セラピストにむけた情報発信



本紹介:奇跡の脳



2009年10月28日

今回ご紹介する本は,左脳の脳卒中に侵された脳科学者が,発症直後から現在に至るまでに起こった出来事や認知的過程について,言葉巧みにまとめたものです.

ジル・ボルト・テイラー 「奇跡の脳」 新潮社.2009

本は18の章で構成されています.大別すると,脳卒中になる前の著者の生活,脳卒中発症直後に起こった瞬間の出来事,病院に搬送されてから開頭手術に至るまでの生活,そして,手術後の回復と一連の経験から学んだこと,という内容の構成です.

本を読む前の私の期待は,脳卒中発症直後の出来事と,一連の経験から学んだことの内容にありました.脳について高度な専門的知識を持つ著者が,脳卒中発症を自覚した瞬間の様子(特に身体に関する気づき,意識)をどのような言葉で表現するのであろうか,また,専門家と患者の両面の知識を持つ者としてどんなメッセージを発するのか,ということに興味がありました.

しかし実際に読んで最もインパクトがあったのは,病院に搬送されてから開頭手術に至るまでの生活の章(7~9章)でした.著者は左脳損傷により,言葉の理解に甚大な影響がでました.また眼から入る光の情報や耳から入る音の情報が非常に強烈であり,通常のスピードで話す人の話の内容が理解できず,また些細な体験で疲労困憊な状況に至りました.そんな中,病院では様々な検査が待ち構え,時に著者をひどく疲れた状況に至らしめます.

これらの体験で著者が繰返し主張するのは,医療従事者が患者の状況に合わせ,気持ちを理解しようとした態度で接するとき,その医療従事者との間に信頼関係が生まれ,それが回復への意欲をもたらす,ということです.7章の冒頭では,発症後に病院に搬送された翌朝,ある医学生が患者の病歴も理解せずに紋切り型の検査をおこなったことのエピソードを紹介したうえで,次のように記しています.

「その朝に学んだ最も大きな教訓は,リハビリテーションの療法士の仕事がうまくいくかどうかは,わたしの一存で決まるということでした.リハビリを受けるか受けないかは,私が決めればよいのです.私が受け入れたのは,気持ちを理解してくれ,エネルギーを与えてくれる人々でした.彼らは優しく適切にからだに触ってくれ,目を合わせて静かに話してくれました.積極的な治療には,積極的に反応します.気持ちが通じない専門家たちは,エネルギーを吸い取るだけ,だからわたしは,そういった連中の要求を無視して自分自身を守ることにしました.」(p.90)

最近私も,単に認知科学的な視点から効果的なリハビリを考えるだけではなく,リハビリを実践する人の痛みや苦しみに共感し,積極的な姿勢を引き出すことの重要性を,コーチングの概念を通して伝える努力をしているところです.この本を読みながら,そういった両面の知識の習得が重要であることを改めて感じました.

このほか,もともと内容を期待していた章からも,非常に多くのことを学びました.特に印象深かったのは,左脳を損傷することで初めて体験できたポジティブな感情体験―日常の忙しさや人間関係により生じるストレスなど,負の側面からの解放-,そして,手術やリハビリによって,脳卒中発症後の自分を取り戻すことの意味です.こういった記述は,まさに患者さんにしかわからない独特の体験であり,大変印象深く感じました.

このことに関連する様々な章の記述は,単に患者さんの気持ちを理解するという意味だけでなく,特に日頃のスケジュールをこなすことで精いっぱいの生活をしている人にも,ハッとさせる何かを喚起しており,大変読み応えがありました.

同様の本としては,山田規畝子氏の「壊れた脳 生存する知」(講談社)が有名かと思いますが,今回ご紹介する本も,医療従事者に対する非常に重みのあるメッセージが含まれており,セラピストの皆様に自信を持ってお薦めできる本です.


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