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2003年度:

 この年、琉球大学(山川哲雄研究室)から舛田尚之くんが大学院に進学した。彼は東京出身で大学進学のために沖縄に渡ったという経歴の持ち主であった。前年度の卒論生だった平良さんが沖縄に戻るのと入れ替わりに舛田君が沖縄からやって来たので、ちょっと不思議な縁を感じたものである。舛田君は研究室での研究活動に精力的に取り組んでくれたし、珍しくゼミ旅行を企画するなど、大いに活躍してくれた。ちなみに彼の名前(尚之)は「たかのぶ」と読む。知らなければとてもそうは読めませんな。

 またテル君が大学院に進学したので、久し振りに同一学年の大学院生が二人となった。テル君は飄々と研究を進めて行く、というタイプだったな。モリケンを含めて大学院生が三人となったので、研究活動はそれなりに活発になったような記憶がある。

 卒論生に対する不人気は相変わらずで、ほとんど何も喋らない石田真之輔君とあまり大学に顔を出さなかった伊藤菜穂子さんとの二人が新しいメンバーとして加わった。こんなわけで、2003年度のスタッフは以下の通りである。

助手 岸田 慎司(きしだ しんじ)
D5 森田 真司(もりた しんじ)
M2 森山 健作(もりやま けんさく)
M1 佐藤 照祥(さとう てるよし)
   舛田 尚之(ますだ たかのぶ)
卒論 石田真之輔(いしだ しんのすけ)
   伊藤菜穂子(いとう なほこ)

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ゼミ旅行の写真(後列左からモリケン、岸田、テル、石田、前列左から北山、舛田、森田)

 2003年度の冒頭に、東京都立大学大学院工学研究科「研究活性化資金A」に応募して、ありがたくも採択していただいた。研究題目は『再利用可能なプレストレストコンクリート構造の開発と性能評価』で、研究分担者として橘高義典教授、岸田慎司助手および田村雅紀助手にお願いした。研究期間は一年間で、配分金額は372万円余りと私にとっては相当にリッチな予算をゲットすることができた。

 この研究の概要は以下の通りである。
「地球環境を保全するための省エネルギー・省資源化への寄与を目指して、鉄筋コンクリート造建物の柱・梁部材を解体せずに引き続き再利用することができる建築構造の開発に着手した。部材の再利用を実現するため、プレキャスト圧着工法と部材損傷を最小限に抑制できる新しいコンクリートとの組み合わせを想定した。そこでひび割れを自己修復できるコンクリートの実現のための基礎研究を始めるとともに、上記の工法によって作られた立体柱梁接合部部分架構に三方向載荷する実験を企画して、その耐震性能評価を試みた。」(以上、概要終わり)

1. 文科省COEプログラムによる研究拠点がスタート

 この年の一大出来事と言えばやはり、文部科学省の21世紀COEプログラムの拠点として東京都立大学大学院建築学専攻の提案したプロジェクトが選出されたことであろう(こちらをどうぞ)。深尾精一教授をプロジェクト・リーダーとして「巨大都市建築ストックの賦活・更新技術育成」という名前での拠点形成を、建築学専攻が一丸となって進めることになった。賦活とは聞き慣れない言葉だが英語でいうとActivateとなり、こっちの方が分かり易かったりする。

 このプロジェクトを一言で表すと、新築一辺倒から脱却して既存の建築ストックを活かす術を考えよう、となろう。このような大テーマであったため、私のように既存建物の耐震診断や耐震補強に携わっている構造系研究者にも関与する余地を見出すことができてよかった。このプロジェクトの特徴は、専攻を横断するチームを複数作って実践的な研究を多角的に進めたことである。すなわち計画系、構造系、環境系など専門分野の異なる教員が協同して、実務にかなり近接したプロジェクトに取り組んだのである。この試みが下地となってやがて大学院修士課程のプロジェクト研究コースが立ち上がることになる。

