財政赤字は問題なのか


 経済セミナー 2000年6月号に発表した原稿に若干の加筆訂正しています

財政赤字が問題なのか、そうでないのかという意見には、さまざまなレベルの議論があり、混乱しがちです。結論から言って、筆者は現在の財政赤字ならびに公的債務の残高は異常な大きさであり、金利支払いのために借金を重ねる現状では、このまま続けていくことはできない、と考えています。しかしさらに厄介なことに、なにがなんでも借金を返してしまえばよいと考え、早急に公的債務解消を図ることも危険であることも事実です。重傷の患者にカンフル剤は必用だが、それに頼り切ってこれ以上の大量投与は望ましくない、しかしカンフル剤をやめて容体の急変をまねくのも恐ろしいといったところでしょうか。結局、公的債務は巨額過ぎるので、一気に返すこともできません。これからしばらくは借金を背負ったままで日本経済を考えていく必要があるでしょう。どのように公的債務を解消し、共存していくか、明確な見通しと長期計画が何より必要なのではないでしょうか。
財政赤字を巡る議論には大きく分けて以下の3つの議論があります。

A. まず日本人から日本人に借金をしているのだから、財政赤字は大丈夫という意見
B. 貯蓄過剰であるから、政府が支出しないとマクロ経済が失速してしまうという意見。
C. このまま放置しておくと長期金利が上昇したり、日本政府が破綻してしまうという懸念。

実はこれらの議論は一概に間違っているわけではありません。たとえば素朴な議論では、借金をしているのだから、返すのは当たり前、と言われますが、Aの議論が示すように国の借金と個人の借金は違うものです。しかしAだけでは充分ではないところに問題があります。公債残高が2001年度末には666兆円に達する現状を考えると、分量があまりに大きすぎます。利子率がもし5%とすると、600兆円の5%は30兆円です。日本の総消費は300兆円ぐらいですから、消費税で利子をまかなうとすると10%の消費税を上乗せすることが必要となります。よく消費税増税が不可避と言われるのはこんな計算に基づいています。現在は異常な低金利状態だから、利払いはなんとかなっていますが、金利が上がると、利子を返すだけでも増税が必要になるわけです。実際、今年の予算規模は83兆円と実質昨年並みですが、歳入の28兆円は公債金であり、公債依存度は34%にもなっています。一方、歳出は金利利払いなどの国債費が17・2兆円と20・8%に加えて、借換債が59.7兆円もあり、巨額の調達が必要となっています。(財務省ホームページ、財政の現状と今後のあり方http://www.mof.go.jp/jouhou/syukei/sy014.htm参照)
それではABCの議論を順々に見ていきましょう。

A. 日本人が日本人から借金?

まず「日本人が日本人から借金しているから大丈夫だ」と言われます。お父さんがお母さんから借金しているようなもの、と言われることもあります。実際、日本国債の大部分は日本人が購入しており、海外から借金をしているわけではありません。理論的には、この意見はリカード=バローの等価定理とよばれる定理に基づいています。これは、財政支出が一定のままであるならば
▼ 租税によりまかなおうと、
▼ 公債発行によりまかなおうと
その効果は全く同じで、政策効果は資金調達の方法に依存しない、ということを主張したものです。この定理で間違えやすい点は、資金調達が問題にされているという点で、どのようにファイナンスしようと政策効果はその方法には依存しないということに注意してください。この定理はマクロ経済学の教科書に必ず載っていますが、ここでは以下の3つのポイントに分けて、分かりやすく説明してみましょう。

[a: 利子率] 貸し借りの金利が変わらない「完全な資本市場」
[b: 返し方] 働いても働かなくても借金を返さなければならない「一括固定税」
[c: 返す人] 異なる世代間とのリンクがある「一体化した個人」

