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ジャック・デリダ『プシュケー――他なるものの発明 II』藤本一勇訳(岩波書店、2019年)書評

西山雄二

本書は、哲学者ジャック・デリダが主に一九八〇年代に発表した多種多様なテクストからなる論集である。既刊の第一巻と同じく、収録されているテクストは哲学のみならず、政治、精神分析、建築、文学、絵画などの領域に及ぶ。一九八一年、デリダはプラハの反体制知識人を支援した際に、当局に麻薬密輸容疑をかけられて逮捕。一九八三年、ミッテラン政権の依頼によって、院長として国際哲学コレージュをパリに創設。社会科学高等研究院に教授職を得て、自由な主題でセミネールを開始(ちなみに、デリダはこの年にはじめて日本に滞在して精力的に講演をおこなう)。一九八六年、ヴィレット公園計画のために建築家ピーター・アイゼンマンと共同作業。一九八七年、ハイデガーとナチスの深刻な関係、ポール・ド・マンの反ユダヤ主義的文章がスキャンダルになり、デリダは批判の矢面に立たされる……本論集からは、こうした目まぐるしい時期のデリダがいかに同時代の要請に応じて執筆活動をおこなったのかがわかる。

連作「ゲシュレヒト」(Geshlecht:種属、生殖、性、類などを意味する多義語)において、デリダはハイデガー哲学における感性的で身体的な主題を扱う。「性的差異、存在論的差異」では、性的差異は存在論的差異の高みに至らないという通説をめぐって、「現存在」という表現が人間の諸前提を中性化し、さらには、男女の双数的分割を無性化することが指摘されつつも、しかし、この位相が実は性的差異を散在した多様性へと解き放つ構造を有することが示唆される。「ハイデガーの手」では、「手前存在者」や「手許存在者」といったハイデガー特有の表現が参照されつつ、「手仕事」を称揚したこの哲学者において、言葉と思考に対する手の関係が人間の規定性として重要視されていることが指摘される(続編にあたる『ゲシュレヒトⅢ』は今年ようやく原著が刊行され、第四番目の「ハイデガーの耳」は『友愛のポリティックス』に収録されている)。ハイデガー哲学における身体的主題の欠如はしばしば指摘されるが、デリダはさらに、ハイデガーにおいて周縁的とみなされてきた身体的要素(性差、手、耳)をその哲学の脱構築が生じる要点とし、彼の思考と政治性の根本的な結節点として解明するのである。

デリダが八〇年代に「政治的‐倫理的な転回」を果たしたと言われるが、そもそも彼の脱構築思想は政治的‐倫理的な原理を当初から含んでいた。ただ、八〇年代以降、彼の政治参加が顕著になってきたのは明らかだろう。一九八九年のニューヨークでの講演で法権利と正義の関係を論じて、「脱構築とは正義である」と発言したのはその際だった例である。デリダは「アパルトヘイトに抗する芸術」展の企画に参加し、作家委員会「ネルソン・マンデラのために」創立に尽力する。本書の「ネルソン・マンデラの感嘆あるいは反省の法」では、マンデラの言動に脱構築的な効果を巧みに読み取ることで、南アフリカの人種差別政策が批判されている。南アの白人政府はイギリス議会民主主義の精神を掲げながらも、みずからがこれを否認している。西欧の政治理念に感嘆するマンデラの言葉はアパルトヘイトの現実を批判的に照らし出し、白人政府に反省を迫るのだ。

デリダが否定神学を論じた「いかに語らずにいられるか」がようやく日本語で読めるようになったことは画期的だ。デリダは現前の形而上学と対決し、現前でも不在でもない「差延」の運動を示してきた。いかなる概念でも名でも表現できないとされる差延の思考は否定神学と類似していると度々指摘されてきた。本論でデリダはギリシアの誇張法的思考とキリスト教の否定法の歴史的−思想的な文脈、ハイデガーの存在‐神論における啓示可能性(存在がみずからを露わにする可能性)を批判的に読み解くことでみずからの立場を明確にしている。否定神学が依拠している語の統一性や名の特権性こそ、脱構築の標的となるものである。また、否定神学が存在の彼方にある超本質性を温存するかぎりにおいて、それは確固たる超越性を前提としない差延とは相容れないのだ。かつて東浩紀は否定神学システムに抵抗して郵便的脱構築へと変遷するデリダの思想を明瞭に示した。本論や『名を救う』といった否定神学論からこうした議論を再読してもよいだろう。

そのほかにも、「日本の友への手紙」は井筒俊彦に宛てられた書簡形式で、脱構築入門のテクストとして広く知られている。脱構築は分析、批判、方法、行為、操作ではないとその定義や翻訳の困難さが列挙された末、「それは自己を脱構築する」という能動でも受動でもない表現で脱構築の運動性が指し示される。
「ウィの数」では、あらゆる問いを開く、肯定するウィの位相が擬似‐超越論的な構造として分析される。受諾する根源的なウィは反復され、二番目のウィをもたらす。逆に言えば、発話主体が発するウィはつねに根源的なウィの記憶によって二重化されている。こうした二重の肯定がデリダの脱構築の基調をなしている点は重要である。

「戦争中の諸解釈 カント、ユダヤ人、ドイツ人」では哲学的ナショナリズムが問われる。ドイツ系ユダヤ人コーエンが求めるユダヤ‐ドイツ的精神は、ギリシア文明とキリスト教を介して融合した普遍的理想である。ユダヤ‐ドイツ的な精神は純化され、普遍的人類の模範となるが、異者を排除し否認することで成立する哲学的ナショナリズムに脱構築の矛先が向けられる。

第一巻に次いで第二巻も単独で翻訳した訳者の仕事は目覚ましいもので、気配りの利いた訳注とともに実に読みやすい日本語に移されている。きわめて高額ではあるものの、本訳書によって新しいデリダ像が多くの読者に届き、さらなる思考の発明を誘発することを願う。

初出=『週刊読書人』2019年6月14日(第3293号)