「協調の失敗」と雇用慣行

近年の失業のモデルを巡って
 
脇田 成
東京都立大学経済学部
東京都八王子市南大沢1-1
 
要約

近年の失業のモデルとその背景にある諸外国のマクロ経済事情を考察し、日本の低失業率においてはいわゆる日本的慣行が「協調の失敗」を克服する役割を無意識のうちに担っていること、そしてこのような「慣行」はたとえ大きなマクロ経済的役割を果していたとしても、だれもが些細なことと無視するあまりに、今後その履行が難しくなることを指摘する。さらに失業・インフレの克服における春闘・ボーナスの役割と熟練形成における長期勤続の役割を、具体的に新しい理論をふまえて検討する。

はじめに


本稿では近年の「失業」を巡るモデルの整理と若干の将来展望を行うが、まず第一に確認しておかなければならないことは、日本の失業率は国際的に見ればとにかく低く、内外でほとんど研究の対象とされていないことである。私の知るかぎり、わが国の近年の文献で日本の失業率を考察したものは照山・戸田(1997)のみであり、海外の研究者の国際比較を行った実証研究でも、日本は除外してアメリカとヨーロッパの比較研究のみがされていることが多い。
この理由は簡単であって、とにかくわが国の失業率は低く、さほど動かないわけだから、実証研究の対象になりにくい。実際、OECDの標準化された失業率のグラフをみると、一目瞭然であり、多くのマクロ経済学の教科書では、アメリカとヨーロッパの失業率のグラフは1枚にまとめられているが、日本はわざわざ別のグラフにされている。よく日本の特殊性を強調することは文化的・非科学的と言われるが、日本のマクロ統計数字は一般にこのようなものが多く、たとえ「本質」は同じであろうと「見かけ」も大切である。さらに制度的要因(春闘・ボーナス・定期採用)に基づく大きな季節変動や石油危機前後の構造変化も日本経済の実証分析を難しくしている要因である。
しかし実証研究がうまくまとまらないからといって、近年の失業率の動向を無視すべきではない。実際、ゼロ成長に近い数字が続いたにもかかわらず、失業率が3%強という数字は国際的には驚くべきことであって、たとえ日本のシステムが幾多の問題点があるにせよ、もう少し注目されても良いのではないだろうか。もちろん失業率が低ければすべてよい、と言うものではないが、もともと高失業率に苦しむ諸外国の都合のよいところだけを見習うことはよいこととは思われない。そこで本稿では諸外国で開発されたいくつかの失業のモデルを紹介し、いわゆる日本的慣行によって、ほとんど無意識のうちに失業をもたらす要因が日本ではいかに克服されているかを説明する。
このような無意識のうちになされること、あるいは経済主体にとっては些細なことがつもりつもって大きな効果をもたらすこと、これが現在、盛んに研究されている「マクロ的外部性」と「協調の失敗」のモデルである。これらは労働市場固有のモデルと言うより、新ケインジアン経済学や内生的成長理論という名称のより広い範囲で研究されているものだが、今後の日本経済を考えるにあたって示唆に富むので、本稿でも説明することにする。
ところで筆者の感じるところ、日本にはケインジアン的な立場の経済学者が多いにもかかわらず、このような外部性の議論をうまく応用して日本のこれからの労働市場の問題点を考察しようとする方向性に乏しい。今後の日本経済が直面する長期的な課題は

