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2016年3月フランス滞在記(パリ、レンヌ)

西山雄二(仏文准教授)

西山雄二(仏文准教授)




(以下、飯澤愁さんによる素晴らしい写真を主に使用させていただく)

首都大学東京の国際交流プログラムの枠組みで、今年もフランスに学生8名と12日間の滞在させていただいた。今年も充実した濃厚な毎日で、レンヌ、モン=サン・ミシェル、パリにてプログラムを問題なく実行することができた。このような実に恵まれた経済的支援には深く感謝する次第である。今回の目的は以下の通りである。

①レンヌ第二大学における異文化理解と学生交流
首都大学東京の学生(留学希望者を含む)が現地で交流し、異文化理解を深める。日本語の授業に参加し、首都大学東京や日本の文化について紹介し、意見交換をおこなう。また、大学の授業参加として、文学と芸術に関する授業見学を実施する。付属の語学学校CIREFEの授業にも参加し、世界各地からの留学生がどのようにフランス語を学んでいるかを見学する。

②ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)本部のガイド付き見学
パリのユネスコ本部にて見学をおこない、「教育や文化を通じた国際平和の促進」というその理念と活動を学ぶことで異文化理解を深める。

③シンポジウム「日本におけるフレンチ・セオリー」への参加
引率者・西山は国際哲学コレージュのディレクターを務めており、毎年パリでセミナーを開催している。今回は西山が主導でパリで企画・開催するシンポジウムに参加してもらい、現地学生や一般市民との交流や討議から異文化理解を深める。

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いつも利用しているエールフランス深夜便でパリへ。エールフランス航空の機材は新しくなったようで、映画プログラムの日本語版が拡充していた。到着した3月9日は賃上げと待遇改善のための鉄道スト。ただし、メトロは全線動いているし、RERも間引き運転で北駅までは動いている。車内は普段より混雑しているが、日本の満員電車と比べればまだ余裕。小一時間かけて、モンパルナスのホテル・オデッサに投宿。藤田嗣治(レオナール・フジタ)が1913年に渡仏した際、アトリエを探して借りるまで住んでいたホテルだという。モディリアーニやスーティン、ピカソ、アンリ・ルソーらと、エコール・ド・パリと呼ばれる一派が形成されたのもここモンパルナスだった。



パリは強い雨と冷たい風で街歩きには最悪の状況。それでもテロの現場に立ち寄ってみる。事前に学生らは自主ゼミを開いて、テロについて検討してきたからだ。テロ被害に遭ったカフェ「Bonne Bière」は3週間で営業再開している。悲劇の痕跡はなく、普段通りに営業している様子には感嘆した。思い過ごしだろうか、パリのカフェにしては、店員は人情味溢れる対応に感じられた。テロは日常に介入する暴力だが、みんなでコーヒーを飲みながら、昨年同じ現場で誰かが襲われたという現実を想像し続けた。


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(中央に「Même pas peur 怖くなんてない」の文字)


2日目、TGVでパリからレンヌへ移動。いつものように、さっそく駅前のクレープ屋でミックス・ガレットとシードルを注文。ブルターニュに再び帰ってきたという実感が一気に湧く。いまフランスでは労働法改正に関するエル・コムリ法案が物議を醸し出している。今回の改革案は解雇条件を軽減し、業績悪化などの経済的な理由で、会社がより簡単に社員を解雇できるようにするものだからだ。大学では昼休みに学生らが集会を開いて、議論の場を設けていた。国際交流課での会談、語学学校CIREFEの授業見学、次年度留学予定者との会談、ブリジット先生宅で夕食、と予定がぎっしり。語学学校CIREFEではB2会話クラスの見学させていただく。70カ国以上の学生が集うCIREFEだが、このクラスでも国籍はさまざま。写真の内容をフランス語で描写して、学生が黒板に絵を再現するといったゲーム形式の授業は楽しかった。


(名物ガレット)

(昼休みの学生集会)

(市内中心部にあるブリジットの豪邸での寛大な夕食会。ピアノ、チェンバロ、バスルーム2つ、貴族風寝室、壁はすべて本棚……雰囲気が素晴らしく、絶対勉強できる環境)

翌日、レンヌ大学訪問2日目。午前中は、日本語クラスでの発表とグループ討論会。発表は「首都大での学生生活」「東京について(神楽坂)」。その後、8グループに分かれての議論を設けることで、親密な雰囲気の中で授業がうまく行われた。私たちの滞在中に実施される一度限りのイベントだが、「次回はいつなの?」と言うフランス人学生もいた。午後は、ブリジット・プロスト先生の演劇講義を聴講。モリエール『タルチュフ』を題材に、日本語字幕のある映像資料を用意していただいた。テンポよく適切な説明が聞き手を飽きさせなかった。レンヌ最後の夜は、留学中の学生らと歓談。首都大にいるかのような大人数で成長した留学者たちの姿を確認する。今年だけでなく、昨年、2年前、3年前に留学した各メンバーもいて、国際交流の素晴らしい重層的な厚みを再確認した。とてもシンプルだが、文化を越えて人と人が歴史を作っていくというのはまさにこういうことだ。


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(1年生の選択日本語クラスは活気がある。アニメなどの関心から履修して、日本語の難しさにまだ疲れていないから。2年進級時にほとんどが脱落する。)


週末の朝、モンサンミシェルに移動して、昼前に到着。ブルターニュ地方は濃厚な霧に覆われていて、遠くから島は見えないまま。先年同様、島対岸のホテルに投宿した。午後は学生6人を二回に分けて、ドライブをする。まずは、海岸線沿いを通ってカンカル(Cancale)へ。標高差のある街で、小高いところにある市街地から下ると海が開けてレストラン街が並ぶ。霧が晴れた後は心地よい早春の天気で、土曜日を楽しむ人々で賑わっている。つられて海鮮レストランに入って、牡蠣、ムール貝、イワシの塩焼きなどをたいらげる。次はドル・ド・ブルターニュ(Dol-de-Bretagne)へ。ブルターニュ最大のメンヒルが残存してることからわかるように、太古から人がこの地には定住している。中世の城壁や、優れたアングロ・ノルマン建築の大聖堂が残っている古都で、ブルターニュでもっとも古い家屋が残っていて(12世紀建立)、いまでも花屋として活用されている。ブルターニュ地方は作家シャトーブリアンに縁のある土地で、いたるところで彼のモニュメントをみかけた。


(カンカル)

(ドル・ド・ブルターニュ)

第二グループはまず、「美しい村」のサン=シュリアック(Saint-Suliac)へ。広い湾岸沿いに面した小村で、なだらかな傾斜のある丘陵に家々が立ち並ぶ。小さな教会には、漁師を助ける珍しいキリストのオブジェがあったが、この辺りの伝説だという。引き続き大西洋の街サン=マロ(Saint-Malo)へ。サン=マロはランス川河口で中世に要塞化された島で、海賊・私掠船「コルセール」の牙城だった。土曜の夜のため、多くの人々で目抜通りが賑わっていて、こちらも心が躍った。


(漁師を救済するキリストの彫像。その辺のDIY用品店で売っているようなアルミ製の棒をキリストに持たせるのは無理がある演出)

(小村サン=シュリアックの民家で突如見かけた不気味な植物。根っこはソテツ風だが、低木ではなく、高々と枝が伸びている。)

早朝、モンサンミシェル周辺をドライブして、ブルターニュの日の出を見る。朝靄にオブラー状に覆われた空に陽光が登っていき、光の輪が遠方まで広がっていく。周囲では鳥や牛、虫などのさまざまな生き物の鳴き声で空気が埋まっている。


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(もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。─魯迅)

Plus le visage est sérieux, plus le sourire est beau. ─François-René de Chateaubriand
(顔が重々しく真剣であればあるほど、その微笑みは美しい。─フランソワ=ルネ・ドゥ・シャトーブリアン)

その後、レンヌからパリへ。駅での見送りには現在の留学生らが駆けつけてくれる。駅はこうした到着と出発、定住と移動を演出する優れた場所だ。パリではサンミシェルのポン=ヌフ前に広いアパートを借りたが、改装したばかりで近代的な内装が見事。


(ポン・ヌフPont Neufは「新橋」の意味だけど、16-17世紀にかけて建設された最古の橋)


パリでは、学生らに映画「ヒロシマ・モナムール」の上映討論会に参加してもらった。上映後に立教大学の関未玲氏との対話をおこない、会場との質疑応答をもうけた。「本作は反戦映画か否か」「被害者の視点が描かれているかどうか」「表象不可能性はいかなる役割を果たしているのか」「集団的な破局的出来事は個別の喪を介してしか共感しえないのではないか」「名を贈与することからいかにして物語が紡ぎ出されるのか」といった議論が展開された。



最終日は、ワークショップ「日本におけるフレンチセオリー」を実施した。フランス現代思想が日本にいかに輸入されたか、また、日本文化との接触が当の思想家自身にいかなる影響を与えたかを議論する画期的な催事である。リオタール、デュラス、ブランショ、バルト、ドゥルーズ、デリダに関する優れた中堅研究者による力のこもった発表が続き、小林康夫氏が説得的な閉幕のスピーチをおこなった。これで、国際哲学コレージュでの最後の仕事、6年間のディレクター職が無事に終了したことになり、感無量である。


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以上、学生8名とフランスにて14日間の国際交流プログラムを無事に終えることができた。学生らの発表準備にはクリス・ベルアド助教の懇切丁寧な支援を得ることができた。レンヌ大学の見学に関しては、国際交流課長Amal Jouffre-El Amrani氏や高橋博美氏、八木悠允氏らの適切なサポートを得た。みなさんの支援に深く感謝したい。最後になるが、今回の充実した交流はひとえに国際交流プログラムの経済的支援によって実現したものであり、その重要な援助に心より感謝申し上げる次第である。


希望に満ちて旅行することは、目的地に辿り着くことよりも良いことである。─スティーブンソン

飯澤愁(仏文修士2年)

飯澤愁(仏文修士2年)



3月9日。日本では厳しい冬を抜け出し、ようやく暖かさを感じる頃である。繰り返されるアナウンスの残響を聞きながら、薄暗く静まり返った真夜中の空港で離陸の時を待った。二年前の短期留学と全く同じ光景に、不思議な高揚感を覚える。一日の境目に飛びたち、気流の乱れに揺られ続けること12時間。到着したシャルルドゴール空港は日の出前で、既に過ぎ去った2月の気候を思い出すような寒さをまとっていた。

相変わらず緩い入国審査を手早く済ませ、予め告示されていたフランス国鉄のストライキを懸念しつつも、さしたる問題なくRERでパリ中心部に向かう。厚い雲に覆われたパリの郊外が車窓を流れてゆくのを目にしながらも、不思議とフランスに来たという実感は沸かず、代わりにもたらされるのは妙な既視感であった。それがどこから来るものなのかはわからない。故郷の八王子の冬景色か、二年前のフランスで見たそれか、それとも先日観光した東北地方の、日本海側特有の曇り空なのか。いずれにせよ、強すぎるほどのヨーロッパの日差しを感じるには、未だ数日を待たねばならなかった。

今回私は大学院修了の卒業旅行という形で、西山教官が毎年行っている本企画に同行することを許可していただいた。まずはそのことについて、西山教官にお礼申し上げたい。学部時代の卒業旅行、リヨンでの短期留学と、私がフランスに来るのは今回で3度目である。3度目とはいえ、今回の滞在で訪れることになるパリおよびブルターニュ地方について詳しく知悉しているわけではなかった。慣れない旅でかつて見た断片的な光景を折りに触れ思い起こしつつも、今回の滞在は新鮮な体験に満ちていた。学生の数は私を含めて8人であった。既に長期留学を経験した学生と、フランスにはじめて来る学生の間で、このような私の立場は中途半端なものであった。フランスに来るのははじめてではない。しかしながら、それほどフランス語が達者なわけではなく、パリの地理関係にも疎い。

大学で私はフランス語とフランスの文化・思想を専攻してきた。しかしながら、来月から社会人になるにあたって、大学生活の多くを費やしてきたフランスに関する研究はとりあえず終了することになる。大学院に進学しながらも、他の多くの院生と同じように博士課程に進み、研究者としてのキャリアを選ぶことなく社会に出る私の立ち位置が、本滞在における私の立場に重なって見えた。では、フランスという国、その国が紡いできた文化と、これから自分はどのように関係していくのか、その立場をおぼろげながらも見通すことができたら。本滞在において私が抱いていた目的はこのようなものであった。

到着して一日目はパリで過ごした。吹き付ける雨風の中、ある場所へと向かった。半年前、同時多発テロ事件が起こった現場である。一連の事件に対する解釈・立場は様々であり、専門家の間でも千差万別である。私自身、今回の事件に際してフランス対テロリズム、犠牲者対加害者という単純な構図を採用するつもりはないし、他方でフランス、ひいてはEUの、それ自身が内包する問題を顕在化するような出来事であったとも思う。そのことについては事前に学生同士で意見を交わす機会があった。



その一方で、現場にたどり着いた私達が明確に対峙したのは、半年前に多くの人びとが犠牲になった現場そのものである。襲撃を受けたカフェはまるで何事もなかったかのように運営を再開しており、テロがあったと言われなければその事実に気づくこともなかっただろう。それでも、半年前のこの場所で突然の爆発が起こり、つい一瞬前まではよもやテロに巻き込まれるとは思っていなかった人々が被害にあったと思うと背筋が寒くなった。

嵐から逃げこむようにたどり着いたポンピドゥー・センターは、同じような人達で溢れかえっていた。オスマン県知事によるパリ大改造以来の歴史的な街並みを残すパリに突如として現れる、無機質で工場のような巨大建築。しかしながらそのポンピドゥー・センターももうすぐ開館40周年を迎え、クラシックな趣を醸し出しつつある。前衛と伝統の間を絶え間なく歩むフランス美術史を、その建物自体が象徴しているように感じられた。

パリでの目まぐるしい一日を過ごした後、TGVでブルターニュ地方の中心都市レンヌへと向かう。首都大学東京はレンヌ大学と交換留学協定を結んでおり、専攻を問わず多くの学生がレンヌに留学を行っている。今回滞在を共にした学生が長期留学を過ごした街もレンヌである。彼らの話をいつも聞いていたので、どうも初めてという感じがしなかった。現在レンヌに留学している学生とも再開を果たし、観光案内をしてもらった。道中を彼らを共にすることで、現地で生活する彼らが街を見る視点を共有できたような気がした。

レンヌ大学および語学学校CIREFEでは、大学の授業、語学学校の授業、そして現地の学生の日本語クラスを見学させていただき、さながら留学生のような体験をすることができた。大学の授業ではブリジット・プロスト教官によるモリエールの授業を聴講した。モリエールの生涯の概説からはじまったブリジット教官の講義はさながら演劇のようなテンポの良さを伴い、聞き手を惹きつけて離さなかった。日本からくる我々のために、日本語字幕の資料も用意していただいた。日本語クラスの授業では現地の学生と交流した。前回の短期留学でも感じたことであるが、人が語学習得を志す理由は千差万別である。中には中国語と平行して日本語を学習する学生もいた。それと同様に、人が語学習得のプロセスで得るものもまた、外国語能力に留まることなく広がっている。フランスに留学している学生は皆、自らの考えを明確に言語化し、主張する能力を飛躍的に向上させており、彼らが短期間で果たした驚くほどの人間的な成長に感動を覚えた。


