Review



澤田直『ジャン=リュック・ナンシー 分有のためのエチュード』白水社、2013年

目次
はじめに
プレリュード 自らの病を語る『侵入者』
 第Ⅰ部 特異存在と共同性
1 バタイユとブランショとの往還のうちで 『無為の共同体』
2 主著というべき本格的哲学考察 『自由の経験』
 第Ⅱ部 イメージをめぐって
3 現前としての像 『イメージの奥底で』
4 視線の問題 『肖像の眼差し』
 第Ⅲ部 世界とは
5 キリスト教とイメージ 『訪問』『私に触れるな』ほか
6 キリスト教の脱構築 『脱閉域』
コーダ 意味=方向(サンス)をめぐって
あとがき
ナンシー主要著作一覧


松葉祥一

 画期的な著作である。日本語による初めてのジャン=リュック・ナンシーの解説書だからではない。哲学-美学-政治の領域に広がるナンシーの思想に、一本の補助線を与えることによって、きわめて明快な、しかし広がりのある見取り図を描いた初めての研究だからである。その補助線とは、ナンシーの思考が、例えば「共同性なき者たちの共同体」、「対象なきイマージュ」、「方向(サンス)なき意味(サンス)」といった撞着語法によって、あるいは分有・イマージュ・サンスという多義的で決定不可能な「概念」によって、「自由か平等か」、「表象か創造か」、「真理か誤謬か」といった西欧形而上学の伝統的二元論を脱構築する試みだという命題である。

 本書の分析は、ナンシーの著作を四領域に分けることから始まる。第一の領域は哲学史的アプローチによる読解であり、第二の領域はアクチュアルなテーマを扱ったテクスト群、第三の領域は芸術論、第四の領域はキリスト教-西洋形而上学の脱構築である。そして、著者は、すべての領域にかかわる第一の領域を基盤にして、残る三つの領域を順に読解していく。その際、他の著作に目を配りつつも、基本的にはそれぞれの領域の主著を中心に分析が行われる。すなわち、序論の『侵入者』から始まって、第一部「特異存在と共同性」では『無為の共同体』と『自由の経験』が、第二部「イメージをめぐって」では、『イメージの奥底で』と『肖像の眼差し』が、第三部「世界とは」では『訪問』、『私に触れるな』、『脱閉域』が分析される。

 まず共同体論。自由主義と共同体主義の論争に見られるように、個人の自由と共同体内の平等は、対立する二項だと考えられてきた。個人の自由を増大させれば平等は減少し、平等を増大させれば自由が減少するというわけである。著者によれば、ナンシーはこの二項対立に、分割と共有を同時に意味する分有(パルタージュ)の概念を導入することによって、個人と共同体が相補的であることを明らかにした。すなわち、共存在としての人間においては、分有こそが根源的な事象であって、それによって特異性(ナンシーは個人という語を避けてこの概念を用いる)と共同性は同時に可能になるというのである。その意味で、ナンシーの共同体論は政治の理論にとどまらず、特異的かつ共同的存在という人間の存在論的規定にかかわるものである。

 次に芸術論。ナンシーが、イマージュの概念を導入することによって批判するのは、芸術を何らかの原型(オリジナル)の模倣(ミメーシス)だと見る見方である。イマージュは、心の中での表象を意味すると同時に、表象芸術における図像を意味する。ナンシーは、この両方の意味のイマージュが、ともに「何らかの表象=再現前化であるよりは、むしろ呈示=現前化である」ことを例証する。例えば、「肖像は本人に似ているのではなく、本人に似ていることの理念(イデー)に似ている」、あるいはむしろ肖像それ自体が「オリジナル」である(『肖像の眼差し』)。したがって、芸術とは、何らかの現実的なものの模倣ではなく、それ自体新たな真理の創造だというのである。その意味で、ナンシーにおけるイマージュの概念は、芸術論にとどまらず、オリジナルなイデアはないという真理・存在論的命題でもある。

 この共同体論における分有の概念、芸術論におけるイマージュの概念が、サンスの概念へと伸ばされる。サンスというのは、感覚を意味すると同時に、意味や方向を意味する「おどろくべき言葉」である。ナンシーは、この語のなかに感性と理性を分離することも結合することもなく、一方から他方への移行を可能にする両義性をみる。西欧形而上学においては、感性的なものに対して理性的がつねに優位に置かれてきた。しかし上で見たようにナンシーは、感性によるイマージュが、理性が求める唯一の真理=実在の反映ではなく、それ自体で意味をもっていると考える。したがって、意味は原理的に多様であることになる。こうしたナンシーの主張を、相対主義-懐疑主義だとする批判者は、自らが、西欧形而上学の真理概念に牢固に依存していることを知るべきである。ナンシーは、サンスの概念によって普遍的・超時間な真理を批判するとしても、だからといって私たちが意味-方向を求めずに生きていくことができると主張しているわけではなく、それは感性的なものを通してしか現れないと主張しているのである。