(1) 少子化・高齢化する家計
(2) 技術的に空洞化する企業
(3) 財政赤字に悩む政府

の3点であることは大方に異論はないと思われる。これらの問題、特に(1)と(2)の解決が難しいのは、個人の「経済合理性」と社会的な「経済合理性」が乖離することにある。教科書的なミクロ経済学では、家計は予算制約を所与として、効用を最大化する存在であり、個別の家計の「自由な選択」の結果として少子化・高齢化するならば、それはそれでしかたのないことになるし、また企業がより有利な投資機会を求めて海外に生産基盤を移して技術・産業が「空洞化」することもやむを得ない、と考えることになる。ところが個別の経済主体にとってよいことがマクロ経済全体にとってよいこととはかぎらない、という点のモデル分析がマクロ的外部性のモデルである。
実際、今年に出版された「空洞化」に関する周到な研究である関(1997)は東京都大田区のような中小企業集積を「発注側の大企業は、高密度の工業集積、技術集積を「空気」のように受け止め、広範囲に利用していたのである。」と述べている。つまりこの「空気」のような無意識のものが外部性を生み出すわけだが、この「空気」は公害の外部性としてミクロ経済学でおなじみである。しかし汚れた空気の外部性は特定の工場と地域住民との局所的な問題として、それを「内部化」によって解決する方法はこれまでも検討されてきた。ところがマクロ経済全体の外部性は極めて解決が難しく、思わぬところで問題が顕在化する可能性がある。
もちろん舶来の数学モデルを有難がって、それに即して無理矢理当てはめるばかりでは現実を見失うかもしれないし、「外部性」のモデルにこだわれば、どのような政府の介入であっても正当化されてしまう。実際、内生的成長理論の有力な研究者でもあるBarroはその近著(1996)で、マクロ的な外部性に基づく内生的成長理論は市場機構に反する政府介入をモデル化しているものの、これらはあくまでモデルであり、実際の適用とは別問題であることを強調している。
にもかかわらず、筆者がここでマクロ的外部性のモデルを重視するのは、文化的・印象論的と非難され「理論的に誤り」と一蹴されていたトピックスに対してもモデル分析が進んでいることをふまえて、今後の日本の労働市場を考察する必要があると思うからである。そこで本稿では最初に失業のモデルを簡単にまとめたあと、マクロ的外部性に基づいて、わが国の春闘・ボーナスに基づくマクロ的賃金設定方式と熟練形成方式について説明する。

失業とそのモデル


マクロ経済学には大きく分けて2つの考え方が存在することはよく知られている。一つは市場均衡を重視する新古典派の立場であり、もう一つは市場の不均衡や非効率性を重視するケインジアンの立場である。実際に観察される失業を考察する際にもこの両者のとらえ方は伝統的に異なってきた。

(1) 新古典派が重視する摩擦的・構造的失業
(2) ケインジアンの重視する非自発的失業

第一の新古典派の考え方に従えば、産業構造の転換や技術の進歩によって労働力の再配分は不可欠である。それゆえ労働者がよりよい仕事を探しあてるまで、あるいは企業がよりよい人を採用するまでの若干のミスマッチは避けがたい。この過程の中で自発的な失業が生じてくる。第二のケインジアンの考え方に従えば、教科書的には名目賃金の硬直性のもと、企業の労働需要が雇用量を決定する。このような賃金調整を欠いた労働市場では非自発的な失業が生じてくる。このような二分法は必ずしも誤りと言えないが、現在では「相互乗入れ」が進んでいる状況を説明する。

非自発的失業


ケインジアンが主張してきた非自発的失業とは何か、と言う根本的な疑問に対し、実はミクロ経済学に即してその説明を目指す理論的研究はほとんど成功していない。この理由はマクロ経済学において新古典派的な考え方が優勢になったから、というわけばかりではない。近年ではケインジアン的な立場に立つと考えられる研究者のモデルにおいても、非自発的失業の可能性は捨象され、資源配分の効率性の観点から過大雇用や過小雇用で労働市場のパフォーマンスを考察する方向にある。実際ケインジアン的な立場に立つと考えられる Farmer でさえもその教科書(1993)の序文で市場が均衡しているか不均衡であるか、あるいは失業が自発的なのか非自発的なのかは重要ではない。問題は労働市場が効率的か非効率的かどうかが問題であると述べている。
もう一つの近年の特徴として、失業の総論から各論へのシフトが生じたことである。古いケインジアンの考え方によれば、市場機構は必ずしも資源を完全に利用しないということが強調された。この点はあくまで「総論」であるはずだが、初期のケインズ経済学のミクロ的基礎付けを目指す研究では、非常に一般的な「無国籍」のモデルで失業を考察しており、あまり個別の具体的な問題を考えることはなかった。Lucas (1987)はこのような状況をとらえて、「非自発的失業」と言う言葉にこだわることが、現に失業している労働者の選択行動を分析することを妨げてきたと述べているが、確かにこのような側面は否定できない。
そこで近年では各国の制度的な特徴や統計的な特性に基いてモデルが作成されており、より実態に即したモデル分析が各国で進んでいる。なかでも比較的最近の労働市場のモデルで注目すべきは以下の4つに分けられよう。

