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国際シンポジウム「変異──ジャン=リュック・ナンシーをめぐって」(2015年11月18~20日、ストラスブール大学

(西山雄二)



2015年11月18~20日、フランス・ストラスブールにて国際会議「変異 ジャン=リュック・ナンシーをめぐって(Mutations - autour de Jean-Luc Nancy)」が実施された。ストラスブール大学と国際哲学コレージュの共催で、会場には連日100名ほどが詰め掛けて盛会だった。留学中している方と日本から駆けつけた方を含めて、日本人の聴衆が多かった。13日にパリで同時テロが起こったが、ただ単純に会議をキャンセルすることはテロリストに屈することではないか、こんな時だからこそ堂々と共に思考しよう、という考えのもとで実施された。ただ、国外からの発表者4名はテロの影響で欠席したため、予定は大幅に変更された。

午後から始まった初日は、テロに関する全体討論で始まった。主催者は全員での討論を目論んだが、結局、発言者とナンシーの対話になった。
・原理主義と狂信主義(ファナティズム)は異なり、前者がすべて後者に化けるわけではない。宗教的なものと結びつく原理主義に警戒しつつ(競争原理主義や市場原理主義もその現代的一派)、別の原理主義を思考する必要がある。ファナティズムは宗教の過剰さだが、であるがゆえに、宗教自身に抗する力を宿している。
・怒りが憎しみに変わり、反ー正義に転化することをいかに考えるべきか。憎しみは他者の破壊的無化に通じ、またさらには、自己無化にも到る。怒りが法的な規範へと昇華されるためには?
・テロ後、パリの街角では、集団ではなく、各々が献花を捧げていた。喪に服した状態で、束の間の「無為の共同体」を垣間見た。
・理由や大義があっての怒りではなく、いまの若者を蝕んでいるのは倦怠ではないか。ネット社会の到来は国境のような境界線を無化したが、それは未来や期待のない倦怠をもたらしてもいる。
・思考に抵抗するものを思考することは可能か?いや、逆に、思考に抵抗するものによってしか思考は始まらない。ナンシーは概念ではなく、概念化される手前の形象にしばしば着目するが、それは抵抗とともに思考する挙措であり、その意味で彼は思想家なのだ。
初日はこうした切迫した議論で始まり、会議は徐々に熱を帯びていった。



(吉松覚)

パリを襲った出来事から六日目の朝、学会が開催を撤回することなく行われるとの連絡を受け、東駅に向かう私の足取りにはまだ迷いがあった。このような緊急事、当日の朝もパリ市の北隣の町サン=ドゥニにて銃撃があり、パリの友人の日常が脅かされているなか、同じフランス国内であるとは言え国際学会という非日常へと足を運んでいてよいのかと自問していたのである。しかし、ヨーロッパ中世の名残を残すこのアルザスの街、そしてパリやアーヴァインと並ぶ脱構築思想の震央であったストラスブールに降り立ち、いざ学会が始まるとその躊躇は晴れることとなった。思考によってテロにいかに対峙するか、それが哲学の持つ役割だと陰に陽に表明する参加者たちからは、変異をもたらす思考の潜勢力への信が垣間見えた。



二日目の劈頭に行われたドイツの脱構築思想家の大御所、ヴェルナー・ハーマッハー(写真左)の基調講演は当初の予定の一時間を大きく超える一時間半にわたるものとなった。ナンシーにおける共存在の地位と変異の関係を巡り、ハイデガー、バタイユ、レヴィナスなど脱構築に影響をもたらした様々な思想を参照しナンシーの思想を紡ぎ直す発表のうちには、デリダ、ナンシーの盟友として活躍してきた研究者の思考の密度を感じられた。



西山雄二氏の発表はナンシーのヘーゲル読解に読み取れる可塑性を強調したものだった。『ヘーゲル――否定的なものの不安』から、2012年に公刊された『破局の等価性 フクシマの後で』に至るナンシーのヘーゲル受容をコンスタティヴに読解するに留まらず、終わりなきテロ戦争や、核廃棄物の処理の解決なき繰り延べなどに認められる悪無限とは別の仕方による解決を提示しようとする氏の発表は、テロルの時代における変異というテーマを与えられたこの学会において、ナンシーの思考のアクチュアリティを明るみにだすものとして位置づけられただろう。



