巻頭言

 さあ諸君、勉強を始めよう勉強を。数学に限らず、凡そ勉強なんてものは、何だって辛くて厳しい修行である。 然し、それを乗り越えた時、自分でも驚く程の充実感と、学問そのものへの興味が湧き起こってくる。昔から、楽して得られるものなんて、詰まらないものに決まっている。 怠けを誘う甘い言葉は、諸君に一人前になって貰いたくない、という嫉妬である。思い切り苦労して、一所懸命努力して、素晴らしいものを身につけようではないか。

 夢を見る事、現実を知る事。人生を意義あるものにするには、この二つの釣合を巧く取る必要がある。 夢ばかり見ていては現実に取り残される。現実だけに縋りつけば味気ない。比率は年齢と共に変わっていく。 諸君は、夢九割、現実一割で好いだろう。やがて、それが半分半分になり、最後には現実だけが残るのである。 これは物理的に制限された「生」を持つ我々にとって、決して避けられない宿命である。ならば、夢を見よう。青年に相応しい夢を。
 二十一世紀の我が国は、嘗て無かった未曾有の混乱状態になるだろう。 それは、何事に関しても、頼りになる大人が全く居なくなる、という諸君にとっては誠に情けない状態である。 それぞれ立派な格好で、立派な事を言うかも知れないが、当てには出来ない。我が国の知力は明らかに落ちている。品性を失っている。 それも凄まじい勢いで。こんな事は殊更強調しなくとも、既に気がついている諸君も多いだろう。 政治家、官僚、経営者、聖職者、評論家、辯護士、そして学者と、一般に社会的な地位を持っている、と云われている人達の、 余りにも深みの無い貧相な顔立ちを、優柔不断な態度を見れば、それは自ずと明らかであろう。これは自省を込めて言うのであるが、 皆それ相当の年齢になったので、諸先輩に追いついたとばかりに、御大層に振る舞っては居るが、何か大事なものを欠いている。 人間的な色彩を失って居るのである。
 これは、何も諸君の周りにいる大人達を侮り蔑む事を勧めている訳ではないから、この点を絶対に誤解しないで貰いたいのだが、 教育というものは、本当に難しいもので、手持ちの百が半分も伝わればまだ好い方で、実際にはもっともっと比率は下がるのである。 それで、代を重ねるに従って、どんどん水準が下がっていく。期待するのは、師を超える弟子、所謂、突然変異しかなくなるのである。
 この意味で、本書は諦めに満ちている。そして、同時に突然変異への期待にも満ちているのである。 既に崩れ去ってしまった世代から、何を言う権利も無いかも知れないが、諸君が周りの環境や流言蜚語に惑わされず、 独立独歩の精神で新たなる途を切り開いてくれる事を心から祈っている。その為には考えねばならない。 自分の頭で、他人の干渉を許さない絶対の意思の下で。それには、基礎的な数学の訓練を受けておく必要がある。
 数学の教師がこの種の話を持ち出すと、決まって外野席から野次が飛ぶ。 所謂、「我田引水」、自分達の教えている教科の重要性を説いて、そこから自分自身の価値を高めようという姑息な企てだ、と思われるのだろう。 恐らく、この様に思う人は、自分が正にそういった考え方を持っているから、地金が出て、ついつい言ってしまうのだろうが、これは野次にも批判にもなっていない。
 世の中が如何に変化しようと、青少年が一個の独立した人間として社会に出て行く為には、「読み書き算盤」が最低の必要条件である。 これは、古代シュメール、五千年前の大昔から少しも変わらない、正に時間と場所を超えた人類普遍の真理である。 この意味で、数学と国語の教師は、他の科目の教師と異なる非常に特殊な立場にあると云えよう。責任の重さが違うのである。 それは何も偉く見せようだとか、尊敬させようだとかいった極めて個人的で陰湿な感情からくるものでは決してない。 国の将来、それを担う青年の生涯に関わる大問題だからである。
 然し、それとて言葉や簡単な計算に難儀するようでは、とても真っ当な理解など覚束無いであろう。 「言葉」と「数」、「表現」と「論理」は、幼い時から、半ば強制的に経験させておかないと、或る程度の年齢を過ぎてからでは、理解の為の苦労が百倍千倍する。 従って、これらに関わる教師は、途轍もない責任を負わされているのである。 格好をつけたり、偉そうに見せよう、などという邪心を持っている暇など全く無いのである。 国家の精神的な破壊は、これらの科目に関わる教師の敗北だ、と言っても決して過言ではないのだから。
 ところが、どうだろうか、いや今述べた通りだ、と言うべきであろうか、昨今の我が国の状況は、 正規の学習課程を経て来たとは、とても思えない様な青少年が街を闊歩している。 言葉は破壊され、漢字は読めず、計算は出来ず、論理は通らず、理屈を嫌い屁理屈を言い、 個性を要求しながら流行に流され、長幼の序の感覚が無く、そのくせ自分が軽く扱われると烈火の如く怒りだし、 他人には差別的な態度を取りながら自分は天使の様に清らかだと勘違いし、将来の展望も希望も無い、 これが街行く青年の多数派でない、と誰が言えるだろう。
 この期に及んで、文部省は「理解出来ない学生が多いから」という信じられない理由を掲げて、数学の内容の見直しを主張し出した。 中身を減らすのだそうであるが、同時に時間数も減らしていくらしい。これでは何にもならないではないか。
