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2020年3月フランス滞在記

藤原真実

藤原真実(仏文教授)


2019年度グローバル・コミュニケーション・キャンプの報告(2020年3月2日〜17日)



 Covid-19に追いかけられ、追い立てられ、走り抜けた2週間だった。幸運にも、参加者のなかには一人の病人もなく、スリや詐欺に遭う人もなく、3月17日に無事羽田まで帰り着いたが、ふりかえるとその日すでにフランスでは外出が禁じられ、公園でさえ立ち入れなくなっていた。前日、私たちは出発前の時間を利用して町のスーパーで買い物をしていた。店の内外には異様な緊張感があったが、通行規制などは敷かれていなかった。それなのに、私たちが飛行機で移動しているあいだにフランスの状況は一変し、今では誰も見たことのないフランスになっている。そんなことになるとわかっていたら、私たちは出発しなかっただろう。日本経済新聞の発表によれば、私たちがフランスに入国した3月2日の日本の感染者数は274人で死者は6人(クルーズ船を除く)、それに対してフランスでは感染者数100人で死者は2名だった。ところが私たちが帰国した17日には、フランスではすでに感染者が6634人、死者が148人(日本は感染者874人死者29人)に跳ね上がっていた。3月はじめに、隣国イタリアで急激な感染拡大が始まってはいたが、日本よりフランスの方がまだ安全だろうという甘い考えで、むしろ自分たち旅行者が警戒され冷たい目で見られることの方を心配していた。ところがフランスに着くと、そこにはいつものように暖かく私たちを迎えてくれる知人や家族がいた。レストランで入店を断られることもなかった。日本へ帰ってきた今では、そんなふうに親切に遇してくれたあの人々のことが心配でたまらない。



 今回の研修旅行には大きく分けて二つの目的があった。一つは、本企画の名称にうたわれているとおり、国境の垣根を越えて異国の人々とコミュニケーションをすることであり、もう一つは、世界遺産をはじめとするフランスの文化施設を見学して、フランス文化についての知識を深めることである。後者については、同行した大須賀沙織准教授が専門知識を活かして精力的に学生を引率し、またとない学びの機会を提供された。また前者については、パリのイナルコ大学、レンヌ第2大学とポール・ラピ高校において授業を見学し、参加学生がフランス語による口頭発表を行い、現地の学生と交流する予定であった。特殊な状況であることを考慮し、各大学・高校の授業担当者には事前にメールを送り、感染の懸念等で少しでも先方の学生に不安を与える場合には、訪問を短縮または中止するつもりであるとお伝えしていた。

イナルコ大学のソシエ教授とコヌマ教授からは問題ないとの回答をいただいていたので、到着翌日の3月3日に、予定通りイナルコ大学を訪問した。まずソシエ先生の日本語上級クラスで文学作品の文法分析と翻訳の演習を見学、次にイザベル・コヌマ先生の講義「現代日本」に参加した。コヌマ先生によれば、その授業では普段は優生思想を講じているが、その日は公開講演形式で「日本のハンセン病療養者たちの闘い」について話されるということだった。ハンセン病問題は私自身も個人的に40年来関わってきた問題であるので、何か運命的なものを感じずにはいられなかった。講演は、(1)優生学とハンセン病、(2)日本の療養所内の生活、(3)ハンセン病療養者の闘争とその人間性について行われた。ハンセン病と優生思想というきわめてデリケートで難しい問題に切り込んだ大変充実した講演だった。

 一日目の活動は予定通り行われたものの、その日にレンヌ第2大学から連絡があり、3月11日の訪問中止を要請された。学生たちは数か月前から口頭発表を準備してきただけに、悔しい思いもあったが、それならばと、13日に訪問を予定していたポール・ラピ高校のベルクマン先生に、できればレンヌで予定していた口頭発表もそこでさせていただきたいとお願いした。3月11日にはベルクマン先生が高校訪問の最終的なプログラムを送ってくださったが、それによれば、午前中のベルクマン先生の授業の次にある数学の授業時間を譲っていただき、文学の授業を2時間に延長したので、GCC参加者全員の口頭発表を思う存分させていただけるということだった。午後には哲学、英語、ギリシア・ラテン文明論の授業を自由に見学する許可も取り付けていただき、さらにお昼は校長先生が私たち全員を学食でもてなしてくださるという、一大イベントを計画しているということだった。



ところが、12日の午後になって、突然高校訪問中止の連絡が入った。その日、フランスの感染者数はすでに2281人、死者は48人になっていたから、今考えれば当然であるが、学生にとっても私にとっても落胆は大きかった。しかしそれでも諦めずに、今度は私の友人アダン夫妻の協力を得て、発表会をすることになった。このことは、当初からそういう状況を想定して友人に頼んでいたことだった。そのときパリ滞在中だった西山先生も来てくださることになったが、ベルクマン先生にも同席していただくことをアダン夫妻が提案したので、発表会は西山先生の帰国後の15日16時、すなわち私たちの出発前日に行うことが決まった。学生たちは度重なる中止にもめげずに、宿泊先で毎晩のように発表の練習をしていたという。そうする間にも、フランスの感染状況は急激に悪化していった。12日の20時、テレビから突然ラ・マルセイエーズが聞こえてきたと思うと、マクロン大統領が長い演説を始めた。Covid-19との闘いにおける国民の連帯を呼びかけ、翌週月曜日からすべての学校を休校にすると発表したのである。さらにその2日後の夜には、エドゥアール・フィリップ首相が、その4時間後の午前0時から、レストラン、カフェ、映画館、ディスコなど、大勢の人が集まる場所を当面の間閉じると発表した。そのような事態になり、アダン家での発表会も断念せざるを得なかったが、その近くにあるベルシー公園で発表会を行うことにした。

 公園にはベルクマン先生も駆けつけてくださり、私たち全員に消毒用のアルコールを1本ずつ買ってきてくださった。その優しいご配慮を思い起こすと、今でも熱いものがこみ上げてくる。その日は今回の滞在中で初めての好天で、暖かかったのは幸運だった。口頭発表(すべてフランス語による)はたっぷり2時間かけてつつがなく行われた。以下はそのプログラムを日本語にしたものである。 
1.自己紹介(6名全員) 
2.東京とその周辺の紹介──「首都大学東京」南栄次郎 「吉祥寺」鈴木杏菜 「新宿」鈴木美南 「浅草」平山千恵 「横浜」石関萌々香 「相模原」田中颯太 
3.有志によるエクスポゼ
・鈴木杏菜「芥川龍之介の『河童』」
・石関萌々香「俳句」
・田中颯太「日本のアニメ」
・平山千恵・鈴木美南「茶道」

  無理をせず、帰国後に大学でビデオ収録をするという案もあったが、当日公園で決行してよかったと今では思っている。長い時間をかけて学生一人ひとりが準備した発表には、私の想像を超えて充実したものばかりで、その時その場所でこそ出せる力がみなぎっていた。視聴者はベルクマン先生と私だけだったが、フランスという国で、フランスのことばで、それぞれの考えを言い表し、伝えることができた。したがって、本キャンプの第1の目的も十分達成されたと言えるだろう。鳥のさえずりはうるさいほどであったが、録画をみると、皆のフランス語は負けずによく響いている。画面の背景に行き交う人々の姿やそのざわめきは、しかしながら、その2日後にフランスから消えることになっていた。



 緊迫化する状況のなかで私たち一行をこころよく迎え、支援してくださったフランスの方々にはどんなに感謝しても足りない。3月13日の夜には、ロベール・シャール学会会長アルティガス=ムナン名誉教授ご夫妻がご自宅に私たち全員を招待してくださり、お心尽くしのおもてなしをしてくださった。13日午前には14日のロベール・シャール学会の中止が発表されていた。その前にも後にも私からは繰り返し夕食会の辞退を提案させていただいたが、絶対に計画を変更しないと断言されたのであった。私たちは少し前にアパルトマンの前に集合して、感染予防の注意について話し合い、全員が手をアルコール消毒した上で訪問させていただいた。今思えば無謀であったが、何度も計画の中止にあっていた私たちにとっては、何よりありがたく心にしみるひとときであった。あんなに優しくしてくださったムナン先生ご夫妻、ベルクマン先生、アダン夫妻が、いつ終わるとも知れない軟禁状態のなかにおられることを思うと、胸が痛む。帰国後2週間が過ぎようとしているが、幸いどなたも健康状態は良好との連絡をいただいている。

 疫病の世界的蔓延は、グローバル化の一つの帰結である。環境危機も深刻化している今、海外への渡航がどれほどのリスクを孕んでいるのか、環境にどれほどの負荷を与えているのかを再認識する必要がある。「グローバル・コミュニケーション・キャンプ」という名称は、いわば逆説的にそうした深刻な問題を私たちに突きつけてくる。「貴重な」というだけでは物足りないほど得がたい機会を与えられたのである。そのことを忘れずに、今後の教育と研究を続けたいと思うし、参加学生には、そのなかで得たものを真摯に見つめながら、学生生活を豊かに展開してほしいと思う。



