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ジャック・デリダ『プシュケー――他なるものの発明 Ⅰ』藤本一勇訳(岩波書店、2014年)書評

宮﨑 裕助

 デリダ没後十年となる今年、新たに待望の訳書が出た。本書の底本は一九八七年刊の書物にさかのぼる。これは七八年から八七年までの二六篇のテクストを集めた六五二頁もの大著であり、のち分冊され、一九九八年に第一巻、二〇〇三年に第二巻が、各巻新たに一篇の論文が増補されて再刊された。このたび上梓されたのは第一巻の日本語訳である。

 本書には、七八年から八四年までの多種多様な一六篇のテクストが収められている。八〇年代末以降のデリダは「倫理・政治的転回」を遂げたと整理されることもあるが、少なくともこの時期のデリダは、後期著作のそうした見かけを完全に失効させるほど広範な仕事を展開している。関係するジャンルをざっと挙げれば、第一巻のみでも、哲学(ハイデガー、レヴィナス)や文学(ド・マン、ラポルト、バルト、フローベール)、政治(アパルトヘイト、核戦争)、絵画、音楽、写真、精神分析、隠喩論(リクール)、翻訳論(ベンヤミン)等々、きわめて多岐にわたっている。

 しかもこれは水増しされた雑文集どころか、一篇一篇がきめ細かやなテクストの織物であり、論文集のような体裁で出版されたことを残念に思うほどだ(九〇年代以降のデリダなら主要なテクストを独立させて単行本化しただろう)。十年も満たない間にこれほど多様で高密度のテクストの数々を産み出したデリダの圧倒的な著作活動にあらためて嘆息せざるをえない。

 多様とはいえ、本書にはテクストの諸側面を映し出すひとつのモティーフがある。それは「鏡」そのものであり、それにデリダが付した名が「プシュケー」だ。この言葉は、古代ギリシアの哲学で問われるような「魂」や「心」を意味する基本語というだけでなく、フランス語では「姿見」としての回転鏡を意味する。しかもこれはデリダも強調するように、もうひとつの同形異義語として、アプレイウスの『黄金の驢馬』で有名なギリシア神話の美少女をも指している。

 かくしてプシュケーがまさにおのれの美しい姿に見とれるナルシシズムを含意することで、これまで西洋思想の中心に位置してきた「心」の問題は、自己をめぐる鏡像的(スペキュラー)かつ思弁゠投機(スペキュレーション)の問いとして論究されていくことになる。心のこの自己鏡映(反省)は、デリダによれば、一回的で新しいものが反射ないし反覆可能性を通じてこそ発見゠発明されなければならないという逆説的経験として各テクストを貫いている。脱構築と呼ばれる思考の企ては、そうした不可能な経験のうちにこそ「他なるものの到来」へのチャンスを見出し、たんに新しいのですらない未聞の出来事への準備を組織しようとするのである。

 本書は、読者各人の関心に応じてどこから読んでもよいような論文集の性格を備えているが、いま述べたモティーフにより、やはりまず読まれるべきは冒頭の「プシュケー──他なるものの発明」──「発明」の語が複数形であること除けば本書と同タイトル──だろう。

 このテクストは、デリダがポール・ド・マンに招かれて初めてイェール大学でセミナーをした際のポンジュの詩「寓話」の分析からド・マン論を展開している。と同時に、デリダにしては珍しくライプニッツを取り上げつつ、キケロに始まる「発明゠発想」論に真正面から取り組んでいる。そこから(アメリカを経由した八〇年代以後の)脱構築の発明についてのデリダの自己説明を読むこともできる。このテクストを起点として、読者は本書のうちに、日本ではこれまでよく知られてこなかった脱構築の様々な論点を発見して驚くにちがいない。

 最後に苦言を少し。本書の価格だ。人文書や思想書の売れ行き不振が問題となる昨今の出版事情からしてある程度高価になるのは仕方ない。だが、一万円以上(税込)もする値段は度が過ぎていないだろうか(二巻揃えれば倍額になる。なお原書は六千円、英訳は三千円程度)。これまでデリダを読んできた多くの読者や、これからデリダを読もうとする若い学生にはとても手の出る価格ではない。本書は決して「出版自体に意義がある」類いの専門書ではない。「来たるべき他者」に呼びかけている開かれたデリダのテクストであればこそ、関係者諸氏には賢察を乞う次第である。

初出=『週刊読書人』2014年9月12日、第3056号