完全な資本市場: まず完全な資本市場で10万円のテレビをクレジットで買う場合を考えてみましょう。通常、ローンで払う利子率と、銀行に預けておく利子率では、ローンのほうが高くなりますが、ここでは理想的な完全な資本市場を考えて、利子率は同じとしてみましょう。5万円を今月、5万円プラス利子を来月払うローンを考えましょう。そうするとまずローンやリボ払いで支払おうと、一括払いで支払おうと同じだけの負担しか消費者にはかかりません。なぜでしょうか。
ローンで払う場合は5万円プラス利子の負担が来月かかります。しかしいま5万円を来月の支払いのため銀行に預けておけば、銀行利子が付くわけです。そうすると完全な資本市場の仮定により、ローンで支払う利子と銀行の利子は同じですから、結局負担は一括払いと同じになるわけです。
 もう一度数式を使って、民間主体の予算制約式を考えてみましょう。Yは所得、Cは消費、rは利子率です。添え字1は現在を表し、2は将来を表しています。ここでGだけの政府は支出を行い、Tを租税としましょう。ここで政府は
▼ 現在時点でG=Tとして、支出と同時にその財源をすべて租税でまかなってもいいが、
▼ 国債を発行して、税金取立てを将来に繰り延べしてもいい。
 そこで現在の租税はT1、将来はT2とします。いずれにしても政府の予算制約式はG=ですから、民間の予算制約式は
      

政府がT1を増やそう(増税)と、T1を減らしてT2を増やそう(国債)と、その効果は変わらないことを示しています。結局、税金で政府がお金をいつ民間からとりあげるのか、タイミングだけが違うだけで家計が使えるお金は変らない、という意味になります。よく公債の発行は将来の増税を意味し、民間の経済主体は自発的に貯蓄を増加させるというところが、非現実だと指摘されますが、ローン支払いのために貯蓄を増加させると考えると納得がいくでしょう。

一括固定税: 次に重要なポイントはこの定理は一括固定税という仮定に基づいていることです。一括固定税とは人々の頭割りに税金がかかるというものです。この意味はとても重要です。実はリカード=バローの等価定理を示したバロー教授は等価定理を示した論文の後に、一括固定税の替わりに所得税を使って公債の効果を考えた2番目の論文を書いています。そこでバロー教授は公債の負担は2次的なもの、と述べています。つまり666兆円が問題なのではなく、その利子がもたらす資源配分の歪みをもたらすことを主張しているのです。
普通、借金というのは、とにかく返さなくてはならないこものですが、国の借金返済が所得税増税によってなされるなら、借金を返す人は働きものの人に集中することになります。そうすると、どうせ税金がとられるなら、働かないほうがいいという社会になる怖れさえあります。もちろん他の税金たとえば消費税を考えてもいいのですが、消費を得るために所得を得て働くわけですから、やはりこの場合も勤労意欲が減退し、資源配分に歪みが生じてしまいます。

一体化した個人: 等価定理は借金をした人と返す人が同じ、あるいは家計が同じと考えています。しかし政府が借金の返済をする場合、増税によってまかなわれます。そこで、借金を使う人と返す人が違う可能性がありますし、どうせ後でうやむやになるからどんどん借金をしようとする危険もあります。なかでも重要な点は、政府が増税する前に死んでしまえば、食い逃げをすることができるのではないか、という世代の違いという問題です。たしかにこの場合、現在の世代がお金を使って、将来の世代が借金を払うことになってしまいます。
この議論に対し、バローは人は死んでも家系はつながっていると考え、親から子への遺産に注目しました。この議論では財政赤字が増えると親は孫子の代の増税を予想して、子供のために貯蓄を増加させると考えています。だから孫子の世代が心配なら、自分の孫に遺産を遺せばいい、とも言えるわけです。

ここで若乃華と貴乃華という兄弟がいたと考えて見ましょう。怠け者の兄の若乃華と働き者の弟の貴乃華は遺産も借金も同じだけ相続したとします。普通の借金は働き者であろうとなかろうと、返さなくてはなりません。しかし公的債務は違います。政府は所得税をかけるしか、借金を返してもらう方法がないとすると、働き者の貴乃華ばかりが借金を返すことになるわけです。

