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国際シンポジウム「来たるべきデリダ、開かれた問い」(2014年10月1-4日、パリ高等師範学校

(西山雄二)

2014年10月1-4日、パリ高等師範学校にて、国際シンポジウム「来たるべきデリダ、開かれた問い(Colloque international : Derrida à venir, Questions ouvertes)」が開催された(主催=高等師範学校、IMEC)。会場には50-100名ほどの聴衆が詰めかけた。国際シンポだが約30本の発表のうちフランス国外からの参加者は5人にとどまる。博士学生あるいは博士論文を準備している非常勤講師身分の方は6名参加。若手が活躍する機会を与える配慮が感じられた。没後10年は、生身のデリダを知らない若い世代へと遺産が継承される最初の重要な節目である。私はデリダの最後のセミネールを聴講した世代で、今回の若手発表者の多くはデリダに直接会ったことのない世代である。







初日、マルク・クレポン(右)が『他の岬』を参照し現在のヨーロッパの信用失墜を、ミシェル・ドゥギー(左)が彼に宛てられた「隠喩の退引」を現在から読み解く。ジャン=リュック・ナンシーも朝から参加し、各発表の後で精力的にコメントを返す。「ジャックは「救いなき救済」と言うけれど、救済の範疇を本当に逃れているかどうか。」「デリダにおいて技術と生の関係を考えるなら、化学や化学的なものをどう位置づけるべきか。」まるでデリダの代わりに、彼のために応答するかのようで、異様な迫力に満ちていた。



2日目、デリダ動物論の気鋭パトリック・ロレッド(中央)による発表。動物的―自己ー記述をめぐって、動物的民主主義をデリダから抽出できるか、という議論。「夫人に聞いたが、デリダは晩年、菜食主義だった」「デリダによれば、『菜食主義者もまた人間を食べることがある』」など挑発的な挿話もあり、会場との議論が白熱した。



フレデリック・ヴォルムス(左)の貫禄ある発表「デリダの単純さ」。デリダ思想は生/死の対立をその極限で維持するものである限り、至極単純である。生/死の不可分性は無差異ではなく、生の差延的連続性を指す。しかし、この単純さを言語によって表現することで、デリダのテクストは複雑化するとして、『境域』の事例が参照された。



夕方は10月8日にArteで放映予定のドキュメント番組「デリダ――思考の勇気」を先行上映。50分でデリダの生涯を辿るゆえの単純化は否めない。目新しい資料としては、アルジェリア時代の友人Jean Taoussonの証言(彼はJacques Derrida. Mes potes et moi, Atelier Fol'Fer, 2011を著している)、1981年のプラハ事件での警察側の資料などがあった。







3日目、ジャン=クレ・マルタンやジャン=リュック・ナンシーが登壇することもあって、会場は立ち見状態。高齢のルネ・シェレールも最前列に座っていた。拙発表はデリダの教育実践における息(息使い)の問題。あらかじめすべての原稿を書いてから講義に臨む書き手デリダと、その原稿を律動と声調を実験しながら言葉を吹き入れる教師デリダ。署名者と教育者の両立不可能な立場をめぐって、話し言葉と書き言葉の二項対立とは異なる、息の問いを初期アルトー論などを使って考察。会場からは熱い拍手をもらい、終了後に何人かが飛んできて興奮した口調で賞賛してくれたのは嬉しかった。しかし、会場で鵜飼さんが聞いていたのには少し緊張した。デリダを教えてくれた鵜飼先生を前にして、デリダ先生がいかに教えたのかを発表するという奇妙な空間。





4日目、午後はアーカイヴをめぐる議論が目白押しで、誰もが『アーカイヴの病』を引用していた。有名なウェブサイトDERRIDEXでデリダのデータベース化を進める異形のアーカイヴィスト=ピエール・ドゥラン(右)が、デリダの著述の中に、書物の彼方への可能性が示唆されている点(章立て、紙媒体、作者の権威、正統化など)をDerridabaseを参照しつつ指摘。Derridabaseの書き手ベニントンがデータベース化の「失敗」と「終わりなさ」の点で応答するというスリリングな展開となる。





伝記作者ブノワ・ピーターズ(左)が伝記刊行以後の資料を披露。伝記で人生の記述が完結する訳ではなく、秘密がますます広がり、あらたな資料が発掘される。彼らが知らない、日本での貴重な資料を私たちがいかに提供できるかが課題。

IMECのアルベール・ディシ(右)がデリダ資料保存の挿話を語る。誰かに与えたくないものを贈与する人こそが寛大だと言える。自宅の全資料を寄贈する日、トラックに積み込まれる膨大な資料をデリダは愛しげに見つめていた。「このトラックは事故に遭わないだろうね。これは私の人生そのものだ。」会場がもっとも沈黙した瞬間だった。デリダは来るべきものを語ったが、しかし同時に、過去への愛着もある。過去への愛着をすべて引き受けながら、来るべきものを思考する、そんな重みがデリダにはあるのではないか。



