吉田朋正(よしだともなお)
[欧米文化論/人文科学研究科文化関係論(英文学)]

最近の仕事

詳細は←「現在の仕事」を参照して下さい。

日本英文学会『英文學研究』に圓月勝博先生による本書の書評が掲載されました。この大部の本を隅々まで読み込み、編者も説明しきれなかった本書の歴史的背景まで解説して下さった見事な書評です。この場を借りて改めて感謝申しあげます。

『英文學研究』
(99巻 2022年12月)
評者:圓月勝博氏
『照応と総合──土岐恒二個人著作集+シンポジウム』

書評誌2誌にて大きく取り上げていただきました。いずれの書評も土岐恒二先生の仕事の魅力を存分に、また未読の読者にも分かり易く伝えて下さっています。どうもありがとうございました。

『図書新聞』
(3482号・2021年02月06日)
評者:越川芳明氏
隠し絵のような光彩を放つ、窮極の一冊――八面六臂の多才な芸

『週刊読書人』
(3361号・2020年10月16日)
評者:小野俊太郎氏
テクストが共演し、共鳴し、更新する――翻訳とアナリーゼと精読、不可分の技法で形成された批評態度


巽孝之先生が『英文學研究』(日本英文学会)に素晴らしい書評をお寄せくださいました。現在J-Stageにてご覧いただけます。どうもありがとうございました。

巽孝之「吉田朋正著『エピソディカルな構造── <小説的> マニエリスムとヒューモアの概念』」
2019 年 96 巻 p. 136-140

DOI https://doi.org/10.20759/elsjp.96.0_136


研究の紹介:
『ナルシスのプロテーゼ』

現在、マーシャル・マクルーハンを大きな思想史的展望の中で読み解く試みを継続中です。

ナルシスのプロテーゼ:『メディア論』再訪 (1)」『思想』 2018年2月号,岩波書店.

書物シャーマニズム:『メディア論』再訪 (2)」 同2020年6月号.

パイドロスの憂鬱:『メディア論』再訪 (3)」準備中


「ナルシスのプロテーゼ」より:

「さて、ここで試みに私たちの実際の手元に目を落としてみるとしよう。私たちが日々手にしている現実に進歩を遂げた電子デバイスは、気をつけて見れば必ずしも一意的に「何かのため」に存在しているわけではない。最新の電子デバイスは、むしろ予想不能な用途(新しいソフトウェア)を日々招き寄せる何ものかとしてそこにあるのであって、こうしたハードウェアを実際に設計し、実現した技術者たち自身も含めて、私たちはかくも高度な進化を遂げた電子技術が、もっぱらとりとめもない日常的さえずり(ツィート)を溢すのに用いられるなどということをまるで想像もしていなかったのだから。(…)ここには芸術の場合とまったく同様の、人間の創造性に関わる根本的なパラドクス、つまり人はみずから作り出すものを常に充分に知っているわけではない、というあの悩ましい矛盾が横たわっている。今まさに設計され、作られつつある機械の〈真の意味〉を知る設計者は存在しない。↗

 

先の松葉杖のような、実現されるべくして実現された合目的的(テレオロジカル)な技術的結晶が誰の目にも明らかな使用価値を表しているとすれば、技術のア・プリオリに知られざる意味──いましがた仮に〈真の意味〉と括弧付きで呼称したもの──は、定義上、交換の〈後〉にしか現象し得ない交換価値の概念に似ると述べても良いだろう。それは未来へと延べられた可能性ないし潜在性であり、常に不定で、実のところ存在するのかどうかも定かではない。 (…) だがこの未知の部分こそは、良かろうが悪かろうが、私たちにとって新しい未来を形成してくれるはずの技術の余剰部分(サープラス)(マクルーハンがメディアと呼ぶ側面)なのである。技術のこの二面性、つまりあらかじめ想定された役割ないし目的を有したオブジェクトという面と、具現化した後にのみ知られる当の技術の可能性ないし潜在性という側面(…)の関係は、ある意味では、これまで幾度となく繰り返されてきた芸術作品や文学作品をめぐる美学上の論争と、ほとんど同型的(アイソモーフィック)な問題を表している…」





主な仕事(雑誌・論文など)

主な仕事(書籍)

[Top Page][略歴][現在の仕事][告知など][シラバスその他
教室で扱った記事・書籍などへのリンク][ノート]