(A) 現実のデータとの対比から、リアル・ビジネス・サイクル・モデルなど一般均衡動学モデルに即して再検討されつつある暗黙契約理論とくじ引き均衡
(B) 強力な労働組合の力と、それがもたらす若年層を中心とした持続的な高失業率を背景として、ヨーロッパにおいて盛んな労働組合・労使交渉のモデルとインサイダー・アウトサイダー理論
(C) 貨幣的な期待錯誤のモデルから、構造的な失業をもたらす労働力再配分の理論として今後重要性を増すと考えられる多部門モデルとジョブ・サーチ・モデル
(D) 労働組合衰退のもと、「働かない労働者」をどうやって働かせるか、という問題を中心に米国において盛んな効率賃金モデル
これらのモデルの数学的構造については脇田(1996)において比較的詳しく説明したので、これを参照されたいが、もともと新古典派的に解釈されることの多い(A)や(C)を除いて、ケインジアン的な失業を説明する(B)、(D)はそのまま日本経済の現状にあてはめることは難しい。なぜ難しいかは順に説明する。

ジョブ・サーチ・モデル


産業構造の転換や技術の進歩によって労働力の再配分が必要となる状況をとらえるモデルがいわゆるサーチ・モデルである。労働者にはさまざまな特性があり、企業にもさまざまな特性がある。ところが仕事探しには時間がかかってしまうので、その間は失業が避けがたいことになる。このサーチ・モデルは古くから研究されていたが、脚光を浴びたのはルーカス等によるマクロ経済学におけるいわゆる合理的期待革命以来である。彼らは予期されない金融政策の変化が労働者に期待錯誤をもたらし、労働供給が自発的に増大する。この結果、本来これ以上下げるべきではない「自然失業率」がマクロ経済には存在するにもかかわらず、インフレが増大すると失業率が減少するという右下がりのフィリップス曲線が見かけ上存在する、と主張した。
我が国では合理的期待革命はかなり冷やかにうけとめられ、また初期のサーチ・モデルはマクロ経済学的含意が強調されたので必ずしもこの方面での研究は理論的にも実証的にも盛んでない。しかしながら、サーチ・モデルは労働経済学において最も基礎的な問題点を考察しているモデルである。
なぜなら労働とは当り前のことだが生きた人間が行うものであって、それゆえ奴隷のように売買は出来ないし、離職することを止めることもできない。人的資本と言っても、物的資本と違うのは労働者が自ら主体的に職業を選択するという点が異なる。この意味で労働者の主体性のもと職業選択を考察したサーチ・モデルはもっとも基本的なモデルのはずなのである。
ところがこのサーチ・モデルを使って何でも説明できるか、と言えば、必ずしもそうではない。サーチ・モデルの現状は極めて特殊な仮定を置き、限定的な結果を分析しているにすぎない。しかも大半のモデルは極めて複雑で、サーチ・モデルの理論家に特化しなければ、どこがポイントなのかは理解できない。
これゆえ、我が国では必ずしもサーチ・モデルの研究は盛んではなかったが、今後、我が国でもサーチ・モデルの研究は進んでいくと考えられる。特に先に説明した貨幣的サーチ・モデルではなく、Lilien (1982)のようにリアル・ショックを重視し、多部門間の労働力再配分を考慮する立場は重要性を増す。Lilien (1982)は部門間の労働移動を説明する指標を作成し、この指標が失業率を極めて良く説明することを示した。しかしながら、このような相関が因果関係を表すものとは限らない。Abraham and Kats(1986)は景気感応度の高い産業と低い産業が存在することから、システマティックに労働移動が繰返され、Lilienの示した相関は何らケインズ型有効需要理論と矛盾しないことを示している。例えば「出稼ぎ」が不況のときに増大することが摩擦的構造的なものとは考えにくいことが理解されるだろう。このような研究は工場・事業所レベルにまで細分化して、実証研究が続けられており(その結果「失業」からは遠ざかっているが)、米国における実証結果については、現時点での集大成としてDavis, Haltiwanger and Schuh (1996)がある。
本来、失業とは言わば「事後」の結果であってサーチの効率性を失業率の変動で考察する前に、なぜいったん失業しなければ仕事探しが出来ないのかと、疑問も生じる。にもかかわらず、失業率が高位安定のヨーロッパ各国と比べて、アメリカの労働市場は伸縮的で失業率はそれゆえ大幅に変動し、パフォーマンスが高いと考える場合も多いことに注意されたい。

