Review



ジャン=リュック・ナンシー『フクシマの後で――破局・集積・民主主義』、以文社
西山雄二

【目次】
序にかえて
Ⅰ 破局の等価性―フクシマの後で
Ⅱ 集積(ストリュクシオン)について
Ⅲ 民主主義の実相
 1.六八年―〇八年
 2.合致しない民主主義
 3.さらけ出された民主主義
 4.民主主義の主体について
 5.存在することの潜勢力
 6.無限なものと共通のもの
 7.計算不可能なものの分有
 8.有限なものにおける無限
 9.区別された政治
 10.非等価性
 11.無限なもののために形成された空間
 12.プラクシス
 13.実相
訳者解題

本書の発端は東洋大学国際哲学研究センターのウェブ講演会だが、訳者の的確な判断でフクシマ論に加えて、技術と民主主義に関する論考が併載されている。ナンシーの近年の思想的足跡を見通すためだけでなく、現在の日本社会にとって重要な選択であった。「三・一一」の破局を克服するために、技術の批判的分析が必要とされ、脱原発運動を通じて民主主義の実相が試されているからである。

フクシマ論の表題「破局の等価性」が示すのは、あらゆる破局が等価であるということではない。もちろん、それぞれの破局はその状況や場所が異なる特異な出来事である。各々の破局が固有の犠牲と名を有する事実はまず尊重されるべきだろう。だが、自然か人為かを問わず、現在、あらゆる破局は技術的、経済的、政治的な影響を広範囲に及ぼすだけでなく、人間と自然とが地球規模で複雑に連関している文明論的な布置を露わにする。

ナンシーはマルクスとハイデガーを援用しつつ、資本主義と科学技術に裏打ちされたこの布置を論じる。マルクスはあらゆる商品の交換を可能とする貨幣を「一般的等価物」と呼んだが、ナンシーはそうした計算可能性の論理が、力、意味、価値などの人間のあらゆる領域に及んでいるとする。また、ハイデガーは技術を、自然に対する人間の諸手段の総体ではなく、人間の存在様態とみなした。「存在の最後の歴運」と呼ばれるこうした世界において、技術はもはや手段ではなくなり、それ自身が目的と化し、あらゆる事象を等価に連関させる。ナンシーは、資本主義と経済的な技術によって隅々まで分節化され、あらゆる意味や価値が複雑に相互連関する布置を「一般的等価性」と特徴づける。この等価的な条件こそが、局地的な破局を地球規模の破局的な連鎖をもたらすのである。

ナンシーは一般的等価性の軛を逃れるために、計算不可能な特異的なものの非等価性への崇敬を示唆する。これは通約不可能なもの同士の崇敬という点で彼の民主主義論と関係する。論考「民主主義の実相」では、「六八年五月」が、一般的等価性の論理に裏打ちされた民主主義や資本主義に対する根底的な批判だとする。資本主義は貨幣によって、民主主義は代表制によって、あらゆる事象を交換可能なものにする。こうした一般的等価性の体制に抗して、「五月」は「どんな形象も、どんな審級も、どんな新たな権威も導入することのない一つの闖入ないし遮断としての現在」を迎え入れたのだった。ナンシーは民主主義を実定的な制度ではなく、人間が人間を無限に超過しようとする精神とみなし、その息吹が「六八年」に開花したと見る。それは「自分自身の危険であり機会であるところの「人間」を含む、意味の体制の名」である。

読者のなかには、ナンシーの硬質な哲学的文章に苦心する者もいるかもしれない。だが、資本主義と技術のいかなる布置構造によって破局が重大な影響を及ぼすのかを形而上学的に問う、本書のような射程の広い文明論はやはり重要である。フクシマの後、技術者や救助隊員と同じく、哲学者たちもまた召喚される必要がある、とナンシーは語る。哲学者にできることは破局をもたらした諸構造を解明し、新たな世界観を垣間見させる言葉を紡ぎ出すことなのである。

資本主義と技術文明の内在主義的考察に徹するナンシーの破局論には犠牲の問いが欠落している。破局の特徴は犠牲者(死者、行方不明者、避難者、等々)の圧倒的な数であり、彼女/彼らに対する応答責任の問いこそが特異的な仕方で残される。ナンシーは破局の後で寸断された未来を再開始するために、現在時へと到来する特異なものの崇敬が必要だと言う。だが、膨大な犠牲者への応答責任の問い(これから子供たちを放射能汚染の犠牲にしないという使命も含む)もまた、一般的等価性の世界に亀裂を入れ、永く続く破局の「後」に、未来を呼び寄せる契機なのである。(『週刊読書人』2012年11月23日号(2966号))