 最後に、この機会を提供してくださった国際センターの皆さま、手続きを担当された朴さん、文系学務課の村岡さん、文系管理課の宮永さんに心から御礼申し上げます。また、学生のフランス語をみてくださった留学生のケンザさん、レナさん、一年以上前から一緒にこの旅を企画し同行してくださった大須賀先生、毎年のように同様の企画をしてお手本を示してくださり、たくさんの助言をくださった西山先生、訪問プログラムを企画してくださったレンヌ第2大学の高橋先生、宮崎先生、山田先生、そして私たちの留守中に仏文教室を守ってくださったグロワザール先生とスタッフの皆さまに心から感謝申し上げます。

大須賀沙織

大須賀沙織(仏文准教授)


 実施が危ぶまれる中での出発だった。こんなときに行って大丈夫なのだろうか、それでなくてもパリは、日本人観光客が訪れて何かしらトラブルがないはずがない。ウィルスの影響で差別も受けるだろう、いやな目にもあうだろう、滞在中学生たちを守ることができるだろうか、不安はつきなかった。

 3月2日、出発当日の朝、人が少なくひっそりとした羽田空港で、藤原先生と学生たちがすでに到着して待っていた。学生たちの中に体調のすぐれない人もいるかもしれないと心配していたが、学生たちの元気な顔を見てほっとする。保安検査もスムーズに進み、予定どおり出発することができた。飛行機の最後座席に鈴木美南さん、平山さんと並んで座り、発表原稿の音読練習をしたりする。若いみんなは機内食を完食し、寝ることができていたので安心する。

 夕方、シャルル・ド・ゴール空港に到着し、タクシー2台に分乗、アフリカ系の運転手にアジア人の私たちへの反応をうかがいつつ乗り込む。いやがらずに乗せてくれ、学生たちのアパルトマンへと向かう。荷物を置いた後、みんなをカルティエ・ラタンのスーパーマーケットMonoprixに案内、水やパンを買う。夕闇の中、私はスーツケースを引いて近くのホテルに向かう。通りに立っていたカフェのおじさんが « Bienvenue ! »と声をかけてくれる。一瞬何のことかわからず、ただ反射的に « Merci ! »と答えて通り過ぎたが、観光客の激減しているパリにやってきた外国人に対する言葉だったことに気付き、胸が温かくなってホテルに入る。




 翌朝からイナルコでの授業見学、大学と高校での学生たちの発表、世界遺産をめぐる旅と、ハードなスケジュールが待っており、どこまで実施できるのかはその場その場で判断するしかないと考えていた。大学と高校への訪問が次々と直前に中止になったことには胸が痛んだが、その一方、予想外のことであったが、ストライキやデモがなく、鉄道や地下鉄は動いていた。できる範囲でできることをしようと自分にも学生たちにも言い聞かせていたため、世界遺産をめぐる旅はその日ごとに状況を見てできるかぎり実施したいと思う。結果的に、私たちは疫病や大雨といった困難の隙間を縫うように動いていたのだが、学生たちとナンシー、メス、シャルトル、モン・サンミシェルなどを見てまわったことが今では夢のように感じられる。


メスのサン・テティエンヌ大聖堂

シャルトルのノートルダム大聖堂

 パリでも、TGVの中でも、旅先でも、観光客のいない静かで厳粛なフランスを見ることになった。アジア人でいやがられるかもしれないと常に思っていただけに、行く先々で差別なく普通に接してもらえるだけでもうれしかった。こうした特殊な状況の中、学生たちが毎日元気に、出会うものひとつひとつに感動し、多くのものを吸収しながら、笑顔で前向きに過ごしてくれたことが何よりの救いだった。ハードな毎日で、ことに全体のコーディネートをされていた藤原先生の心労とご負担はあまりに大きかったが、全員無事で元気に帰国でき、心から安堵している。

 最後に、グローバル・コミュニケーション・キャンプをご支援いただいた大学と国際課のみなさまに心より御礼申し上げます。国際課の朴さんと文系管理課の宮永さん、小関さん、渡辺さんにはとくにお世話になりました。参加した学生6名のご家族のみなさまも、不安な情勢の中、子どもたちを送り出してくださりありがとうございました。そして、困難な旅をともに乗り切った学生のみなさんと藤原先生、本当にありがとうございました。

鈴木美南

鈴木美南(フランス語圏文化論3年)


〇旅の目標について
 私にとってこの旅は二度目のフランス訪問であった。昨年の9月に語学研修で訪れた時はリヨンに1カ月滞在したが、今回はパリに2週間の滞在だ。今回の旅の目標として、フランス人と会話をすることと、美術館をできるだけ多く訪問することを挙げていた。理由は、前回の語学研修で語学学校の先生はもちろんフランス人だったが、クラスメイトは外国からの留学生であったということもあり、買い物をする時くらいしかフランス人と会話することがなかったからだ。また、美術館訪問については、普段から美術館に行くのが好きだということと、フランスの美術館をもっと知りたいという思いから旅の目的の一つにした。

〇新型コロナウイルス感染拡大
非常に残念なことに、新型コロナウイルスの感染拡大の影響により大学訪問、高校訪問が減ってしまい現地の学生との交流はほぼ出来なかった。美術館も、優先順位の高い場所には行くことができたが、ちょうど滞在している最中に美術館が封鎖されてしまったため、計画していたすべての美術館訪問は不可能となってしまった。到着した当時は、中国や韓国などの事態がより深刻だったためアジア人観光客が少なく、観光がしやすいといった印象で、むしろ日本人という理由で強い差別の対象になってしまうのではと怯えていた。しかし、段々とヨーロッパもそうは言っていられない程深刻化していった。駅やメトロの放送、街中のポスターで感染に関する注意が流れ、普段マスクをしないフランス人も予防のためにマスクやゴム手袋をしていた。帰国2日前にはスーパーマーケットと薬局以外の店が閉鎖されてしまった。このように、今回のGCCは、世界的に異常な状態の中、あらゆる場面で新型コロナウイルスの影響に振り回されることになってしまったのだ。だが、そうは言っても、フランスの魅力が下がったなどということはない。建築物は変わらず美しく、温かい人々にも出会えた。充実した部分の方が多かったので、詳しい内容を述べていこうと思う。

〇イナルコ大学訪問
 到着して次の日に、イナルコ大学(フランス国立東洋言語文化学院)を訪問した。イナルコ大学はパリ13区にある国立の大学で、西ヨーロッパ起源以外の言語と文明についての学問を専門としている。日本語を学ぶ学生が多く、毎年本大学にも留学生が来ている交流のある大学だ。今回の訪問では二つの授業を見学した。

まず1コマ目に、30人くらいのクラスで小説を読みながら文法を理解する日本語の授業を見学。扱っていた小説は青山七恵の『かけら』という短編小説だった。原文のプリントを使って一文ずつ文の構造を確認した後、フランス語に翻訳するという授業内容だ。一番初めに驚いたのは、学生たちの日本語のレベルだった。話しているところは聞くことができなかったが、フランス人の学生が黒板に日本語を書き出したときは、非常に感動してしまった。扱っていた文章も簡単なものではなく、難しい漢字まで書けていることに驚いた。文の構成が違うからか、日本語の文を分解して書くとき述語から書き始めている所も興味深い。日本語を客観的に見る事が出来たような気がして、改めて日本語が特殊なものなんだなと思った。また、発言量が多いことにも驚いた。質問が絶えないのだ。小さなことでも疑問を解決して学んでいく姿勢は見習わなければいけないと思った。

2コマ目の授業は大教室での講義形式の授業だった。日本のハンセン病流行時における優生学(人類の遺伝的素質を改善することを目的とし、悪質の遺伝形質を淘汰し、優良なものを保存することを研究する学問)の思想についてという内容だ。当然授業はフランス語で行われていて、悔しいがあまり聞き取ることができず、スライドの中に出てくる日本語の文章や写真を頼りに大体のことを理解していた。やはり本場のフランス語での授業は難しい。学生は皆、真剣に聞いていてメモを取ったりパソコンに入力したりしていた。自分が見てきた大教室での講義とは光景が違って恥ずかしくなった。

〇二つの旅行
 今回私はパリ以外に二回旅行をした。一つは大須賀先生を合わせ4人で行ったフランス北東部ナンシー、メス、ストラスブールへの旅行、もう一つは全員で行ったレンヌとモンサンミッシェルへの旅行だ。
 アルザスロレーヌ地方への旅行は初めてで、地方ならではの特徴が見たくて希望をした。実際行ってみてパリとは雰囲気が違って興味深かった。ナンシーは、ナンシー派というアール・ヌーヴォーの流派の発祥地であり、美術館にはナンシーで美術を学んだ画家やナンシーで活躍したガラス工芸作家の作品が多く展示されていた。街中の装飾にもこだわりがある、美しい場所だった。



 レンヌとモンサンミッシェルへの旅も素晴らしかった。発表、見学予定であったレンヌ第二大学には行くことができなかったのは残念だが、風の吹く公園でミーティングをしたことや留学中の島さんと渡邊さんに会えたことは良い思い出になった。レンヌの街はさすが学生の街、という印象で若い人が多かった。パリよりもはるかに落ち着いていて、建物もブルターニュ地方の独特さが垣間見えた。そして、日本のフランスツアーに必ず組み込まれている場所の一つ、モンサンミッシェルに行くことができた。幸いこの時も普段より観光客が少なかったようで、神秘的な島でゆっくりと過ごすことができた。