最後はジェフリー・ベニントン(左)の発表で、冒頭からパフォーマティヴな展開。参照されたのは、テレビ番組The Twilight Zoneの1959年放映のSeason1, Episode 8, Time Enough at Last(ついに時間は十分だ)。銀行員Henry Bemisは寸暇を惜しまぬ読書狂。地下金庫で『全面破壊が可能な水爆』を読んでいる最中に核爆発が起こり、命拾いした彼は最後の人間となる。公共図書館の廃墟で書物を見つけて「ついに読書の時間は十分だ」と歓喜するが、その瞬間、眼鏡を割ってしまい「フェアじゃない」と悲嘆に暮れる。この実に絶妙な引用から、デリダはこの番組を見て時間の問いを考えただろうか、と問うベニントン。講演「黙示録でなく、今でなく」における核の全面破壊と文学アーカイヴの関係、フロイトのアーカイヴの問い、フーコーのアーカイヴ概念との相違が矢継ぎ早に考察された。



4日間のデリダ・シンポが終わる。いや、終わりではない。これを皮切りにフランス国内外で実施される数多くのデリダシンポの第一回戦。今秋、デリダ研究者たちは世界中で交錯する。だから、それぞれの別れの言葉は「今度は…のシンポで」。みんなに投げかけた私自身の言葉は、「12月のフランス・カーンでのシンポで!」



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桐谷慧(東京大学/ストラスブール大学)

デリダの没後10年にあわせ、フランスにおいてはこの秋に4つのシンポジウムの開催が予定されており、高等師範学校における今回の催しはその先陣を切るものである。デリダがその生涯の多くの時間を過ごした場所での開催ということもあったためか、ミシェル・ドゥギーやジャン=リュック・ナンシーなど、彼と同じ時代を歩んだ論者たちが発表や質疑応答に積極的に参加し、そのプレゼンスを示していた。Pierre-Philippe JandinやJean-Claude Monodの発表など、デリダとナンシーの議論を対比する試みもあった。同時に、若い研究者の発表もプログラムに組み込まれており、例えばシンポジウムのオーガナイズを中心的に行ったElise Lamy-Restedは、昨年に博士論文を提出した若手研究者である。このような若い研究者の活躍は、「デリダ研究」がさほど盛んではないと語られることが多いフランスにおいても、デリダが徐々に「研究対象」となりはじめているという印象を与えるものであった。日本からは西山雄二氏が登壇され、デリダにおける教育と息などの問題をめぐる明晰な発表をなされた。



発表は、テーマに沿って以下の七つのセッションに分けられた:「蝶番の外れた世界」、「倫理のアポリア」、「今日、生き残ること」、「技術の取り憑き」、「書物から何が残るか」、「動いている芸術作品」、「生成するアーカイブ」。各発表の内容はバラエティに富んでおり、自らのインスタレーションを用いた「映像作品」による発表(Jean Lancri)も存在した。しかし同時に、ドゥギーが「今日」という語を強調し、ナンシーが「記念日」という問題を取り上げたように、今日においてデリダについて思考することの意義は何かという問いを、多くの発表者が共有しているように見受けられた。昨年に著書の邦訳が刊行されたFrançois-David Sebbahをはじめ、Elise Lamy-RestedやPierre Delainなどは、デリダの思考と今日的な問題とをつき合わせて検討していた。また、Peter Szendyが言及した、「脱構築の磨耗」というテーマも興味深いものであった。







本報告者にとっては、とりわけ、「書物をつかむ手(mains tenant le livre)」と題されたナンシー(右)の講演が刺激的であった(このタイトル自体、『エクリチュールと差異』所収の「省略」の末尾からの引用である)。ナンシーは『弔鐘』の二本の円柱を自在に駆け巡りながら、「環」、「贈与」、「告知」、「全焼」といった主題を取りあげ、デリダの没後十年という「記念日」の意義を聴衆に問いかけた。同時に、この二本の円柱を「二本の手」となぞらえ、そこに性的含意を読み込むことにより、「通俗性」を忌避したかに見えるハイデガーに対するデリダの応答を見事に浮かび上がらせた。『弔鐘』を「複数の手」を使って分析してみせたナンシーの意欲的な発表は、今日なお正面から論じられることの少ないこの複雑な「書物」に対する、驚嘆すべき読解の試みであったように思われる。



10月2日の午前中に組まれた、Jacob Rogozinski(右)とFrédéric Worms(左)によるセッションも興味深いものであった。デリダの「生き残り」に複数の可能性を見出しつつも、彼においてはしばしば「死」が「生」に対してより大きな位置を占めていると指摘し、それを反転せんとするRogozinskiの野心的な主張に対して、Wormsは、死と不可分に結びつきつつも、死に抗してなお生きるという側面を持つデリダ的な「生き残り」は、ある意味では「生の勝利」なのではないかと応えてみせた。両者は共にデリダのテクストを読み解きつつも、対照的な議論を展開したといえる。二人に共通していたのは、デリダの議論を自分なりの仕方で引き受け、そこからさらに歩みを進めんとする意志であるように見受けられた。また、発表タイトルにも含まれているWormsが行ったデリダの「単純さ」というやや挑発的な主張も、説得的なものであると感じられた。

