『カツ丼の限界効用』

東洋経済新報社 「教科書の森」 1999年秋 (1999.8.18執筆)

東京都立大学経済学部 脇田成


 私が近代経済学を専攻していると言うと、年配の人から返ってくる答の一つに「あー、カツ丼3杯で腹一杯というやつね。」というものがある。ミクロ経済学で最初に限界効用逓減の法則を習うが、満足度が減少していくのを例えて「カツ丼一杯で大満足するが、二杯では満足度は減り、三杯目だと見るのもいやになる」と説明されたというのだ。

 だいたい、それしか覚えていない、という人が多く、あとは数学で分からなかったね、と続く。なんとなくカツ丼風情と言わんばかりに、小馬鹿にして話す人が多いのだが、それは少し権威主義的な考えで残念だ。なぜならうまい例や寓話はモデルビルディングの基礎だからだ。しかも、カツ丼の例えは何十年後まで記憶に残る授業となっているのである。

 ケインズは既得権益よりも人々の固定観念に影響を及ぼす思想の力が重要だ、と説いた。この意味で、わかりやすいたとえ話は諸刃の剣であることは否めない。前後の状況を考えず、たとえだけが独り歩きする危険性もある。しかし剣も使ってみて始めて、使いかたが習得できるというものだ。良い教科書を使って、経済学へのうまいイントロダクションがなされるにこしたことはない。この意味で昔と違い、良い教科書がいくつも出版され、それを使って勉強できる現状をうらやましく思う。

 さてimpressiveなカツ丼の例に戻るが、近頃は入門の授業でも人々の効用の測定不可能性を前提に教えることが多い。そこでカツ丼の例は残念ながら使えなくなってしまう。この消えつつあるカツ丼の例だが、実はきわめて由緒のあるものであることをこの場を借りて指摘しておきたい。先日、金森久雄著「体験戦後経済」(東洋経済)という本をめくっていると、戦後直後から舞出長五郎教授が、やはりこの例を使って説明していたという記述があった。ただし正確を期すために書くと、舞出教授の例はカツ丼ではなく、天丼であった。