 この二つの旅では、パリでは味わえない体験ができてとても良かった。パリは首都とだけあって人も多く何でもある街だが、地方に行ってみるとどこか安心する雰囲気がある。食べ物はその地域の伝統料理が受け継がれているし、必ずどの街にもMusée des beaux artという美術館がある。その都市で活躍した作家の作品など、そこでしか展示できない作品がとても輝いていて魅力的だった。さすが芸術の国。地方に行っても、一つ一つの都市が特有の雰囲気を醸し出しているから、ちゃんと主張しているから、安心感を与えているのではないだろうか、と思う。

〇パリでの美術館巡り
 パリでは目標にもしていた美術館巡りを実行した。実際に行った美術館は、ロダン美術館、ポンピドゥーセンター、ギュスターヴ・モロー美術館、ルーヴル美術館、マルモッタン・モネ美術館、その他アンヴァリッドの軍事博物館や香水博物館にも訪れた。私は絵画の中で印象派が好きで、日本でも企画展には小さい頃から行っている。前回訪問の際も、他に回るべき観光地が沢山ある中で印象派の作品を優先して見に行った。しかし、今回は二回目で時間に余裕もあるということで現代美術や普段あまり見ない彫刻などの美術館に行ってみようと思い、色々と計画をして行った。パリは世界的にも美術館の多い都市として有名だが、本当に、いざ行こうと思うととても二週間で回りきれるほどではないことがわかった。


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見学に行った中で特に印象に残ったのは、ポンピドゥーセンター、ギュスターヴ・モロー美術館、マルモッタン・モネ美術館。ポンピドゥーセンターは、パリの歴史的な建物の中に急に現代的な建造物が現れるところが面白いし、最上階の展示室ではパリの美しい景色とともに現代アート作家の少し不気味にも感じる作品が視界に入り、不思議な感覚になる。ギュスターヴ・モロー美術館で1番驚いたのは、とても小さい美術館なのに絵の解説文が書かれたボードに日本語の用意があったことだ。オランジュリー美術館もそうであったが、フランス語と英語と日本語という組み合わせだ。日本人は一般的にフランスの美術館が好きなのだろうか。また、展示の仕方も珍しく壁一面に絵が飾られていて作品名と解説文は隣にない。前にも海外で同じような展示方法をしている美術館に行ったが、同じ画家の作品が一面にあるとまるでその画家の世界観に入り込んだようで面白い。マルモッタン・モネ美術館にはモネの作品が多く展示されており、私にとって幸せな空間だった。印象派の語源にもなった『印象 日の出』は、日本の企画展で1度見たことがあったが人混みであまりよく見えなかった。今回じっくり見ることができて嬉しかった。モネの絵画がここまであるのにこんなに贅沢に見ることができるなんて日本では有り得ない。国によって好みは分かれるのだろうか。

〇教会
 今回のGCCでは、予想以上に教会に感動したと思う。パリでは、近所にあったサン・シュルピス教会やサクレクール寺院に、メスではサン・テティエンヌ大聖堂、ストラスブール大聖堂など。サン・シュルピス教会にはドラクロワが描いた壁画、天井画があり、地元の画家のものか、絵画が通路に何枚か飾られていた。サクレクール寺院は比較的新しいので、描かれている絵が鮮明である。メスの大聖堂は、シャガールのステンドグラスも美しかったし、フランス一を誇る高さには圧倒された。ストラスブールは外観の偉大さが忘れられない。このように、それぞれの教会にそれぞれ違った特徴があったので本当に感動した。なかでもステンドグラスは時代を感じることもできるし、知っていれば聖書の物語を読むことができるし、ただただ移り変わる光の加減に合わせて美しさを静かに堪能できる。素晴らしい芸術だと思った。

〇フランス人とのコミュニケーション
 今回の目標の一つであった、フランス人とのコミュニケーションは、出来なかったわけではない。当然ながらどこかお店に入ったらものは買わなくてもBonjourと言い合い、出る時はMerci, Au revoir!と言う。これだけでも立派なコミュニケーションだが、それは前回のフランス滞在と同じだ。

 滞在中のある日曜日、昨年まで本学に留学で来ていたエムリックさんと、今回一緒に行っていた平山さんと食事に出かけた。エムリックさんには、授業の課題を添削していただいたり、日本でも一緒に食事に行ったりとお世話になったので会うことができて良かった。久しぶりに会うのが嬉しかったと同時に、パリで待ち合わせして会っていることが不思議だった。食事をしたレストランで、フランス人のご夫婦が座り、話しかけてくださった。ご主人が日本に来たことがあるようでいろいろなことを話してくださった。最初に、行ったことがあるのに場所が思い出せず、『スキーが有名で、大きな滝があって神社があるところだよ』と言われても私たちも分からなかった。日光だとわかった時には納得だったが、私達からすると、日光と言えば温泉が浮かぶのでなかなかわからなかったのだ。印象や認識の違いを感じた。他のお話もしてくださったが、奥さんも加わりエムリックさんと話し始めると、私たちは会話についていけなくなってしまった。速さにはもちろん、単語もわからないので理解が難しくそんな自分が悔しかった。それでも親切にゆっくり話してくださる時もあり、わずかな時間ながら交流ができて嬉しかった。

 別の日には、藤原先生のお知り合いでソルボンヌ大学の名誉教授をされている方のお宅にお邪魔して食事をさせていただいた。コロナウイルスの件で、他の招待客が来られなくなってしまい私達だけと聞いた時は固まってしまうほど緊張した。アペリティフから始まりデザートまで素晴らしいディナーを体験させていただき幸せだった。日本人の私達を快く迎え入れてくださり、好きなことなどについて会話をさせていただいた。質問されてなかなか答えるのが難しいこともあったが、親切によく聞いてくださった。まだまだ話す力がない、と実感したと同時に、今まで苦手だから話したくないと思っていたのが、ある程度聞き取れたり聞き取ってもらえたりすると自信になり会話は楽しいかもしれないと感じることができた。

〇発表について



当初の計画ではレンヌ第2大学とポールラピ高校で私達はフランス語で発表する予定だった。私は2人で茶道について実演しながら発表し、学生にも体験してもらおうと思っていた。しかし、非常に恨めしいことにコロナウイルスの影響でそれらが不可能になってしまったのだ。結局、藤原先生とポールラピ高校のベルクマン先生のご対応のおかげで、滞在中も準備、練習していた発表は公園にて実現することができた。練習していたとはいえ、緊張してしまって頻繁に原稿を見ながらになってしまった。もっと多くの人の前で話す予定だったのだから、想像すると固まってしまいそうで準備不足だったと反省している。ベルクマン先生は快く発表を聴くことを受け入れてくださった。今現在出ている外出禁止令が発令される前日という状況で、最初から最後まで真剣に私たちの発表を聞いてくださったベルクマン先生には感謝してもしきれない。

 今回の旅では、困難なことはたくさんあったにも関わらず、充実した良い旅だった。目標は完全に果たせたとは言えないが、この滞在を活かしてこれからの学びや論文に役立てていきたい。毎日のように引率や情報提供、旅の手配等さまざまなことをして下さった藤原先生、大須賀先生に一番に多大な感謝をお伝えしたい。また、私達の訪問を受け入れてくださったフランスの先生方、渡航の補助をして下さった東京都立大学に感謝申し上げたいと思う。

平山千恵

平山千恵(フランス語圏文化論3年)


はじめに
グローバルコミュニケーションキャンプにて3/2から16日間、主にパリに滞在した。私にとって海外で生活するのは二回目のことであり、フランスへはこれが初めてであったので不安と楽しみが入り混じる状態で出発日を迎えた。出発前は自分がフランスへ行くことに実感が持てずこれから始まる二週間もどのようになるか曖昧なイメージであったが、その反面、二週間を充実させるのも自分次第であると強く自覚していた。

私がこのプログラムに参加しようと決めたのには理由がある。それはフランスの文化や社会について学ぶには、自ら現地に赴くことが何よりも重要だと考えたことだ。これから卒業論文の執筆のために研究に勤しむ日々をむかえるにあたり、今回のプログラムは貴重な経験となるに違いないと考え、この大学三年の三月にフランスへ行くことに決めた。そこで今回の滞在では、興味のある学問分野の理解を深めることに重点をおき、さらに日本では知ることの出来ないフランス特有の文化に触れることを目的とした。