シンポジウム全体を通して、デリダの最晩年の対談に基づいた小著『生きることを学ぶ、終に』が繰り返し引用されていたことは、個人的に大変興味深かった。このテクストは、デリダがやや率直な形で「生き残り」や「喪」あるいは「祝福」について語ったものであり、ともすれば遺言的な響きを感じさせるところもある。冒頭で述べたように、デリダの生前をよく知る参加者が多くいることもあったためか、本シンポジウムに対して、なお続く喪の作業の一幕であるかのような印象を抱いたのは本報告者だけだったであろうか。しかしながら他方で、発表機会を与えられた若い研究者の多くには、デリダのテクストと比較的距離をおいたうえで、その分析を試みるという傾向があるようにも感じられた。

世代の違いでものを語るような単純化は慎まなければならないが、本シンポジウムにおける多様な発表が、各人なりの仕方でデリダの読み方を示したものであったということは間違いない。本報告者にとっては、「いかにして読むのか」というデリダが常に熟考していたであろう問いを、自ら引き受けて問い直すことの必要性を改めて痛感させられた四日間であった。

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吉松覚(京都大学・日本学術振興会)

「来るべきデリダ 開かれた問いの数々」。報告者の留学に際し、渡仏の直後にこのような会に立ち会うことができ、フランスの研究の動向を知ることができたのは得難い経験であった。

研究発表では合わせて29もの口頭発表と、彼のアーカイヴを巡ったパネルディスカッションが開かれた。報告者は5月のフォーダム大学でのDerrida Todayにも参加したが、今回のコロックでは英米的な(さまざまな意味での)「ポジティブ」さ、脱構築の形式化とその応用可能性のような発表よりも、自らの哲学としての脱構築という発表が多かったように感じる。



発表者は若手から大御所や大家と呼ぶべき人たちまで、幅広い層から構成されていた。報告者よりも少し上の世代の博士課程在籍者や博士号を取得したての若手も数多く発表していたのは、先にも述べたDerrida Todayでの経験同様、報告者にとって大きな刺激となった。



三日目の午後のセッションにて西山雄二氏は教育者デリダの姿を論じながら、そこには大学教育に熱心にかかわっている彼一流の「教育的声」のようなものをも感じ取れた。彼の発表の大きな文脈となったのは、氏が『セミネール』シリーズや『哲学への権利』、『条件なき大学』など、デリダの教育者としての一面が見える著作の邦訳に携わっていたということだという。そこからデリダの著作の多くが日本語、韓国・朝鮮語、中国語に訳され、日中韓でも手の届きやすいものになったというアジアでのデリダ受容が報告されていた。しかし、今回のコロックではアジア系で発表したのは西山氏ただ一人であった。欲を言えば、それだけの――少なくとも報告者は日本での場合を知る限りなのだが――受容がなされているアジア圏からの発表を他にも聞きたかったと彼の報告を聞いていて思った。恐らく、英米ともヨーロッパとも異なるデリダ研究の形が見えたことだろう。

脱構築の泰斗の歿後10年に合わせて行われたこのコロックでは、彼の伝記映画も先行上映されるなど、その生前を偲ぶような企画もあった。映画では参加者の多く(いや、今回の場合はその大半)にとってはある種の思い出として記憶されていた逸話が数多く紹介されている。しかし、「デリダ」という名前を知ったのが彼の亡くなった年(それが10月8日より前だったのか後だったのかさえ覚えていない)で、彼の著作を初めて手にしたのは彼が歿した翌年だった報告者にとって、そうしたことは伝記で知る歴史的事実であり、そこにリアルタイムで見ていた世代との隔たりを感じた。会の掉尾を飾ったジェフ・ベニントンは発表の最後に、「メランコリーにけりをつけないといけない」と言った。だが、私はそのメランコリーを共有していない。報告者の世代は、デリダをリアルタイムでは知らない第一世代であると言っていいかもしれない。しかし、翻ればデリダの生前を知る世代から教えを乞うことのできる数少ない世代なのかもしれない。リアルタイムではないがゆえの冷静さと、当時の熱気から伝わる「余熱」を通して、どのようなデリダ受容ができるだろうか。

今年のデリダ関連の催しではアーカイヴという(思想的かつ、物理的・物質的な)遺産がたびたび論じられているのが印象的である。また近年では単行本未収録の論文集やセミネールの公刊が続々と進んでいる。彼の思想という遺産をいかに受け継いでいくか。彼がテクストに散種した哲学素の数々はどういう芽を見せるのか。問いは開かれたまま、来るべきままとどまっている。