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 以下の文章は学士会のメールマガジンに2005年12月から2006年2月に3回にわたって掲載されたものです。日本における建物の耐震安全性について一般向きに記述したものですので、ご興味のある方はお読みください(専門家の方には平易にすぎるかも知れませんがご容赦を)。

日本における建物の耐震安全性について 〜その1〜

 2005年11月に発覚した鉄筋コンクリート造(以下RCと略記)建物の構造計算書偽造事件に端を発して、かつて無かったほどに建物の耐震安全性についての話題が巷間に流布しています。新聞報道によれば普通の人々の口の端から「この柱の鉄筋の径は32mmですか」といった専門的な質問が飛び出すそうですが、このようなことは阪神大震災(1995年)の直後でも聞かれなかったことで、筆者もびっくりしています。構造計算書を偽造して地震に対して安全ではない建物を設計し、建設し、販売したことは社会に対する重大な背信行為で許されざる行いです。同時に建物の設計に携わる建築士や建設業全体に対する信頼も大きく失墜したと言わざるを得ません。

 しかしながらこのような状況下において市井の人々が建物の耐震安全性について関心を持ったということに、筆者は複雑な気持ちを抱いています。筆者は大学の建築学科で主としてRC建物の耐震性能をテーマとした研究・教育に従事している者です。日本における建物の耐震設計の考え方はアメリカやニュージーランドと並んで世界でも最先端をゆくものと見なしてよいでしょう。

 その基本的な考え方をひとことで言うと、建物が地震を受けて破壊することを避けられないような場合には(どんな地震にも壊れない建物など、この世の中に存在しませんから)、意図した部材が壊れるような「よい壊れ方」をするように建物の破壊を制御する、ということです。しかしこのような設計思想は比較的最近になって構造設計者に意識されるようになったもので、1981年に施行されたいわゆる「新耐震設計法」においても部分的にしか実現されていません。いわんやそれ以前に設計された建物では当時の建築基準法で定められた最低限の強度は確保しているものの保有する強度は精確には把握されておらず、地震の際に建物がどのように挙動して最終的にはどのように破壊するかについては全く分からない、というのが実状です。

 なおかつ1980年以前に建設された建物の多くは現行基準に照らすと耐震性能が残念ながら不十分なのです(専門的には既存不適格建物と呼んでいます)。すなわち私たちが日々利用する住宅、学校、役所、デパート、オフィスなどの耐震性能が現在の耐震基準から見れば不十分であり、満足な性能を保有していないことに多くの人たちは残念ながら無頓着だった、ということです(もちろんそうでない方々もたくさんいらっしゃると思います)。

 筆者の“複雑な気持ち”はまさにこの事柄から生じています。新築建物の耐震性能について議論するだけでなく、既存建物のそれについても相応の議論が必要ではないでしょうか。誤解を避けるために付言しますが、現行の基準によって設計されるべき建物の耐震性能が故意に確保されなかったという今回の事件は断罪されるべきものであり、その被害に遭われた方々には心からお見舞いを申し上げます。筆者が申し上げたいのは、阪神大震災でもこれほどの話題とはならなかったRC建物の耐震性能に対する国民的な注目を(これには建築界に対する信頼失墜という大きな代償が必要だったわけですが)、既存の古い建物のなかには耐震性能の劣っている建物が多数あるということに対しても向けて欲しい、ということなのです。

 今回の事件と既存不適格建物の存在とは別の次元である、といったお叱りを受けそうですが、建物の耐震性能という純粋に物理的な観点からは同一の事象ですし(被害を傍観している冷酷な人間のようで気がひけますが)、さらには今回の事件で被害に遭われた方々よりももっと多くの人たちが〜すなわちあなたが〜、ひとたび大地震が発生したときに被害者になり得る可能性があるということにも思いを馳せていただければ、と思います。

 そこで既存建物の耐震性能を評価する、ということに話題が移ります。そのために建築構造学の分野において先輩方の多くの研究と努力とが為されて現在では耐震診断法が確立され、それに基づいた耐震補強も行われるようになりました。このお話しについては次回に述べようと思います。 〜つづく〜

