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第三回目・脱構築研究会「脱構築と動物たち」(講演者:鵜飼哲)
(文責:島田貴史)

 2014年3月26日(水)、一橋大学にて、第三回目の脱構築研究会「脱構築と動物たち」が、デリダの動物論 L’animal que donc je suis(『私は動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』)の日本語訳刊行を控えた鵜飼哲氏による会員限定セミナーの形で行われた。



 まず、本著作の読解に入る前の導入として鵜飼氏は、デリダにおいて動物たちの問いが、脱構築不可能な正義のその不可能性を思考するための特権的な道であることを指摘し、デリダにおいて動物たちは人間より〈下〉にいることが多く、この偏好(préférence)をいかに考えるかという問題提起がなされた。

 次に、猫のまなざしの〈下〉におかれたデリダが恥を感じるという有名なエピソードによって本著作の読解が開始され、この恥の自伝的言説が、「かのように」によって導入されていることが指摘された。他方で、実のところこの経験が証言不可能であるとも言われていることから、「かのように」によって語られる自伝はどこまで自伝であるといえるのかという問いが提起された。

 そして、この動物のまなざしの前で感じた恥に対する「驚き」から、デリダは聖書におけるアダムによる命名以前の時間へ遡行する。鵜飼氏は、神がその命名によって何が起こるのか知らない「かのように」成り行きを見守ること、また、神がアベルの捧げものよりカインのそれを好むとき、はじめから神はカインを罠にかけようとした「かのように」事態が展開することを指摘し、さらに他の著作へと関連づけつつ(悩み、傷つき、悔悛する神の物語、すなわち『ならず者たち』と、神の「自己」脱構築、すなわち『バベルの塔』)、デリダがここで、罪と償いとは異なる恥によって聖書を読み直していることを指摘した。



 その後、鵜飼氏による読解は、本書第四部のハイデガー読解へと移り、他のハイデガー論『精神について』と、それに対するフランソワーズ・ダステュールからの批判を突き合わせたのち、〈として〉構造に焦点が当てられた。鵜飼氏は、デリダ以外の動物論が主に動物を人間と同じ位階へと引き上げる議論を展開するのに対して、デリダの議論が、動物に割り当てられた欠如(ステレーシス)の論理を人間にまで及ぼすものであること、そして、人間が固有に持ち人間に可能であるとされるものを動物にも認めるのではなく、そもそもそれを人間がもつのか、それは人間に可能であるのかを問いに付すものであることが指摘された。

 先日の研究会では、ラカンやデカルトなどの部分は時間の都合から十分に掘り下げることができなかったが、発表後の活発な質疑応答からも、デリダの動物論は、今後さらなる研究と議論が期待される問題領域であると確信することができた。