【イナルコ大学訪問】
フランスに到着した次の日イナルコ大学の見学へ向かった。二つの講義を見学し、一つは日本の小説をフランス語に翻訳する授業であった。事前に割り当てられた日本文の箇所を文法や単語レベルで精読し、最終的にフランス語に翻訳する。日本の大学でも似たような講義を受けたことがあるため、細かい内容はあまり理解出来なかったが、講義の流れはつかみやすかった。また文法は黒板を使用して主語や述語に印をつけながら読み解いていたため、生徒や先生が何を話題にしているかという大まかなことを把握することが出来た。そして往々にして聞いていたことではあるが、フランスの生徒は積極性が高い。その日課題を割り当てられていた以外の生徒たちが自ら質問や発言をし、講義はさらに盛り上がっていた。扱っていた教材は日本人の私からしても難解な日本語の文章で、決して簡単ではなかったはずである。同年代の生徒が自主的に講義に参加する姿を目の当たりにすると、私も見習わなくてはならない、と改めて感じさせられた。

二つ目の講義は小沼イザベル先生のハンセン病についての大教室での講演であった。優生思想と人権について歴史的に辿り、ハンセン病にかかわった医師たちを詳しく取り上げていた。講演は一時間半にわたり、私はスライドで取り上げられた言葉や人をその場で検索し、すべてフランス語で説明される講義の内容をなんとか理解しようと必死であった。日本の社会問題についてフランスで学ぶのは非常に新鮮である。なぜなら毎日日本で暮らしていると気付かないような問題点を知ることが出来るからである。恥ずかしくもハンセン病について初めて知る情報が多くあり、この講義を受けたことでもっと母国の様々なことを深く学ぶ必要があるし、それについて自分なりの意見を持つべきだと感じた。講義で紹介されていたハンセン病療養所の多摩全生園にある国立ハンセン病資料館へは、一度訪問したいと考えている。

【パリ巡り】
・歴史
パリでは自分の興味のある歴史、音楽をテーマとして、時間の許す限り足を運んだ。アンヴァリッド廃兵院にはナポレオンの墓や軍事博物館があり、フランスの歴史を武器や戦時の遺品を通して辿ることが出来る。私は二大大戦の展示を重点的に見に行ったのだが、暗くて衝撃的な展示と情報量の多さに圧倒されるばかりだった。戦争当時を少しだけ具体的にイメージすることが出来たと感じている。また、アンヴァリッドには兵士が礼拝を行っていた教会もあり、その教会内部にはフランスが征服した地域の旗がずらりとかかげられていた。博物館とは打って変わって戦争を連想させるような暗いイメージはなく、非常に綺麗で驚いた。そこは教会であると同時に戦争の勝利をたたえる空間のようにも感じられた。戦争に対して私はネガティブなイメージを持っていたので、征服した地域の旗を堂々と掲げることに少々違和感を覚えてしまったが、兵士たちの心を癒したに違いない空間はとても素敵だった。


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・音楽
私は音楽を聴くことが好きなのでフランスならではの音楽を体験したいと思い、ミサとオペラ鑑賞をした。ミサはパリのサンニコラデュシャルドネ教会にて行われたものに参加した。約90分にわたったミサでは、パイプオルガンと聖歌隊の歌が教会内で反響し、とても美しい音色を奏でていた。教会音楽は音にすると単調ではあるが、だからこそ教会内では素晴らしい聴き心地になるのだと思った。ミサが終了した後、司教様に挨拶することができ、今回見学に来たことを伝えた。どう思われるのか不安だったのだが、快く受け入れてくださり、非常に嬉しかった。フランスに来て意外だったのは、差別をほとんど受けなかったことである。新型コロナウイルスの感染も広まる最中で、何かしらの差別的態度などを受けるかもしれないと覚悟していたのだが、実際は皆とても優しくて、非常時でも大きな心を持っているのが素敵なことだと感じた。
ミサを経験させていただけたこと、さらに一人では見学する勇気がなかったので引率してくださった大須賀先生に感謝いたします。


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さらにその後パレ・ガルニエにてオペラ『イヴォンヌ』を鑑賞した。物語の展開が少々複雑で難しいところもあるが、歌や踊りが素晴らしくてひきこまれた。何より舞台の下で生演奏するオーケストラは決して悪目立ちをせず、舞台上の劇の進行としっかり合致していて、圧巻であった。また舞台の上に英語とフランス語の字幕が出るので内容を追いやすく、フランス語を聞き取る練習にもなってそれもまた違った楽しみであった。劇中のキャストは練習してきたことのみをやりきるから、もちろんアドリブなどは入れない。だからこそ場内は常に緊張感に包まれているし私も集中して観劇していたが、カーテンコールでは面白いくらいキャストそれぞれの個性を出していて、自然と笑顔になってしまった。あんなにまじめに劇をしていたのに、本当はこんなにはっちゃける人だったのかと知るそのギャップが非常に好きだった。この急に出たフランクさで張り詰めていた場内の雰囲気を和やかにし、観劇で少し疲れていたところを笑顔にしてくれるキャストの方々はプロの中のプロだ、と感じた。

【ナンシー・メス・ストラスブールへの旅行】
 滞在の前半に、大須賀先生に引率していただき、私を含め三人の学生で一泊二日の旅行に出かけた。



・東駅
最初にパリの東駅からTGVでナンシーへ向かった。TGVは日本でいえば新幹線にあたるものだ。だが様式はかなり異なっていて、まず発車する番線を知らされるのが直前である。電光掲示板でそれを知らされるまではホーム前で待機するのだが、そのホーム前にはRELAYやPAULなど色んなお店があり、気軽に食べ物を購入し近くの簡単な机ですぐに食べることが出来る。RELAYは日本のコンビニに近く、多くの駅にある。朝七時頃で、多くの人が利用していた。私はその手軽さが日本に似ていて親近感を抱いた。フランスの街中にはコンビニのような便利なお店はない。急に何かが欲しいと思ってもスーパーに寄らないと買えないので私は何度か不便していた。確かに、日本のコンビニは便利すぎるしそれに頼りすぎなところもあるだろう。フランスから帰る頃にはそのように感じるほど向こうの生活に慣れ始めていたが、この時は日本と同じ手軽さがあることをとても嬉しく感じていた。利用している人もサラリーマンなどが多く、「フランス人はコンビニのご飯なんかで済ませたりしないだろうな」などと極端なイメージを持っていたので良い意味で私の偏見を壊してくれた。


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・メス
メスのサンテティエンヌ大聖堂は、私の思い出に非常に強く残っている。カテドラルに入るのはこれが初めてであった。私が思うに、教会や大聖堂は入った中に入った瞬間から空気が変わる。少しひんやりとして、しんとした空気に触れるとそこが神聖な場所だということを思い出させてくれる。メスのカテドラルは非常に大きく三段のステンドグラスは本当に圧巻であった。そしてステンドグラスの一つ一つの絵、あらゆる像や方角など、教会のあらゆるものには意味があることを知り、発見の連続だった。例えばよく分からずになんとなく前を通り過ぎていた聖人の像も、その聖人の特徴を知っていれば名前を言い当てることが出来る。今まであまり深く勉強してこなかった分野だが、これを機に教会が好きになり、パリに帰ってからも色々な教会をめぐるようになった。

【日本文化の発表】
 私は浅草の紹介と、鈴木美南さんと茶道についての発表を計画していた。当初これらの発表はレンヌ第二大学やポール=ラピ高校で予定されていたが感染症の拡大を懸念してあいにく中止となってしまい、パリのベルシー公園で行うこととなった。またその発表は撮影し、後日二つの学校で見てもらう運びとなった。



発表ではスライドと、茶道では実際にお茶を点てる道具も用いてフランス語で紹介した。ポール=ラピ高校のベルクマン先生が発表を聞いてくださり、茶道の紹介では非常に興味を持っていただいたので、日本文化を知っていただくきっかけになったのではないかと考えている。日本にはあらゆる素晴らしい文化があるので、これから動画を見る学生たちも少しでも日本文化に興味を持ってくれたらこんなに嬉しいことはない。また、ベルクマン先生に説明がきちんと伝わり安心する一方、流暢に話すことの難しさを痛感した。発表を迎えるまでに何度も原稿を読み練習してきたが、まだまだ努力不足と言わざるを得ない完成度であった。学生生活残り一年は、フランス語の更なる上達を目指してネイティブとのコミュニケーションを意欲的に取り組もうと思う。
この発表は今回の研修プログラムの中でも重要な企画であり、もし中止されていたら心残りになっていたに違いない。学生それぞれが頑張って準備してきた発表を、全体で90分程にも及んだが、それでも最後まで発表を見てくださったベルクマン先生、原稿の添削などご協力いただいた大須賀先生、そして最後まで調整など尽力してくださった藤原先生に感謝いたします。

最後に
この二週間、無駄な時間などなくどんな些細なこともすべてが学びで、またとない貴重な経験をたくさんすることが出来たと感じている。パリの道を、通りの名前を頼りにしながら迷わず散歩できるようになること、その時ふと通りの名前の由来が気になって考えてみたり、そもそも日本とは全く異なる街の外観に飽きることなく何度も驚かされたり…。道が分からなくて近くの人に片言のフランス語で話しかけてみれば、丁寧に最後まで案内してもらえて優しさに感動し、そして何よりフランスの文化や歴史を思う存分学ぶことができ、満足している。たった二週間とは思えないほど充実していて、ふとした時にこんなにもありがたい経験をさせてもらっていることに感謝がとまらなかった。最後になりますが藤原先生、大須賀先生、西山先生をはじめとし、GCCにご協力いただいた方々に感謝申し上げます。