 一つの単元に今まで以上に時間を掛けて、より丁寧な指導を試みるというのならまだしも、単元当りの時間数を増やさないのであれば、 全く意味が無い。「これまでの」数学教育には、確かに重大な問題があった。然し、「これからの」数学教育の抱える問題に比べれば無いに等しい、 と云えるだろう。「中身を減らして、尚且つ授業時間数を減らす」ことを繰り返せば、それはやがて「消滅」に行き着く以外に道は無い。
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 著者は、現在の日本型教育の最大の問題点は「教え過ぎ」の一言に集約されると考えている。 十分な理解を得る暇も無く、次から次へと大量の法則、公式、事例などを、これでもかと流し込んで行く。その結果は、大きく二通りに分かれる。
 流し込み、詰め込みに成功した者達は、大学受験までは好い結果を残し、恰も人生の成功者の如く振る舞えるが、 反面、幅の広い考え方を学ぶ機会を逸する場合が多く、伸び悩む者も多い。 一方、失敗した場合には、大きな挫折感と共にに「知的下痢状態」とでも云うべき虚脱感に襲われ、その後一切の知的活動を受け付けなくなる者も居る。 どちらにしても日本の将来にとって望ましい状態ではない。特に、問題なのはその低年齢化である。 学ぶ内容に依って、それを学ぶに「適切な年齢」というものがある。 これらを全く無視し、興味の持てない事柄を、暗記力を頼りに形式的に学習させていくと、真に美しい事、不思議な事、 を感じ取れる適切な年齢になる前に感受性が麻痺してしまう。これでは学問が、無感動な若者を大量に世に送り出すだけの遺物になってしまう。
 教育に携わる者にとって、最も重要な行為は「人の心に火を点ける」ことである。一旦、魂に「点火」すれば、後は止めても止まらない。 自発的にその面白さの虜になって、途を極めていくだろう。それでは、どうすれば点火するのか、点火装置は何処に在るのか。 それは「驚き」の中に在る。
 「驚き」を教える事は、何人にも出来ない。人が驚ける能力、これこそ天からの贈物である。この意味に於いて、子供は天才である。 驚きを失った大人に点火する方法は無い、火種は尽きているのである。
 ところが、昨今、この掛け替えの無い「驚く能力」を磨滅させる行為が白昼堂々と行われている。 徒に知識の量を増やし、何事にも「驚かない子供」を教育の名の下に大量生産している。これは明らかに犯罪行為である。
 知らない者は幸いである。まだ知る機会が、驚く愉しみが残されている。一度、知ってしまったものは、消し去れない。 知ったかぶりの子供は、初生の赤子には戻れない。教育の役割は、人が初めてそれを知る時、最大限の驚きが得られるように充分な配慮をする事であって、 自動車レースのピット作業の如く、 一刻を争って燃料補給をする事ではない、好奇心に溢れた「百歳の少年」を生み出す事であって、訳知り顔の「十歳の老人」を生み出す事ではない。
 いくら知識を増やした所で、百科事典を何十冊も内蔵し、原価僅か数十円のCD-ROMに勝てる筈がない。 今や「生き字引」とは、自らはその中に唯の一行をも書き加えるものを持たない人間の蔑称であろう。
 携帯電話よりは糸電話が、TVゲームよりは折り紙が、インターネットよりは紙芝居が、英語よりは敬語が、優先されるべき年齢がある。 学ぶに相応しい年齢がある。その年齢を見誤らない事が、教育の鍵である。
 キーボードに齧りついている子供よりも、野山を駆け、紙飛行機に興じ、振子に驚く子供に未来を感じる。 赤子の様に驚く能力は、自分自身で考える事、ひたすら考え続ける事、それのみに因って維持されるのである。知識に溺れる者は、考える事を放棄する者である。 人類が驚きを失った時、すべての精神活動が終わりを告げ、珍種の動物として記録されるに留まる存在になるだろう。
 実際、我々はそんなに多くの知識を蓄える必要があるのだろうか。そこで、著者は、一つの事をじっくり学んでいると、 "知らず識らずの中に" 色々な知識が増えたり、それまで全く興味の湧かなかった分野に親近感を持てたりする様な、科目の枠を超えた著作は無いものか、 と考えた。中学生から読めて、かといって、決して誤魔化したり、易きに逃げたりせず、人間の知の全体を一望しうる著作は無いものか。 これから、学問を学び、スポーツを愛し、人生を楽しむ為に必要となる様々な事柄を、綺麗事で終わらせずに真剣に語り、 読者と一緒になって考え、読後に何かしら自分の目標と呼べるものが見つかったり、或いは「志」と呼ぶに相応しい熱い感情が全身に漲ってくる、 そんな著作は無いものか。
 この様な大それた事を考えながら、本書の執筆は始められた。勿論、ここで掲げた目標が、十分に達成された等とは毛ほども思っていない。 唯、教育界、出版会に、この種の問題を提起したいのである。、、、


以上。 <以下は省略、気が向いたときに追記します。>


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