幕の内弁当のミクロ経済学


ダイアモンド社 経 Kei 2002年2月号

 小学生のときは、遠足のおやつは何円まで、と決められているので、どう組み合わせるか、頭をひねったものだ。ミクロ経済学の基礎は予算の制約のもとで、購入する財の組合せを選んで効用を最大化することだが、おやつの場合はまさにチョコレートやキャラメルの組合せを合理的に選ぶわけである。しかし大人になれば、こんな面倒なことはしない。「とりあえずビール」を頼み、つまみは適当に頼んで、と誰かに注文を押しつける。
 会食では弁当が出されることが多い。幕の内弁当は少しずつ「ご馳走」が入っており、遠足のおやつのように頭を悩ませる必要はない。この「多品種少量」の幕の内弁当スタイルは日本的発想の原点をなすものと、栄久庵憲司氏のロングセラー「幕の内弁当の美学」(朝日文庫)により指摘される通りである。
 しかし幕の内弁当スタイルの製品には副作用も伴う。まず判断が値段による序列一辺倒になってしまうことだ。たとえ値段が違っても「天ぷら定食」と「刺し身定食」にはそもそも序列はない。ミクロ経済学によれば独立した個人による効用関数が数学的に異なる結果、神聖なる選択が行われるわけで、天ぷら定食を選んだばかりに下位ランクと蔑まされることはない。天は「天ぷら定食」の上に「刺し身定食」を作ったわけではないからである。しかし「天ぷら」と「刺し身」が両方入った幕の内弁当には、「好み」ではなく「量」で松竹梅の序列がついてしまう。つまり幕の内弁当は「個」の確立を妨げ、選択の自由を犯し、タテ社会の序列志向を促進するわけである。
 さらに困ったことは日本人の判断が幕の内弁当スタイルであることだ。まず「天ぷら」が好きか、「刺し身」が好きか、選択をせまらない。そして「天ぷら」や「刺し身」を一つづつ吟味して判断するのではなく、全部をひとまとめにして「なんとなく」「総合判断」してしまう。一面では大人の判断だが、これではコロコロとロジックなく変化してしまう。
 ただ幕の内弁当のひと目で見渡せるという長所は捨てがたい。遠足ではバナナがおやつに入るのか、必ず質問が出たように、割り切って物事を決めることは難しいものだ。しかし、である。日本経済という幕の内弁当も中身がいっぱい詰め込みすぎで、もう少し整理しないと、どれを選ぶか決められない。