 私や芳村学先生とで既存建物の耐震補強工法についての調査研究を提案して、予算を付けていただいた。ここでは特に「居ながら補強」に注目しながら、日本建築防災協会内にCOE委員会を設置して、梅野岳さん(久米設計)、藤村勝さん(竹中工務店)、荒木玄行さん(鹿島)には学外委員として参加していただいた。博士課程在籍の森田真司さんにはCOEリサーチャーとしてこのプロジェクトを担当して貰った。

 もう一つ、上野淳教授(建築計画)を中心として学校建物の大規模改修やコンバージョンを対象とする「学校建物プロジェクト」が立ち上がった。こちらは上野先生、角田誠助教授(建築生産)、北山、森田、倉斗綾子さん(上野研客員研究員?)の五名でスタートした。上野先生が横浜市と太いパイプを有しておいでだったので、横浜市内の学校数校について、オープンクラスへの大規模改修、9年制小中一貫学校への転換などの具体的なプロジェクトに参画することになった。

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 写真 サンサン赤坂(学校建物を老人福祉施設にコンバージョン)

 上の写真は港区の氷川小学校の校舎を老人福祉施設に更新した、コンバージョンの先駆けのような物件である。このとき一緒に見学したひとのなかに千葉大学の中山茂樹さん(建築計画学)がおいでだった。久し振りにお会いした。ちなみにこの敷地はその昔、勝海舟の屋敷が建っていたところで、発掘調査によってかつての礎石の位置などが明らかになっている。私にとってはこちらのほうが、へえ〜ってな感じで興味があったりした。

 この「学校建物プロジェクト」の一環として北山研究室では、学校建物の耐震改修計画決定プロセスに関して特に耐震補強計画と建築計画との相互関係について、設計事務所にヒアリングする調査研究に着手することにした。研究担当は卒論生の伊藤さんとした。

 1995年の兵庫県南部地震での教訓を契機として、学校建物の耐震診断および耐震補強が国家的事業として推進されるようになり、そのための判定事業に関わるようになった。そのような仕事を続けるうちに、耐震補強と同時にオープンクラスへの大規模改修を計るといった、構造だけでなく建築計画面においての改修を同時に進めれば予算とか工期の面で非常に有益であるのに、現実にはそのような事例は少ないことに気がついた。

 そこでこのような大規模改修の数少ない事例を調査して分析することによって、構造分野および建築計画分野を横断する大規模改修を推進するための方策を考えたいと思ったのである。幸いにもそのような事例は、東京都防災建築街づくりセンターや文教施設協会に設置された耐震判定委員会でいくつか見かけていた(それらをチェックして忘れないようにしていたのが役立った)ので、それらを担当した設計事務所にヒアリング調査に行くことができた。何よりも判定委員会での部会において、それらの事例の構造設計担当者と懇意になっていた、ということが大きくものを言った。

 具体的には久米設計(梅野岳部長)、佐藤総合計画(三沢さん)、豊建築事務所(萩原さん)および都市構造計画(吉田さん)である。括弧内はヒアリングさせていただいた主担当者である。伊藤さんと一緒に設計事務所に出向いたり、耐震判定委員会での部会のあとに時間を取って貰ったりして、とても有益なお話を伺うことができた。ヒアリングに応じていただいた皆様にこの場を借りて厚く御礼申し上げたい。

 伊藤さんの卒論の成果は翌年6月に開催された第1回COE研究報告会において私が口頭発表したのだが(こちらをどうぞ)、そのときにゲストとしてお招きした千葉大学の服部岑生先生(建築計画)から「北山さん、今更何でそんな当たり前なことやってるの?」とこっぴどく論評された。しかしそれは辛口な服部先生一流の励ましのお言葉だろうと私は勝手に解釈した。

