いま進みつつある構造改革になにが必要なのか


メールマガジン「日本国の研究」 2001年8月22日発行 第69号論説

 いま進みつつある構造改革に何が必要なのか、という問題を考える場合、筆者は
▼ 必要以上の部分の将来不安と疑心暗鬼を除去すること
▼ そのためには、これ以上、政府部門を複雑な組織にせず、責任の所在をはっきりさせる
ということにつきると考えている。これまでの緊急対策のような、その場しのぎの思いつきの連鎖ではなく、今回は官業の後始末に徹し、新事業開始にはじっくりと物事を見極めることが必要だ。需要の下支えには旧事業廃止に時間を貸すことで代用し、新しい発想や需要が自然に湧いてくる環境を整えるべきではないだろうか。
 実際、これまで行われた
(1) 再編と称する銀行や省庁の組織改編は、ドンブリ勘定のドンブリを大きくして、幾多の組織をさらに混乱させてきたし、
(2) マクロ経済政策の大義名分のもとで、「質」より「量」を重視することが、ハコモノを建て不良債権を作りつづけることにつながっている。
(3) もはや忘れ去られているかもしれないが、2000円札や地域振興券は政府部門の自己満足の象徴であり、こんなことで忙しくしていても仕方がない。
 さらに市場原理の貫徹、規制撤廃や地方分権と言うような「お題目」より、分かりやすいセーフティネットを重視すべきだ。企業経営者は首切りを行うために、国による雇用のセーフティネット整備には熱心だが、むしろ社会保障分野を重視することが安心と消費につながる。個人レベルでどのくらい年金を支払ってくれるのか、あるいは病気になれば今まで通り治療は受けられるのか、という基本的なレベルを明確化しないで、新産業にチャレンジしろ、というのでは、不安は解消されないし、そもそも何のための経済成長か、理解に苦しむ。
 以上のような意見はあまりに政府の能力に悲観的と思われるかもしれない。筆者はもともと政府が総合調整の役割を果す必要があると考えているし、マクロ経済には「合成の誤謬」は確かに存在する。さらに「土地本位制」と呼ばれた土地担保融資の存在のもとでは、土地の投げ売りを招かないだけの適度な需要は必要だし、雇用のセーフティネットが破綻しそうな場合、それを支えるだけの資金投入は必要だ。
 しかしこれらの問題は程度の問題であり、絶対視すべきではない。これまで日本政府が旗を振った場合、民間の暴走を招いて、結果は不良債権の山ではないだろうか。セーフティネットや需要下支えに便乗する現物支給・現物動員計画は、さらなる政府部門の肥大化を生み、結局はこれまでの繰り返しに陥ってしまうのではないだろうか。

◆ なぜ日本経済は追い込まれたのか

 もともとマクロ経済の基本は家計の貯蓄決定と企業の投資決定である。家計の貯蓄は資本の供給であり、企業がその供給された資本を需要して、投資していかないと、マクロ経済はスムーズに循環していかない。日本経済は80年代より、投資よりも貯蓄が過剰、つまり資本供給が需要より過大となってきた。この点は、外国に余った貯蓄を供給していることでもあり、これが趨勢的経常黒字の背景であった。
 このような貯蓄過剰は貿易摩擦を生み、それを解消する解決策として、ケインズ経済学的な考え方と政策協調の美名による財政政策と金融政策の二つが総動員された。もともと財政政策が有効な状況は、民間が不必要に萎縮し、消費を減らして貯蓄過剰になっている場合であり、この場合にはたとえ不必要な支出であっても、政府が民間貯蓄を使ったほうがマクロ経済は拡大し、結局は民間のためになる。一方、金融政策とはマネーサプライを増大させ、資本の価格である利子率を引き下げて、企業の投資を促進しようとするものだ。両者をまとめると貯蓄の供給過剰に対応して、需要を増大させる財政政策、価格を低下させる金融政策となる。
 残念ながら、両方の政策は今や限界である。公的債務は600兆円以上にまで増大し、国債暴落ともなれば、金利負担をまかなうだけのためにも大増税は避けられない。一方、金融政策の大きなアップダウンはバブルとバブル崩壊を生み、その後資金需要は増加しない。周知のように、現在では名目金利はゼロ近傍である。インフレを恐れる日銀と名目金利上昇から財政破綻を恐れる財務省との我慢くらべは続くが、通常は名目金利上昇がインフレに先行すると考えられるので、この我慢くらべは日銀が圧倒的に有利である。いずれにせよ、これ以上の金融緩和政策を先行させて、間接的な形で国債を買い支え続けるることは、更なる混乱を生むと筆者は考えている。結局、残された政策は、冒頭に述べたように、不必要な不安を除去し消費を喚起するための構造改革しかない。そしてそれは同時に貯蓄過剰が将来不安に根ざしているのなら、本来、最も適切な政策なのではないだろうか。

◆ マクロ政策の副作用: 職業倫理の荒廃

 さて金融財政政策はその効果自体が限界だが、そればかりでなく、これらの政策は現在、顕在化している副作用を2つ生んだ。まず第一は言うまでもなく銀行危機と不良債権問題である。銀行の利潤は預金金利と貸出金利、あるいは長短金利等の格差に依存するが、貸出金利の低下は投資を刺激するものの銀行の利鞘を圧迫する。その結果、不良債権問題は依然として解決しないばかりか、銀行は構造不況業種とまで言われている。第二は公的な不良債権問題とも言うべき、特殊法人や第3セクターの問題である。政府の財政が厳しいから、民間の力を借りるという一石二鳥の発想は、実際にはモラルハザードの温床となり、「あぶはちとらず」の結果を招いた。
 両者の不良債権問題に共通しているのは、「質」より「量」の発想である。とりあえず貸し出しを増やせばよい、とりあえずハコモノを建てればよい、というマクロ経済政策上の「国策」が、結果的に不良債権を生むばかりか、多くの人々の職業倫理を破壊したのではないだろうか。

◆ 「何もしてほしくない」から「すっきりきれいにしてほしい」へ

 6年前に青島幸男と横山ノックが知事になった理由は、選挙民は「これ以上何もしてほしくない」という気持ちの表れだった。そして現在、小泉首相に期待されているのは「余計なものを捨てて、すっきりしてほしい」ということではないだろうか。
 日本は希有の高度成長を成し遂げた。しかしその姿は、近代的な高層建築ではなく、建て増しを続けた温泉旅館である。そして旧館を取り壊して、最新式の新館を建てる余裕は今はない。この結果、いざ火事が起これば、曲がりくねった廊下で死者が出ることは確かだ。そのためにもまず廊下をまっすぐにして、見通し良くすることから始める必要があるのではないだろうか。