『クルーソーの選択とマクロ経済の寓話』

日本経済新聞 「やさしい経済学」 『マクロ経済学の現代的見方』 (1996.10.18-24)として連載


1. 新古典派とケインジアン  

「いやあ、ケインジアンの旗色はこの頃どうですか。」と聞かれることがたびたびある。マクロ経済学には「ケインジアン」と、「新古典派」との二つの学派があり、古き良きケインジアンは合理性を盲信する新興勢力の新古典派の横暴におされて「落ちめ」らしいが、この頃、盛返してないかと聞かれているわけだ。

 昔のヤクザ映画では、落目の親分に味方する高倉健が、耐えに耐えた後で最後に怒りを爆発させるのだが、現実はそう面白くならない。高倉健がCMで突然、パソコンをやっつけるために立上がることはないようなものだ。注1

 実際、マクロ経済学の現状は勧善懲悪の任侠映画と言うよりも、敵味方が入乱れる「仁義なき戦い」のようなもので一口で「どっちが勝つ」と説明することは難しい。確かにケインジアンは政府の財政金融政策を有効と主張し、新古典派は無効だと主張すると言切ってしまえば説明は簡単だが、それだけでは話はすまない。政策効果を否定する人は少ないが、その効果の中身が重要である。時代劇では朝鮮人参を飲むと、どんな病人でもたちまち直ってしまうが、どんな病気だったかは分からない。ケインズ的な政策が有効であっても、それは単なるカンフル注射にすぎないのかもしれないし、かえってガン細胞を元気づけてしまうかもしれない。注2

 一方、新古典派は非現実的だと言われ続けてきた。確かにそれらが想定する世界はあらゆる財に市場があって、しかもその財は未来永劫の様々な条件ごとにすべて開かれている。先の例では高倉健がパソコンを壊したときの保険市場も開かれているわけだ。こういった仮定はけしからんというのはたやすいが、実は市場が開かれていなくても、人々があたかも市場が開かれているように行動し、未来を予測しさえすれば、同様の結果が得られるし、市場が完全にそろっていなくとも、契約や制度的慣行が市場の欠落を補っている。つまり高倉健はパソコンのアフター・サービス契約を結べば良いわけだ。

 アフター・サービス契約などあてにならん、と思う人も多いかもしれないが、現在の新古典派経済学では、あらゆる状況は契約に書けないことを前提として、その状況を分析する「不完備契約」の理論が盛んである。このように新古典派の分析手法から、不完全・不完備な状況もとらえることが可能になってきた。ところがこれは必ずしもケインズ経済学に結び付かない。それはなぜか。

注1: 執筆当時、某パソコンメーカーが高倉健と倍賞千恵子を起用しCMが流れていた。そこでは高倉健が慣れないパソコンに悪戦苦闘している。なお若い読者のために付注しておくと、高倉健は東映やくざ映画のヒーローであり、がまんにがまんを重ねたあげくの最後に、映画のラストで斬りこみに立ち上がる。

注2: 1996年にはケインズ政策をカンフル剤のような言い方をするのは目新しかった。

2. 新ケインジアン経済学

 数学がどんどん難しくなっている。その理由は1+1は千年先も2であり、積み重なった「真理」は消え去ることがないからだ、と数学者の藤原正彦氏は述べているが、新古典派経済学が盛んなのもそれに似ている。一定のルールに従ってしらみつぶしに分析を行う新古典派経済学は、ありとあらゆる状況を現在では扱えると言ってもよい。また近年盛んなゲーム理論は様々な非効率な状況の分析を可能にしている。

 その結果、実はケインズ経済学が想定してきた状況を新古典派の分析手法で考察することも可能となってきた。これらは新ケインジアン経済学と呼ばれる主として外部性や収穫逓増を重視する研究だ。例えばスタジアムで立上がった最初の一人には野球の試合はよく見える。しかし、われもわれもとみんなが立ち上がれば、結局、試合はよく見えなくなってしまう。しかも立上がって疲れても、一人だけ座ってしまえば何も見えなくなってしまう。これは「協調の失敗」と呼ばれる現象であり、みんなが値段を据置けば景気はよくなるという独占的競争下の名目価格設定における外部性や、みんなが市場にでかけて、よりよい交換相手を見つければ、経済が活発となる探索モデルなど、一貫性のないと言われる新ケインジアンモデルであるが、たいていのモデルはこのような原理に基づいている。

 これらのストーリーはたいへん面白いし、不況下の状況を説明しているかもしれない。ところがこのようなモデルが作れると言うことと、実際のデータを説明できると言うことは別問題である。  たしかにスタジアムで立上がったままの非効率な状況をモデル化することはできた。しかしなぜ立上がったり座ったりする行動をモデル化するのはあまりに複雑だし、このようなことが起るためには市場において価格や賃金が激しく動かねばならない。ところが次回で説明するリアル・ビジネス・サイクルモデルが主張するのは、外部性を導入すると、ますます現実の動きから乖離してしまうし、もともと設備や労働者が常に安定稼動している状況は不可能である。その結果、新ケインジアンの主張が正しいように見えるだけだということだ。