田中颯太

田中颯太


【はじめに】
 日本ではCOVID-19の話題で盛り上がっていた。そんな喧騒から逃れるように私はフランスに訪れた(14日間)。実際、フランス国内でマスクを付けている人の割合は、私が見かけた中では1%にも満たなかった。到着時、「マスクをしていないと… 」という束縛から開放されたという爽快感があったが、今思えばそれは危機の前触れでしかなかった。どこの駅でも、電光掲示板には、SNCFによるCOVID-19に対しての予防法が表示されていただけだったのが、帰国日が近づくにつれてCOVID-19の猛威が顕現し、美術館も全て閉館になったり、Auchan(monoprixやfranprixよりも少し大きいスーパーマーケット)では人数制限が発生した事もあった。帰国直後のフランスでは、外出するのに許可証(Attestation de déplacement dérogatoire)を所持する必要があり、これを持っていないと135€の罰金を払わなければならないほど事態が深刻化していた。
参照 https://ovninavi.com/attestation-de-deplacement-derogatoire/

 しかしながら、本滞在記ではその状況の中、COVID-19を抜きにした等身大のフランスの魅力的な姿を、微力ながら書き記してみたいと思う。本滞在記は大きく3つのテーマに分かれる。つまり、Grand Est地域圏、Rennes、Métro de Parisである。

【Grand Est地域圏】
 3月5日から6日の2日間でGrand Est地域圏の主要都市3つを訪れた。即ち、Nancy、Metz、Strasbourgである。
〔Nancy〕
 Paris EstからNancyまではTGVで約90分かかった。外は雨降りであった。余談だが、Paris Estの駅構内で"何気なく選んだパン屋"で買った2つのpain au chocolat(1つ1€くらい)を食べたところ、驚いた。これが本場フランスのパンの旨さなのかと、噛むとふんわり潰れてくれて、そこからチョコレートの甘さが寝起きの体を優しく起こしてくれる。これが"何気なく選んだパン屋さん"のパンの食感だったのだ。2つ買っておいて良かったと感じた。

 私達は、Musée de l'Ecole de Nancy(ナンシー派美術館)、Musée des Beaux-Arts de Nancy(ナンシー美術館)、Pl. Stanislas(スタニスラス広場)を訪れた。ナンシー派美術館には、19世紀後半を生きたÉmile Gallé(エミール・ガレ)を中心とした芸術運動のグループの作品が置かれており、彼はジャポニスムの影響を受けてか、非常に日本の美意識が表された作品が多い。鬱金色と薄い茶色の組み合わせが心地よい。食堂の天井に描かれた木の葉や、Paire d'appliques Noisettes(1対のヘーゼルナッツの壁灯)、Éventail une poule survint(突然現れし雌鶏の扇子)など見ていて楽しい作品があった。


▲Paire d'appliques Noisettes, vers 1908 par Émile Gallé (1846-1904)

 しかしながら、私はてんで美術や世界史には疎いので眺めていても何がすごいのかは幾分検討もつかなかった。Nancyの町で特に印象に残ったのがナンシー派美術館という理由も、私が日本人だから親和性が高かっただけの話かもしれない。では、日本で浮世絵を見たら琴線に触れるのかと言われたらそうではない。一般化すると、異国の地で自国特有のものを発見すること、つまりその国と自分の国とのつながりが見える事こそが、感動する理由なのではないか。一区切りの結論を出した。
 ちなみにナンシー美術館でもジャポニスム展が行われており、鍔や手鏡、櫛、印籠までもが展示されてあった。すぐに写真を撮ったのは、やはり上記の理由からだろうと悟った。
 ナンシー派美術館を出ると、雨は土砂降りに変わっていた。しかしその庭は、朗らかに私達を雨と葉のメロディーで迎えていた。

〔Metz〕
 NancyからMetzまではTERで約30分とすぐであった。車窓からは雨で外の世界が歪んでおり、上手に駅名も撮れなかった。しかし、そのような悩みも杞憂であった。目的地であるMetz-Ville駅舎のその外観に圧倒されたからだ。雨の中佇む煉瓦造の駅舎と時計塔が、Metzの町色と見事に調和していた。
 Cathédrale St-Etienne(サンテティエンヌ大聖堂)に向かった。側廊へと入り目線を上げた途端、私は吸い込まれた。畏敬の念に囚われたのだ。側廊上方にある3段のステンドグラス、周歩廊にある青のシャガール、袖廊の黄のシャガールや矮小銀河の如く燃えるような薔薇窓、そして振り返った時に見える身廊後方上部の巨大な燦々と輝く薔薇窓。それらの輝きを味わおうと一歩一歩ゆっくりと眺めていたのだった。いや、ゆっくりと歩かないと小さな何かを見逃しそうで怖かったのだった。ところで、あまりにも上方を眺めていたので、床の方にも何かあるのではないかと視線を落としたところ何も無かったのは、神を崇めるのに目線を下にすることは不敬だとする意図でもあったのか、と疑問に思った。日が落ち、漆黒に浮かぶ濡れたサンテティエンヌ大聖堂は"magnificence(荘厳)"という言葉がぴったりであった。下から照らされた山吹色と屋根の翡翠色の組み合わせがその言葉を根拠付けていた。


▲Metz-Ville駅舎正面

〔Strasbourg〕
 6日の朝は、昨日よりも雨量が格段に上がっていた。サンテティエンヌ大聖堂を横目に私達はMetzの町を後にした。外の畑や川は増水しており氾濫しかけていたが、目的地に近づくに連れ、窓についた水滴の数は減り、Strasbourg駅に着いたときには雨は止んでいた。駅からはTramway(路面電車)でCathédrale de Notre-Dame de Strasbourg(ノートルダム大聖堂)まで向かった。Rue des Hallebardesを右に曲がろうとした時、それは突然にして現れた。確実に、昨日のサンテティエンヌ大聖堂の大きさを遥かに上回っていたのだ。こちらは"gigantesque(巨大)"といったところか。昨日の今日で心臓に悪い。この驚きを吐露しなければどうにかなってしまいそうだった。この大聖堂には天文時計があるようなので、その様子をフランス語とドイツ語の解説付き(ドイツ語はまだしもフランス語も単語が所々聞こえるだけで何を言わんとしているのかがよく分からなかった。ここに自分のフランス語リスニング能力の力不足を実感した。)で見てみた。からくり時計でもあるその天文時計から聞こえてきた鳥(?)の鳴き声は大聖堂内に響き渡っていた。
 Strasbourg駅からParisの街まで帰ろうとした時、小さな事件は起こった。私達が乗る予定のものを含めほぼ全てのTGV・TERが遅れていたのだ。とはいっても、私達のは15分遅れであった。しかし、1つ前のParisに向かう、もう一つのTGVが、私達が着いた時刻の2時間くらい前に到着する予定であったが、そのTGVよりも早く私達のTGVの方が先に着いてしまったのだ。私は、遅れた原因がここまで散々猛威を奮った雨の仕業なのかと思った。どちらにせよ、TGV内で夜中閉じ込められるという事態は無くて本当に良かった。


▲Strasbourg駅で各自の乗車予定のTGV・TERがどこのVoie(ホーム)に到着するかを確認する大勢の人達

【Rennes】
 Rennesでは、Grand Est地域圏の章のような大きな発見というよりも、小さな行いをいくつか積み重ねたというのが成果である。即ち、Japanim、Les Champs Libres、Ramen Ya、物乞いの4つである。
〔Japanim〕
 Rennes出身の留学生から教えてもらった店であり、アパルトマンからも近いので訪れた。その店は、特に日本の漫画やフィギュア、アニメグッズ、仏日辞書、日本古来のものを紹介する書籍(寿司、着物など)、を取り扱っており、その留学生も私も日本のアニメが好きなので行かない手は無かった。中では、店長と束の間の会話を楽しんだ。ここはフランスでもかなり有名な漫画書店であったり、フランス人に人気な仏日辞書が、ASSiMiL社のDictionnaire JAPONAIS(仏文学生室にもあった気がする)であったりといったことを話した。その後、『日本のアニメをまとめて紹介した書籍はありませんか?』店員に尋ねたところ、少々の捜索の後、その店員が1つの本を持ってきてくれた。値段は29,90€であったが、即買いであった。というのも、フランスの目線からどのように日本のアニメを捉えているのかが前々から大変気になっていたからだった。私は、この店を紹介してくれた事かの留学生に、そしてこのような素晴らしい書籍を置いてくれていたJapanimの人達に感謝をした。ちなみに本のタイトルは、UN SIÈCLE D'ANIMATION JAPONAISEである。

