セラピストにむけた情報発信



左無視患者における空間移動軌道の左右逸脱:歩行と車いすの違い
-Turton et al. 2009




2010年10月15日

右脳卒中患者のうち,左空間無視の症状を呈する患者が,空間移動中に身体の左側を接触することは,臨床上でもよく知られた現象です.しかしながら,研究報告としては必ずしも左側を接触する事例のみではなく,むしろ右側を接触する傾向,あるいは歩行軌道が著しく右側に逸脱するケースも報告されています.

今回ご紹介する論文は,空間移動の様式が歩行の場合には右側への逸脱,車いす利用の場合には左側への逸脱と,空間移動の様式に依存したという実験結果を報告した論文です.

Turton et al. Walking and wheelchair navigation in patients with left visual neglect. Neurological rehab 19, 274-290, 2009.

対象は14名の左空間無視者であり,9名が電動車いす利用者,5名が自立歩行者でした.実験は施設内の廊下を利用しておこないました.通路の幅が約1.3mの廊下を使って,11m程度の距離を移動してもらい,その様子をビデオ撮影することで,空間移動軌道の左右逸脱を数値化しました.

その結果,電動車いす利用者は一様に左側への逸脱,歩行者は右側への逸脱傾向が見られました.この実験ではコントロール群として,脳卒中患者で左無視がない患者9名のデータを合わせて測定しています.コントロール群ではこうした移動様式の違いによる左右逸脱の違いは見られませんでした.よってこの結果は,単に歩行と車いすにおける運動性の違いがもたらすわけではなく,無視症状との相互作用で生じているものと考えられます.

著者らは,予想外なほどクリアーに出てしまった空間移動様式の違いによる影響を,実験2でさらに確認することにしました.実験2では,自立歩行と電動車いすの両方を使っている患者2名を対象として,2つの移動様式のそれぞれで空間移動軌道の左右逸脱度を測定しました.その結果,やはり電動車いす利用時は左側への逸脱,歩行時は右側への逸脱傾向が見られました.従って,左無視患者の空間移動軌道の左右逸脱は,空間移動様式に依存するという結論に至ります.

この結果はセラピストの皆様の臨床経験と,どの程度マッチしているでしょうか?

純粋に研究の観点から今回の実験結果をみると,今回のような実験結果は解釈が非常に困難で,研究者泣かせのデータのように感じます.

歩行軌道が右側に逸脱することそれ自体は,左無視患者が線分二等分課題において主観的二等分点が右側に逸脱することを考えれば,必ずしも違和感のあることでもないように思います.しかしながら,こうした無視の影響がなぜ車いす利用時には消失し,“左無視”という事実に呼応するように,空間移動軌道が左側に逸脱するのかについては,明確な説明概念がありません.

このように,事前に明確な理論的根拠(仮説)を持たぬまま現象観察をおこない,期せずしてクリアーな結果が出ると,その解釈は困難を極めます.従って,実験に先立っては,どのような理論的根拠に基づいて実験をおこない,どのような仮説を立てているのかを明確にしたうえで実験をおこなうことが,とても重要となります..

ただし,現時点で明確な説明概念がなくとも,探索的に得られた実験結果に基づいて,その背後にある原因について仮説を立て,次なる実験でその真偽を検証することが可能です.従って,今回報告されたデータの重要性が議論できるのは,このような仮説検証型の報告が今後登場してから,ということになるかもしれません.



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