(夜は皆で夕食をとった。既に留学を終えた学生、現在留学の最中である学生、そしてこれから留学に臨む学生、それぞれが一堂に会し、交差する。東京にある大学から遠く離れたこの街で、彼らが創りあげる歴史が確かに息づいているのを感じた夜であった。)

翌日、レンヌを後にし、レンタカーでモンサンミッシェルに向かう。道中、港町カンカルや古い町並みを残す地域ドル・ド・ブルターニュを訪ねた。通常、ある国について私たちが抱くイメージは大きな都市と結び付けられる。フランスならパリやリヨン、日本なら東京や大阪といった具合である。国を構成するのは各大都市を核とした道路のネットワークであり、実際にフランスの全国地図を眺めると、各主要都市からそれぞれに向かって放射状に大きな道路が走っているのを確認することができる。一国の成立史を概観する際にもこの認識は重要であろう。

しかし、当然ながらそれだけがその地域の全てではない。教科書や観光案内には書かれていない、インターネットで検索してもヒットしない場所で地表は埋め尽くされており、それぞれがその土地にしかない歴史と現在を有している。ドライブの旅で触れることの出来るものは、決して名所にひけをとることがない。事実、西山教官がホテルの受付で訊いたモンサンミッシェルが見える場所は、知る人ぞ知るといった風で人気のない道であったが、そこで見た朝焼けと、蜃気楼のように地平線に浮かぶモンサンミッシェルは生涯忘れることのない光景であった。


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(夜はライトアップされるモンサンミッシェル。修道院の内部は様々な年代の建築様式が入り乱れ、次々に姿を現す)

モンサンミッシェルで一泊を過ごし、パリに戻る。着いてすぐ立ち寄ったノートルダム大聖堂ではミサが行われていた。この場所に存在するあらゆる技術や人々の思い、その蓄積がキリスト教を志向している。張り詰めた空気を伝っていく聖火の合唱、荘厳な建築、祈りの言葉、壮麗な装飾。それら全てがまるで集中線沿うかのように、正面に鎮座する十字架へと集約されてゆくのを肌で感じた。


(パリで一週間を過ごすアパルトマンはソルボンヌ大学のある6区にあり、セーヌ川越しにシテ島を臨む好立地。にもかかわらず内装は驚くほど近代的かつ美しく、そして広かった)

パリに着くと旅の疲れからか数年ぶりに体調を崩し、一日を寝て過ごすことになってしまった。翌日、病み上がりの状態で向かったのはカタコンベ(地下墓所)であった。おびただしい数の人骨、薄暗い閉鎖的な空間、そして湿気を帯びた空気。今回の滞在はテロから日も浅いこともあって、私は事あるごとに死の影を背後に感じていた(大げさに聞こえるかもしれないが、帰国直後にヨーロッパで起こったのはベルギーのブリュッセル空港での連続爆破テロである。それが21日のシャルルドゴール空港では起こり得なかったと誰が言えるだろうか)が、吐き気と闘いながら、朦朧とする意識が最も死を想わされた瞬間であった。

西欧では少なくとも、骸骨は一つの象徴でもあった。すなわち、人間にとっていずれ到来する「死」のあるべき姿としてそのイメージは用いられてきた。だからこそ、メメント・モリが叫ばれた時代、骸骨は多くの芸術作品において描かれることとなった。しかしながら、土葬が主流のヨーロッパと違い、墓地埋葬法によって遺体の処理が規定されている日本では、ほとんどの死者が火葬に付される。火葬場では必ず、埋葬の前に死者の骨を見ることになる。日本人のメンタリティにとって、骸骨が想起するのは死体であり、死者であるように思う。

カタコンベはどうだろうか。土葬で溢れかえった土地を整理する際に出てきた大量の人骨を埋葬するためにパリのカタコンベは創設されたそうだが、土葬が死後の復活を信仰するが故に行われるのだとしたら、肉を失った人々を衆目に晒し続けるのはどのような思想に基づいて行われているのか疑問に感じた。日本人の私の目には匿名の死者の人骨が無機質に装飾され、土に埋葬されずにいるさまは強烈な光景として映った。カタコンベは開場前から行列ができていたが、思い返してみると日本人の姿は極端に少なかった。


(壁一面が人骨、それも髑髏で構成された異様な空間。ただし、表面から見える、丁寧に配置、装飾されているのはほんの一部でしかなく、その裏には600万体分の遺骨が乱雑に積み重ねられているそうだ)

その二日後、パリに本部を構えるユネスコを見学する機会を与えられた。インターンシップで勤務している大学院生に的確なガイドをしてもらいながら、施設を見学する。日本風の庭園や被爆したコンクリートを用いた瞑想の場など、思った以上に日本にまつわる施設が多い。外務省が繰り返し強調しているように、唯一の戦争被爆国としての日本の地位が特権的なものとして国際社会において受容されているという事実を改めて実感した。また、特に印象的だったのはユネスコ憲章前文の書き出し「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」が10の言語で記されたモニュメントである。ユネスコのその在り方の当否について問われることも多い(例えばユネスコの最も有名な功績である世界文化遺産の登録基準など)が、平和を希求する機関のその象徴性を感じる見学であった。施設内部には「平和」、「和平」の文字がいたるところに見られる。「平和」、「和平」とは何を意味するのか、それらを問い続けるためにもこうした施設は重要であろう。


(ジャコメッティのL'homme qui marche「歩く男」が飾ってある。その弱々しく儚いフォルムをみながら、「我々は血を吐きながら、繰り返し繰り返し、その朝を越えて飛ぶ鳥だ」という『風の谷のナウシカ』の台詞を思い起こした)

夜は『ヒロシマ・モナムール』上映会に参加する。本作品の視聴を通じて感じたテーマは「記憶と忘却、記録」である。一切の無駄が排除された一組の男女(日本人の男とフランス人の女)の会話は女の、故郷でドイツ人兵士と恋に落ち死別、そのことによって地下室に軟禁されるという、トラウマ的な過去を引きずりだす。女にとってその体験は既に記憶に変質しており、再現前という仕方で新しい体験として女自身にもたらされる。ヒステリックになる女とは対照的に、まるで自分にはその辛さは理解できないと言わんばかりに沈着した男の態度。他者の記憶を共有することはできても、その固有性、あるいは個人の生々しい体験は共有不可能である(では、作中を通じて行われた彼らの肉体的精神的交感は何をそれぞれにもたらしたのか?)という一つの命題を、私はこの映画を通じて感じていた。

その一方で本作品の筋書きを重要な点は、女がヒロシマを、戦争を題材とする映画を撮影するために訪れたという所である。作品冒頭において、女のナレーション的な事実の羅列とともに流される断片も戦争の記録である。西欧社会において、記録という作業は古くから特権的な役割を保持している。今回の滞在でもカタコンベ、記念碑や銅像、ユネスコの施設など、数多くのモニュメントを目撃した。千年近く前の建築物をも残すヨーロッパの町並みは、それ自体が一つの記念碑であると言えるだろう。人類はそうした、個人の記憶能力を超越した記録によって目覚ましい進歩を遂げ、あるいは「忘れてはならないもの」を半永久的に保存することに成功している。

では――ジャック・デリダが『プラトンのパルマケイアー』を中心に問うていることでもあるが――忘却を過剰なまでに忌避するかのような記録の作業は常に有効であり、忘却に勝るのだろうか。戦争をはじめとする象徴的な出来事の記憶を記念碑として残す作業は、ユネスコの世界文化遺産活動に代表されるものである。その際に想起されるのは「罪と罰」の観念であろう。人類の罪を忘れないために、あるいはそれらを「罪」として固定するためにこれらの記念碑は機能している。他方、例えば神道において「天罰」の概念は本来存在しない。自然災害の多い日本という土地において、人々は天災に見舞われながらも、それらを忘却しながら生き残ってきた。人類が経験してきた幾多の罪――迫害、原爆、テロ、紛争、公害――、これらが「罪」であるとするなら、それらはいかにして赦されるのか、赦し得るものなのか、そもそもそれらは罪でしかないのか。記憶と忘却、理解と非理解が階層的二項対立で捉えられることの多い現在において、これらの問題を見据えるために本作品は数多くの視点を提起している。

最終日は西山教官の主催する国際セミナー「日本におけるフレンチセオリー」に参加した。西山教官の発表はデリダの日本における受容の歴史や、脱構築における翻訳の試練についてという刺激的な内容であったが、それだけでなくいたるところに綿密な計算によるギミックの施されたパフォーマティヴな発表であった。その仕事の技量、構成力、ならびに国際セミナーを成功させ国際哲学コレージュのディレクターを完遂する超人的な手腕に最大の賛辞を捧げたい。セミナーには日本の第一線で活躍する研究者、院生が数多く列席していた。同時に、質疑応答では多くのフランス人が質問・意見を寄せていた。日本の研究者がヨーロッパの言語でヨーロッパの思想について発表を行い、それをヨーロッパの人々が歓待し、互いに交流する。学際化・国際化が進むアカデミズムの先端を垣間見たような気がした。彼らの中には研究者もいれば在野の人もいるだろう。様々な視点から寄せられる質問に登壇者は時には言葉をつまらせながらも、真摯に応答していた。以前エコール・ノルマルで哲学の授業を聴講したときも、受講生の多様さに驚かされた。万人に開かれた場で誰もが自由に意見を交わすことのできるというのは、議論を教育の中核に据えるフランスの風土を反映したものといえるだろう。


(発表に際して突如独りになる西山教官。"Je suis seul(e)"と、デリダの講演『獣と主権者』を再現前化させるかのような演出)

滞在を通じて、何度かパリの書店に足を運んだ。フランスの高校教育について興味があったため、高校の教科書を買うつもりでいたのだが、気が付くとフランス語の参考書を選んでいる自分に気づいた。大学で第二外国語を専攻した理由は、ひとえにフランスの哲学を原書で読解することに尽きる。いわばフランス語はツールであり、それ以上の積極的な意味を見出すことはなかったはずであった。来月から私は民間企業で勤務する。欧米とのつながりの強い企業であるので、ゆくゆくは欧米と直接的に関わる職務も増えることだろう。しかしながらそれはフランスに限定されているわけではないし、なにしろ基本的に要求される能力はフランス語ではなく英語である。では、私はアカデミズムを離れながらもフランス語の学習を、それも読解だけでなく総合的な能力の習得作業を続けようとしているのか。それは、大学院生活を通じて私の中でフランス語が、単なるツールを越えたなにかに変容したからに他ならない。授業では実践的にフランス語を用いるようになり、それは留学生とのやり取りで活かされた。フランス語で思考し、コミュニケーションを取るという行為は、間違いなく私の生活の一部となっていた。もしも人生の在り様を「生きるvivre」という動詞にすることができるなら、それは個人のアクティビティの総体である。勉強すること、歌うこと、スポーツをすること、食べること、、、それらはすべて生きることと同義であると言えるだろう。確かに私はこの滞在の終了とほぼ同時に大学院を卒業・修了するわけだが、生きることを卒業することはできない。上記の無意識の行動は、卒業という制度上の区切りに対する実存の抵抗であったのかもしれないと述懐している。ともあれ、代替の効かないアクティビティとして、私はフランス語を選択していたということに気付かされたことが、本滞在における個人的な収穫の一つである。

末筆ながら、本滞在を可能にしてくれたすべての人に心からの感謝を捧げたい。レンヌでお世話になった藤原教官をはじめ、今回の滞在を支えてくれた仏文教室の方々、現地でお世話になった留学生。とりわけ日頃からお世話になっている八木さんには本滞在においても公私共に本当にお世話になり、感謝の言葉もない。留学生の方々のフランスでの生活がよりよいものとなるよう祈る次第である。レンヌ大学の関係者の方々、私達を心から歓待してくれたブリジット・プロスト教官、パリ・レンヌで会った友人たちにも感謝を捧げる。また、本滞在をともに過ごしてくれた学生全員にも心から感謝を捧げる。あまりにも濃密な滞在のなかで肉体的・精神的に辛い時、彼らの人柄には本当に助けられた。本滞在が実りあるものとなったのは皆のおかげであると断言したい。本滞在がメンバーの今後の人生に資するものであることを信じてやまない。そして、指導教官でもある西山教官には本滞在を通じて多くを教わった。今後の私の人生においておそらく、これほどまでに豊かな短期滞在は実現しないだろう。ひとえに西山教官のオーガナイズのおかげである。本滞在だけでなく、3年間の大学院生活が最良のものとなったのも、西山教官の取り計らい、導きによるものである。特権的な謝辞を捧げたい。最後に、幾重にも渡る外国滞在を快く許可し、大学院生活を支えてくれた両親にも、併せて感謝の意を述べたい。


(夜を突き抜けるようにして日本にたどり着く。その流れに振り落とされるかのように、現地での生々しい体験の多くは消え失せてしまった。遠く離れた日本の地で、写真という記録媒体を使って、今その思い出を追体験している)

土橋萌(仏文4年)

土橋萌(仏文4年)


 今回の滞在は、私にとって、フランスとの関係の節目の滞在だった。この3月に私は大学を卒業し、フランスに関わる学業から離れる。今回の渡仏は、高校からはじまったフランスとの関係の、総まとめになるものだった。

 …しかし今回の滞在中、私は体調を崩しっぱなしで、さらに次々とやってくるイベントの波にのまれて、感慨に浸る心と時間の余裕はあまりなかった。とはいえ今回の滞在があまりに上手くいき、きれいにまとまってしまったら、フランスとの関係が本当に「これで終わり」になってしまうような気がするので、節目の滞在がドタバタで大変だったのもよしとしよう。今回の滞在を後で振り返った時、どんなふうに思い起こすことになるのか楽しみである。

 今回パリに滞在し、こうして旅行記を書いていて、11月13日のテロ事件に触れないわけにはいかないだろう。テロ事件から4ヶ月経った現在のパリの印象は、「テロ事件のことを忘れてしまうほどにいつも通りだった」に尽きる。もっと言えば、「忘れてしまう」よりも「思い出せない」ほどに、だ。フランスに着いて初日、私たちはテロのあったカフェとバタクラン劇場を訪れた。


(カフェ。パリに着いてはじめて人心地つく。)

(バタクラン劇場。白いテープで弾痕が覆われている。)

カフェは通常営業していて、4ヶ月前に攻撃を受けた場所とは思えなかった。しかしそれに対し、バタクランは重々しい雰囲気に包まれていた。天気が悪く、雨が降り冷たい風が吹いていたのもその雰囲気を醸し出すのに一役買っていたとはいえ、銃弾の痕が残るその建物は全体から痛々しい空気を放っていた。早々にその場を後にし、それ以降は一度もその一帯を訪れなかった。またその初日以外、パリは基本的に晴天で、滞在していた宿はパリの中心地にあったため、私は「いつもの明るいパリ」ばかりを見ていた。そうしているとテロがあったことなど微塵も思い出さない。日本にいる時、どこかのメディアで「パリの人たちはいつも通り生活することで、テロに屈しない姿勢を見せている」という意見を読んだ。このパリの「いつも通り」の様子は、その姿勢の結果なのだろうか。それとも、すでにテロ事件のことを忘れはじめているのだろうか。