2. 大分・福岡へリファイン建築を見に行く

 さてこのような既存ストック活用プロジェクトに関連して、年が明けて2月に、そのような先進的な事例の調査を目的とした視察旅行に出かけることになった。当時、大分や福岡で既存建物の大規模改修のことを「リファイン建築」と名付けて取り組んでいた建築家がいた。青木茂先生である(彼はその後、首都大学東京と名前の変わった本学の研究戦略センターに教授として招かれることになる)。

 角田さんが青木さんと懇意にしており、角田研の卒業生(秋山君)が青木茂建築工房に就職していた縁もあって、この見学旅行が実現した。私はここで初めて青木さんにお会いしたが、大分で美味しいフグをご馳走になり、そのあと青木さんの運転するジャガーに乗せていただいて氏の自宅にお招きいただくという栄に浴することができた。青木さんはお酒を飲まないので、ほろ酔い気分の我々を乗せて運転しているあいだ、「こいつら酒臭いなあ」と思ったはずである。

 青木さんの作品の幾つかを大分と福岡とで拝見したが、外見が独創的に変わっているだけでなくて(デザイナーとしてはこっちの方が楽しいだろうが)、既存RC部材のひび割れやジャンカなどの補修と耐震補強とにも重点を置いて設計していることに大いに感銘を受けた。役場や学校の改修では予算の制約が大きいだろうが、耐震補強と建築計画面の大規模改修とをひとりの建築家のコーディネートによって行うことで、非常に魅力的な空間が再生できることを認識できてとても良かった。

 このとき拝見したのは以下の施設である。
・野津原町多世代交流プラザ
・宇目町役場庁舎
・八女市立福島中学校
・八女市多世代交流館21
・福岡市西陵公民館

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 宇目町役場庁舎                          八女市立福島中学校 体育館

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 八女市多世代交流館21 外観      八女市多世代交流館21 内部
 写真 青木さんのリファイン建築 いくつか

 余談だがこのとき私は初めてホバークラフトに乗った。大分空港から大分港を結んでいる。地上も海上もまさにすべるように走るのである。操縦席は飛行機のそれのようで、女性のパイロットが操縦していてとてもカッコよかった。ただ、青木さんに言わせると乗り心地は悪いし値段も高いしで、あまり魅力はないとのことだ。

 また大分市では磯崎新設計のアート・プラザ(旧大分県立図書館)を見学した。昔、大学生だった頃にはよく図面を見ていたし、磯崎新の作品は北九州とか群馬、筑波などにも見に行ったものだが、旧大分県立図書館ははじめてであった。この建物も大規模改修によって再生されたようで、大きな鉄骨ブレースで耐震補強されていた。(つづく)

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 写真 アート・プラザ(旧大分県立図書館、磯崎新設計)

3. 宮城へ地震被害調査に行く

 2003年5月26日、宮城県沖を震源とする地震(三陸南地震)が発生して宮城県北部にかなりの被害が発生した。この地域の学校建物の耐震診断および耐震補強はかなり進んでおり、文教施設協会(RIEF)における耐震判定委員会(岡田恒男委員長)でも涌谷町などかなりの学校建物の審査を行っていた。そこでRIEFの研究部長だった梶田尚令さん(故人)にお願いして、RIEFで審査した物件のリストを提供していただき、その中から耐震補強された学校校舎の幾つかを対象として、地震を受けた耐震補強建物の状況調査を北山研究室で実施することにした。なお東北大学の前田匡樹研究室とも連携して調査対象地域の割り振りを行った。

 調査行に参加したのは北山のほかに岸田慎司助手、森田真司くん(D5)および森山健作くん(M2)の合計4名である。調査は一泊二日として、6月12日に東京・豊洲駅に集合して岸田さんの車で出発した。東北道をひた走って、5時間半後には最初の調査校である金成(かんなり)小学校に着いた。その後、近辺にある金成中学校と沢辺小学校とを調査して、その晩はRIEFの梶田さんや東北大・前田研チームと合流して情報交換を行った。