B. マクロ経済が失速?

次に問題とされるのは、日本は貯蓄過剰の国であり、政府がお金を使わないとマクロ経済が失速してしまうという主張です。ここでは財は1つしかない経済、1セクター経済と呼ばれる経済の想定で、この問題を考えてみましょう。この経済には小麦のような財、つまり、小麦はパンにして食べるとき消費財の役割をし、タネまきをするとき資本財の役割をするような財しかないと考えます。今、家計が小麦の刈り入れを行って収入を得たとします。ここで家計の選択は
▼ 「パンにして食べてしまうか」つまり消費をするかという選択肢
▼ 「タネまきに取っておくか」つまり貯蓄、あるいは投資をするかという選択肢
の二つがあります。あまり食べ過ぎてしまうと将来のタネまきの分の小麦が減ってしまう。そうすると来年の小麦の収穫量が減ってしまう。しかし、今タネまきのために取っておく分量が多すぎる場合は今はパンが食べられなくなってしまう、という意味です。
しかし現実の経済では貯蓄は銀行預金や株式購入といった形でなされますので、貯蓄と投資の間には金融があります。つまり、家計という資金の出し手(貯蓄)と企業という資金の取り手(投資)の間に市場ができて、その価格は利子率に決まるわけです。
ところが問題は貯蓄は行われるが、投資は少ないといった状況に日本経済はなっているわけです。家計はタネまきのために小麦をため込んでいても、企業はタネまきを行わないといった状況なわけです。そこで政府が借金をして、貯蓄を使うというのがケインジアンの発想です。
 冒頭の繰返しになりますが、このような考え方は一概に間違っているとは言えません。皆が萎縮して自己防衛に走ってしまえば、マクロ経済はたしかに縮小してゆきます。しかし問題はこの方法にも限度があることです。失業者や有効資源が未活用だからと言って、いくらでも借金をしてやむなく将来の大幅な増税を決めるほどのメリットがあるのでしょうか。つまり現在、失業者がいて無駄だから、国の金で雇えばよいというのは、間接的には税金を納める家計が、強制的に失業者を雇う義務まで負わされていることにならないでしょうか。
以上のように考えると
▼ たとえ失業者が資源の有効利用に反する、といったデメリットがあったとしても
▼ 政府支出増大は将来の増税という異なったデメリットが生じる
ことになります。

C. このままでは長期金利が上昇したり、日本政府が破綻?

 最後に重要な問題は長期金利上昇懸念です。現在、日本は多額の政府債務をかかえ、危険な状況ですから、高い利子を払わないと、通常はお金を貸してもらえません。この場合、長期金利が上昇すれば、国債の利払いは増大しますから、増税が避けられません。しかし現在、長期金利が上昇しないのは、我が国の銀行が国債を買い支えているからです。しかしこの状況は「金あまり」が資産価格の上昇を支えるという意味で、極めて危険な状況ではないでしょうか。バブルであるかどうかは理論的には必ずしもはっきりしませんが、未来志向のファンダメンタルズ(基礎的諸条件)で利子率や資産価格が決定されるのか、現在志向の理由でバブル的な資産価格が決っているのか、という大ざっぱな分け方をすると、現状はバブルに近いと言えるでしょう。実際、98年12月には長期金利が上昇し、日銀はゼロ金利政策に追い込まれました。積極的な金融政策で現状を打開するという議論は盛んですが、現状の低金利は微妙なバランスの上に乗っており、再度、バブル潰しを焦ることは賢明とは言えない、と筆者は考えています。
 最後にここまであまり明るいとは言えないことを説明してきました。しかし注意しなくてはいけないのは、現在の不況は大多数の人にとって、失業すると餓死してしまう、と言うような、生きるか死ぬかの問題ではないことです。そしてたとえ消費税が大幅増税になって、消費を切り詰めなくてはならないことになったとしても、それは克服不可能な問題でしょうか。日本には希望がない、とか、若年世代は年金が損だ、とか、気が滅入るようなことばかりが強調されすぎています。筆者は日本の構造改革は、痛みをがまんせよ、と強制するのではなく、まず構造の把握から始めるべきだと思っています。そして小さな事の積み重ねが、現状の八方塞がりをもたらしており、それを少しづつときほぐしていくことが大事なのではないか、と考えています。