 出発前に、今回フランスに滞在する学生たちで「ヒロシマ・モナムール」という映画について勉強をした。滞在中に西山先生がこの映画のセミナーを行うことになっていたからだ。軸となるテーマは「核(原爆、原子力)」で、ヒロシマとフクシマを結びつけるものだったが、映画の中にはそのほかにも様々なテーマを見つけることができ、そのうちのひとつが「忘却すること」だった。このテーマはテロ事件にも通じるところがあるだろう。カタストロフィを経験した人は、天災であれ人災であれ、「忘れてほしくない」「風化させたくない」と言う。だが、「忘れることによって次へ進むことができる」ということも事実なのだ。あまりに悲惨な出来事の前では、忘れることでしか癒されない場合もあるだろう。だから悲劇のあった場所にはいつも「忘れていいのか」と「忘れなくていいのか」という、相反する問いが立ち上りつづけている。パリの街は、どうするのだろうか。

 テロの現場を見た翌日、つまりパリに一泊だけしてすぐに、私たちはレンヌに出発した。レンヌが、今回の私の最大の目的だった。2013年から2014年にかけて一年間留学をしていたその土地に一年半ぶりに訪れて、どんな気持ちになるのか楽しみだった。


(久しぶりのモンパルナス駅。この掲示板はレトロなまま。)

 だが、はじめに述べたように体調不良だったことと、忙しかったことで、あまり満足にレンヌ滞在を満喫できなかった。かろうじてレンヌに対する気持ちと向き合えたのは、レンヌに向かうTGVに乗っていた時と、レンヌに着いて一人メトロに乗っていた時だった。初日にフランスに着いて、シャルル=ド=ゴール空港からパリ市内に向かっている時は、何も感じなかった。パリ市内に着いて周りを見渡しても、パリの景色が視界を流れていくだけでしかなかった。けれど、レンヌに向かうTGVの中で、私はわくわくしていた。今回のフランス滞在中にあんなに気分が高揚したのはこの時だけだったかもしれない。はやる気持ちでレンヌに到着し、見慣れた駅に足を踏み入れた時、懐かしいと思うと同時に、すぐ私はレンヌの空気になじんでしまった。一人でメトロに乗りこんだ時にはもう「久しぶり」という感じすらせず、「ここにいるのが普通」という気分だった。こんなに違和感がないことを不思議とすらあまり思わなかった。どうやら日本にいる自分とフランスにいる自分が完全に乖離してしまったようだ。もはやどちらにいても自然で、一方から一方へ移動してもその度に齟齬を感じることがなく、一方の国にいる時はもう一方の国の自分が死んでいる、そういう状態。フランスで過ごした時間は一貫していて、レンヌ留学を終えてフランスを出国した時点と、今回の滞在のためにフランスに入国した時点は直接繋がっている。その間には日本で過ごした時間が横たわっているのだが、「フランスの私」にはあまり関係のないことなのだ。けれど、CIREFEにいたクラスメイトを街中で見かけたり、サンタンヌ(レンヌの中心地)の大掛かりな工事が終わっていないのを見たりして「変わってない」と驚くこともあれば、知らないお店ができていたり、寮の設備が少し変わっていたりして「一年半も経ったんだ」と驚きもした。それは断絶した時間がなければ感じない驚きだ。

 私はメトロの中で、「懐かしい」や「嬉しい」といった高揚感のある感動をすっ飛ばして、「気持ちが平常である」ということの感慨に浸っていた。レンヌと自分について落ち着いて考えられたのはこの時だけで、あとは次から次へと予定をこなしていくのに精一杯だった。さらに丸一日フリーにしてもらった日も体調が悪く、やりたいことを100%やりきる前に部屋に引きこもる羽目になってしまった。

 とはいえ、レンヌで体調が悪くてむしろ良かったかも、と思ったこともあった。私はレンヌ滞在中、今留学している後輩の寮の部屋に泊まらせてもらっていた。私が前に暮らしていたのと同じ寮で、棟は違うが建物は同じところだった。今レンヌに留学しているほかの首都大生も、もちろん同じ寮に住んでいる。みんなが揃って夕食に出かけた日、私は体調が悪かったので後輩の部屋に残らせてもらうことにした。一人で部屋にいると、なんだかとても奇妙な気分になった。寮なので部屋の構造や配置はどれも全く同じで(ただし水回りの関係で家具の位置が反転している部屋もあるが)、自分がまだ寮の自分の部屋に住んでいるような錯覚に陥った。後輩の私物に注目すればすぐに消えるような錯覚だったが、ぼんやりと部屋を見ていれば何度でもその錯覚に包まれる。寮というのは不思議な箱だ、と思った。学校という場所もそうだが、中身はどんどん入れ替わるのに、大枠の建物はほとんどまったく変わらない。ただ、「もうここはお前の場所ではない」というメッセージが、そこにある物から発せられている。あの不思議な空間に一人きりでいる時間を得ることができて、私はよかったと思う。

 それから私が体調を悪くしただけでなく、泊まらせてくれた後輩も熱を出した。他の後輩に助けを求め、夕食を作ってもらったり、別の後輩の部屋に移らせてもらったりした。こんなふうに具合を悪くしたことはなかったけれど、私が寮に住んでいた時も、寮にいる人たちとゆるやかに助け合っていたことを思い出し、その追体験をしているようだった。どちらも寮に滞在させてもらって、体調を崩していなければ体験できなかったことだ。

 再度レンヌを訪れたほかの人も言っていたが、私たちの後はしっかり続いているのだと実感した。今回一堂に会したメンバーには、レンヌ留学を経験した、今経験している、そして次の九月から経験する学生たちが、初代から五代目まで揃っていた。私がレンヌに来る前には、レンヌ留学の道を体当たりで開拓してくださった八木さんしか経験者がいなかった。それが今では、四代分の経験者がいる。留学に出発する前は右往左往していた後輩たちが、今は自信を持って行動し、次に留学に来るさらに下の後輩たちにアドバイスをしている。


(学生みんなでレンヌ市内を散策中。)

「歴史を“紡ぐ”」という表現や「“連綿”と続く」という言い方が布や綿と関連しているのは非常に納得がいく。私自身、手編みのマフラーでも見ているような気分だった。私の時にはまだ一段目しかなく、ただの線だったものが、今ではもう五段目を編みはじめるところまできていて、一枚の布になりつつあるのだ。そうしてこれが続いていけば、長いマフラーになるのだろう。

 四日間のレンヌでの滞在が終わったあと、私たちはまたパリに戻ってきた。私にとってはもう何度も訪れているこの都市で、今回よかったのはルーヴル美術館だった。今さら?という感じだが、高校生の時ルーヴルに行って人の多さに辟易してから一度も訪れていなかったのだ。そういうわけで、五年だか六年ぶりのルーヴルだった。二年生五人と一緒に行って、多くの作品は見られなかったが、オーディオガイドを聴きながらそれなりにじっくり見て回ったと思う。それでようやく、ルーヴルの価値を理解した。作品によってはすでにその大きさだけで圧倒されるというのに、さらに一つ一つの作品の力が凄まじい。おそらくそれは絵画の完成度であったり、作者の意図であったり、その古さからくるものであったりするのだろう。そういう作品があの広い建物を埋め尽くしているのである。気が遠くなるほどだ。次にルーヴルに行く時には、必ず見る作品を決め、辿るコースを決めねばなるまい。
 パリは街としてはあまり好きではないが、やはり文化の中心として華々しい場所であるということを再確認した。ほかの学生が言っていたことだが、パリには「本物しかない」のだ。

 それから、今回のプログラムの一環として、ユネスコ本部を見学できるという機会をいただいた。案内をしてくれたのは明るくて感じのいいイタリア出身のマルコさんという方で、ところどころイタリア語訛りだけれど聞き取りやすいフランス語で説明をしてくれた。私はこの時少しだけ通訳のようなことをしたが、彼の説明が分かりやすかったので、だいたいのことは間違いなく日本語にすることができた。
 最初にユネスコの、おそらく一番重要なホールに通されたが、改修中らしく少し雑然としており、照明が落ちていて暗かった。ここで重要な会議をしているとはあまり想像ができなかった。


(ユネスコの設立をマルコさんが丁寧に説明してくれた。)

 ユネスコ本部には加盟国から寄付された作品がいたるところに飾られている。その中のひとつに、壁一面に描かれたピカソの絵があった。この絵にはちょっとしたエピソードがあり、マルコさんは、この絵だけは無償で寄付されたものではないと説明してくれた。ユネスコ本部が建てられた当時、スペインはフランコ体制下にあった。ピカソはフランコ将軍が嫌いだったので、フランコ将軍にこの絵を買わせて、スペインからユネスコに寄付させたという。また、この絵は屋内にある大きな絵なのだが、絵の前には二階の通路があって、一階からこの絵の全部を見渡すことができない。その配置に納得がいかなかったピカソは、この絵に署名を入れなかった。「署名はないけど、ちゃんとピカソの作品ですよ!」とマルコさんはお茶目に言っていた。


(ピカソの絵。写真に収まりきらない大きさ。)

 驚いたのは、ユネスコ本部の中に日本が関連するスペースが中庭に三箇所ほどあったことだ。まず一つはイサム・ノグチ氏の手による日本庭園(を模した中庭)。庭師でなく建築家によって造られた、世界ではじめての庭園だそうだ。敷き詰められた石は、日本庭園の美しさを損なわないためにわざわざ日本から持ってこられたという。日本庭園の終わりには不思議な記号が彫られた岩が立っており、そこから水が流れている。水流が止まっている時には、水面に映る不思議な記号がちゃんとした形を成して、「和」という文字に見えるらしい。


(日本庭園の中には桜の木もあるらしい。)

(この記号がどう「和」になるのか想像できない。)

二つ目は「長崎の天使」。これは壁に設置されている目元の崩れた天使像だが、もともと長崎の教会に飾られていて、原爆に遭ったものだそうだ。


(右上にあるのが「長崎の天使」。首から上しかない像だが、ちゃんと羽があるのがわかる。)

最後に、安藤忠雄氏設計の、「瞑想の間」という母親の胎内をモチーフにして造られた空間があった。ここは音が不思議に反響するような造りになっていた。この空間に使われている石も日本から持ってきたもので、広島で放射線を浴びた石だそうだ。もちろん除染済み。

 この三箇所のモニュメントは日本と関連があり、それぞれ平和への志向に結びついている。特に日本庭園は、ユネスコ本部の中庭の半分を占めており、その思想がユネスコに受け入れられ、強く結びついていることがわかる。今回はじめてユネスコ本部がパリにあることを知り、その敷地内には日本の要素を持つものが散りばめられていることを知った。今回このプログラムでユネスコを訪れることができ、よい体験をすることができたと思う。

 私にとって、旅行とは困難と向き合うことだ。言葉が通じない困難、文化の違いにより生じる困難。そしてそこから生まれる疑問や劣等感に向き合う困難。困難に何度もぶちあたり、その都度考えつづける。だから、旅行は楽しいものではない。楽しいだけならそれはただの「観光」である。方向性は多少異なるが、カミュもまた旅行の価値を「恐怖la peur」にあるといい、旅行することの中に「快楽plaisir」でなく「苦行ascèse」を見出している。私は言葉の面において、フランスで困難な思いをすることは少なくなった。けれどフランスに滞在する度、違った困難がある。一度として「観光」であったことはない。

 今回の滞在も、思考することの多い「旅行」となった。このような滞在の機会と、さらにその思考をこのような報告文(旅行記)で共有できる機会を与えてくださった西山先生に感謝を申し上げます。三年前にも同じプログラムに参加させていただき、一年の留学を経てまた今回も声をかけていただいたことを光栄に思います。ありがとうございました。またレンヌでご同行してくださった藤原先生、レンヌ滞在のコーディネートをしてくださった八木さん、それから今レンヌに留学している人たちにも、この場を借りて感謝申し上げます。

堀裕征(仏文3年)

堀裕征(仏文3年)




7月末に帰国してから、およそ8ヶ月が経過した。再びフランスへ赴く。前回と違うのは、言葉の自由が利くこと。また、一度環境に慣れているため、再度慣れるまでに時間が掛からないことだ。CDG空港に到着した時点で得られると思っていた感動は薄く、パリを散策している時でさえ「ここは本当にかつて自分がいた国なのか」という疑問との戦いであった。聞き慣れた言葉を再びシャワーの様に浴び、懐かしいはずの街の雰囲気でさえも違和感を抱かせた。あろうことか、散策中に口にしたケバブ屋が、最も自分に感動を覚えさせた。何十回と唱えた言葉を呪文のように口にする瞬間、留学時の記憶がフラッシュバックしたのだ。まるで、雷に打たれたかのような衝撃だった。



平々凡々と街を歩き、店に寄り、食事を摂る。留学中に繰り返した行動が記憶を呼び覚ますのは当然であった。また、記憶に残る場面でありながら、出国や入国が自分にノスタルジーを与えてくれないことは自明であった。フランスでの生活が身についていたとしても、海外と日本を行き来することが日常であったことなど一度も無かったからだ。留学時と今回の滞在での経験の擦り合わせに、ズレが生じている。当たり前のことに目を背けたかったのかもしれない。フランスという国に対して、感動を覚えられなかった自分を認めたくなかったのかもしれない。それら意識が無意識のうちにブレーキをかけていたのだろう。このことに気がついたとき、まるで今日の雨上がりの晴れ模様のごとく、頭にかかっていたモヤが消えた気がした。歯車はかみ合い、好転している。短い滞在の中の、さらに短い滞在であるレンヌ滞在。これほどまでに胸を踊らせてレンヌに向かうことがあっただろうか。その新鮮さを噛み締め、明日に臨みたい。

日が昇るよりも早く目が覚めた。前日の荒れた天候とは打って変わって、空気が澄んでいて、寒さもそれほど厳しくはない。煙草を吸おうと外に出た。幸い時差ボケは無かったものの、実感の薄さからか、まだどこか惚けた感覚の中にいた。煙草を吸っていると、一人のフランス人に煙草をねだられた。そのとき、ここがフランスであることを思い出した。Montparnasse駅にあるQuickで朝食を摂り、そこで藤原先生と合流した。昨年、一度フランスでお会いしているからだろうか、特に奇妙な感じもせず、むしろ懐かしい感じがした。Quickで電車を待つなんてことも、いってしまえば久しぶりで、相変わらず愛想の欠片もない接客もどこか嬉しかった。パリを出て、窓からの景色にだんだんと緑が増えてくる。近づいている。毎秒その実感は濃くなっていく。アナウンスが掛かるたびに鼓動が早まる。長旅を終えて故郷に帰るような、とでも言うのだろうか、胸が躍った。多少の変化は見られたが、駅のアナウンスや匂い、全てが懐かしかった。自分の過ごした1年間という、夢のような期間溜め込んだものが、堰を切って流れ出てきた。レンヌ第二大学に着いてすぐ、相変わらず異様な存在感を放つ“D”と描かれた建物が目に入った。不意に笑みがこぼれた。授業に臨む前にカフェテリアに寄った。相変わらず暖色の暑苦しい内装が鬱陶しい。偶然にもかつての担任と再会をした。「誰かに会えたらな」という密かな期待をしていたため、これは嬉しかった。帰国後に、留学に関して大変お世話になった、ソランジュ先生と話した時や、マコンで親戚と話した時の様な、これまで間を隔てていた壁が崩れ去ったような音が聞こえた気がした。CIREFEの授業も相変わらずで、先生と生徒が和気藹々とした空気を作り上げており、ここで今も授業を受けている首都大の学生を羨ましくも思った。夜になり、すでに日本でお会いしたことのあるBrigitte氏のお宅で夕食を頂いた。晩餐会という言葉が相応しいほど豪華な作りで、どこか高貴な雰囲気が散見された。その後、映画館でボランティアをやっていた頃の友人と再会することができた。風貌に多少の変化はあれど、彼の発するフランス語がどこか懐かしい言葉として頭に入ってきた。