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写真 被害調査のスナップ(岸田、モリケン、北山)

 翌日には、築館町役場の教育委員会で情報を得たあと、築館小学校および築館中学校に行った。午後には涌谷町役場の教育委員会でお話を伺ったあと、涌谷第二小学校および涌谷中学校を調査した。

 涌谷中学校の体育館は屋根としてシルバークール版(プレキャストPCで作った曲面版のこと/商品名である)を中央のキール梁に乗せたタイプだった。兵庫県南部地震でこのシルバークール版が落下する被害があったことから、このシルバークール版を撤去して新しく鉄骨屋根を新設するか、シルバークール版とRC躯体とを接続するなどの大規模な耐震補強を施すことを文部省(当時)から求められるようになった。

 で、この涌谷中学校の体育館であるが、中央のキール梁は地震時に大きく水平方向に撓む可能性があり、そうするとシルバークール版が落下する危険も増大するので、最も危ないタイプであると判断された。この体育館の耐震診断および耐震改修計画の審査はRIEFに依頼され、偶然にも壁谷澤先生と私とがその担当となった。この審査は相当に難航した記憶があるが、結局シルバークール版を撤去して鉄骨屋根に架け替えることになった。ただ、シルバークール版は結構重いので、屋根から撤去するのは大工事だったようだ。

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 写真 涌谷中学校の体育館       涌谷中学校の校舎

 幸運にもこうして耐震補強されたあとに三陸南地震がやって来たのである。お陰で私が調査した範囲では1階の耐震壁にせん断ひび割れが見られたくらいで、ほとんど被害は生じなかった。またRC校舎には鉄骨ブレースが設置されていたが、接合モルタル部分にひび割れが生じた程度であった。

 こうして一泊二日の調査行はあわただしくも終了した。涌谷中学校での調査を終えてから、涌谷館跡へ行った。ここは涌谷伊達氏の居城で、江戸時代初期の伊達騒動で有名な伊達安芸(だて あき)のいたところである(注1)。現在は隅櫓が残っているだけだが、さすがに小高い要害の地に築かれており、とても眺めのよいところであった。写真は城跡から江合川を望んだところだが、その昔、戦国時代にもののふ達が繰り広げた合戦絵巻が幻のように脳裏に浮かんでは消えていった。

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 写真 涌谷館隅櫓          涌谷館跡から江合川を望む

(注1)伊達騒動を題材にした小説としては、山本周五郎著『樅の木は残った』が最も有名だろう。それまでは逆臣として捉えられていた原田甲斐を、一転して伊達・仙台藩を救った忠臣として描いたことで知られる。そのほかに、森村誠一著『虹の刺客』も伊達騒動に主題をとった小説である。

4. 再び、宮城へ地震被害調査に行く

 上述の三陸南地震からちょうど二ヶ月後(2003年7月26日)に、またもや東北地方に地震が発生した。ここではこれを宮城県北部地震と呼んでおく。約1ヶ月前に調査に出向いたばかりなので今回はいいかなと思ったのだが、いつも文科省のお役人と被害調査に出かける中埜良昭くん(東大生産技術研究所)が折悪しく都合がつかず、代わりに私が文科省の要請により行くことになった。

 そこで7月29日の朝6時前に自宅を出て東北新幹線に乗り、10時半には最初の調査地である鹿島台町立鹿島台小学校にいた。ここでは損傷度III程度のせん断ひび割れが幾つかの柱に見られたが、被災度区分は小破であった。

 午後一には河南町立北村小学校に行った。ここのRC3階建ての校舎では1階の柱の多くがせん断破壊しており、被災度区分は大破であった。大破の被害を見たのは1995年の兵庫県南部地震以来である。しかしこの校舎の柱断面はそれなりに大きく、せん断補強筋も150mmピッチで入っていたことから、当初から大破の被害を生じたことに首を傾げていた。その後、東北大学の前田匡樹研究室の研究でも、この校舎のIs値は0.7を超えることが明らかとなり、謎はさらに深まった感がある。