日本における建物の耐震安全性について 〜その2〜

 既に出来上がって建っている建物の耐震性能はどの程度なのか、という疑問に答えるために耐震診断という手法があります。お医者さんが人間の体を診察するように、われわれ構造技術者が建物の柱、梁(はり)、壁などの骨格を理解した上で診断を下すわけです。ただし人間とは違って建物にはそれぞれに設計図が残っています(古い建物では設計図が紛失していることも多いのですが)。そのような設計図に基づいて実施された耐震診断の結果は相当程度の精度を持つ確定的なものだと、皆さん想像されるかも知れません(実際、耐震診断では建物の耐震性能が0.45といった数値で断定的に示されます)。しかしそれは残念ながら誤解です。

 その理由は大きく二つの事象によります。第一は、実際に建っている建物と設計図に記載されている建物とのくい違いが往々にして見られる、ということです。耐震壁や筋かいがあるべきところになかったり、溶接のやり方が設計図で指定されているものとは異なっていたり、部材の寸法が違っていたり、といった事柄です。これらの差異の原因が意図的なものか否かにかかわらず、既存建物の耐震診断は現状の姿に対して為されなければなりませんから、現地における建物の調査が必要不可欠となります。これは材料の強度についても言えることで、特にコンクリートは現場で抜き取って強度試験をしないと材料強度を特定できません。

 第二は、耐震診断を実施する際に行われる建物のモデル化や設定される諸仮定の妥当性に関する問題です。例えば鉄筋コンクリートの壁が立っているときに、それが地震力に対して有効に抵抗するかどうかは診断者が個別に判断します。また地震を受けた建物のなかを力がどうように流れてゆくのかは目に見えませんから、診断者の想定に任せます。すなわち人間による多くの判断に基づいて耐震診断が実施されるのです。

 そしてこれらの判断の妥当性が焦点になりますが、それを判定することは困難な場合が多々あります。地震を受けた建物の挙動は純粋に自然界の法則に従うのですが、多数の部材を組み合わせて作った建物のそれは非常に複雑であり、即座には理解できないことが多いということを正直に申し上げます。私は幾つかの性能評価機関で個別の耐震診断結果の妥当性を判定するお手伝いをしていますが、診断者と議論になるのはこのような「判断の妥当性」です。そのような場合には、われわれの今までの経験から当たらずと言えども遠からずとなるような、あるいは安全側の評価となるような工学的な判断を下さざるを得ません。

 このほかに耐震診断の手法自体における細々とした約束事や仮定の妥当性も俎上に乗せるべき重要な課題ですが、あまりに専門的な議論になるためここでは触れません。

 以上の説明から、耐震診断によって得られた結果が唯一無二の確定的な数値ではないことがご理解いただけると思います。ただし経験のある診断者が慎重な判断によって導出した耐震診断結果であれば、地震に対する建物のおおよその安全性(倒壊の危険性大とかほぼ安全といったレベル)は把握できますのでご安心下さい。

 それでは既存建物の耐震診断を実施すると、どの程度の建物が現在の建築基準法(1981年施行)の要求する耐震性能を満足していないのでしょうか。総務省消防庁が平成13年に全国の公共施設(非木造で2階建て以上)を対象に行った調査では、1981年以前に建てられた26万棟のうち耐震診断を実施したのは約1/4の7万棟で、そのうち耐震性が不十分と判定されたのは4万棟でした。乱暴に言えば古い建物の六割(4万棟/7万棟)は耐震性能の劣った建物、と言うことができるでしょう。そういう耐震性能の劣った建物の総数は、民間建物の耐震診断はほとんど行われていないのでどうもたくさんありそうだと言うことくらいしか分からない、というのが現状だと思います。ただしここで言う「耐震性能の劣った建物」の全てが地震時に崩壊する訳ではない、ということにはご注意下さい。首相のセリフではありませんが、耐震性能もいろいろ、ですから。  〜つづく〜

日本における建物の耐震安全性について 〜その3〜

 現在の建築基準法を満たさずに耐震性能の劣った建物が多数、世間に存在することを前回お話ししました。そしてそのような既存不適格建物をわれわれはそうとは知らずに日々利用していることの危うさについても指摘しました。そこで今回は耐震性能の劣った建物を安心して使い続けることを可能とする方法、すなわち耐震補強についてお話しいたします。