慌ただしく日々が過ぎていく中、日本語の授業で2年生によるプレゼン、そして、フランス人学生とのディスカッションによる交流があった。一つの主題に関するアプローチの仕方は千差万別であり、それ故にプレゼンをやるのも見るのも楽しいものだ。日本の学生の生活の特徴を良い意味で大げさに紹介した男子グループ、紹介したい街として神楽坂を取り上げた女子グループ。どちらも色の違う発表の仕方で、どちらも思わず聞き入ってしまう作りであったと思う。自分の好きなことを主題にできる、という点では街の紹介の方がプレゼンやパワポの作成に分があるように思っていた。ただ、実際には男子グループの発表にはそんなハンデを感じさせない工夫があったように思う。学生とのディスカッションでは、“なぜフランス語を勉強しているのか”や“なぜ日本語を勉強しているのか”といったありきたりな質問では退屈だと思っていた。そのため、事前に普通は聞かないようなことや、日仏間にある違いを話題として取り上げようと決めていた。結果的にそれは成功であったように感じた。その日にあったばかりのインスタントな関係の間で行う理由の問いかけは、ただ単調な言葉のノックにしかならない。むしろ、キャッチボールを行うためには相互に意見が出る様な話題選びが重要だとも思っているからだ。実際に彼らが日本に興味を少なからず持っていることは前提であり、なんならもっと興味を持ってもらうための交流ができたのではないかと思う。一方でこちらも、フランスに関する理解がより深まるような答えももらえた。このような小さなやり取りも、今後の日仏関係を築く上で重要な礎になると思い、軽んじてはいけないと思った。



自分と土橋さんを除いた学生達はモンサンミッシェルへと行き、僕たちはある種ひとつの日常に立ち返る一日を頂いた。“レンヌに居た頃、何をしていただろう”そんな疑問が頭に出たのも束の間、友人と会えば脊髄反射的に行動できた。久しぶりに会った友人は変わっておらず、変わったのはむしろ自分の方かもしれない。確かに体重は以前より増加したが、そういうことではない。ここでも、昨年度以上に彼女の話す言葉がクリアに、耳に、脳に届いてくるのだ。それは相手も感じていたようだ。「去年は少しゆっくり話していたけれど、今は普通のスピードで話している。これだけのことだけど、進歩だと思う」。この言葉はマコンで親戚に言われた言葉と同じかそれ以上に嬉しかった。カンペールからわざわざレンヌまで来てくれる、それだけでも嬉しかった。であるのに、さらに会話を楽しむことができる。滞在中に既に何度か感じていたが、同じことを色んな人から何度も言われるうちに蓄積していたのだろうか。どこか心の底から溢れ出たのは不思議な高揚感であった。初めて一人で自転車に乗れた時や、スキーやスノーボードを習得したときのような、達成感にも似ていた。まさか、再びこの感情に胸動かされることになるとは思わなかった。それだけに、この友人との数時間の短い再会は印象的であり、どこかノスタルジックなものであった。

ついにこの日がやってきてしまった。レンヌを再び去らなくてはならない。レンヌに自分が居たことを確認するには十分すぎる期間であったが、再び腰を落ち着けるには短過ぎた。昨年度、レンヌを去るとき以上に寂しかった。もう戻って来られない様な、そんな気さえした。ここで過ごした日々は、まるでスピンオフのようで、また、映画や小説における最終回以降の特別編を見ているような感覚だった。“百聞は一見に如かず”とはよく言ったもので、Facebook等のSNSを媒介して見るのとは違った。着いたばかりの頃は時間の経つのが遅く、濃厚な日々だと思っていた。しかし、それはまるで重いギアの自転車を漕ぐが如く、次第に素早くなってしまうものであった。あいにくとブレーキが無いため、立ち止まることは許されない。それが人生というものなのだろうか、と大袈裟なことまで考えてしまった。

このレンヌという地に、自分はきちんと根を張っていたのだ。かつて思ったこと、考えついたことを再び思い起こさせられ、再認識した日々であった。TGVで八木さんをはじめとした、留学中の首都大生や、非常にお世話になったコンスタンなど、多くに見送られパリへと出立した。パリ再び。正直、気乗りはしていなかった。レンヌと比較してしまうと、どこかかすんでしまう。だが、実際に1週間の滞在をするアパートはとても素晴らしいもので、また言葉が出ないほど良い立地であった。夜の散策では、どこか落ち着きながらも、やはり洒落た一面を見ることができ、少しパリのことが気になり始めた。途中で寄ったソルボンヌ大学の近くには、それを伺う様な形で歩道の脇に据えられたモンテーニュの銅像があった。その足に触れると再びパリに戻って来られるという言い伝えがあるようで、皆が触っていた。自分も、フランスに再び訪れることができるならばいっそ舐めたっていい、という思いで撫で回した。皆が撫でているからか、右足の爪先が変色していた。それほどまでにこの伝承は強いものなのだろう。まるでイタリアはローマの“トレヴィの泉”におけるコインの投げ入れのようであった。


(御利益をもたらすといわれるソルボンヌ大学前のモンテーニュ像)


自由行動の3日間。ヴェルサイユ宮殿、エッフェル塔などガイドブック上における、観光面でパリをパリたらしめている場所へ向かった。アパートがサンミッシェルにあったため、各所へのアクセスは非常に容易であった。ヴェルサイユ宮殿を除き、何度も訪れたことのある地だ。目新しさは特になく、観光客の賑わうこれらの地は相変わらず忙しない。まるでパリジャンやパリジェンヌの口にするフランス語のようだ。レンヌで受け取った懐かしさはここにはなく、また、ここでは自分も有象無象の観光客の一人であることを痛感させられた。パリの人々が云々ということでは、この土地と自分はさしたるリンクを共有していないということだ。滞在中に西山先生から宿泊地付近の案内を受けた時、先生の口から「思い出」「懐かしい」という言葉が出ていた。自分にとってレンヌがそうであったように、先生にとってこの地は絆の多き街であることを少なからず感じた。



ユネスコ見学の本日、失態を犯した。契約違反となる遅刻。外交活動にもかかわらず、だ。フランスに慣れたつもりで、また、集団行動に慣れていた気になり、かなり浮き足立ってしまっていた自分を殴り飛ばしたくなった。この日のこの一件は、今回の滞在でもっとも記憶に残る一件となった。見学ではソルボンヌに留学中のイタリア人大学院生から案内を受けた。ユネスコにて、フランス語で解説を聞く。時折、理解の行き届かない場面もあったが、それら特異な環境が自分のテンションや鼓動を高まらせた。また、彼は案内中に「international」という言葉をしばしば口にしていた。たしかにユネスコを説明するにあたって、その言葉は必要不可欠であろう。だがそれ以上に、彼のイタリア語訛りのフランス語それ自体が「international」を感じさせた。建物各所に散りばめられた国際色。それでいて各々が喧嘩をしない造りになっており、そこにはまさしく調和が在った。初めて訪れる場所でありながら、反転した「和」という文字の彫られた石や、日本庭園テイストの庭園、フライト13時間の距離を吹き飛ばす本能的な懐かしささえ、そこにはあった。また、大ホールにてユネスコの成り立ちや活動に関する話を聞いた際、「科学」に関して多少触れた。力関係の均衡しない世界情勢において、力としての科学を行使させないこと。それをするためにはより強い力による蹂躙ではなく、「伝える」ことだと彼は言っていた。容易なことでは全くないが、"すべきでは無いことはすべきでない"と「伝える」ことが、それら力への対抗措置であるとか。そもそも人の手から離れた科学の力、オーバーテクノロジーなどと呼ばれうる世界において、「伝えた」ところで科学に人が打ち勝てるのか。(単純な攻撃力の話ではなく)おこがましくも、それも人文学の為すべきことのひとつであるような気がした。単なる文化の交差点ではないユネスコにおいて、文理共生の一端をも垣間見た。

夜にはHiroshima , mon amour の上映会があった。かつてレンヌで映画館の受付をしていただけに、懐かしさや目新しさを感じた。チケットを買ってくれたお客さんに対し、自分や他の同僚は"Bon film!"と言っていたが、ここでは"Bonne séance!"と伝えられた。もちろん、表現は人それぞれであるし、何を言わないといけないといった決まりはない。なによりも、こんなことは些細なことだ。しかし、"Bon film"だろうと思っていたため、この表現の差が気になってしまった。"Bonne séance"に、どこか上品さと、不明瞭な敗北感、それと同時に新たな経験を得た歓びもあった。上映会では、日本ですでに観た映画である"Hiroshima , mon amour"を再度鑑賞。相変わらず冒頭に嫌という程置かれた悲惨な映像には目を背けたくなった。そして、同じ歩調のように見えていた二人の間に生まれていた距離。鑑賞後に思うのは、この映画はまるでスルメだと。正直、初見では好きになれなかった。だが、この映画は噛めば噛むほど、噛み砕けば砕くほど味のある映画であることを痛感させられるのだ。そのような味わい深い映画を通じ、最前列で指揮をとるように話す西山先生やジェローム氏、関先生を見ると、まさに国際交流という地における最前線を目の当たりにしているようであった。



翌日の金曜日は、自由行動であった。体調があまり芳しくなかったため、スロースタートを切った。お昼前にGibert JosephとGibert Jeuneへ行き語学書のコーナーを物色。続いて、何か興味を引かれるタイトルを持った本はないか、獲物を探すかのような目つきで書店を歩き回った。結果的にFrancophoneに関する本を見つけ、購入した。価格も日本円にして300円ほどと安かったのも決め手の理由である。当然ではあるが、レンヌと違い、蔵書量や各ジャンルの規模、どれをとってもパリは大きい。パリを好きになった理由の大部分が本屋の規模である。体調が万全のときに再び訪れたいとさえ思った。続いて、昼前で混雑する前のセーヌ川沿いを歩こうと思った。セーヌ川沿いを物思いにふけりながら散歩をする。字面ではそうとうロマンチックであるし、華麗ささえ感じる。だが、実際のセーヌ川は緑色に濁り汚い。いつでも川に落下しうる希薄なセキュリティに心配の目を向けながら、陽の当たるベンチに座る。これみよがしに煙草を巻き、火をつける。まず一服。一口吸う度に考えが膨らみ、煙を吐く度に違う考えが次から次へと浮かんでくる。

堂々巡りの思考の中で、現地の高校生と思われる集団を目にする。パリにおいてたびたびアジア人学生を見かけた。その度に、現地で育ち現地の言葉を母語レベルで落とし込める羨ましさに心を蝕まれた。もしも自分もフランスで生まれ育っていたら、などと妄想の中でしかあり得ない情景を思い浮かべ、羨望のまなざしを向ける。もしも自分が育っていたら、またそれがパリであったなら、自分もセーヌ川沿いで友人と共にくだらない話に興じていたのだろうか。自分が公園でたむろしていたころ、彼らはセーヌ川沿いで…、と考えていたとき、気付いてしまった。彼らにとってセーヌ川はとてもありふれた存在で、自分にとっての公園程度の存在でしかないこと、それほどまでに日常的なものであること、だ。そう考えると、前述のように、ただの汚い川に再び見えてきた。



昼食にケバブを買い、アパートに戻る。レンヌで知り合ったメキシコ人の友人から連絡が来ていた。夜にRépubliqueで会おうという連絡であった。この友人はCIREFEで最初に出来た友人で、フランス人女性と結婚し、結婚式にも呼んでもらった。一度たりとも同じクラスになったことはないが、クラス分け試験のあとに校舎の前で煙草を吸っている時に仲良くなったという奇妙な繋がりを、1年以上も維持し続けている。Républiqueで会った彼らは変わりなく元気なようで安心した。歩いてすぐのバーに入り、ビールを飲む。彼の奥さんは学校の先生をしているので、少しでもフランス語を誤用すると直してくれる。また、何か分からないことがあっても分かり易く説明してくれ、レンヌで自分がフランス語を学ぶ際に彼女の助力はとても大きかったと思っている。懐かしい話や近況報告をしている際、ふと思った。“もしも今ここで襲撃を受けたら”ということだ。単なる想像の話に留まらない。実際にこの周辺であの忌まわしきテロ事件は起こっているのだから。そう思ったときから、冷静ではいられなくなってしまった。周囲の客もおしゃべりに熱中している。これら日常に非日常が介入してしまったら…。どれほど恐怖を振り撒いただろう。一方で、それにも関わらずフランス国民は日常を過ごしている。単なる強がりではなく(当初は抵抗という形で、強がりもあったのかもしれないが)、あくまで日常を過ごしている。ただ、これは事件を風化させたり、無視したりということを意味しない。むしろ逆である。柔道家の餃子耳のように、それを受け容れ、記憶として遺している。懐かしいはずの再会であったが、懐かしさ以上のものを感じさせられてしまった。彼ら夫婦と自分との関係があり、レンヌで過ごした日常のようにパリでも過ごせたから得られた感情であろうことは間違いない。



帰国を翌日に控えた19日、この日は西山先生の国際哲学コレージュへの参加が予定にあった。いわばフランスで過ごす最後の日と言えた。フランス語の未熟さから、話されていたことについて深く語ることはできない。だが、ここでは映画の上映の時以上に強く感じるものがあった。前述の通り、あの上映会は最前線であったが、今回の哲学コレージュはそれ以上であった。他の先生方もとても輝かしく見えたが、大トリを飾るような形での西山先生の発表はそれ以上であり、また、鼓動を高まらせるものであった。斜め前にフランス人の男性がおり、先生が言葉を発するたびに彼は頷き、感心や感嘆の息を漏らしていた。アパートで先生が発表の準備及び予行練習をしていたのを知っていたが、結果的に、先生の発表の熱量がこの会に懸けられた気持ちの強さを物語っていたように思う。「偉そうにも、学生に勉強させるからには、それ以上に、先生である私は限界を試していなければならない。その姿を、失敗する場合も含めて、学生に曝さなければならない」──西山先生のこの言葉通りであった。もとより知っていたことではあった。だが、実際に、一分の隙も見せないストイックさを自分たち学生は、遠く離れたフランスの地で目の当たりにすることができた。