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写真 大破した北村小学校の校舎        せん断破壊した柱

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 図 北村小学校の一階伏図と部材の損傷度

 この北村小学校では鉄骨造の体育館も相当の被害を受けていた。1層の耐震要素である鉄骨パネルが脱落し、2層のブレースも端部のガセット・プレートの溶接破断を生じており、耐震要素が(計算上は)全くないという状況であった。それにも関わらず(素人目にはそのようなことは分からないため)、その体育館は臨時の職員室として先生方によって使われていたので非常にビックリした。使用禁止にすべきことを河南町に伝えたのは勿論である。

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写真 北村小学校の体育館(ブレース端部のガセット・プレートの破断)

 さて夕方5時半を過ぎて、鳴瀬町立小野小学校へ行った。そしてここの鉄骨造(1層はRC造)の体育館でも、またまた驚くべき光景を見たのである。2層の鉄骨ブレースの反力をとる縦材の足もとのアンカーボルトが破断したり抜け出したりして、鉄骨ブレースが全く効いていなかった。それなのにこの体育館は一般住民の避難場所として使われていたのである。ここでも避難所としては不適切であることを鳴瀬町にお伝えした。

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写真 小野小学校の体育館(ブレース脚部のアンカーボルトの破断)

 こうして文科省と同行した調査行は終了した。帰宅したのは午後11時半近くであった。日帰りということもあって非常な強行スケジュールで、もうぐったり疲れた。帰りに小野小学校からJR仙台駅まで宮城県の公用車に乗せていただいて大いに助かったことを覚えている。夜の高速はかなりの雨降りであった。

 なおこの被害調査には後日譚があって、大破した北村小学校校舎を改築したいので文科省に提出する診断・理由書を書いて欲しいと河南町教育委員会から依頼があった。そのとき電話で先方から「執筆料はいくらでしょうか」と恐る恐る聞かれたので、今度はこちらが面食らって「いえいえ、勿論お代はいただきません。お役に立てれば幸いですから」と答えたのであった。世間一般から言えば、ひとにものを頼めばそれなりの対価を支払うというのが常識だろうからそのようなことを聞かれたのだろうが、心ならずも震災に遭遇して困っているひと達からお金をいただくなど、できることではない。(つづく)


5. RC立体柱梁部分架構試験体に水平二方向載荷する実験


 それまで、直交フレームの下階壁抜け柱に隣接して連層鉄骨ブレースを主方向に設置して耐震補強した立体RC建物の静的漸増載荷解析を行っていた森山君だが、修士論文のテーマとして、RC立体柱梁接合部試験体に水平二方向加力する実験研究を担当してもらうことを、M1だった前年(2002年)の11月に合意していた。ただ実態を有り体に言えば、西川先生の科研費基盤研究Bの研究として立体柱梁接合部実験を実施することになっていたのだが、その主担当者として適任なのが森山君以外にはいなかったのである。また、卒論として石田君に担当をお願いした。

 平面十字形柱梁部分架構の実験による森田さんのそれまでの研究から、梁・柱主筋の付着性状が柱梁接合部パネルのせん断挙動に大きな影響を与えることが分かってきたので、立体柱梁接合部パネルについても同様であろうと予想した。

 接合部パネル内での主筋の付着を良くする細工として、森田さんは主筋の両側に同径の異形鉄筋を溶接して抱き合わせて付着面積を約2倍に増大するという方法を採用した。しかしこの方法では主筋の断面積も増えるので(当たり前である)、抱き合わせた主筋が接合部パネルの拘束に効いてしまうという機能もあった。これを防ぐために、いろいろと議論した末に、ネジ鉄筋に使用するネジ継手をスライスして作ったリングを接合部パネル内の三カ所に溶接して固定し、機械的に付着を良くするという方法を採用した。