ヨーロッパの持続的な失業率とインサイダー・アウトサイダー理論


70年代のフィリップス曲線をめぐる議論では、経済には摩擦や制度的要因により、これ以上は下げられない「自然失業率」が存在することが主張された。このような考え方は暗黙の内に失業率が何らかのトレンドあるいは均衡点を持つことを想定している。しかしながらヨーロッパの大量失業においてBlanchard and Summers (1986)は、新しい統計手法を使って失業率が高止りする傾向を示した。
新しい統計手法は非定常時系列分析と呼ばれるもので、これを理解するためにはサイコロを振って「すごろく」をすることを考えると分かりやすい。サイコロの目の平均は3.5であって、何度もふればその平均は3.5に近づくことは初歩の統計学で習う通りである。つまりこれまでの「自然失業率」とは、多少よくなったり悪くなったりしても、長い目でみればサイコロを振って平均を出すように一定の値、あるいは外生的なトレンドに従うと考えてきた。ところが同じサイコロを振っても、失業率が「すごろく」のような数字を足して行く(和分と言う。)プロセスに従っている(これを単位根を持つと言う。)と統計的には推定手法は異なってくるし、その背後にある経済学的意味あいも異なる。
ここで話を分かりやすくするために、平均が0であるサイコロを仮想的に考えよう。このとき「すごろく」で- 2.5を出してしまったとする。この場合、スタート時点よりさらに後ろに下がらなくてはならず、2回目にはこの出遅れた地点でサイコロを振ることになる。ところがサイコロを振ることは「独立事象」、つまり-2.5を出したからと言って次に大きな数字が出やすいことはない。統計的な将来の予測値では、スタート時点より2.5下がった時点のままで、他人に遅れを取ったままとなる。つまり失業率がいったん高まっても、そこから「自然失業率」に戻る保証は何もないと言うのが非定常時系列の考え方である。
このような非定常的な失業率は労働組合のモデル分析を拡張したインサイダー・アウトサイダー理論(Lindbeck and Snower (1988))により説明されることが多い。この理論は、「すでに企業に雇用されているインサイダーは独占力を持つ労働組合を組織し賃金決定に力を持つが、失業していたり、不充分な職に就いているアウトサイダーはインサイダーと異なり賃金決定に力を持たない」ことを強調する。このモデルは既存のモデルと共通性が強いが、盛んに分析されている理由は、インサイダーとアウトサイダーという分かりやすいネーミングとヨーロッパの高い失業率が背景にある。全体像をつかむための展望論文としてはSafney (1995)が貴重である。
それではなぜ失業率が高止りすることと、労働組合の力が関係するのだろうか。たいていのモデルは組合が賃金を決め、企業が雇用量を決めるとする独占組合モデルに即し、以下のようなストーリーで説明する。組合は現在の組合員が雇われる限りの最大の賃金を要求する。その後何らかの負のショックが加わると、与えられた賃金を前提に経営者は労働者を削減する。この減少した組合員はまた現在の組合員が雇われる限りの最大の賃金を要求する。これより失業率は高止りすることになる。
もちろんこれらの分析は非常に理論的にも、実証分析上でも誇張されたものだが、照山・戸田(1997)は日本の失業率はレベルは低いものの持続的であり、先に述べたような「すごろく」のプロセスを含んでいることを示唆している。