このコロキウムにて水際立った活躍を見せたのはブルガリアの新星、ボイヤン・マンチェフ(写真中央)であった。質疑の時間にはミニマルかつ決定的な問いを投げかけ議論を導いていた。彼の発表は「世界の欲望」という題のもと、ナンシーの思想において鏤められているエロス論を、ソクラテス、プラトンからバタイユにいたるまでのエロスの哲学の系譜学のなかに跡づけるという野心的な試みであった。結論として、ナンシーの思想におけるエロスに変化、変容、変身、変異の潜勢力を指摘し、新たな思考の可能性を投げかけて発表は締められた。哲学〔philosophie〕に代わるエロゾフィ〔érosophie〕の可能性である。哲学を愛智学と解するなら、同じソフィアへの愛でもエロスとフィリアの差異は何かという問いが残ったが、翌日本人に直接伺える機会に恵まれた。その折に、フィリアには接触的な関係があるとは限らない(philiaの語源である動詞phileinには間隔化をするという意味があるという)のに対し、エロスには接触関係があり、触ることが即触られることになるという関係こそが変異を可能にするのだと、このソフィア出身(!)の思想家は私に教えてくれた。そうすると「触覚」の理論的地位が問われねばならないだろうし、隔たりによってもたらされる変異もあるのではないか、とさらに議論したかったのだが、それはまたの機会に譲らなくてはならないようである。しかし、彼の発表はまさにナンシーの行論に触れながらそれを思想史の文脈に照らして換骨奪胎し、そこに新たな意味を見いだす双方向的な交通があったように思われる。その限りで彼の発表自体がある種のエロゾフィの行為遂行的な実践であったと言ってもよいかもしれない。



本コロキウムの音頭をとったジャコブ・ロゴザンスキー(写真右)とジェローム・レーブル(写真左)は、それぞれナンシーにおける神的なものの問いと、生物学的変異の問いとを問うた。ロゴザンスキーの発表は狂信主義と原理主義、テロリズムなどアクチュアルなテーマを盛り込み、レーブルもフランソワ・ジャコブの『生命の論理』を比較項に加えており、「ナンシー哲学」なるものを前もって措定するのではなく、ナンシーの論を哲学的に位置づけ、新たな展開に開いていこうとするもので、いわゆる「ポストモダン」の晦渋主義というナンシーの印象を払拭する、現実性・現代性を持った読解となっていた。


(2日目夜はクレベール書店にて、ナンシーとロネル、バイイによる緩やかな討議)

加えて活躍が目立ったのは、南米チリで教鞭をとるヨーロッパ出身の研究者たちだった。イタリア出身でストラスブールにて博士号を取得したアンドレア・ポテスタはナンシーにおける歴史の問いを、ハイデガーやデリダの歴史性ないし歴運性の議論から再定位していたのに対し、フランス人のアイカ・リヴィアナ・メッシーナは共同体論において比較がなされやすいナンシーとブランショの理論的差異を、黙示録、世界、有限性、孤独、キリスト教というテーマ系から新たに語り直す作業を行い、両名とも堅実かつ高度な議論を展開していたのが印象的である。昨年ニューヨークで行われたDerrida Todayにてハーマッハーの思想を巡る非常に濃密な議論を展開したパネルのメンバーのうち、二人がチリ人の学生であったのも記憶に新しく、またブラジルでも積極的にデリダコロキウムが開かれているとも聞く。南米の研究動向も、今後は欠かせない参照項になるだろうと確信した。



ジャン=リュック・ナンシーが初日のオープニングの総合討議でも積極的に発言し、二日目以降の発表でも30代後半から40代という、彼からは一世代以上若い研究者のほぼ全てに応答していたということも特筆すべき点だと言えるだろう。このコロキウムに先立つ数週間でフランス思想界の巨星墜つとの報せが立て続けに入った。科学史・科学哲学のダゴニェ、社会学・民族学のジラール、現象学のリシール、そしていわゆる「新しい哲学」のグリュックスマンである。それだけにナンシーがこのように自らの思想をめぐったコロキウムに出席し、デリダやラクー=ラバルトとの思い出を織り交ぜつつ若手や中堅の研究者の「ナンシー論」に自ら応答している姿は、あたかも自らの思考を後続へと引き継ごうとしているかのように見えた。最終日の午前の部の最後に設けられた、ナンシーの思想を研究対象とするフランスとイタリアの博士課程の博士課程の学生とナンシーとが対話を交わす座談会は(用意された質問へのナンシーの応答という観は否めなかったが)とりわけ象徴的であった。この企画はストラスブール大学側のホスト役を務めたロゴザンスキーたっての要望による催しだったと聞く。デリダの最晩年に、同じく彼を囲んでストラスブールにて行われたコロキウムで、やはり大学院生がデリダと座談会を開いたことが彼にとって印象的であったからだという。


(最後は飛び入りで、アヴィタル・ロネルがスピーチ)

昨年はデリダ歿後10年の年でもあり、デリダをめぐったコロキウムに複数出席をした私にも、やはり思考をいかに受け継ぐかという問題意識が残っていた。思想の継承とはただ単に過去の思想家、哲学者の書いたものの反復では決してない――そこには「変異」など決してなく、むしろそれは当の思想の死となってしまうし、そのような発表も散見されたのは残念であった――ということは言うまでもないが、当コロキウムの多くの発表は過去と現在の終わりなき対話、双方が相互に変化・変異しうる交通によってこそ思考の未来が開かれるのだということをパフォーマティヴに実践してみせたのだ。まさに、ハイデガーやヘーゲルを新たに読み直し、自らの思考を可塑的に深化し変容させてきたナンシーのように。