Review



フェン・チャー、スザンヌ・ゲルラク編『デリダ 政治的なものの時代へ』藤本一勇、澤里岳史編訳(岩波書店)
西山雄二

目次
イントロダクション―デリダと政治的なものの時代
第1章 終末論対目的論―デリダとアルチュセールの中断した対話
第2章 デモクラシーの時ならぬ秘密
第3章 主権のためらい
第4章 「我をイシュマエルと呼べ」
第5章 純粋贈与のアポリアと相互性の狙い―デリダの『時間を与える』について
第6章 赦しの脆さ(デリダとリクール)
第7章 デモクラシーは到来すべきものか?―デリダにおける倫理と政治

本書は二〇〇六年にカリフォルニア大学バークレー校で開催された同名のシンポジウム記録の日本での独自編集版である。二〇〇四年にデリダが逝去して最初の、政治的なものの脱構築をめぐる本格的な論集だ。本書の目的は明快で、「政治的なものをめぐるデリダの後期の仕事を、彼の全著作におけるその位置について、また政治的なものおよび政治に関する研究への貢献について批判的に査定すること」だ。

デリダは一九八〇年代を通じて政治的転回を遂げ、その思想は前期と後期に区分されるとしばしば言われる。だが、デリダ自身が「差延についての思考はつねに政治的なものについての思考である」と明言しており、編者は転回という形象には賛同しない。デリダの思想は哲学から政治へとすんなり移行したという目的論的な解釈は脱構築思想とは相容れない。では、デリダの政治的な参与が後年、より明示的になったのは何故か。まず、脱構築思想の特殊な操作性がフッサールやハイデガー、ヘーゲルらの思想との関係において洗練される必要があったからである。また、共産主義の崩壊やグローバル資本主義の進展、国民国家の変容、民主主義の問い直しなど、世界の出来事がまさに脱構築的な変容を見せ始めたからである。脱構築は現実に介入するのではなく、現実の脱構築的な変化に応答するのだ。

デリダは主権、民主主義、赦し、歓待、友愛、贈与、責任といった諸概念とその現象や歴史性を脱構築的に読み解く。一見、デリダは実際の政治とは区別される政治の本質(政治的なもの)を思弁的に考察しているようにみえる。だが、政治的なものは自律的な論理を構成するのではなく、現実の政治によってつねに多少なりとも汚染されている。デリダの思考は計算可能性とその不可能性、政治と超政治的なもの、条件的なものと無条件的なものといったアポリアの試練に曝されるのである。六〇年代以来、デリダは現前の形而上学の特権的な閉域を批判することで、他者が到来する可能性の条件を示してきた。デリダの政治思想があるとすれば、それは別の仕方での現前を考えさせる政治的なものの時間についての試みとなろう。進歩主義や保守主義に通じる終末論や目的論的な時間概念が刷新され、やはり自己現前性に裏打ちされた諸概念――分割不可能な主権の存在神学的概念、兄弟愛的な紐帯に依拠する民主主義概念、責任や赦し、贈与をめぐる他者との倫理概念が刷新される。デリダの思想は他者への応答に向けた肯定性に満ちているが、この到来する他者と深く関係するからこそ、政治的なものはつねに倫理的なものや神学的なものとの強い緊張を強いられる。

本訳書では紙幅の都合上、原書の約半分の論考が収録されているが、編者と訳者の協議により、エレーヌ・シクスーやジュディス・バトラーといった著名なデリダ派研究者の文章の方が割愛されているのは意外である。デリダの思想を挑発する刺激的な論考が収録されたこと自体、デリダの批判的遺産相続の仕方を考えさせる。こうして本書では直截な問いが投げかけられる――デリダのヨーロッパ・ナショナリズム批判は他者を排除するその偏狭性や同質性を批判する点では正しいが、第三世界の革命的ナショナリズムや超国家的ネットワークにおける国民的連帯は考慮に入れられてはいない(第二章)。民主主義を普遍的なものと規定しつつ、イスラム世界でのその不在を指摘することで新たなオリエンタリズムを醸成してはいないか(第三章)。アルジェリアで生まれ育ったデリダのテクストにおけるアラビア語の沈黙はイシュマエルの追放と重なり合う(第四章)、等々。

デリダが他界してから、資料保存・公開、国際会議Derrida Todayの開催、セミネール原稿や伝記の出版など、国際的な研究活動は活発化している。本書はその一端を提示し、デリダ研究の積極的な展開を示唆している点で新鮮で有益である。(『週刊読書人』2012年4月13日号(2935号))