セラピストにむけた情報発信



本紹介「つながる脳」



2010年3月12日

本日ご紹介する本は,人間の社会性を脳科学的にどのように研究していくべきかについて,ご自身の研究成果も踏まえながら,非常に骨太なメッセージを発信している本です.個人的にはとても意味のある情報を得ることができました.

藤井直敬 「つながる脳」 NTT出版.2009

この本における社会性とは,他者との関係の中で適応的に行動を調整する性質を指します.脳科学にかかわらず最近の認知科学では,他者との関わりの中で必要とされる認知機能を扱うことが,1つのトレンドとなっています.対人場面に役立つ認知的な機能の問題は,学術的な意義だけでなく,一般の方々の関心も非常に高いため,認知科学研究の発展に伴って,そうした話題増えていくというのは,当然の流れであります.

この本での非常に重要なメッセージは,「既存の脳科学的な実験では,リアルな人間の社会性を捉えることなどできない」というものです.

ここで著者が問題視しているのは,「脳科学にかかわらず,科学的実験で必要不可欠とされる“実験環境の厳密な統制”が,予測不可能なレベルで常に変化する社会的な関係を記述するフィールドにはなり得ない」ということです.

厳密に科学的な実験であるためには,人間の行動が厳密に統制され,人間をとりまく環境も厳密なまでに統制され,できるだけ不確かさを排除した状況を作り出すことが求められます.こうした厳密な統制の作り方に,研究者としてのある種のセンスが問われるといっても過言ではありません.

これに対して著者は,「現実の社会がきわめて予測不可能な,不確定要素が高い環境であり,その中で適応的な行動を瞬時に選択する能力にこそ,人間の社会性があるならば,上記のような厳密な実験環境で実験を重ねても,リアルな社会性の理解にはたどり着かない」,といった趣旨の主張を展開しています.

このような主張は,ある意味で認知科学の研究者の多くが,心の奥底では「認知科学的研究に存在する根本的問題」として共通認識している問題です.ただ,科学的研究をおこなおうとすれば,どうしても実験環境の厳密な統制を排除できないため,致し方ないものとして,あえて問題を顕在化していなかったというのが実情と思います.

これに対して著者は,こうした厳密さをいったん壊して,社会性を捉える事の出来る不確定要素の高い環境を作ることが重要であると指摘します.そのうえで,安定して得られそうな行動現象と,その背後にある脳内活動を測定することを目標とし,それを実現するための研究方法と成果を紹介しています.具体的には,①最低でも2頭のサルを実験対象とすること,②サルの行動を制限せず自由に振舞わせること,③行動や環境のすべてを記録しておくこと,④サル間の社会的な関係性はサルに任せること,⑤脳からの計測はできるだけ広い領域から記録すること,などが挙げられています(p.l8).

ここに掲げられた5つの条件のどれをとっても,「もし自分がこの実験の担当者であればと思うと,ぞっとする」と言えるほど,既存の実験セオリーから外れているものです.しかし著者は,こうした実験環境の中で頑健に出てくる社会性の特徴を見事に記述しました.ここで明らかにされた社会性とは「抑制」という特徴なのですが,その詳細はぜひご自身で本を読んで味わってください.

研究に精通していない一般読者を対象にした本ではありますが,脳研究に関する知識が全くない人には,少し専門性が高い印象です.著者の文書表現は,十分すぎるほど丁寧に,一般向けに書かれていますが,なにぶんテーマが認知科学的な研究の根幹にかかわる非常に深いレベルの問題を扱っていますので,読者には一定の知識が求められます.

もし単純に,著者独自の研究から,人間の社会性について何がわかったのかを知りたければ,第2章と第6章だけを重点的に読むというのもよいかもしれません.特に第2章で説明された,2頭のサルを用いた実験結果は,非常に斬新かつ意義深いものであり,この章を読んだだけでも十分な満足感が得られます.

「脳科学的を駆使して恋愛や子育てに成功する」といった内容のテレビや雑誌記事を読むことが多くなりました.もしこのような風潮に違和感を覚える方ならば,この本を読むことですっきりするかもしれません.恋愛な子育てのように,不確定要素が非常に高い問題を,既存の脳科学的知見に基づいて語ろうとすれば,おのずとそこに飛躍的見解を導入せざるを得なくなります.現時点では,このような飛躍的見解で社会に貢献することも,致し方ないように思います.一方で,このような飛躍的見解が起こらないような研究手法の確立に尽力する著者の姿勢には,研究者として多くのことを学びました.


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