効率賃金モデル

80年代後半に盛んとなったモデルで、賃金が労働生産性の水準を左右すると考える効率賃金モデルがある。このモデルはさまざまな要因から、各企業にとっては高賃金が望ましいことを考察し、その結果決った総雇用量が市場を均衡させるとは限らず、失業を生む可能性を強調したモデルである。実際、少し給料を高めに設定して、まじめに長く働いてもらおう、あるいはいい人に来てもらおう、と考えることは自然であるが、それだけに賃金を上昇させるとなぜ効率が上がるのか、という問題には様々な解答が与えられよう。また日本の労働市場の諸慣行は労働市場が効率賃金モデルが含意する高賃金-高失業の組合せに陥る必要がないことを示している。
そこで日本の労働諸慣行と効率賃金モデルとの関連をまとめておく。(以下の分類の詳細は脇田(1994)を、個別のアイデアについては脇田(1996)の参考文献を参照されたい。)
(1) 市場におけるマクロ的な慣行として春闘・ボーナスからなる「横並び」的賃金設定が考えられるが、春闘はケインズの「相対賃金仮説」的な効率賃金メカニズムを持っているし、ボーナスは後払賃金として労働強度に比例して上昇することを実証的に示されている。
(2) 大企業におけるミクロ的な慣行として、長期雇用が労働者のモラルを高める側面がある。
(3) マイクロ・マイクロ的な職場における労働者間の相互監視はもともとモラル・ハザードを抑止している。
さらに効率賃金モデルでもっとも有力なモデルはShapiro and Stiglitz (1984)であるが、このモデルを端的にまとめれば、一定の失業の可能性がないと労働者はまじめに働かないということである。ところが、このようなモラル・ハザードを防ぐ方法は様々に研究されてきたように、実際に重要視されているものがラジアーが示した年功賃金制度の役割である。
そこでは年功賃金が、労働者の怠慢監視の役割を持っていることが強調される。年をとればどんどん賃金もあがり、定年のときには退職金がもらえることを考えれば、クビにされないように労働者はまじめに働くというのがその骨子である。以前にバスの運転手がおつりを数百円ごまかしたために、退職金をふいにしてしまう事件があったが、このような事件を年功賃金制は防ぐメカニズムを持っている。またShapiro and Stiglitzのモデルにおいては勤務怠慢のために解雇された労働者が「怠け者」という評判が立つことはない。しかし米国においてさえもGibbons and Katz (1991)は工場が閉鎖されたため解雇された労働者には悪い評判が立ち、賃金は有意に低く、失業期間も長いことを見出している。
もともと効率賃金モデルは賃金という価格が労働の対価以上に怠慢防止など複合的な機能を持ち、そのため不完全にしか市場を均衡させないので失業を生み出すところに意味がある。ところが現実には賃金以外の様々な政策変数があるし、長期継続関係においてはその自由度も大きくなる。そこでこれが「慣行」となって表れて労働市場のパフォーマンスを高めているのである。