 既存の建物を耐震補強するやり方には一般解はありません。個々の建物は一棟ずつ異なった耐震性能を有しているからです。そのため耐震補強を実施するためには一棟ずつ根気強く進めるしかありません。建物の高さ、重量、平面形状、構造材料の種別や強度、柱・梁や耐震壁・筋かいの配置などがまちまちの建物を適切にかつ効率よく耐震補強するためには、まず既存の建物の耐震性能を評価することが必要です。これには前回説明した耐震診断が威力を発揮します。耐震診断の結果に基づいて耐震補強設計がスタートしますが、この行為は新築の建物の構造設計よりもある意味、難しいと思います。新築物件の場合には何もないところから設計者の創意工夫によって空間を支える形態を産み出してゆきます。その過程には苦労が多いものの、出来上がったときの達成感は設計者を満足させるに十分足りるものです。

 これに対して耐震補強設計では、既に他人が設計して存在している建物を扱うために様々な制約条件が課されてきて、補強設計者をがんじがらめに縛ってしまうことが多々あります。ひとつは力学的な問題、もうひとつは建築計画的な問題です。

 前者は効率のよい耐震補強とそうでない補強とがある、ということです。例えば建物の平面上で耐震壁が偏って存在しているときに、その耐震壁をさらに厚くしたり、その耐震壁のそばに別の耐震壁を増設しても、耐震補強としての効率はよくなく、それどころか元の建物よりも耐震性能を劣化させかねません。また、ある部位を補強した結果、その部位は強くなったが今度はほかの部位が先に破壊してしまい、建物全体の耐震補強としてはあまり有効にならない場合もあります。

 後者はその建物を使っている人たちの使用性にかかわる問題で、使い勝手が悪くなることには極度の抵抗があります。例えば1階を店舗として使用している建物を耐震補強するためにショウ・ウインドウの位置に耐震壁を増設しようとすれば、商売ができないから止めてくれ、と言われますよね。そこでやむを得ずほかの位置に耐震壁を入れると、先ほどと同様に不適切な「補強」設計となってしまうことがしばしばです(建物の耐震性能を劣化させてしまっては「補強」とは言えませんが)。

 このようにいろいろな制約のもとで耐震補強を実現させなければなりませんが、その方法としては建物内部に鉄筋コンクリートの耐震壁や鉄骨の筋かい(ブレース)などの水平力抵抗要素を増設するものと、建物外部に新しい水平力抵抗要素を付加させるものとに大別できます。建物内部の耐震補強は上述のように使い勝手の変更を強いることが多いですし、耐震補強工事中には余所へ退避することを余儀なくされます。しかし力学的には既存の骨組と強固に緊結されるために耐震補強としての信頼性に優ります。

 これに対して建物外部の耐震補強は工法によっては内部に居住しながら工事することが可能なため、最近では好んで使用されることが多いようです。しかし外部に設けた耐震補強デバイスと既存躯体との応力伝達の確保や地震時の脱落防止など注意すべき問題があるため、慎重な使用が求められます。このほかに建物の上層階を撤去して建物重量を軽減するというウルトラCのような耐震補強も希に見かけます。また、地震によるエネルギーを吸収する装置を設けることによる制振補強、建物への地震動の入力を低減させる免震補強などがありますが説明を省きます。

 いずれにせよ既存の建物を耐震補強する手だては必ず存在するはずです。あとは使い勝手との折り合いをどこでつけて、どの程度まで耐震性能を引き上げるか、という問題を予算とも相談しながら解決することになります。耐震補強するには確かにお金はかかります。既存不適格建物の耐震補強は残念ながら遅々として進みません。しかしひとたび地震が起こったときに失われるものの大きさを考えたとき、結局は一棟ずつ地道に耐震補強することが大切なのではないでしょうか。

 最後はあたりまえのフレーズになってしまいましたが、私の連載はこれで終わりです。拙文をお読みいただき、どうもありがとうございました。






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