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写真 柱梁接合部内の主筋の細工の様子

 立体試験体としては、主方向および直交方向とも十字形としたものを基本として、上述の手法で梁主筋の付着性状を良好にした試験体、比較のために梁・柱主筋の接合部内付着を全て絶縁した試験体も作製した。同時に接合部せん断強度の二軸相関を調べるために、主方向は十字形、直交方向はト形という側柱・梁接合部試験体も作製した。なおこの試験体では、第一の試験体と同様に梁主筋の付着性状を良好にするように細工した。載荷履歴としては、我が社としては珍しく水平45度方向に載荷するパターンとした(通常は、柱頭が水平面内に描く軌跡が8の字になるように載荷することが多かった)。

 これらの立体試験体との比較用として、同様の手法で梁主筋の付着を良くしたものや、付着を絶縁したもの、ト形のものを作製した。北山研でのそれまでの実験では、柱梁接合部パネルの形状が正方形かそれにきわめて近いものだけであった。そこで今回は、梁せいを小さくして横長の接合部パネルとなる試験体もついでに実験することにした。結局、立体試験体は3体、平面試験体は4体となった。

 加力開始は例によって年末の12月にずれ込んだため、十分に実験結果を検討する時間がとれずに修論および卒論を書かなくてはならず、森山君や石田君には気の毒であった。おまけに平面十字形で横長接合部パネルの試験体などは修論・卒論の発表会の終わった2月末に加力していたのである(まあ、我が社ではよくあることなんですけど,,,)。

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写真 RC立体柱梁接合部試験体による実験

 こんなわけで森山君に担当して貰った研究の成果は、翌2004年度には発表することができず、2005年度になってから岸田慎司さんがJCI年次論文として発表した。しかしそれも内柱梁接合部試験体を対象とした4体だけで、ト形の試験体と十字形で横長接合部パネルの試験体については未だに発表していない(2011年12月現在です)。

 これは本当に惜しいことであるが、実は私自身が少しずつではあるが森山君の残した実験データの分析を続けている(時々Excelのファイルを開いては、データをいじっている)。いつの日にか大会論文くらいには発表したいなあ。特に塩原等さん(東大)による接合部曲げ破壊理論を真剣に考えるようになってからは、この横長接合部の試験体(MP4という名前)で得られた実験成果は相当に貴重であることを実感している。2010年度のM1平林君に塩原理論による接合部曲げ終局強度を計算して貰っているが、そのうちこの試験体MP4についても検討してもらおうと思っている。

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写真 横長の柱梁接合部パネル(試験体MP4)のせん断破壊

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写真 ト形の柱梁接合部パネルのせん断破壊   立体ト形ー十字形部分架構

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写真 実験メンバー(モリケン、舛田、北山、岸田、石田)

6. 箱根・福住楼へ行く

 箱根湯本からちょっと上がっていったところに福住楼という旅館があって、そこに宿泊する機会があった。早川の渓流沿いに建っている純和風旅館である。別に遊びに行った訳ではない(まあ、このコーナーに書いているのでお分かりでしょうが)。数年来続いている壁谷澤科研の第5回US-Japanワークショップを2003年9月9日から11日に福住楼で開いたのである(もちろんここを選んだのは壁谷澤寿海先生ご自身である)。

 確か小谷俊介先生の東大退官記念の国際シンポジウムを東大山上会館で開いたあと、東大正門前から大型バスに乗って参加者全員で箱根まで移動した。普段はゆっくり寛ぐ畳の部屋で、このときばかりはプロジェクタを使って英語の発表をするというのはどうも落ち着かなかったな。壁先生の差配に従って、馴れない英語であれこれやるのはいつもながら(私にとっては)とても大変だった。早川の渓流わきの部屋の畳に坐って、パソコンを広げてひとりでぶつぶつと発表練習をするのは毎度のことながら、ちょっとわびしかった。英会話が達者なひとはいいなあ、とそのときには思うのだが、これが終わるとそんなことは直ぐに忘れてしまう私であった。