マクロ的外部性の理論と日本的慣行

以上で簡単に説明した失業を中心とした労働市場の諸モデルはこれまでの日本の労働市場には当てはまりにくい。しかも諸国の労働市場には高失業率のみならず、熟練形成機能の喪失、所得分配の悪化など問題は山積みである。にもかかわらず、我が国でこれまでの慣行を捨去らなくてはならない、という議論が頻出するのはなぜだろうか。その理由は以下のようにまとめられよう。(a) 「過労死」するまで働いても、「窓際族」のように働かなくても給料は変らない「悪平等」の企業内賃金構造
(b) 膨大な負担のもと交渉を積重ねた結果、マクロ整合的な水準で「横並び」で決ってしまう春闘方式
この2点を考えると努力も才能もむくわれないシステムとして非難を浴びることはやむを得ないと考えられるかもしれない。にもかかわらず、筆者は以上のようなシステムを簡単に非難する前に、これまでの慣行が無意識に果してきた役割を再検討すべきである考えている。
この理由は冒頭に述べたような「協調の失敗」の存在であり、その履行メカニズムとして一般に考えられる繰り返しゲーム(Repeated Game)のモデルが示唆するところ、常に「ただ乗り(Free Rider)」の危険性を含んでいる。その結果、一度崩壊すれば、自律的な回復力に乏しいことである。
繰返しゲームとは、短期的な「慣行」からの逸脱利益と長期的な「慣行」を順守する利得とを比較考慮して個人合理性を満たして行動するというもので、「不透明な暗黙の了解」のもと、お互い長い目で見て得をしましょうというモデルである。寡占企業がカルテルを結べば、長い目では得をする。しかし短期的にはカルテル破りをすれば、莫大な利益を挙げられる。このようなカルテルは高成長軌道に載っていると長期的な利得は大きく「慣行」は順守されやすい。そこで問題となってくるのは、日本経済において、もはや長期的な問題とは言えなくなりつつある少子化・高齢化の問題である。つまりパイが継続的に拡大する「右肩上りの持続的な成長下、問題先送りが可能」なこれまでの状況と異なってくる。
さらにこのようなゲームのもと、成果の分配は「いきあたりばったり」の傾向が強くなる。教科書的なミクロ経済学では実質賃金は労働の限界生産性に等しいし、長期的な契約ではそれぞれ両者の総和に等しくなる。ところが繰り返しゲームでは、異なったロジックで決ってくるので、いわゆる会社内分配ネズミ講仮説という、高齢化・少子化が進むこれからは年功賃金制は維持できないという「俗論」や、ジャーナリスティックな「企業内失業」の存在(Wakita(1997))もそれなりの根拠を持つと思われる。
以上のような「慣行」の一般的なモデルを念頭において、以下では筆者の考える日本経済の協調メカニズムである
(A) 春闘・ボーナスにおける「横並び」的賃金設定
(B) 終身雇用制における熟練労働者引抜き阻止
という、労働市場の価格・数量にかかわるものを考察しよう。

賃金設定におけるマクロ的外部性と「春闘・ボーナス」

ミクロレベルの労使交渉から積上げてゆく春闘は石油ショック以降の大インフレーション期にはその威力を発揮したが、近年ではその膨大なコストとインフレーション鎮静化から、その見直しと簡略化が唱えられている。しかしながら、ここで重要なのは個別の労使にとっては多大なコストがかかり、なおかつその結果は「横並び」であるため、ほとんど便益が感じられない春闘であっても、マクロ経済で最も重要な「価格」である賃金をインフレや失業を悪化させない水準に決定していると考えられる。
春闘のような統合化された団体賃金交渉は、近年は衰退の傾向にあるものの諸外国に広範囲に存在しており、(例えばFreeman and Gibbons (1995)参照)一国内の多数の労働組合が合同して賃金交渉を行ういわゆる春闘方式は決して日本独自のものではない。賃金設定の中央集権度(代理変数として賃金の分散)が極めて高い国と、低い国では共に雇用率は高いが、中位の国では低いと言うU-shapedの関係を示したCalmfors and Driffill (1988)やFreeman (1988)などの実証研究もあるし、北欧・中欧諸国の経験を念頭に置いたと思われる中央集権的団体交渉理論モデルは独立した展望論文(de la Croix (1994))が書かれるぐらい発展している。これらの理論モデルは、財市場における独占的競争と価格設定の外部性を考察した新ケインジアン・モデルと同様であり、中央集権的な賃金設定が完全ならば「協調の失敗」が克服されることを示している。
実際、賃金設定をバラバラに行うことは大きな弊害をもたらす。冗談のような話だが、ニューヨークの警察官と消防士は互いに1割づつ高く要求していた。このようなことが起るのは賃金交渉が同時ではないからだ。ところが諸外国においても春闘方式はあまり評判が良くない。これらの国では高失業率に苦しんでいるからだ。それでは日本の春闘はどこが異なるのだろうか。