また、締めの小林先生の発表もとても重く響くものであったように感じた。即興であそこまで話すことができ、また、ひとつひとつの言葉に乗る力を感じた。大勢を相手に話すと互いの間にブラックホールが生じ、全体の意識を持っていくのは難しい。国際セミナーの後に南谷氏から言われたことだ。だが、今回この場においてブラックホールは生じていなかった。小林先生の言葉に乗る言霊のひとつひとつが、聞いている側への届き、そこにブラックホールが生じる余地はなかった。会を終えて、とてつもない意識の高まりを感じた。格闘技などの試合中におこるミックスアップではないが、強い人を側に感じる時に自分も高められた気になるそれであった。

帰りのフライトまでそれは続いた。ついに帰るというその瞬間まで、だ。スーツケースを預け、物質的な重さを取払い解放されたが、心につきまとう高ぶりは静まらなかった。出発前は何かを拾い集め確認する作業のような旅になることを覚悟していた。だが、実際には得るものの多い旅であった。それは語学的にも、精神的にも、肉体的にも、だ。どこかフィルターを通して景色を見るような旅にならず、自分を高めてくれたような気さえした旅であった。もちろん、様々なことに絶望、失望し、嫌気も差した。だが、留学の終止符という意味では及第点の得られるものであった。自分は日本にいる。彼らはフランスにいる。留学をしていなければ起こりえなかった意識の拡大とそれに伴う視野の拡大。SNSで感じられる海外ではなく、心の深いところで感じることのできるフランス。そんな気付きを与えてくれた旅であった。

最後に、今回のフランス滞在をするにあたり、お世話になった西山先生をはじめとする仏文教室の先生方や、およびレンヌに留学している八木さんや5名の留学生、そして共に滞在期間を過ごした先輩方および後輩達への感謝の言葉で滞在記を締めたいと思う。迷惑を掛けっぱなしでしたが、本当に良い経験となり、これを人生の糧とし自らの血肉としていきたいです。本当にありがとうございました。


「人はいつまでも故郷を身に付けている。」─ラ・フォンテーヌ

浅井義宏(仏文2年)

浅井義宏(仏文2年)


この度、2016年3月8日から21日までの国際交流プログラムに参加させていただいた。まず、このような貴重な機会を与えてくださった西山先生にお礼申し上げる。他では決して体験することができない濃密な時間を過ごすことができた。ここでそのすべてを振り返ることは到底できない。いくつかの主要な出来事を中心に記すにとどめる。

日本時間の3月8日深夜12時半に羽田空港を発ち、現地時間の9日早朝5時半にパリのシャルル・ド・ゴール空港に到着。約12時間のフライトである。飛行機での移動はいつも時間や場所の感覚を失わせる。狭く寝苦しい座席シート、断続的な睡眠、擬似的に昼と夜をつくり出す照明。はじめてフランスに降り立ったというのに、その実感はあまり湧かない。フランス語の案内標識やアナウンス、時差や天候の違いなどをたよりに感覚を埋めあわせていく。

その日はあいにくの天気。気温は低く、雨風が強まったり弱まったりを繰り返していた。空港からパリ市内に移動し荷物をホテルに預けるとすぐに、11月に起きたテロの現場を巡った。テロについては、以前から強い関心を抱いていた。報道によって大きな衝撃を受けたし、出国前に本プログラムの参加メンバーと自主勉強会を行ってもいた。しかし目的地に向かっているうちに、雨風が激しさを増す。持ってきていた折りたたみ傘では防ぎきれないほどに。そのためにせっかく目にした現場では、とても細部にまで注意を払うことはできなかった。もっと正直に言えば、早くこの雨風をしのげる場所で暖まりたいという考えが、頭の中のほとんどを占めていた。だが、とにかく3カ所を巡った。レピュブリック広場、襲撃されたカフェ、バタクラン劇場。自由を象徴するマリアンヌ像のまわりに献花やろうそくなどが捧げられたレピュブリック広場には、天候のせいもあるのだろう、ほとんど誰もいなかった。そのせいもあって、街の中にぽっかりとあいた空間がすこし異様に映った。大規模なデモや集会の出発地となる場所が普段こんなにも閑散としているとは。あるいはそれは、そのような空間を日本では目にすることがほとんどないからかもしれない。国会前も渋谷のスクランブル交差点も、普段から多くの人びとの往来がある。日本で人びとが集まる象徴的な場所は、広場ではなく道路なのだ。



続いて襲撃されたカフェに入る。束の間寒さと雨風から解放され、温かい飲み物を味わう。そこにはテロの痕跡をしめすものは何ひとつなく、一見して日常的な雰囲気が漂う。 当事者たちの強さと同時に、若干無頓着な印象を受けた。ただ、店員の様子からテロの悲劇を乗り越えようとする意志が感じられたと、のちに西山先生がおっしゃっていたのが心に残っている。

最後に訪れたバタクラン劇場は、いまだに封鎖され、窓ガラスには銃痕が残されていた。だが思いのほか、心を揺さぶられることはなかった。銃痕は、叩き割られたガラスとはまったく違う。ほぼ原型をとどめたままのガラスに貫通した穴。まわりの亀裂はわずかである。それはあまりに無機質で、感情の入る隙間を与えてはくれない。ただ去り際に、劇場の裏口に面する細い通りを見たとき、テロの直後に何度も繰り返し流されていた、人びとが悲鳴をあげながらその通りを逃げまどう映像が頭をよぎった。



その夜パリに一泊。翌朝TGVでレンヌに移動した。レンヌ滞在の主な目的は、現地の学生との交流やレンヌ第二大学の講義に参加することなどである。当大学は首都大学東京と交換留学の協定を結んでおり、今年も5人の首都大生が留学している。TGVの車内は、最小限のアナウンスしか流れずとても静かだった。パリを離れるとすぐに、車窓の外には大きな建物は消え、平坦な牧草地が視界全体に広がる。時差ぼけに耐え、雨のなか動きまわった昨日の疲れからしばし眠りにつく。目が覚めても同じような風景がまだ続いていた。

到着すると、首都大卒業生で現在レンヌ第二大学の修士課程に所属する八木悠允さんが出迎えてくださった。レンヌ滞在中八木さんにはとてもお世話になった。そのときも八木さんが予約してくださった駅の近くのクレープ屋でガレットを食した。ブルターニュ地方の郷土料理であるガレットは、薄くのばして焼いたそば粉の生地に、チーズやハム、たまごなどをあしらったものである。生地は素朴な味だが、まろやかな半熟たまごがからまり、濃厚なチーズや塩味の効いたハムによく合う。日本でももっと人気が出そうな味だ。

レンヌ第二大学では、国際交流課の歓待を受けたのち、付属の語学学校CIREFEにて中級B2クラスの授業を見学。ここには首都大からの留学生も通っている。形式自体は首都大のNSEの授業とさほど変わりはない(たまたまその授業がそうだったのかもしれない)が、その雰囲気は大きく異なっていたように思う。さまざまな国籍の人たちがいるため、共通言語はまさに習っている最中のフランス語のみ。そして参加している全員が、多かれ少なかれフランス語を話さなければならない必要性に迫られている。そのため受講生は、完璧とは言えないフランス語で積極的に発言する。先生はそれらをしっかりと受け止め、的確なアドバイスを挿みつつ会話を巧みに誘導していく。このような環境に身を置くことは、日本ではなかなか難しいだろう。あらためて留学の有効性を実感した。

レンヌ滞在2日目。この日は、フランス語で発表したり、フランス語での講義を聴講したりと、留学の雰囲気を肌で感じることになった。まず午前中は、レンヌ第二大学の日本語クラスにて、本プログラムに参加した2年生によるフランス語での発表。女性陣は東京について。私を含めた男性陣は首都大と学生生活について。フランス語を学びはじめて2年経つが、まだまだ自らフランス語の原稿を作成するのには骨が折れた。そのさい、フランス語文化論コース(仏文)助教のベルアド先生から惜しみない助力をいただいた。ベルアド先生の丁寧な添削と的確なアドバイスのおかげで、この発表を乗り越えることができた。またその過程で、外国語で文章を考えることの興味深さをあらためて思い知ることもできた。日本語で当たり前に使われている表現も、しばしばそのままフランス語に移すことができない。そんなとき、今まで意識することのなかった世界の捉え方に気づくのだ。染みついた捉え方と、新鮮な捉え方とに。


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発表につづいて、グループに分かれて簡単なディスカッション。文章を書く以上に、フランス語で会話をつなげていくことは難しかった。ネイティヴの学生たちが話すフランス語は、CDで聞くものと比べものにならないくらい速い。授業中とは違い、通常の会話ではテンポがとても大切になる。そのため次の言葉を考えている暇もなかなかない。そのさい、留学中の先輩におおいに助けていただいた。流暢なフランス語でコミュニケーションをとるその先輩は、私の知らない外国語を学ぶ醍醐味を知っているのだろう。今後フランス語を学ぶうえで、大きな刺激を受けた。

その後、レンヌ第二大学で教鞭をとるブリジット・プロスト先生の演劇の講義を見学させていただいた。モリエールの生涯を振り返りつつ、『タルチュフ』という作品の占める位置を定め、次第にその作品の読解へと進む。おそらくそのような構成だったはずである。当然のことながら講義はすべてフランス語で、細かい内容はほとんど理解できない。しかし、情熱的に身振り手振りを交えながら講ずるプロスト先生の姿は、まるで自ら劇を演じるかのようで、不思議と惹きつけられた。まわりの学生たちも真剣に聞き入っていた。また、『タルチュフ』の映像を流すさいには日本語の字幕をつけていただくなど、随所に細やかな心配りも感じられ、非常に感銘を受けた。

その日の締めくくりは、西山先生と本プログラムの参加者全員に加えて、八木悠允さんや今年留学中の首都大生、出張でフランスに滞在していらっしゃった仏文教授の藤原先生との会食。八木さんは3年前にレンヌ第二大学に留学していらしたし、今回の参加者には一昨年と去年とに留学していらした先輩方も含まれていたので、歴代の留学生が一堂に会したことになる。さらに途中で、留学していた方々の現地で知り合った方たちも加わり、賑やかなムードで場が進んだ。話題もそうだが、その場にいる人たちの話し方や雰囲気は、日本にいるときとどこか違っているような気がした。留学を経験された方々のそれはとりわけそうで、それは異国の地で築きあげた何かの存在を示しているようだった。そしてそれらはレンヌという地と分ちがたく結びついているのだろう。

翌日はモン=サン=ミッシェルでの観光を満喫。翌々日再びTGVでパリに移動した。ここから、セーヌ川のほとりのアパルトマンで1週間の共同生活がはじまる。歩いて行ける距離に、ノートルダム大聖堂やルーブル美術館などがあり、その近辺の街並みはまとめて世界遺産に登録されている。間取りは3LDKで十分に広い。このうえない立地と生活環境である。おそらくこの先こんなところに泊まれることはまずないだろう。ましてや1週間ものあいだ生活することなんて絶対にありえないだろうという考えがすぐさま頭に浮かんだほどだ。

そのアパルトマンを拠点に毎日1、2カ所の観光地を巡る。エフェッル塔、ヴェルサイユ宮殿、オルセー美術館。パリには文字通りいくらでも見どころがある。1週間あってもとても見尽くすことは決してできない。また、それら観光地はもちろん、パリの建物はどれも荘重で一見して圧倒される。ただし次第に打ちのめされ、疲労感を覚えるようになった。疲れをはっきりと感じはじめたパリ滞在5日目。本プログラムの一環としてユネスコを見学した。


(ユネスコ「瞑想の空間」にて)

世界遺産の保護・保存などで有名なユネスコの正式名称は、国際連合教育科学文化機関(United Nations Educational Scientific and Cultural Organization)。諸国民の教育、科学、文化の協力と交流を通じて、国際平和と人類の福祉の促進を目的としている。そうした知識は漠然と頭にあったが、具体的にユネスコがどのような機関なのかいまいち掴みきれていなかった。正直なところ私にとって、「ユネスコ」とは単なる空っぽの記号でしかなかった。しかし、大学院で観光学を専攻する研修生の方に、本部施設内を一つひとつ解説していただきながら実際に見てまわると、ユネスコという機関を支える精神というようなものを感じとることができた。施設内に点在する、著名な作家や建築家などによる平和をモチーフにしたオブジェや空間。そのほとんどすべてが無償で寄贈されたものだという(唯一ピカソだけが例外らしい。だがそれは、当時のスペインの独裁者フランコ将軍への異議申し立てのためだという)。それらの作品一つひとつには迫力があり説得力があった。ただ、その配置や構成はことさら統制がとれているようには思われなかった。美術館ではないのだから、それは当然と言えば当然だろう。いや、むしろ雑多に集められたような作品群だからこそ、ややこしい理念や信条などはさておいてとにかく平和を祈るといった、不器用なまでにまっすぐな願いというようなものが感じられた。考えてみれば、科学は別として、ただひとつの教育や文化を人類全体が共有することはほぼ不可能である。それらはときに争いの原因にすらなる(そのとき科学は争いの手段となる)。そのようなものを通じてどのように国際平和がおとずれるのだろうか。別にここで、教育・文化の支援活動等を否定しようという意図はまったくない。ただそれらにはある種の困難がまちがいなくつき纏う。だがユネスコの活動は、そのような困難は承知のうえで、それでもなお行われているのだと、今回の見学を通じて思い知ったのだ。



おそらくセキュリティ上の問題でそうはいかないだろうが、もっと気軽にさまざまな人びとがこの施設を訪れ、見学できればいいと思う。なかでも安藤忠雄による「瞑想の空間」という作品は体験型で、何の知識もなくとも取っ付きやすかった。原爆投下当時広島にあった石(もちろん除染済み)を使って作られたドームの中心に立って声を出すと、母親の胎内を思わせるように声が反響するよう設計されている。実際に体験すると、すぐさま日常から切りはなされ、何かを思わずにはいられなかった。



最終日。国際哲学コレージュのセミナーにて、西山先生の発表を見学。発表が不得手な私には、フランス語が聞き取れなくともおおいに学ぶところがあった。先日のプロスト先生とはまったくタイプは異なるが、お二方とも人前で何かを語る術を心得るプロフェッショナルである。発表の冒頭からユーモアに富んだ演出で会場全体を一挙に掴むと、歯切れよく小気味よいテンポのフランス語で聴衆を惹き込んでいく。会場全体の集中力が高まり、静かに昂揚していくのが感じられた。スライドも美しく、内容はほとんど理解できないものの、いつかのためにいくつかメモをとる。発表後は、質疑応答が盛んに交わされていた。

その後、タイ料理屋での打ち上げにも参加させていただく。重要な仕事を終えたという解放的な雰囲気と、大学の先生方のそれぞれ特徴的な個性が印象的だった。晴れやかな気分でフランスでの最後の一夜を過ごし、翌日帰国の途についた。