〔Les Champs Libres〕
 ここは複合文化施設であり、2階のMusée de Bretagne(ブルターニュ博物館)では、ブルターニュ地方の歴史が展示されている。私は1階にあるEspace des sciencesのプラネタリウムを見に行った。理由は2つあり、第一に宇宙が好き(天文時計を見たのもこの理由である)で更にプラネタリウムという空に吸い込まれる感覚が怖いのと同時に気に入っているから。第二に子供向けに話されるフランス語を1時間でどこまで理解できるかという実力試しである。結果としては、今回のテーマが『太陽系の惑星』であり予備知識が備わっていた為、7割理解できた。プログラムの構成としては、相模原市立博物館のプラネタリウムのそれとほとんど変わらない。また、プログラムの途中、解説者が参加者にいくつか簡単な質問を投げかけていてそれに対して子どもたちが矢継ぎ早に答えていた。

〔Ramen Ya〕
 店名の通り、ラーメン屋である。理由は、Université Rennes 2に留学している1人の学生に勧められたからである。更に私は、フランスで食べる日本食はどんな味なんだろうと気になっていたのもあった。Paris Est駅にあるY'A PAS DE SUSHIやMontparnasse駅にあるYO! SUSHIで寿司を食べてみたいという気持ちはあったが、日本食であれば何でも良かった。しかも私は重度のラーメン好きであるので、やはり行かない手はなかった。Palais du Commerceの正面から北にまっすぐ進んだところにあるこの店は、フランス人2人と日本人1人で経営していた。麺の固さ(3段階)、太さ(2段階)も選ぶことができる。私はSHOYU(€9.50 -横浜名物家系ラーメン- )を頼んだ。味の方は驚きであった。日本の家系ラーメンと全く変わらない旨さだったのだ。感服せざるを得なかった。もしかしたら、あの2件の寿司店も美味しいかもしれない、そんな希望をスープと共に満たしてくれた。

〔物乞い〕
 Rennesの最後の節は、場所ではなく、人である。私がその人からお願いされたのはRennes駅近くの高架線上であった。『ごめんなさい。その日食うものが無いのでお金をもし可能であれば恵んでほしいです。お願い致します。』と尋ねられたのだ。私は今までParis市内では勿論、日本でもそのような人達を見かけたことはあったが、決してお金は与えなかった。無関心であったからだ。しかし今回は、お金をあげてみたかった。この好奇心と純粋な救済心が混じり合った状態の中の"恵み"は果たして正しい行いなのか、この時だけ与えても私にとって何の意味があったのかと今は思う。しかしこの人が、自分のお金で今日1日無事に過ごす事ができたらと思い、€1硬貨を与えた。この事で、ほんの少しだけでも自分が寛大になれたら、それは無駄な事では無いのかもしれない。

【Métro de Paris】
 実はこのフランス滞在期間中、パリ市内にあるMétro全16路線(3bisと7bisを独立に数えた場合)を利用することに飽き足らず、Métro全292駅を殆どが通過ではあるが見て回った。1つ1つの駅に着いては各駅の看板を写真に撮る(できない駅もいくつかあった)という一種のコレクター精神に火が付いていた状態だったのだ。全駅ツアーの最中にはいくつもの発見があった。
 (注釈:駅名の隣にある括弧内の番号はMétro何番線かを示す番号である)
 まず、駅名標及びプラットフォームのデザインに特徴がある駅がいくつかあった。殆どの駅名標には、青色のプレートに白色のフォントで駅名が描かれているか、壁の白いタイルを駅名にするように塗装が施されているかという形態である。しかし、例えばConcorde(12)の壁面のタイル内には1つ1つにアルファベが書かれており、実はフランス人権宣言の原文がそのまま描かれているのだ。


▲12番線Mairie d'Issy行きのConcorde駅のプラットホームにて

 他にも、フォントは他の駅名標のそれと同じだが、天井部分に赤文字で表記されているAssemblée Nationale(12)、少し金色の文字の駅名標であるFalguière(12)、ルーブル美術館の最寄り駅だからだろう黒背景に白色でフォントもシックなLouvre Rivoli(1)、赤文字でフォントがPapyrusであり、天井には所狭しと並ぶ、ソルボンヌ大学で学んだ著名な学生のサインがあるCluny La Sorbonne(10)、更に9番線では金色に輝き、1番線ではフランス語に加えてその下に日本語・ロシア語・中国語・アラビア語での訳が書かれているFranklin D. Rooseveltがあった。

 次に、地方に向かうTGVやTERなどの所謂、高速鉄道の始発駅である7つの駅(Gare Saint-Lazare, du Nord, de l'Est, de Lyon, de Bercy, d'Austerlitz, Montparnasse)の外観である。そのどれもがまるで彫刻のように美しく、中に入るとプラットホームと地続きなのが非常に良い。特にGare de Lyonの時計塔はMetz-Villeのそれのように、いつまでも眺めていたい様相を呈していた。レストランがある2階に登ってから眺めるホームは絶景である。


▲Gare de Lyonの正面。Metz-Ville駅舎のオフホワイト版に近い。

 Métroは特にParis中心部は地下を走行する事が多いが、2番線の真ん中やセーヌ川を渡る時、5番線の終点Bodigny Pablo Picasso周辺や8番線の終点Créteil Pointe du Lac周辺の駅は地上を走行する。6番線のBir-Hakeimからセーヌ川を渡ろうとした時に見えるエッフェル塔が絶景なのは有名だが、2番線から眺めることができるパリ右岸の町並みもおすすめである。

 Métro内には様々な人がいた。普通の声で話している人は勿論のこと、Rennesの章でも取り扱った物乞いもいた。車内に入ってきて大きな声で皆にお金を恵むよう頼んでいる人もいれば1人ずつ『お願いします、お願いします』と懇願するように歩いている人もいた。しかし皆その状況に慣れているのか全員が無視か断っていたのだった。ちなみに物乞い自体は駅の連絡通路を歩いていたら必ず出くわす。老若男女様々で、子供や赤子、犬や猫を連れている人もいた。フランスの負の姿を見た気がした。雨が降っていた時には、傘を販売している人もいた。アコーディオンや弦楽器を演奏していた人もいた。そこはドラマに満ちていたのだった。

 Métroの駅も含め、今まで通過した全ての駅がそうだったが、発車メロディというものが存在しない。音楽といえば、アナウンスの際に流れる短めのメロディくらいである。アナウンスというと、Métro内の放送の際にはほぼ必ず英語とドイツ語が一緒に流れ、番線によってはスペイン語、イタリア語、中国語、日本語(しかも正確な文章)が流れるところもあった。『スリにご注意ください。』という言葉を何回聞いたことだろうか。

 1番線や4番線、14番線はドアは自動で空くが、それ以外はレバーを上げたり緑のスイッチを押すことでドアを開けることになっている(閉まるときは自動)。しかし利用者は全員例外なく、Métroが完全に止まる前にドアを開けて降りていくのだ。止まった後からだとドアが閉まるのに間に合わないからなのだろうか。真相は不明であった。そのようにして降りる時、初めのうちは降りた瞬間にバランスを崩しそうになるので注意が必要である。
 ホームの電光掲示板には、次に来るMétroとその次に来るMétroの残り時間が分単位で表示されるが、この残り時間が早まったり遅くなることは往々にしてある。『02』と表示されていたのが、30秒も経たない内に『00』となる事(そして実際に到着する)や、先程までの『03』が、大幅な遅延なのか数字が『++』と表示されている事があった。

 走行中に停車する事もよくある。私が遭遇したのは、Opéraでのmanifestationに拠るものであった。また、カーブに差し掛かり、且つ対向車線からMétroが来る場合には必ず停車する。衝突を避ける為なのだろうか。逆に、駅を通過してしまう事もある。7番線のPorte de Choisyを通過した後に、車内放送で工事中の為、停車することが出来なかったという旨であった。日本ではこのパターンに出会ったことがなかったので少々驚いた。

 最後に、無賃乗車である。利用者の何人かは、切符を通さずに改札を飛び超えたり、前にいる利用客のすぐ後ろに貼り付く事で、その客の切符のみで2人分通り抜けようとしたりしていた。しかも、4番線の終点Porte de Clignancourtの改札では、駅員の目の前で改札を飛び越えている人がいたのだ。しかし、その駅員は特に気にする素振りも見せなかった。それどころか、私がTicket T+(切符)が使えなくて戸惑っているところをその駅員が私を呼び、横にある鉄格子のドアから中に通してくれたのだ。私は咄嗟にお礼を申したが、何故通してくれたのだろうと疑問に思った。ただの気まぐれなのだろうか、それとも普段からあのような行いなのだろうか。彼にとってはこれらのことが問題では無いという事なのだろうか。

【おわりに】
 今回のグローバル・コミュニケーション・キャンプに於いて、計画や予約、そして度々の変更に伴う予定の調整をして下さった藤原教授と大須賀准教授、INALCOでの日本のハンセン病患者に於ける奮闘の授業を提供して下さった小沼イザベル教授、発表の機会を私達に与えてくださり、高校での発表が中止になろうとも、Bercy公園まで聴衆として来て発表を聞いてくださったPaul-Lapie高校のジゼル・ベルクマン教授、夕食のご招待並びに豪華な食事、有意義なお話をして下さったムナン御夫妻名誉教授、家に招待してくださり、更に私達の荷物置き場を提供して下さったアダム御夫妻並びに猫のSuki様、2週間の共同生活を営んだ、鈴木さん(3年)、平山さん、鈴木さん(2年)、石関さん、南さん、発表用の原稿を添削してくださったフランス人留学生のKenzaさん、Lénaさん、そして本GCCへの経済的援助をしてくださった首都大学東京の国際課職員の方々に対して、全ての人へのお礼をここに申し上げる。