マクロ的賃金設定の二部料金仮説

筆者は(脇田(1994)、Wakita(1995))は日本の「春闘」と「ボーナス」からなる賃金設定方式を二部料金的賃金バーゲニング方式と名付けて考察しているが、この仮説は以下の2つの日本の労働市場の特徴を基礎としている。まず第一に日本の労働市場は「二重構造」を持っているということ(近年のモデル分析はSaint-Paul (1997)を参照されたい)、第二にボーナスの総賃金に占める比率は大企業ほど高いということを考える。つまり、ボーナスは「終身雇用制度」が広まった大企業セクターの特権的労働者が享受するものであるが、春闘は雇用が不安定な中小企業にも影響を持っている。このように春闘は賃金設定における「最低限の保証」であり、ボーナスはいわば「おまけ」であると考えると、これらの特徴は伝統的な「二部料金制度」モデルによって捉えられるのではないか、というのが筆者の主張である。
周知のように、独占企業の多くは大きな固定費用のもとで、「基本料金」と「従量料金」を徴収している。例えば水道・ガス・電気などはそうであるし、もともとの議論はディズニー・ランドの入場料と個別の乗り物の料金の分離を分析したものであった。
このモデルをあてはめると、春闘で定められる定期賃金は「基本料金」であり、ボーナスは「従量料金」と考えられよう。それゆえ、この体系のもとではどちらがより有効かという問題は意味が無い。ボーナスで調整されることが理解されているから、春闘で賃金を低く定めることができるのである。また「二部料金モデル」の標準的含意から、「基本料金」をできるだけ下げうることによって、労働市場に数多くの労働者を参加させ、失業率を低下させることが理解される。
このようなメカニズムを筆者は以上のように高く評価しているが、これはあくまでマクロ経済全体を考えた場合であり、個別の労使、特に賃金セッターの労使にとってはわずらわしいだけかもしれない。しかも「実力主義」の名のもと個別の労働者が受取る賃金と春闘で決る賃金との相関は薄まってゆく。これ自体の評価はケース・バイ・ケースだが誰もが気に止めず結果的に「協調の失敗」の可能性が高まってゆく。

雇用流動化と技能形成における外部性

長期勤続は素晴らしい、熟練形成を促進すると言われても、どこの職場にも早く辞めてほしい、と思われる人はいるだろう。誰もが出世できるわけではないし、高い技能を身につけられるとは限らない。困った人もいるが、全体をならしてみれば長期勤続は素晴らしい、ということではないだろうか。
筆者は日本の雇用システムが労働者の高い熟練形成に寄与した面は否定しないが、この点は「勤続が長い」から「高度な熟練」が形成されると言う直接的なものではなく、さまざまな制度的”クッション”を考察することが必要であると考えている。そこで参考になるのは近年のイギリスにおける熟練労働者喪失を巡る諸モデル(例えばChapman (1993)、Stevens (1996))である。
英国ではサッチャー政権下により従来の徒弟制度とそれにつながる職能別組合の弱体化を進めたが、その結果、熟練労働者の激しい転職、あるいは経営者の引抜き合戦のために、経営者が費用をかけて訓練を行うことができないという囚人のジレンマの状況、あるいは「引抜きの外部性」(Poaching Externality)の危険性が重視されている。そして熟練喪失と研究開発は「補完性」を持つ、つまり高度な技術を使いこなせる熟練労働者がいないと研究開発を行うインセンティブが減少し、両者とも悪くなってしまう(Redding(1996)参照)。このように「補完性」は常識的な概念だが、実際の問題に直面して、始めて気が付くことが多い。
Wakita (1996)は以上のような「引抜き合戦」から労働者の熟練形成が阻害される状況を分析し、「暗黙の合意」あるいは「紳士協定」がこの外部性を内部化すること、そして後進国では経営者の「合意」が先行し、その結果企業別組合につながるが、職人層から発展した産業では(英国やわが国の建設業・海員組合のように)職種・産業別組合に受継がれることをモデル化している。
よく長期雇用を批判し、専門職市場が創設されれば、との意見もあるが、筆者には実際は難しいことのように思われる。第一に先述のサーチ・モデルが教えるところであるが、市場と言うからには規格化された労働者が大量に存在し、そのような労働者を需要する企業がやはり大量に存在しなくてはならないが、この条件が満たされることはたいへん難しい。(Diamond(1982))なおかつ日本の大企業は配置転換でごまかし、ごまかしやってきたわけだが、「市場化」すれば、技術革新に対応できない大量の労働者が出現する可能性は諸国の経験が教えるところである。(メインフレームしか対応できないコンピューターSEを考えればよい。)
第二に筆者の考えるところ、「専門職」というものは必ず集団を組織し、ギルド化する恐れがある。よく専門職へのナイーブなあこがれが聞かれるが、このあこがれは、多分に「資格」「免状」のもと厳しく供給を制限した結果としての高収入にあると思われる。ところがこの高賃金は人的資本の収益のみならず、レントが多分に含まれている。そしてこの結果、「専門職」を尊重し、積極的に活用するどころか、面倒だからやめておこうということになる。実際、とある都道府県の図書館には司書資格を持つ人材は少ないが、その理由は「昔、組合を作って、もめたから雇いたくない」だそうである。
ただし筆者は「余計なことをするな」という立場であって、現状の源泉徴収制度や企業の厚生年金基金の代行制度など、公的な社会保障・税制システムが企業別管理に依存していることには、事務処理の効率化の点からはともかく、妙な自由度を高めるのは賛成でない。筆者は政策的には長期勤続を中心とした雇用慣行を優遇した各種の政策は「公平」の観点からは是正すべきであるし、定年延長のキャンペーンなどは不要であり、一般均衡的観点から、労働者の企業固定度には一定の限界があると考えている。