 つまり経済が本来、作れば作るほどコストが低下する世界にいるのか、高価な機械が遊んでいるので生産増加につれて、コストが安くなるのかは、同じように見えて実はかなり違うものだ。真冬の海岸のホテルがガラガラだから、団体客を送り込むのが政策課題と言えるのか。あるいは団体客をとりあえず送り込まないと、リゾートは無くなってしまうのか、という問題となってくる。  

3.最適成長モデルとRBCモデル

 新ケインジアン経済学は一時点の静学モデルから出発するが、新古典派のモデルは最適成長モデルと呼ばれる動学モデルからいきなり出発する。このモデルはあらゆるマクロ経済学の基礎となっているモデルであるので、ここで孤島に漂着したロビンソン・クルーソーを主人公とした小説に例えて、1セクター最適成長モデルを説明してみよう。

 わが国の好色一代男こと世之介は1682年に女護が島に船出するわけだが、1719年の資本主義勃興期のイギリス人、ロビンソン・クルーソーはたった一人で孤島に流れついても、ひたすら刻苦勉励する。そこでクルーソーが一人で小麦だけを作る経済を考えてみよう。この小麦は食べることができるから消費財であるが、来年の種蒔きに使えるから資本財ともなる。つまりこの小麦は消費財としても資本財としても使える単一の合成財である。

 次にクルーソーの選択を考えるが、実は(1)働くか働かないか、つまり小麦を植えるか植えないかの労働市場の問題と (2)小麦を食べてしまうか、タネをまくために取っておくかおかないかの財市場における投資と貯蓄の同時決定問題 の2つの問題しかない。 なぜならクルーソーは一人でいるので財を交換する人もいないし、それゆえ貨幣も存在しても意味がない。

 このような設定のもとで、無限の彼方までの計画を考察するのが、もっとも簡単な最適成長モデルの問題設定であり、そこに外から加わるショックから景気が変動し、それにどう経済主体が反応するかをコンピューター・シミュレーションによって考察したものがリアル・ビジネス・サイクル・モデル(RBCモデル)である。

 ここでロビンソン・クルーソーの畑に到来する台風を考えてみよう。この台風のときにクルーソーが外に出て、畑をいつも通りに耕すのは最適な行動だろうか。もちろんそうではなく、最適な行動は台風が通り過ぎるのを待って、そこから耕し直すことである。このような不利な状況ではタネをまいても芽が出ないかもしれないし、きれいに畑を整備しても無駄である。そこで労働供給も投資も減ってしまうのである。  このような単純な設定にはもちろん大きな批判があり、その批判はおおむね当っている。それにもかかわらず、RBCモデルがシミュレーション結果を通じて、明らかにしたものは大きいと言わねばならない。

 さて女護が島に船出した世之介はどうなったのだろうか。

4.クルーソーとケインズ経済学

 前回、説明したロビンソン・クルーソーの寓話は考えてみればあまりに単純である。クルーソーは一人なので、自由に働くか休むかを決められる。ところが現在の経済では自由に働くか休むかを決められるだろうか。そこでクルーソーの物語に出てくる「フライデー」と呼ばれる現地人を登場させてみよう。フライデーを雇って働かすわけだから、ここでクルーソーは「企業家」となり、フライデーは「労働者」と解釈することができる。  クルーソーとフライデーは約束を結んで、フライデーは小麦を貰う代りに働くとする。このときどんな約束がよいかと言えば、雨の日は働かないが晴れの日はたくさん働く、しかしフライデーが貰う小麦はいつも一定と言うものだ。実際にも賃金は景気に対して利潤ほど変動しないのは、労使間に暗黙の約束があるからだ。これを暗黙契約理論というが、このメカニズムは市場の欠落を約束で補っているという意味で、新古典派的なものとなる。

 次にケインズ経済学においては貯蓄と投資が「事前」的には必ずしも一致しないという想定を考えてみよう。クルーソーが小麦を食べずに取っておけば、それは投資であり貯蓄でもある。ところがケインズ経済学においては通常、投資する企業家と貯蓄する資本家は異なる経済主体であると想定している。そこでクルーソーとフライデーともう一人、登場人物が必要となってくる。これを金利生活者あるいは資本家である「世之介」としておこう。世之介はタネ小麦を銀行にあずけ、そしてクルーソーが銀行からこれを借り、そしてフライデーを使ってタネをまく。そして収穫時にお礼(利子)をつけて返すというようなメカニズムとなっているのである。

 ケインズ経済学では以上のようなメカニズムが不完全であると考えている。そうするとタネを誰も借りてくれないので、銀行でタネはくさってしまう。そうすると累積的に(乗数過程)、来年の収穫は減少してしまうのである。(有効需要の原理)  もちろんミクロ経済学や新ケインジアン経済学にはフライデーやクルーソーがなまけたり、無能だったりというシチュエーションのモデルが揃っているのだが、どうもこれらがケインジアンの年来の主張と必ずしも結び付くわけではなさそうだ。