鈴木杏菜

鈴木杏菜(フランス語圏文化論2年)


コロナウイルスの前例のない流行により困難が心配される中、わたしたちを乗せた飛行機は予定通り午後の16時半にシャルル・ド・ゴール空港に到着した。タクシーのトランクに大きなスーツケースたちを無理やり押し込み、パリ中心部に位置する宿を目指す。甘ったるいタクシーのにおい、運転手さんの聞き慣れないフランス語、広い空に重く立ち籠める灰色の雲、都市郊外特有の醜さ、すべてが新鮮で心臓がどきどきしていた。初めてのフランス、初めてのパリに胸を躍らせたこの日からの15日間は瞬きをする間に過ぎ去っていった。

華の都と謳われることもある美しい都市、パリ。歴史ある建築物や豊かな芸術遺産、華麗なファッションシーンなど、世界中から訪れる人々を、魅了し続けている場所である。しかしその一方でパリは、移民の数が非常に多いことでも知られている。一口に移民と言えどもアジア系、アフリカ系、アラブ系、欧米系と人種は様々であり、また移民でなくてもパリに暮らす外国人数もかなりの数にのぼる。長い移民受け入れの歴史を持つフランスで、異なる文化を持つ人々が集まり、独自のコミュニティーを作っていくことで生まれてきた彼らの領域。今回の滞在の主要な目的として、わたしがイメージしていたパリとは違う異国情緒溢れる庶民の生活を実際に自分の目で確かめてみたいとずっと思っていた。

パリのいわゆる「エスニックタウン」と呼ばれる地区を巡るにあたって、藤原先生と、藤原先生のご友人であるフランソワさんに同行していただいた。一人では決して得られなかったであろう貴重な経験となっただけでなく、非常に興味深いお話を沢山聞かせていただいて、深く感謝している。
メトロで向かったのは18区に位置するバルベス・ロシュシュアール駅。この周辺には、多くのアラブ系(マグレブ系)、アフリカ系の住民が暮らしているらしい。駅前では若いアフリカ系の男の子たちが集まって話をしたり、タバコを吸ったりしていた。


この界隈にはアラブ系の店々が立ち並んでいるのであるが、この日は残念ながらイスラム教の安息日である金曜日。多くの店がシャッターを下ろしていた。

金曜日でも開いていたアラブ系の雑貨や乾物が売っている店に入ると、店員の女性はアラビア語の歌を口ずさんでいた。

ずらりと並んだタジン鍋に色とりどりの食器、お香やアラビア語で書かれたパッケージの食品など、異国に迷い込んだかのようでわくわくしたことが思い出される。

華の都パリらしからぬ街の空気。アラビア語で書かれた店の看板。ハラールの肉屋。タバコではない煙のにおい。レストランで生まれて初めて食べたクスクスと羊の串焼き。すべてが新しく、「清岡智比古さんの本『エキゾチック・パリ案内』(2012、平凡社)で読んだ通りだ!」と感心していた。

次にメトロに乗って20区に位置するベルヴィルを目指す。20区はパリで最後にできた区で、古くは貧しい労働者が多く住んだ地域であったと言われており、幼少期貧しかったエディット・ピアフが生まれた場所でもある。現在は多様な人種背景を持つ人びとが多く暮らす地域として知られている。18区と違って、ここにはアジア系、特に中国系の店々も多く立ち並んでいた。

ベルヴィルを散策しているときに通った小学校から出てくるさまざまな色の顔をした子どもたちの活気が印象に残っている。

別の日にわたしはパリのグラン・モスケを訪れた。これは第一次世界大戦で戦死したイスラーム圏出身の兵士のためにフランス政府の援助によって1926年に建てられたパリで一番大きいモスクで、ミナレットや回廊で囲まれた中庭が特徴的だ。



信者ではないわたしたちも、拝観料を払えば奥の礼拝堂を除いては建物の中を見学することができる。絵画や像の代わりに植物をモチーフとした壁のモザイクや幾何学模様、アラベスク模様が美しかった。フランスのムスリム人口の割合は10%近くにものぼり、パリ市内には20ほどのモスクがあるのだが、アパルトマンの一室を改造したものが大半だそうだ。

モスクの中にある半分テラスのような開放的なサロン・ド・テでは、学生が熱心に勉強していたり、ビジネスマンがミーティングをしていたりと、普通のカフェと全く同じようにパリの人びとの生活に溶け込んでいた。移民の人びとか集まって暮らすいわゆる「エスニックタウン」を歩いていると、彼らは独自の文化を貫いており、フランス文化と融合しているようには思えなかったが、パリの他愛ない生活のいたるところで彼らの文化は尊重され、自然に溶け込んでおり、よりパリを魅力的な街にしているのだ。



席につくや否や出されるグラスに注がれたあたたかくて甘いミントティーやアラブ系のお菓子を食べながら考えた。

一方で、日本を含む世界中の国々でそうであるように、フランスでも移民問題の議論は絶えない。わたし自身もパリを歩いていて「ニーハオ!」と笑いながら声をかけられたり、「コロナウイルスだ!」なんて囁かれたりして、悲しい思いをすることもあった。異文化、異民族と共存していくことは容易なことではない。差別や異質なものに対していだく嫌悪感は簡単にはぬぐえない。それでも、長い歴史の中で培われてきたフランスの移民に対する考えの広さや豊かさから、もっともっと学ぶことがあるはず。違いを認めた上でお互いを傷つけ合わずに共存していく方法を。この滞在は社会のさまざまな問題に対して時に「無感覚」にさえなるわたしにとって、そうしたことを考える貴重なきっかけとなったのである。

今回はコロナウイルスの流行のため、予定されていたポール=ラピ高校やレンヌ第二大学での発表や授業見学などは残念ながら中止となった。わたしは高校で芥川龍之介の『河童』という短編小説について紹介する予定となっていた。西欧の、特にフランスの文学に影響を受けたこの作品が日本文学にそれほど馴染みのないフランス人の高校生にとっても、またわたし自身にとっても興味深い発表になるのではないかと考えたのである。フランス語を勉強したのは2年間足らずで、わたしにとってこの発表をやり遂げるということは大きな挑戦であった。原稿を作るにあたっては、主に日本語の文章をフランス語訳したのであるが、表現が見つからないときには英語からフランス語訳してみたりとかなり苦心したが、なんとか伝えたいことをフランス語でまとめることができた。高校で本番の発表をすることは出来なかったけれど、夕暮れ時の公園で、プログラムに参加したみなさんと、藤原先生、またポール=ラピ高校のベルクマン先生の前で発表ができたときの確かな達成感は忘れられない。決して満足な発表ができたわけではない。もっと面白く伝える工夫ができたと思うし、作品や作家に対する知識もまだまだ未熟であったと感じる。ただ、自分が本当に伝えたいことを相手との共通の言葉の中でみつけていくことが純粋にすごくすごく楽しかった。わたしを惹きつけてやまないのは「ことば」なのだと確かめることができた。大学に入ってフランス語に出会えてよかったと心から思えた瞬間であったし、これからももっと文学を通していろいろなことばについて知りたいと思った。原稿やスライドを作成するにあたって手を貸してくださったフランス人留学生のレナさんや先生方には改めて感謝の意を述べたい。

毎日が濃密で、新しいものに出会うたびにさまざまなことを考えたこの15日間のすべてをここに記すことはできない。大学生活も2年が過ぎ、折り返しの時期にあたる今、この国際交流プログラムに参加し、自分の興味の幅を広げられたこと、また本当に学びたいことがなんなのかを考えるにあたって、非常に意味深い経験となった。この旅で五感を通してわたしのからだの中に入った種を大事に守り、育てていこう。

最後になりますが、多忙の中このような心に強く残る旅のすべてをコーディネートしてくださった藤原先生と大須賀先生、そしてこの滞在に携わりわたしたちをサポートしてくださったすべての方々に心より感謝を申し上げます。みなさま本当にありがとうございました。

石関萌々香

石関萌々香(英語圏文化論教室2年)

2週間の研修期間で、パリを中心にフランスのいくつかの都市を訪れ、フランスの文化的な特徴を多く体験し、実感することができた。なかでも特に印象に残った点について述べようと思う。

まず、困ったときや都合の悪い事態になった場合には自分で交渉したり、意見を主張しなければならないということだ。研修期間の初めの方で学生食堂を利用することがあり、学生であれば通常より5ユーロほど安く食事ができるということだったが、注文の時点で店員の言っていることが理解できずにあいまいな返事をしてしまい、会計では学生であることを証明できないからと言われるままに通常の料金を払うことになった。後に先生方と話していて、パスポートを見せて自分は学生だと主張することもできたのではないかと気がついた。母国語圏外で生活するときには常に言えることだと思うが、相手の言葉を理解できなかったときでも適当に流してしまうのではなく、できるかぎり理解しようとすること自分のことを伝える努力をする必要があると感じた。フランス語がうまく話せないとき、英語で話しかけてくる方がいたり、初めからフランス語と英語どちらで話した方がいいか聞かれることもあったが、それに助けられた場面もある一方で、最低限必要な語学能力をより身につけておくべきだったと何度も痛感した。