この報告文を締めるにあたって、本プログラムにかかわってくださったすべての方々に、この場を借りてあらためて感謝申し上げたい。とりわけ、本プログラム全体をコーディネートしてくださった西山先生。レンヌで温かく迎えてくださったレンヌ第二大学の先生方や国際交流課の方々。レンヌでの発表準備を支援してくださったベルアド先生。レンヌ滞在をサポートしてくださった八木悠允さん、現在留学中の先輩方。そして、10日以上もさまざまな経験を共にした本プログラム参加者のみなさん。皆様のご協力とご支援がなければ、私にとってはじめてのフランス滞在がこれほど実りあるものにはならなかった。最後になるが、この国際交流プログラムによる経済的支援に感謝の意を表するとともに、私のように何ものにもかえがたい経験を得られる学生が一人でも増えるように、このようなプログラムが継続していくことを切に願う。

新井実里(仏文2年)

新井実里(仏文2年)



今回この国際交流プログラムにお誘いいただき、現地に行くことはもちろん、その前準備として日本でいろいろと学んだことが大変多かったように思う。それは発表準備であったり、パリのテロについてだったり、映画についてであったりと様々な面でとても勉強になるものであった。到着してからの日々はまさに‘留学の前準備’と言っていいものであり、大変濃密な12日間であった。



フランス到着

12時間という長い空の旅を終え、シャルルドゴール空港に到着した。初めての海外、初めてのフランスということに期待で胸がいっぱいで、長時間のフライトは想像よりも辛いものではなかった。次にここへ来るのは約半年後の留学の時で、自力で進めるようにならねばと思いつつも、きょろきょろ周りを見渡しながら先生と先輩方の後を追うのに精一杯であった。

到着日、パリではちょうど鉄道ストライキが行われており、改札が開放されていた。まさか自分がそれに巻き込まれることになろうとは露も思っておらず、早々に不安を感じたが電車は動いているようで安心した。電車には様々な人種の人々が乗り合わせていて、早くもフランス社会の多様さを垣間見たような気がした。駅で切符を買う、手動でメトロのドアを開けるなど、現地の人には当たり前のことに戸惑い、自分は今、生まれ育ったものとは全く違う文化圏にいるのだと実感させられた。

その日は生憎の雨であり、傘で視界を遮られる上、ずっと下を向いていないと歩いていられないほど風も強かった。そのとき目に入る道はお世辞にも綺麗とはいえず、寒さも相俟って到着早々フランスでの生活に心が折れそうな気分であったが、午後になり晴れ間が見え、空を見上げて建物や通りなど街の様子を視界いっぱいに捉えられたとき、ようやっと自分はフランスに来たのだと感じられた。

ホテルに荷物を置いてすぐに、昨年11月のパリのテロの現場となったカフェ、バタクラン劇場、レピュブリック広場を訪れた。広場や劇場では、手向けられた花束や犠牲者の写真、はたまた銃撃の跡という‘物的証拠’たちが惨劇の事実を強く伝えているかのように思えた。しかし一方で、カフェでは何事も無かったかのような日常が流れていて、別にそれを知っているわけではないけれど、客も店員もテロ前後で特に違いがないかのように思えるほどであった。‘Je suis en terrasse.’という言葉を体現している場であったのであろうかと思う。

先生の後をついて街中を散策しながら、パリの人々が想像していたよりもずっと親しみがあることに驚いた。店員はもちろん、偶然目が合った人が‘Bonjour’と挨拶をしてくれるのである。これは再びレンヌから戻ってきたときにも強く感じたことだが、皆が思っているよりも(私が想像していたよりも)ずっと、パリの人も街も優しいのである。

レンヌ滞在

フランス到着二日目にして、モンパルナス駅からTGVでレンヌへと向かう。日本でいう新幹線の立ち位置であるTGVは乗り心地も悪くなく、次第に家屋や建物に代わり木々や畑が増えていく風景に、より自分が思い描いていたフランスに来たのだと強い実感が湧いた。留学を決めてから現在に至るまで、なぜレンヌなのか、と聞かれる機会が数多くあった。正直明確な決め手があったわけではなかったため、その度に「交換留学の協定先だから」「学生街だから」と、他人の言葉を借りて答えていた。しかしまずレンヌ駅に到着して、外の空気に触れたとき、感動を覚えたのである。綺麗な空気、統一感のある建物、程よく賑やかな街。率直に言って、一目惚れしてしまった。どうしてレンヌなのか、それは実際に自分の足でその地を踏みしめたとき、自分の中で考えがまとまった気がする。それがいかなるタイミングであろうと、‘ここで勉強したい’という気持ちに変わりはないのである。



昨年からすでにレンヌへ留学している首都大生の5人と八木さんに、街中を案内してもらった。観光スポットのみならず安くコピーができるお店、スーパー、お気に入りの雑貨屋さんなど、実際に生活しているからこその場所場所に連れて行ってもらい、半年後自分がそこで同じように生活している様子を強くイメージすることができた。その後、大学に併設されている語学学校、CIREFEの授業を見学させてもらった。世界各地からフランス語を学びにきた留学生のための学校であるため、当然様々な国の訛があるフランス語が飛び交う教室。少し前までは世界の共通語といえば英語、という認識であった私にとって、フランス語を軸として皆が意見を共有し合う空間は大変新鮮であった。たとえ上手く話せなくても、表現が違っても、先生も他の学生も優しくそれを受け入れていて、語学を学ぶのに適した場であると感じた。その回は自分の国の特徴のあるものをフランス語で紹介するということが課題の一つであったようで、外国語を通して自分の国を見つめ直すというのは大変ためになるであろうと思った。その日の夜は、以前日本でも講演をなさったことがあるブリジット先生のお宅でおもてなしいただいた。

レンヌ滞在二日目は日本語クラスでの発表であった。二グループに分かれ、テーマはそれぞれ「就活について」「神楽坂の紹介」であった。フランス語を母語とする人々の前で、その国の言葉で発表を行うというのは大変緊張するものであったが、自身の拙いフランス語も温かく受け入れてくれ、生の学生の反応を肌で感じられたことは大変大きな収穫であった。その後のグループごとのディスカッションでは、フランス語がまだまだわからない私に噛み砕いた言葉で説明をしてくれ、学生の優しさにも触れることができた。後から知ったことだが、私たちが参加した教室は日本でいう第二外国語のクラスであり、そこまで日本語に興味を持たない学生も多くいただろうに、フランス語をあまり話せない外国人に対し本当に優しく接してくれたように思う。心から感謝を伝えたい。

また、ブリジット先生の演劇の授業にも参加させていただいた。もちろん授業を理解することなどできなかったが、先生の情熱が色濃くあらわれていた、大変印象に残るものであった。それに応えるように生徒達も積極的に発言をし、また演劇のビデオに合わせて生徒達がアフレコをする場面は新鮮であった。

その日の夕食は日本人のみで行われ、少しほっとしたと共に、有意義な時間を過ごすことができた。やはり留学を経験している方のお話はためになった。今回のレンヌ滞在を経て、自分の中でなぜ留学をするのか、ひとつ大きく固まったように思う。



レンヌからバスでモンサンミッシェルへと向かう。前日までとは打って変わり、この日は一観光客として満喫した。朝到着した際は色濃く霧が辺り一面にかかっており、数メートル先を見るのも難しいほどであったが、近づくにつれ次第に姿を現すモンサンミッシェルに大変気持ちが昂った。初めてみるそれはとても雄大で美しく、先端が霧に覆われている様子は大変神秘的であった。さらに午後には西山先生にドライブに連れて行ってもらい、サンシュリアック、サンマロを観光した。大変充実した一日であったと思う。



翌朝は早くから西山先生の運転で海辺へと向かった。水の音と鳥の鳴き声以外聞こえないようなとても静かな場所で、みんなで日の出を待った。その時間は一瞬のような、同時にとても長いように感じられ、別段感傷に浸ることもないながら、もやもやとしていたことも全て忘れてしまうような美しい風景は、旅の一番の印象と言って良いかもしれない。その後留学生の皆さんに見送られながら、レンヌを発ち再びパリへと向かった。

パリ滞在



前日までのホテル生活とは違い、アパートでの生活というのはパリの様々な面を見るという点で大変よかったと思う。約一週間という短い期間ながらも、‘パリで暮らす’という経験ができたのである。そのためにはスーパーに行って価格の低い商品を探す、レジに並ぶ、買い物袋を持って街中を歩く必要が自然と出てくる。これはもしかして大変貴重な体験なのではないかと後になって思うことであった。



パリ市内、近郊の観光名所という名所を連日回ったが、特に印象に残ったのはオルセー美術館である。すでにルーブル美術館を見学していたが、それと比べるとずっと規模は小さく、また観客も静かで、これぞ美術館、という思いがあった。印象派の作品のブースでは、黒い壁に絵が掛けられ、ぼんやりとした白い照明が色使いの美しい作品達をより引立てていた。ミロのヴィーナスを見て、数々の芸術家が創造意欲を駆り立てられたというが、その気持ちが少しわかったような気がした。

そしてまた、ユネスコの見学をさせていただいたことはとても貴重な機会であった。ガイドをしてくださったのはソルボンヌ大学の院生の方で、研修の身であるというから大変驚きであった。ユネスコのシンボルマークの由来や、中に飾ってあるピカソの巨大な作品にまつわる裏話など、なかなか知る機会のないことをたくさん教えていただいた。さらに中庭へと入ると、そこには日本庭園があった。わざわざ日本から運ばれた石でつくられているというその場所は、やはり日本人としては心落ち着く場所であった。



また、完全に2年生だけでフランスを観光した日もあった。午前中には電車に一時間ほど乗り、シャルトルへ。電車から降りた瞬間にパリとは違う空気で、歩くと次第に見えてくる教会は、内部のステンドグラス然り、陳腐な言葉でしか表せないことがもどかしいが、とても美しかった。そして午後にはメトロを乗り継ぎ凱旋門へ。連日観光名所を回っていたために、行くまではそこまで関心も高くなかったのだが、それを目の前にして一気に気持ちが高揚し、他の観光客と同様に感動で心が踊った。凱旋門から放射状に道路が広がっており、上に登るとパリの統一された街並が一度に視界にすっと入ってきた。よくパリは計画都市であるというが、それは耳で聞くより実際目にした方がよく理解できると思う。上から見渡す景色は本当に感動を覚えるもので、これまで自分たちが行ってきた場所場所がみんな見渡せ、たった数日前のことながら、それぞれの思い出が蘇るようであった。



そして最終日には、西山先生主催の国際セミナーを見学させていただいた。先生のディレクターとしての最後の仕事であるというその講演は、大変熱意のこもったものであった。当然だが講演も質問も全てフランス語でなされ、内容を理解することはほとんどできなかったが、母語を同じとしない人々と、同じ時間・空間を共有するというのは、まさに‘国際的’と呼べるものであった。セミナーということでかっちりとした空間を想像し、学生の自分らは浮くのではないかと思っていたが、そんな心配は杞憂にすぎず、様々な年代の人々が自由な形で参加していた。真面目にメモをとる人、どっかりと座って聞いている人、講義の内容に逐一リアクションを示す人…と十人十色であったが、みなが真剣にそのテーマについて考えているという点は共通していた。

滞在中は本当に初めてのことばかりで、いろいろと自分の中で整理することが難しいほどたくさんの経験をさせてもらった。また、行く先々で、場所然り人然り、本当に素敵な出会いをさせていただいたことは本当にありがたいことである。今回感じたことを全て、は難しいかもしれないけれど、心に刻んで今後の励みにしていけたらと思う旅であった。

最後に、ここで今回のプログラムでお世話になった方々にお礼を述べさせていただきたい。まずなによりも、このような素晴らしく貴重な体験をできる機会を設けてくださった西山先生には感謝してもしきれません。昨年の夏から、航空機・宿泊施設の手配他様々な手続き、現地についてからもたくさんの場面でサポートしていただき、本当にありがとうございました。また、レンヌでは留学している先輩方、藤原先生、レンヌ大学の先生方や学生の皆さん、そして旅を通じて私たちをサポートしていただいた八木さん・堀さん・土橋さんに心から感謝申し上げます。

西あかね(表象2年)

西あかね(表象2年)



 真夜中に羽田を発ったエールフランス便は、早朝5時半シャルル・ド・ゴール空港に到着した。まるで夜を追いかけるように移動した初めての13時間に及ぶフライトはそれほど苦痛に感じず、空港に降り立ったときは初めての海外、初めてのフランスに胸を踊らせた。パリ市内のGare du Nordの人の多さ、忙しなさ、モンパルナスの街の風景、どれもが新鮮だったことを覚えている。この日から13日間、国際交流プログラムに参加する一員として充実した毎日を送ることができた。



レンヌ滞在

 初日にパリに一泊した後、TGVに揺られて二時間、ブルターニュに位置するレンヌに到着した。初日のパリは雨風がひどく寒さに震え、足下ばかりをみていたせいか道路も汚い印象で、あまり好感を持てなかった。一方レンヌは空気の良さや程よい涼しさ、人の少なさ、のんびりした雰囲気が心地よく、半年後に自分がここで暮らすことを考えると嬉しさでいっぱいであった。伝統的なブルターニュ料理であるガレットをシードルとともに食べ、自分の留学先であるレンヌ第二大学に向かった。



 レンヌ大学に到着するといよいよ胸が高鳴って、学生でにぎわっているカフェテリアやひらけた芝生を眺めながら留学中の自分の姿を想像した。大学の広さ、建物の多さはもちろん、たまたま見かけた学生大会では広間に多くの学生が集まって発言をしているのに驚かされ、同じ学生として自分との違いを見ることができた。国際課の方々やCIREFEの校長にお会いでき、直々に学校内のガイドをしていただいた。この機会は非常に貴重なものであり、留学する者としてたいへん助かった。その後CIREFEの授業に参加したが、教室に入ってまず生徒たちの積極性に驚かされた。様々な国から集った生徒たちは自国のモニュメントや彫刻について説明しており、それについて自由なタイミングで質問をしたり感想を言い合う。また生徒たちは共通してフランス語を話しているが、今まで聞いてきたCDのフランス語とは全く異なり、それぞれの国のなまりがでていた。そのようなフランス語が飛び交い、生徒が主体となって授業を進めている様子におもしろみを感じる。20人ほどのこじんまりとした教室には絶えず笑い声や歓声が響いた。


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 11日はレンヌ大学の1年生日本語クラスにおいてフランス語で発表をし、その後に少人数で生徒たちとフランス語で話をした。フランス人の集団のなかで日本人ひとりきりになって話をする機会が今までになく楽しみにしていたが、結果的に自分のフランス語能力の低さを痛感した。でてくるのは単語ばかりで、きちんとした文章が口から出るのはごく少なかったが、生徒たちは私のことばを理解しようと努めてくれた。そして私自身のことも理解しようと、絶えず私に関する質問をしてくれた。フランス語ができるかできないかだけでなく、彼らともっと話したい、彼らについてもっと知りたいという感情がうまれた。これからの勉強でも、フランス語の勉強だけでなくそれを使って何を学びたいか、何を伝えたいかを考える良い機会になっただろう。



