいたい。そのための支援についてできることがあれば、今回同行した西山さんら共々、先行者として惜しまないつもりでいるので、その折はぜひ気軽に声をかけてもらえればと思っている。

「Derrida Today in Irvine」亀井大輔(立命館大学)

 アーヴァインを訪れるのは5回目。2008年以来何度かデリダの遺稿調査のために訪問し、昨年は念願かなって半年間をこちらで過ごすことができた。しかし今回の訪問は特別で、初めてアーカイブ目的ではなく学会参加のための来訪である。

 カリフォルニア大学アーヴァイン校があるアーヴァイン市や、隣のコスタメサ市などを含めたオレンジ・カウンティの魅力は、何といっても明るい陽射しと気候の温暖さ、海や平野の広大さとそれがもたらす開放感、そこに暮らす人びとの多民族性だろう。とくにコスタメサとアーヴァインでは日本人コミュニティが充実している。最初にアーヴァインを訪れた目的はもちろんアーカイブの調査であり、当初は感激と興奮の中でデリダの遺稿を読み漁っていたが、次第にこの土地そのものに魅了されるようになった。そうでなければ、これほど繰り返し足を運ぶことはなかったかもしれないくらいだ。

 こうした経緯もあって、アーヴァインで開かれる今回のDerrida Todayに参加できたのは非常に嬉しかった。学会では、発表内容の多様さが印象的だった。分野で言えば哲学、政治、文学、エコ批判、法・正義・倫理、精神分析等々のセッションが同時進行する。さらに同じ分野の中でも発表の内容やスタイルはさまざまである。自らの問題意識からデリダの読解に挑むのもあれば、デリダの思想を自らの関心に結び付けようとするものもあり、こうした多様性こそDerrida Todayという学会の大きな特徴だと実感した。ただ、デリダ研究は英語圏でこそ最も進んでおり、学ぶべき先行研究も多いのだが、そうしたすでに実績のあるデリダ研究者の姿は、なぜかたくさんは見られなかった。アメリカでの集まりとあって期待していたので、少々残念だ。

 なお、この地域での移動には車が必要で、私はいつもレンタカーを利用する。実は、車の運転はこちらでの楽しみのひとつ。今回は滞在最終日に西山さん宮崎さんたちと、デリダの住居跡を探すべく右手に太平洋を見下ろしながらPacific Coast Highwayを南下して、ラグナビーチまでの短いドライブを満喫したあと、空港までFreeway405を北上して帰国の途に着いた。


(ラグナ・ビーチの図書館前のベンチ。「近所に住んでいたデリダもここに座ったんじゃないか」とみんなで談笑した。)