 六〇冊以上の著作において展開されるナンシーのテクストは多様であり、今も広がりをみせている。そこにどのような意味を読み取るかは、読者にゆだねられている。しかし、本書の描き出すナンシーのイマージュは、今後のナンシー読解のための重要な導きの光となるだろう。

初出=『図書新聞』、3111号、2013年4月

西山雄二

哲学者ジャン=リュック・ナンシーは、哲学や文学から精神分析や芸術まで多岐に及ぶ大小六〇以上もの著作を刊行してきた。その半分ほどが日本語に移されているにもかかわらず、彼の思索の全容を把握する日本語の単行書はなかった。つねにアクチャリティを失わない彼の著作は魅力的だが、彼独自の文体や表現を読みこなすことはやや困難である。そんなナンシー思想の日本初の概説書として、本書は実に貴重な労作と言えるだろう。

本書の構成は明快で、第一部では『無為の共同体』『自由の経験』の読解から共同体と特異存在の関係が明らかになる。第二部では『イメージの奥底で』『肖像の眼差し』にもとづいて、イメージの問題が扱われる。第三部では、キリスト教とその脱構築がとり上げられ、絵画論数編と『脱閉域』が読み解かれる。思想の入門書である以上、ある程度の単純化や図式化は避けて通れず、本書にもその傾向と工夫はみられる。だが、ナンシーのテクストの多義的な振動に慣れるためには、本書の簡潔で実直な記述はむしろ適切に感じられた。

晩年の対談でジャック・デリダは、西欧哲学の伝統的な重要概念に真っ正面から挑戦するナンシーに対して、「子供時代、アルジェリアの暑い家屋で、蜂蜜のついた巻紙に誘き寄せられ捕獲される蝿のことを思い出す」と語っていた。本書で取り上げられているように、ナンシーは共同性、自由、イメージ、世界、キリスト教、意味=方向といった極めて重厚な哲学的概念群と格闘してきた思想家である。しかも彼はバタイユ、ハイデガー、デリダといった二〇世紀の思想家の戦略と成果を継承しつつ、伝統的概念の批判的な読み替えや今日的意義を大胆に呈示する。本著者を含めてナンシーを論じる者は、西欧思想の伝統的文脈と現代思想の独創的な展開の深い理解と妥当な表現という困難をつねに抱え込むのだ。

冒頭で明示されているように、ナンシーは哲学的概念を多義的な記号として展開させる。古典的な意味を担ってきた諸概念の自明性が問い直され、その多義的な振動が表現され、さまざまな方向へと反射する。もちろん、この挙措は哲学的概念をいたずらに相対化して文学的言葉遊びへと解消するものではない(彼の文体はむしろ硬質で骨太だ)。私たちの思考が自由に作動し始める原初的な地平を開いておくために、ナンシーは概念をあらゆる方向へと起動させる核心部を描き出すのだ(それゆえ彼にとって、自由、経験、思考は同義である)。デリダが疑問を呈したように、ナンシーが切り開いたこの原初的な地平に誰がいかに応答するのかという責任の問いがさらに残されるだろう。

本書では、伝統的な諸概念を読み替えるナンシーの斬新さが叙述されつつ、思想家たちの理路に対する相違点が適所で指摘され、ナンシーの特異な輪郭が浮かび上がっていく。とりわけ、ハイデガーとの対話と対抗は重要で、共同存在と死の連関、形而上学的な「自由」概念の放棄、イメージ概念の再解釈といった要所で両者の決定的な相違が示される。ナンシーとデリダの思想的関係については、兄弟愛をめぐるデリダの批判が紹介され(一一七頁)、感性的なものに即した脱構築の発展的継承(二一一頁)、キリスト教と脱構築の矛盾した関係(二二八頁)さ指摘されている。「脱構築派」と一括されがちな両者の相違に関してはもう少し頁を割いてもよかったかもしれない。

脱構築は単数か複数か。「脱構築派」と呼称される思想家は一枚板ではなく、デリダという固有名を散種しつつ拡散していく。昨年ド・マンの卓越した日本語訳書が出版され、ナンシーの脱構築的思索についての格好の概説書が今回刊行されたが、脱構築はそれぞれの仕方や立場で継承されるときに出来事として経験されることを再確認しておこう。脱構築への入門の問いはつねに、読者自身の思想的創造という出口に直に通じているのである。(『週刊読書人』2013年3月8日号(2980号))