 ところが思わぬところから、ケインズ経済学的な考え方が重視されてきた。それが次回で説明する内生的成長理論である。

5 内生的成長理論

 推理小説を書く人のためにノックスの十戒というものがある。これは探偵と読者が知恵比べをするときのルールをまとめたものだが、この十戒に経済学で対応するのがカルドアの経済成長に関する6つの「定型化された事実」である。

 この中でカルドアは利潤率が一方的に低下したり、労働分配率が下降したりすることはなかったと述べており、おおむねこの「事実」に添うようにモデルが組立てられている。ところが最後にカルドアは各国の経済成長率はバラバラである、つまり世界には「貧しいままの国」と「ますます富める国」が存在すると(当り前だが)指摘した。

 これが発表された50年代の終りには、いつかは貧しい国も追付くだろうと思われていたのだろう。ところが40年近くたって、現実には追付いた国も追付かなかった国もあるのは、いったいなぜだろうか。  この疑問に答えるのが80年代後半から盛んに分析されている内生的成長理論である。ここでこの理論の創始者であるローマーの外部性モデルを紹介しよう。

 まず孤島にはそれぞれ「賢い」クルーソーと「賢くない」クルーソーがいるとしよう。これは生産関数や人的資本の違いととらえられるが、ここで問題となるのは、たとえ「賢い」クルーソーがより良い「小麦の蒔き方」や「肥料」を考えたとしても、「賢くない」クルーソーは真似をすることが出来るので、様々な「知識」はすぐに広まることである。

 よりよい知識や方法が広がることは世界全体にとって、生産が増大して良いことであるが、「賢い」けれども「自分さえよければいい」クルーソーにとっては、よりよい生産技術が広がることにはもちろん無関心である。これは技術進歩や「知識」への過小投資であり、人々が最適化を行う際には些細なことであるので考慮に入れないが、実は全体としては大きな影響をもたらす外部性の問題と考えることができる。

 以上のストーリーはシュンペーター以来のお馴染みのお話であるが、実はこの内生的成長理論の大きな意義は、標準的な新古典派経済学の分析手法により、動学的な非最適性の分析を行う事が一般的になったことである。今までケインジアンによる短期的な循環の分析や、応用ミクロ経済学による静学的な「市場の失敗」の分析があったにせよ、長期の分析においては市場が決める配分が正しいと言うサミュエルソン流の新古典派総合の考え方から、長期的に非最適な状況が継続するという考え方に大きく変化したのである。

6. パチンコとカオス  

パチンコやピンボールは最初にどの程度の力を込めるかによって、玉の動きは激しく変化する。もちろんこのような複雑な玉の動きは本来、物理法則に従って計算できるもので、サイコロをころがすような確率的な動きと異なる決定論的なものである。にもかかわらず、実際にはパチンコの玉の動きを簡単に予測することはできない。

 このパチンコの話は近年盛んな、カオスや複雑系と言われる動学体系の好例である。初期時点での微小な変化がもたらす実際的には予測不可能な動きを研究するカオスは、自然科学のみならず、近年の経済学の様々なモデルからも生じることが既に明らかになっている。  このカオスの面白くかつ困った点は、複雑なものが複雑なものを生むだけでなく、簡単なものから複雑なものを生み出す可能性を示していることだ。これらは非線形動学とも呼ばれるが、非線形のねじまがった心の人に何を言っても、どう「曲解」されるかわからない。そしてこんな人たちが集って話合った結果は全く予測できない。

 このようにカオスの理論は興味深いものだが、もちろんパチンコの動きが新古典派でピンボールがケインジアンでということはない。これまで検討してきた新古典派対ケインジアンの図式には必ずしも当てはまらないのである。

 このように現在の経済学の流れは二大学派の対決という図式的理解に当てはまらないし、実際、無理矢理当てはめるベきではない場合が多くなっている。

 もともと一般に受取られている新古典派対ケインジアンの論争と言うものは、医者に「そもそもガンは切って直すべきですか、それとも薬で直すべきですか」と一般論を聞くようなものだったのではないだろうか。カンフル剤を打てば病人は一時的に元気になるに決っているが、結果的に寿命を縮めてしまうかもしれない。一方、瀕死の病人を自然に癒ると放っておくわけにもいかない。

 しかし、瀕死だ瀕死だと言いながらカンフル剤を打続けた結果、「国際協調」「内需拡大」という名のもとに日本はバブルになってしまったわけだし、もともと公共投資に地域経済が依存する状況で有効なケインズ政策とはいったいなんだろうか。  筆者はケインズは偉いに決っているし、ケインズ経済学は重要だと思っている。しかしそれは市場の自動調整機構を疑い、市場の不完全性を強調する立場に共感するのであって、これまでのケインジアン政策の弊害はより厳しく追求されなければならないだろう。