ユネスコ見学



 17日に教育、科学、文化の発展を目的とした国連の専門機関であるユネスコ本部を見学させていただいた。戦争の悲劇を繰り返さないとの理念により、本部内のモニュメントには平和を象徴するものが多かった。文化の多様性の保護などを重点的な目標にしており、日本の建築家イサム・ノグチによってつくられた日本風の庭園「平和の庭園」では日本から贈与した石や木が目立っていた。入り口付近では「和」の文字が逆さまになって刻まれた岩があり、水に映ると「和」の文字がきちんと見えるという「和の滝」、長崎の原子爆弾の被害を奇跡的にまぬがれた教会から寄贈された「長崎の天使」という像など、興味深い作品がたくさんあった。寛容の広場では1995年当時戦争状態だった様々な国の言語で、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と彫られた石碑があった。一番印象に残ったモニュメントは、ジャコメティによる「歩く男」である。極限まで細く彫られたこの作品は人間のはかなさを表現しており、それでも一歩一歩歩き出すというメッセージがある。これはどの環境におかれた人でも共感のできる作品なのではないだろうか。他にもユネスコのホールや各国の旗をたてる数多くのポールなどを通して、この組織の規模の大きさ、各国が連携する場所の中心部に立てたという思いが強くのこった。非常に大きな経験であった。



映画「ヒロシマ・モナムール」、国際セミナー

 西山先生のセミナーに参加した。ひとつは17日のヒロシマ・モナムールについてのセミナー、もうひとつは19日の国際セミナーである。ヒロシマ・モナムールはあらかじめ映画を見て、みんなで意見交換をしていた。セミナーでもう一度映画を見てみると、字幕がなく大きなスクリーンで見ることによってまた違う見方をすることができた。その後西山先生と関先生による発表がフランス語で行われた。注意して聞いても理解できるのはごく一部であったが、映画館でセミナーが行われることに新鮮さを感じ、教室やホールで行われる講義とちがって気楽に聞くことができた。観客側からの質疑応答を交え、充実したセミナーであった。19日のセミナーは大学で行われ、西山先生が司会となって様々な大学の研究者や教授らが発表をした。セミナーの最後に行われた西山先生の発表では、デリダが講壇で言ったことばと同じことばを言って笑いをとる、スライドを使って写真を多く用いるなど、フランス語で理解できない部分があった私にとっても十分に興味深いものであった。フランスでフランス語を用いて発表をする難しさは11日の自分の発表で痛いほど分かったので、聴衆の興味をひいて成功させる発表のやり方を見ることができ、自分のこれからの経験に活かしたいと感じる一日であった。

今回の滞在を通して

 留学の前準備、観光、外国での日常を織り交ぜた今回の滞在は非常に密度の濃いものであった。一週間のパリ滞在中はノートルダム大聖堂、ルーブル美術館、オルセー美術館、ポンピドゥーセンター、エッフェル塔に凱旋門など観光名所を毎日めぐり、必ずなにかを吸収してアパルトマンに帰ってくることができた。初日のパリ観光で同時テロの現場を見に行き、悲惨なできごとがテレビの中ではなく自分の目の前で起こったことを強く実感した。またパリとそれ以外の郊外の街を比較することもできた。レンヌ大学の学生や先生、パリの街の人々など、多くの人々との出会いを大切にし、夏からの留学にのぞみたい。

 国際交流プログラムの資金援助をしてくださった国際課の方々、施設案内や授業に参加させてくださったレンヌ第二大学、演劇の授業に参加させていただき、かつ自宅のホームパーティーに招いてくれたブリジット先生、レンヌを案内してくださり、様々なアドバイスをしてくださった八木さん、留学中の先輩方、そしてこのような機会を設け、さまざまな経験をさせてくださった西山先生、本当にありがとうございました。

大山紗苗(仏文2年)

大山紗苗(仏文2年)



大学に入学して2 年、ずっと遠い憧れの土地であったヨーロッパにこんなに早く行けるとは思いもしていなかった。国際交流プログラムのお話を頂いて、初めてフランスに行くことが決定してから、計画、準備、出発までの期間は本当にあっという間であった。本当に信じられないような貴重な体験である。期待に胸を膨らませ、12 時間のフライトも苦になることなく終え、シャルル・ド・ゴール空港に降り立てば、現地時間3 月9 日から約10 日間に及ぶフランス滞在が始まる。初日。空港に降り立ったその足で2015 年11 月の同時多発テロ現場となったカフェと劇場に向かう。カフェではテロが起こった形跡は全くなく、そこには普段と何も変わらない日常が流れていた。そこでコーヒーを飲みクロワッサンを食べていると、このような同じ日常の一コマの中で突然テロが起こることなんて想像できない、予測が出来ないというテロの恐怖を実感する。劇場では、カフェとは打って変わり、窓ガラスに銃痕が残っており、そこでテロが起こったという事実をまざまざと痛感させられた。Republique 広場にはテロで亡くなられた人々の名前や写真、花束が多く手向けられており、その上から強い雨が降り続け、より一層悲壮感に包まれる。テロに屈しないという信念を持つフランスの日常の中にもしっかりとテロの傷跡が深く刻まれていた。



レンヌ第二大学訪問

2、3 日目はTGV に乗りレンヌへと向かう。少し走ると、パリの都会の喧騒と離れ、車窓には草原が広がる。レンヌ駅に降りた途端に、一目でこの町が好きだなと感じた。パリとは違い、視界が開け、人も少なく綺麗な街並みが広がっている。仏文の大先輩である八木さんを始め、留学している先輩方と久しぶりにお会いして、共に食事をとり、町を案内してもらい、カフェで語り合う。実際にレンヌ大学の授業に参加させていただくこともできた。CIREFE では、勉強をするための設備管理が整っており、この環境の中で実際に勉強している自分を想像することが出来た。また、3 日目の午前中には日本から準備してきた日本の紹介(神楽坂)の発表があり、フランス人の前でフランス語を話すという貴重な経験をさせていただいた。緊張していたが、クラスの生徒からの反応もあり、無事に発表を終えることができ、一安心であった。私にとってこの二日間は本当に濃厚な時間であったと思う。現在留学をしている先輩方の生の声を聴くことが出来ただけでなく、実際に先輩方の姿が日本でお会いしていた時よりも圧倒的に成長していて、自分のコアをしっかりと持っているということが私の目からも見てわかった。目を輝かせながら体験談を語る先輩方の姿に刺激を受け、留学への意欲と憧れの気持ちで胸がいっぱいになった。


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モン=サン・ミッシェル
朝、留学している先輩方にバスで見送られ今回の滞在初め2年生5人だけで移動する。モン=サン・ミッシェルでは、先輩の手を借りずに初めて自分たちの力だけで観光をすることに非常胸が高鳴った。朝は、上部が霧に包まれており、ノスタルジックな様子が「天空の城ラピュタ」を連想させる。 カトリックの巡礼地のひとつされ、 1979 年にユネスコの世界遺産登録されたモン=サン・ミッシェルの修道院では、優れたオーディガイドによって目の前で歴史が移り変わっていく様子を体感することができた。 メルヴィユ(驚異)と呼ばれる三層構造の居住空間は床や柱、窓など細部にまでこだわった建築が非常美しい。 特に夜にライトアップされたモン=サン・ミシェルは、神秘的なオーラに包まておりその様子は圧巻であった。あの景色を私は一生忘れないだろう。


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夕方からは西山先生の運転で、「美しい村」に選ばれているサン=シュリアックと、大西洋の町サン=マロへ向かう。ここでもまたそれぞれ他の場所とは違った情景を味わうことができ、映画の世界に飛び込んだような心地であった。どこへ行っても、教会を中心に町が作られており、西洋人の信仰心の深さを感じ取ることができる。



5日目。この日の夜からパリのセーヌ川沿いにあるアパルトマンでの共同生活が始まる。外観は統一された白い外壁のまま、中はモダンなスタイルの内装が素晴らしい。フランス人の古き良き様式をそのまま大切に残しておくという信念は、まさに温故知新であると感心した。


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オルセー美術館、UNESCO見学、映画鑑賞会

オルセー美術館は、1900年のパリ万国博覧会開催時に誕生したオルセー駅の駅舎を整備し美術館として開館された比較的新しい美術館である。モネ、ピサロ、ルノワールをはじめ印象派の巨匠たちの作品を中心に19世紀中ごろから20世紀初頭までの絵画や石碑が所狭し並ぶ。パリの美術館は、この他にもルーブル美術館やポンピドゥーセンターへ鑑賞に行ったが、やはりオルセー美術館が一番お気に入りである。色濃い宗教画とは異なり、比較的自由な立場で描かれた印象派の絵画は、文化的な違いがあっても受け入れやすく、日本人にも親しみやすいのであろう。美しい情景がそれぞれの画家たちの感性を介して映し出されている。私が最も好きな画家のひとりである、ルノワールの作品が少なかったのが非常に残念であったが、彼の穏やかな優しいタッチからは、絵のモデルとなっている人への愛情がひしひしと伝わってくるのだ。ルノワールの優しさや穏やかさ、心の豊かさが感じ取れる作品ばかりであった。ゴッホになるとまた印象が変わって、独特なタッチで強さの中に人の儚さや脆さを伺える。彫刻は石で出来ているとは思えないほど美しい曲線美があり、それが石であることを忘れさせるほどである。どこの美術館に行くか迷った際には、ぜひオルセーへ行ってほしい。



午後には国際連合教育科学文化機関UNESCO(United Nations Educational Scientific and Cultural Organization)へ見学する機会をいただいた。見学では初めにUNESCOの理念や活動についてお話していただき、各国からの寄付されたモニュメントや日本庭園、ピカソの絵など、素晴らしいガイドのもと見て回ることができた。フランスと日本だけでなく、世界各国の繋がりを間近で見ることができ、非常に貴重な体験となった。



夜には、パリ郊外モントルイユの映画館MELIESにて、監督アラン・レネ、脚本マルグリット・デュラスの日仏共同制作で撮られた『ヒロシマ・モナムール』(1959年)の上映会と討論会に参加させていただいた。この映画については日本で学生たちの間で予習をしてすでに議論を進めており、またこの場でも我々の疑問へのアンサーや新たな視点からの問いかけなどが行われた。この場で一番感心したことは、西山先生の意見は勿論のこと、フランス人は日本人と違ってよく質問し、積極性に優れているという点である。ここはもっと日本人が見習っていかなければならないと痛感し、良い刺激の場となった。

シャルトル、凱旋門、シャンゼリゼ通り

朝からSNCFに乗り1時間かけてパリを離れシャルトルを目指す。パリから少し離れると、田舎の静けさが訪れ、自然と心が洗われる心地がする。駅を出るとそこは開けた空間が広がっており、伸び伸びと空気を吸い込める。駅からでもわかる丘の上にあるシャルトルのノートルダム大聖堂を目指して、ゆっくり蛇行しながら歩く。パリからおよそ南西に87kmほど離れたそこにはパリのノートルダムとは比べ物にならないほどのステンドグラスが天井を覆いつくしており、キラキラと綺麗な光が差し込む。その深みのあるたぐいまれな青色、「シャルトル・ブルー」は特別な色である。この大聖堂はフランス国内でも珍しい最も美しいゴシック建築の一つとされ、そのステンドグラスの輝きは世界一とも言われている。教会の中で聞く鐘の音は荘厳に鳴り響いており、不思議な世界へと包み込まれた気分になる。メインのモニュメントの周りを壁の装飾が覆っているのも珍しい。天井が高く、そこにあるパイプオルガンも今までに見たことないくらい大きく立派なものであった。晴れの日にぜひ立ち寄って欲しい場所である。たくさん教会を周ってきたが、ここが一番私個人としてはお気に入りである。


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その後またパリへ戻り、凱旋門へ。メトロの階段を登ると突如それは目の前に現れる。個人的にはエッフェル塔よりも感動が大きく、「パリへ来た!」と改めて実感させられる場所であった。他の観光地とは違って物売りもほとんどおらず、治安が良かった。出会う人々も暖かくて陽気な人ばかりであった。長い螺旋階段を登って(カタコンベほど苦ではない)光を指す方へ足を踏み出すと、そこはなにも経立つものがない青空が広がっている。凱旋門の頂上から、今までパリの観光してきた場所を再確認するというのは、非常に良い作業であると思った。みんなでたくさんの思い出を語りながら気持ちは高揚し、その思いは一つであったように思う。シャンゼリゼ通りは観光客で賑わっており、Les Champs-Elyséesを歌いながら歩いたが、少し勿体ないように思った。道は広いが人が多すぎる。田舎の細道のほうがよっぽど歌い甲斐があるように感じた。夜は2年生4人で日本料理屋に入るが、うどんにキュウリが入っているという衝撃的な出来事があり、とても良い経験となった。非常に充実していて濃い一日であった。



国際シンポジウムへの参加

フランス出発の前日、パリの国際大学都市で行われている西山先生主催のシンポジウムに我々学生も見学して、発表を拝聴させていただいた。正直、未熟な私のフランス語力では聞き取れず、理解できない内容がほとんどであったが、普段日本の授業で拝見している西山先生の姿とは異なり、フランス語で国境を又にかけて活躍されている姿を見ることが出来ただけでも新しい発見となった。さらに、西山先生の発表ではデリダの有名な言葉から始まり、ユーモアを交えながら、スライドを駆使しわかりやすく堂々とした発表で、見ていて非常に頼もしい気分であった。その後の懇親会でも、たくさんの素晴らしい優秀な教授の方々や留学生の話も聞くことができ、非常に密度の濃い時間を過ごさせていただくことができた。様々な思想を持ち、自分の信念を持って、ご活躍なさっている教授の方々の姿に畏敬の念を抱くばかりであった。

最後に、今回の国際交流プログラムを企画、催行してくださった西山先生を始め、支持、応援してくださった、学校関係者の皆様、ベルアド先生。滞在のサポートをしてくださった八木さん、留学している先輩方、土橋萌さん、堀さん、飯澤さん、その他尽力してくださったすべての方々に、心より感謝申し上げます。今回のフランス滞在は、自分の人生において確実にずっと心に残っていく1ページとなり、糧となる有意義なものでありました。多くの人から刺激を受け、たくさんのことを吸収し、また自分にとっても新たな世界へ踏み出す決断を下すことへの大事な一歩にもなりました。今回の滞在で学んだことをこれからの学生生活へ活かしていけるよう、より一層勉学に精進していきたいと思います。西山先生を含めこのメンバーでフランス滞在が出来たことを心から嬉しく思います。皆さんありがとうございました。



中野慎太郎(言語科学2年)

中野慎太郎(言語科学2年)




このたび私は、2週間弱にも及ぶフランス滞在プログラムに参加させていただいた。滞在の間は毎日が濃密かつセンセーショナルで、これほど心躍る2週間弱は今までの人生のどこを探しても無かった。それゆえ滞在記の内容に入る前にまず、この滞在プログラムを計画・実行し、仏文の学生ではないこの私の参加を認めていただいた西山先生に、冒頭でお礼を申し上げたい。