レストランや小さな店に入ったとき、美術館の窓口に立ったときなどに感じたことは、よく挨拶や軽い話をしたり、店員から客に声をかけることは普通の習慣であるということだ。店に入るときや会計をするとき、店を出るときに挨拶をするのは、初めのうちは新鮮に感じていたものの次第に慣れていったし、店員とフランス語で話ができたときは嬉しかった。驚いたのは、出身は日本かと聞かれたり、出身を聞かれて日本だと答えるとちょっとした挨拶などを日本語でしてくる方がいたことだ。どの地域からの観光客も少なかったように思うが、普段から日本人観光客が多いためにこのようなことがあったのではないかと考えた。日本でなら英語はともかくとして、フランスからの観光客にフランス語で話しかける人はほとんどいないのではないかと思う。この人々の親しみやすさや適度な距離の近さを見習いたいと思った。

人同士の距離の近さは大学見学の際にも感じられた。INALCO(国立東洋言語文化大学)で授業見学をした際、少人数での日本語の授業では日本語の物語を取り上げて品詞を分類し、意味をとらえる作業を行っていたが、生徒がその場で先生に質問をしていた点が新鮮に感じられた。また大教室での授業でも、授業中や授業後に先生に質問をしている生徒が何人かおり、先生と生徒の精神的な距離の近さ、授業を自分でよく理解しようとする生徒の積極的な姿勢が印象に残った。

パリ市内は広い範囲を歩いていくことができ、鉄道も発達していた。メトロに乗っていると多言語での放送が聞こえたり、アラブ人街やアジア人街を目にして、パリでは様々な民族の人々が生活していると分かった。また、アラブ人街を訪れたが金曜日であったために通りのほとんどの店と市場が閉まっていたり、いくつもある教会を訪れたときにミサが行われているのを何度か目にしたことで、それぞれの宗教が生活に大変身近なものだと分かった。


(アラブ人街の通りで、看板の一部はアラビア語で書かれていた。)

民族の豊かさは食文化にも表れていて、フランス料理を扱うレストランやカフェだけでなく、ケバブ屋や中東のひよこ豆のコロッケのサンドイッチ屋、寿司や麺類などの日本食を扱う店を見かけた。レンヌやモンサンミッシェルを訪れた際にはその土地で特徴的な料理を食べる機会があり、地域色の豊かさを感じた。


(パリで食べたアルザス料理のシュークルート。)

出発する前に、日本ではコロナウイルスの流行への不安から買い占めが起こったり、中国や韓国の人々を避けたり非難する一部の人たちを目にしていたため、パリの人々もアジア人である自分に冷淡な態度を取るのではないか、焦燥感から少なからず混乱が起こっているのではないかと不安になっていた。確かに、滞在期間の後半には大学訪問・高校訪問が中止になり、政府からの発表で必需品を買うための店以外の施設が営業を止めたためにできなかったことも多くあったし、アジア人であると分かって電車の中で避けられたという話も聞いた。帰国直前には必需品の買い占めも起こっていた。しかし、私は滞在中に苦労だけでなくフランスの方々の寛大さや民族性・文化の豊かさを知ることができてよかったと思う。

研修中には、フランスでの生活を通してフランスの文化についてより多くを知りたいという漠然とした目標を持っていた。実際に2週間を過ごしてみて、美術、歴史と民族・宗教について、食文化など、多くのことを知ることができたと思うし、より詳しく知りたいと思うことも多くあった。特に、教会を訪れるなかで像やステンドグラスに見られるキリスト教的な象徴の意味を先生に教えていただき、建築や象徴についての興味が深まった。フランスの文化についても、語学の面でも勉強を続けたいと思う。


(シャルトル大聖堂の付近で見つけた、巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラの方向を示すもので、別の場所でも目にすることがあった。)

過ごしやすく充実した滞在を用意してくださり、様々なことを教えてくださった藤原先生と大須賀先生、国際課、フランスでお世話になったすべての方々と、2週間を共に過ごし助けられることも多くあった5人に、感謝申し上げます。

南栄次郎

南栄次郎


はじめに
最初はこの約2週間にわたるGCC(グローバルコミュニケ―ションキャンプ)に参加するか迷っていたが、実際に現地を訪れて生活してみて初めて気づくことがきっとあるはずだと思い、藤原先生からの後押しもあって、このGCCに参加することを決意した。出発する前は、初めての海外の長期滞在に一抹の不安と期待を抱いていたが、帰国してから思い返すと非常に濃密で、あっという間の出来事だったように思われる。ここでは、そのようなフランスで体験したことやその経験を通して感じたことを述べていきたい。

パリでの生活
今回のGCCでは、主にパリを活動の中心として、各自興味のある場所を訪れた。パリに滞在する際には、ホテルではなくアパートの一室を貸し切って、6人での共同生活をした。もちろん、食事は、自分たちで食材を調達してきて、それを宿にあるキッチンや調理器具などを使って調理した。ただのスーパーといっても、驚かされたところはいくつもあった。最初に目に付くのは、その食材の豊富さと安さである。チーズやバターなどの乳製品、ワイン、肉類、ジャム、などのそれぞれの食材で何十もの種類があって、エシャロットなど日本ではあまり見られない食材などもあり、値段も日本のものと比べて非常に安く、食材選びの幅が広がった。また、フランスでは野菜の値段は日本とは違い、必要な分だけ取り、その重量によって値段が決まるということにも驚いた。

また、これはスーパーに限らず、すべての店やバスなどの交通機関でもそうなのだが、まず従業員も客もお互いに挨拶しなければならないというルールがあるのだ。言われてみれば当たり前のことなのだが、フランスでは、挨拶を返さないと敵意を持っていると見なされてしまい、その分客に対する従業員の態度も悪くなってしまうのである。それだけフランスでは挨拶・人とのコミュニケーションが大切にされているのである。当たり前のことのようで、日本に暮らしているだけでは気づけない、貴重な経験をすることができた。

イナルコ訪問
パリに到着した翌日にイナルコ(フランス国立東洋言語文化大学)を訪問し、2コマ分の授業を見学させてもらった。1つ目の授業は、日本語の授業であった。その授業では、日本の小説を教材として、空欄に助詞を当てはめて、単語と単語、文と文をつなげて文章を完成させるということをしていた。中学校の時に国語で動詞の活用などを学習したことはあったが、普段から日本語を母国語として話している時は、感覚的に言葉を選択しているため、ましてや助詞について考える機会もほとんどないため、外国人の視点から見た日本語はどのようになっているのか、日本語を別の視点から捉える良い機会になった。
2つ目は、日本の流行り病の歴史についての授業であった。授業では、知らないフランス語の単語が多く出てきたため、すべての内容を理解できたわけではないが、日本でのハンセン病や、ハンセン病患者がどのような扱いを受けてきたのかなど、日本でも習わないような詳しい内容を学ぶことができた。


モン・サン・ミッシェル
モン・サン・ミッシェルへは、レンヌからバスに乗って向かった。モン・サン・ミッシェルは、アヴランシュの司教の聖オベールが夢の中で大天使ミカエルから、この地に修道院を建てよというお告げから建てられた修道院である。そのため、尖塔上には19世紀に金色のミカエル像がある。修道院というよりは一つの城のように見えるが、実際、百年戦争中にはイギリス海峡に浮かぶ要塞としての役割も果たしており、その痕跡として中には砲台を見ることができた。遠くから見ると、一つの城のように見えるが、王の門から修道院まで一本道になっていて、その道沿いには多くのレストランやお土産屋が並んでいた。レストランでは、名物のオムレツと周辺の草を食べて育った子羊肉を食べた。


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食事を済ませた後は、修道院の中を見て回った。修道院の中は三層構造になっており、度重なる増改築によって、フランボアイヤン式ゴシック様式やロマネスク様式など、複数の建築様式の混在しているのを見ることができた。上層階の西のテラスに出ると、爽やかな潮風を浴びながら、モン・サン・ミッシェル周辺の広大な景色が一望でき、その景色は絶景であった。そのまた、重量を抑えるために、天井に船底がそのまま使われているなど、当時の建築家たちの工夫も見られた。

おわりに
今回のGCCでは、パリを中心に、教会や宮殿、美術館など、歴史的・文化的にも価値のある様々な場所を訪れ、現地の人々との交流を通して、その地域の文化、歴史、食事、風土などを実際に肌で感じることができた。残念ながら、コロナウイルス感染拡大の影響で、レンヌ第二大学の学生との交流や高校訪問はなくなってしまったけれども、日本にいるだけでは決して巡り合うことのないような経験をすることができ、勇気を出して、このGCCに参加してよかったと本当に思っている。そして、このGCCの準備をしてくださった藤原先生や大須賀先生、その他の協力してくださった方々には感謝を申し上げたい。