結語

本稿では近年の失業モデル並びにマクロ的外部性とそれがもたらす協調の失敗を、これまでの日本的慣行が克服している点に力点を置いて関連の論文を展望した。
 近年の日本的システムを巡る議論のなかで理解しにくい点の一つは、起源が古いものならば日本固有の文化的システムで改変は難しいが、軍部の強制や戦後に作られたから人為的なものならば「改善」可能であるという二分法である。アベグレン以来、日本的雇用慣行の「三種の神器」などと言うが、本物の「三種の神器」とちがい、雇用慣行の「正統性」にはあまり意味がない。「イワシの頭も信心から」というが、偶然にできようが人為的にできようが、いったん出来上ったものを単純に破壊しては、大きなコストがかかるというのが、近年の動学モデルが示す点である。
 しかも「あぶはちとらず」と言うように、まあまあうまくやっていたのに、ぶち壊してしまうということは日本経済の近年の経験にもよくあることである。実際、わが国のバブルとバブル崩壊はこのようなプロセスであったと筆者は考えている。石油危機以降の日本銀行の政策態度は「マネタリストよりマネタリスト的」と呼ばれるように慎重を極めていた。その結果、低い失業率並びにインフレ率を享受したわけだが、当時のエコノミストの議論では「日本経済の潜在成長力をそこなう金融政策」と手厳しい。 その後、貿易黒字の増大と、世界各国が協調すればもっとうまくやれる、という政策協調の幻想から、日本銀行は資産価格インフレーションを放置し、バブルとバブル崩壊後の不況をまねいた。さらに「価格破壊」の名のもと、米国流のアウトレット店を増やしたスーパー・ダイエーは経営不振に苦しんでいる。
 たしかに個別の企業がさまざまな実験を行うのも必要だし、公的な制度が「企業別管理」に頼るばかりに、公平性をそこなってはならない。にもかかわらず、単純な市場万能論を盲信してマクロ経済の整合性を損ない、労働市場の効率性を失う前に、より広い発想でもって、ケース・バイ・ケースで対応すべきだと思われる。
 

参考文献

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照山博司・戸田裕之(1997)「日本の景気循環と失業率の変動の時系列分析」浅子和美・大滝雅之編『現代マクロ経済動学』東京大学出版会.

脇田成 (1994) 「マクロとミクロの日本的労働慣行」『社会科学研究』(東京大学社会科学研究所) 46-2, 220-306.

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