旅のはじまり

真夜中12時を過ぎてから羽田空港を飛び立った飛行機は、約12時間後にパリのシャルルドゴール空港に降り立った。日本とは8時間もの時差があるフランスは、このとき午前5時ごろであるから当然外は真っ暗。機内でろくに寝られなかった私は、夜が明けていないことに少しげんなりした。寝られなかった原因は慣れない長時間のフライト(これが私にとって初めての海外でもある)のせいもあったが、やはり憧れの国フランスに胸を高鳴らせ過ぎていたからだろう。出発前に本やネットでフランスに着いてからのイメージトレーニングをし過ぎたあげく、期待とキャリーバックをパンパンに膨らませて行ったのは失敗だったかもしれない。

空港にて預けていた荷物を受け取り、チェックの甘そうな税関を通り抜けると、最初の宿泊先のホテルへ向かう電車に乗り込む。するとすぐに、車窓からは見たこともないような美しい風景が広がっていた。わけではなく、曇天の空のもとには家屋がぽつぽつと時々建っていて、他は枯れた木々や緑が広がる一見どこにでもありそうな田舎風の景色が広がっていた。それゆえ車窓からパリに来た実感をすることはできなかったが、しかし車内にふと目をやった時、さすがにそれを実感した。気が付けば周りは白人と黒人とが入り交じり、その間をフランス語が飛び交い、車内案内はほとんどフランス語か英語、そして日本人はどこを見わたせども我々しかいない。この時初めて、自分は今フランスにいて、自分は今外国人であるという感覚を知る。それは不安であると同時に、良く言えばわくわくとした、悪く言えば浮足立ったような気持であった。それからしばらくして、ホテルのあるモンパルナスの駅に着いて外に出ると、そこには、典型的かどうかわからないが、確かにフランスらしい空気を纏った街並みが並んでいて、その新鮮さに気分が高揚した。

テロの現場にて


(テロのあったカフェバー「ボン・ビエール」)

ホテルのチェックインを済ませ荷物を置くと、すぐに周辺の街並みを歩く。そして最初に向かったのは、昨年11月に同時多発テロがあったばかりのまさにその現場である。パリ11区にあるカフェバー「ボン・ビエール」では事件当時、テラス席が銃撃されて客5人が死亡した。その時日本でこのニュース映像を見ていた私は、事件後のガラスが飛び散った悲惨な店内の映像を見ていたので、いったい店内はどんな雰囲気になっているのか心配であった。しかし入ってみて驚く。ほぼまったくと言っていいほどその痕跡はなく、店員さんも明るくて優しく、客もいつも通りといったように緩やかな朝の時間を過ごしているように見えた。12月には営業を再開していたということは知っていたから、さすがに店内も荒れたまま店員も客もピリピリしているような光景を想像していたというわけではないが、それでも本当にここでテロがあったとは思えないほどその爪痕が見当たらなかった。それと同時に当時ニュースなどでよく耳にした“Je suis en terrasse(私はテラスにいます)”という言葉を思い出した。これは当時、テロによる恐怖に屈することなく普段通りの生活や文化を守ろうという考えから、フランス人の間で広まった言葉だが、このカフェに来てみてそのフランス人らしい考え方や態度というものを思い知った気がする。それから皆で実際にこのカフェに入り、少しばかり休息をとったのだが、それにしても平穏である。注文したエスプレッソを飲みながら、ふとこの平穏な時間が破壊される瞬間を想像した。その時初めて、ニュースでその惨劇を見ていた時とは種類の異なる恐怖、この穏やかさを失うことへのリアルな恐怖がイメージされ、当時ここにいた人の動揺や怒りというものが、少し感じられたような気がした。そして当たり前の日常の尊さと、それが破壊されるときの絶望を考える。

レンヌ訪問



翌日の朝、今度はパリからレンヌへ。レンヌには首都大との交換留学協定を結んでいるレンヌ第二大学があり、今回はありがたいことに2日間に渡って施設や授業の見学をさせていただいた。初日はまず、各国から集まった留学生たちが通っているCIREFEというレンヌ第二大学内にある語学学校の授業を見学させていただいた。私たちの見学した授業は、遊びの要素を組み込んだ、学生が自由に考えや想像をし、学生同士の討論から授業が進んでいくような学生主体の授業であった。先生はあくまでそれを導き、サポートをしていくスタイル。この授業の中で私が特に印象的に思った点は二点。一点目は、学生たちはその多くが、相手の発言に対して自分の考えや質問をぶつけていた点で、時に相手の言葉をさえぎるようにして発言していく雰囲気は、少なくとも私が日本で受けてきた語学のクラスではなかったように思える。もちろんそのCIREFEのクラスの中にもよく発言をする人、ほとんどしない人はいたのだが。二点目は、それぞれの国の出身者が話すフランス語には、それぞれの国の訛りが存在するという点で、時にフランス語には聞き取れないようなときがあった。それは日本人も例外ではないのだから、やはり特有の訛りがあるのだということを自覚し、改善をしていかなければならないと感じた。私自身、来年度の夏からこのレンヌ第二大学へ留学をする身であり、このCIREFEには通うことになるため、実際に留学する半年前に授業の雰囲気を感じることができたのは、今後の学習モチベーションや学習方法に影響する大変貴重なよい機会であった。


(留学中の学生らと街を散策)


レンヌ訪問二日目の午前中には日本から来た二年生五人が二つのグループに分かれて、レンヌ第二大学の日本語を学んでいるクラスの前で、フランス語で発表をした。発表内容はそれぞれ、東京の紹介と、首都大の紹介を含む日本の大学生の紹介で、私は大学生についての方のプレゼンをした。この発表の準備に際し、首都大学仏文科助教授のクリス・ベルアド先生には大変お世話になり、お忙しい中原稿の添削や発表内容のアドバイスに時間を割いていただき、本当にありがたく、おそらくベルアド先生の協力なくしては成り立たなかっただろう。そのおかげもあり、学生たちはしっかりと発表を聞いてくれて、反応もあったのでとてもやりやすかった。その後には学生たちとのディスカッションの時間があり、フランス語で様々なことを質問され、うまく答えられたわけではないにせよ非常に有意義で楽しい交流だった。だが一つ、心残りなことがある。それは一人の学生から(このときは日本語で)こんな質問をされた時だった。「どんな宗教が好きですか?」「どんな時に祈りますか?」そう聞かれた時、私はフランス語でも日本語でもうまく答えることができずに黙ってしまった。フランスと日本では宗教に対する考え方が違うということなどを、いったいどう伝えていいのかわからなかったからだ。このとき、異なる文化の人とのコミュニケーションで大切なことは、語学能力だけではないのだと思い知らされた。そもそもフランス語能力自体まだまだ足りないので磨きをかけなければならないのだが、それに加えて自分の国の文化を正しく理解し、説明することは留学をする上でも、その後の人生のためにも大切なことだと改めて学んだ。日本人としてまずは、日本のことをよく知り、そして考えてから他の国に目を向けてみようという気持ちがこの経験から強くなった。

その日の午後には、以前、西山先生のゼミ内で先生主催の国際セミナーに参加した際に来日していただいた、ブリジット・プロスト先生の演劇の講義を見学した。見学、と言ったものの実際には最前列に座らせていただくという最高のおもてなしを受け、また授業中に使用なさっていた演劇のビデオもわざわざ日本語字幕が入ったものを使っていただき、内容の前にまずその歓迎の精神に感服した。授業自体の内容はもちろんすべてフランス語なので理解することは難しかったが、プロスト先生の授業はまるで演劇を見ているかのような感覚に陥るほどダイナミックで、フランスの大学の授業を間近で体感することができて、貴重な体験となったし、自分のフランス語スキルがもっと上がったら、留学中にもう一度受けてみたいという意欲が生まれた。

また、このレンヌ滞在中には、首都大の卒業生で現在レンヌ第二大学在学中の八木さんが、レンヌの街をガイドしてくださり、大学見学の先導や食事会のセッティングまでしていただき大変にありがたかったし、参考になることばかりだった。そして現在首都大に在学中でレンヌ第二大学に交換留学中の先輩方にも、大学周辺の案内や、学生寮の見学等でお世話になり、とても良い機会となった。このような素敵な先輩方がいて、本当にありがたく、心強く思う。


(レンヌ大学の学食で食べたクスクス)

パリでの日々

レンヌでお世話になった方々に別れを告げると、再びパリへ。今度はアパルトマンでの生活が始まった。セーヌ川沿いの超好立地のこのアパルトマンにいる間は最も「フランスの生活」というものを感じることができた。自分たちで買い物をして、食事を作り、洗濯もして、ということをフランスでしてみると意外な発見もあったりして、これはホテルに泊まっているだけではなかなか得られない、貴重な体験であった。このパリに戻ってからの期間は、ルーブル・オルセー両美術館やヴェルサイユ宮殿、エッフェル塔に凱旋門にカタコンベにノートルダム大聖堂に、といった具合に、これだけではないが、本当に多くの名所を訪れることができた。先輩方に案内してもらわなければ、これだけの名所を効率よく訪れることはできなかっただろう。そのすべての感想をここで語りつくすのは無論不可能であるが、言うまでもなく毎日が新しい発見と刺激の連続であった。


(ノートルダム大聖堂とエッフェル塔)


だがそんな風にしてパリの街を歩いてみたからには、やはり物乞いをする人々について触れないわけにはいかないだろう。「触れないわけにはいかない」という言い方をしたのは、できることなら私はそのことについて考えたくないからだ。目をそらしていたい。だがそれではパリという街を、フランスという国を本当に理解することはできない。光と闇があることを認めなければ、何も知らないのと同じである。パリを歩くとわかるのだが、歩道の真ん中や、スーパーの出口、時にはメトロの中など、いたるところで物乞いに遭遇する。何も言わずに黙って手を差し出す人もいれば声をかけてくる人もいる。日本で普通に街を歩いていて、道の真ん中で物乞いに出会うことはほとんどないし、ホームレスと呼ばれる人々はいても、彼らが物乞いをすることは稀なことのように思う。だからこそパリで、歩道で寝泊まりし、モノやお金を求める彼らの姿を、何度も目撃すること自体衝撃だった。だがもっと驚いたのは、彼らに小銭を渡していく人々が思いのほか多いことだ。もちろん物乞いを見るたびに立ち止まっていたらきりがないし、うっとうしいと思っている人もいるだろうから、さすがに毎回渡しているというわけではなさそうだけれど、それでもその光景はこの滞在中だけでも幾度となく見られた。私は物乞いに小銭を渡すことはできなかった。近寄る勇気がなかったということもあるかもしれないが、あまりに多いせいで、あの人には渡してあの人には渡さない、という基準がわからなかったせいもある。だが、だからといって「いっそのこと誰にもあげない、無視する」とすることには違和感もあった。最初は目をそらしていたし、言ってしまえば最後まで目をそらしていた。もっと言えばずっと目をそらしていたい。だがどうだろう、この社会を作ったのは誰なのだろうと考える。そしてその社会に生きる我々に責任がないと言えるだろうか。彼らはどんな悪いことをしたのだろう。このことから、目をそらすことは、やはりあってはならないと感じた。

滞在八日目、この日は二つの目玉イベントがあり、一つ目はUNESCO見学である。UNESCO本部の中を見学させていただけるだけで光栄だったが、建物や歴史についての説明を交えながら案内をしていただくことができ、非常に興味深いものであった。建物の内側にある美しい日本風庭園のあたりで聞いた、広島の原爆ドームの世界遺産認定にまつわる話は、本来は世界遺産登録のための基準を満たしていなかった原爆ドームは、認定を決める会議でアメリカなどから強く反対をされていたのにも関わらず、やはり特別なものであるから特例で認定したというもので、大変興味深く、そういった歴史にもっと興味を向けてみたいと思えた。また、UNESCOの建物自体も建てられたのが昔であるにもかかわらず、今見ても現代風の綺麗な建物で、芸術的な雰囲気さえあるたたずまいはさすがにパリにあるだけあるし、景観のために他のパリの施設同様、高さがない建物であった。



その夜、UNESCO本部からいくらか離れた映画館で、二つ目のイベントである西山先生が開催された映画鑑賞形式のセミナーに参加をした。題材となった作品は“Hiroshima mon amour(ヒロシマ モナムール)”という被爆地ヒロシマを舞台にした、男女のドラマであり、日本とフランスの合作映画でもある。セミナーには老若男女問わず多くの人が来ていて、質問もする人も多かった。セミナー自体の内容はフランス語であるためしっかりわかったわけではないが、事前に日本でこの作品に対する批評会のようなものをしていたので、フランスという地において、この映画がどのように捉えられるのかどうかという部分が、非常に面白いものであった。ヒロシマでの出来事を題材にしているだけあって、日本人とフランス人との視点の違いなどは大変興味深い。

そして最終日には西山先生が開催する、国際哲学コレージュのセミナーに参加させていただいた。ガラス張りの綺麗な部屋で、聴衆は興味深そうに耳を傾けていた。私はというと、内容自体のレベルの高さもあるが、というよりそもそもフランス語が聞き取れずに、内容は把握できなかった。しかしこの哲学の最前線の舞台に立ち会えたことは大変光栄で、その空気というものをひしひしと感じた。それぞれの発表後には質疑があったり、教授同士の対話があったりと活発だったし、特に印象的だったのは時折冗談交じりに話す雰囲気である。哲学のレベルが高く、難しい話をしていても、時折は力を抜くことも忘れない雰囲気のおかげで、聴衆は引き寄せられていたのだろう。また、このセミナーの後には打ち上げにまで参加させていただき、いろいろな方とお話ができ、恐れ多くもあったが、発表をしていた教授の方々は皆優しく話してくれて、魅力的な方々ばかりだった。

おわりに

パリの美しい街並みや、モンサンミッシェルの荘厳さ、料理のおいしさなどまだまだ書ききれていないが、そういった観光としての部分も本当に充実していたことがこの滞在の素晴らしかったところで、フランスという国の魅力にすっかり取り憑かれてしまった。自分にとって、初めの海外、初めてのフランスがこのような素晴らしい出会いと経験に溢れていたことを思うと、本当に来てよかったと思えた。


(モンサンミッシェル)

(シャルトルのステンドグラス)

(凱旋門の展望台からみたパリの街)

この滞在プログラムにおいては、本当に多くの方々の助けがあったおかげで、貴重な体験をさせていただくことができた。まずは共に同行した留学経験のある二人の先輩には本当にお世話になった。それから、レンヌを案内してくださり、留学のアドバイスをしていただいた八木さんと留学中の首都大の先輩方、撮影をしていただいた飯澤さん、授業等の見学を取り計らってくださったレンヌ大学の高橋先生やプロスト先生、職員の方々、レンヌにいる間ともに行動していただいた首都大仏文の藤原先生、日本語クラスでの発表を助けていただいたベルアド先生、みなさま本当にありがとうございました。そしてこのプログラムの経済支援をしてくださった国際交流プログラムに携わられている皆さま、心より感謝申し上げます。最後に、冒頭と重ねってしまうが、この滞在プログラムを計画・実行し、見たことのないような世界を見せてくださった西山先生に、改めて感謝を申し上げたい。


Le seul véritable voyage, ce ne serait pas d'aller vers de nouveaux paysages, mais d'avoir d'autres yeux. ─Marcel Proust
「唯一の本当の旅とは、新しい風景を探すことではなく、別の物の見方を得ることだ。」─マルセル・プルースト