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 写真 畳の部屋での発表の様子(まとめのセッションらしい/手前で頬杖をついているのは久保哲夫先生[当時はまだ名古屋工業大学])

 宴会でも英語を使わないといけないので(当たり前ですが)気が抜けない。それでも若手のマーク・アシュハイムさん、サラ・ビリントンさんやキャサリン・フレンチ先生などとお話しできてとてもよかった。サラさんが赤ちゃんの写真をパソコンに入れて来てみんなに見せているのが微笑ましかった。そのときは分からなかったが、それから二年後にうちにも赤ちゃんが生まれて、サラさんの気持ちが分かるようになる。

 最終日のお昼にResolutionsを皆で議論し、集合写真を撮影してお開きとなった。外国からの方々はこのあと壁先生が手配したバスに乗ってミニ観光に出かけたが、私はそれには参加せず、英語漬けがやっと終わってホッとした。そしてそのまま安心し切って箱根湯本の駅まで歩いて帰途についたのであった。ところがあんまりホッとしたせいか、会議に使った部屋のプロジェクタとか書類とかを出しっぱなしのまま帰ってしまったものだから、後日、壁先生から「いやあ帰ってみたら、なーんにも片付いてなかったのには驚いたよ」とお小言を頂戴したのであった。(つづく)

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 写真 宴会のときに廊下で寛ぐ前田さんと私(小谷俊介先生撮影)

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 参加者の集合写真


7. 連層鉄骨ブレースで耐震補強したRC平面骨組実験の結果の分析


 2002年度に加藤弘行くんと佐藤照祥くんとによって、連層鉄骨ブレース補強した2層3スパンRC平面骨組の実験が行われたが、実験時期が遅かったこともあって実験結果の精密な分析は翌2003年度に持ち越された。そこでM1となった佐藤君に、卒論から引き続いて実験結果の詳細分析をお願いした。

 具体的には、梁・柱主筋の降伏状況の精査、独立RC柱や鉄骨ブレースの負担せん断力、各層の変形の様子、梁ヒンジ領域の回転角、鉄骨ブレースを含むRC骨組に接続する境界梁(や基礎梁)による抑え込み効果の算定、などである。これらの検討の結果は2004年のJCI年次論文として佐藤照祥くんによって発表された。


8. 連層鉄骨ブレースで耐震補強したRC立体建物の解析

 この解析研究はそれまで森山君が担当していたが、彼に代わってニューフェースの舛田くんが扱うことになった。研究ノートを見るとこの年の5月末の研究室会議から舛田くんの資料が登場する。かなり頑張っていたことが伺えますな。最初は3階建てのRC立体建物のStaticな解析から始めて貰った。ただ、桁行方向には連層鉄骨ブレース補強が施されるほかに、張間方向には下階壁抜けフレームがあったりして結構複雑なモデル化を必要としたため、当初は簡単だと思ったStaticな解析がなかなか進まなかった。

 下階壁抜けフレームの静的漸増載荷解析では、外力分布をAi分布とかに固定したままだと、1層の層降伏が発生した以降は基本的には押し続けることができなくなって、解が発散してしまう。それを防ぐためには例えば芳村学先生のご研究のように外力分布を変更する必要があるのだが、そこまでやることはできなかった。刻一刻と外力分布が変動する地震応答解析では逆にそこまでシビアな外力分布が発生することは多分少ないだろうと想定して、結局はこのまま地震応答解析を行ったのである。

 さて話は変わるが、私はこの年、大学全体の就職支援委員会の委員になっており、その関係で八王子市の産学交流会の運営委員にも任命されていた。12月に産学交流会が開かれることになり、そこで舛田くんの研究を発表することにした。前述した複雑なRC立体建物の地震応答解析の結果がそのコンテンツである。

 今でも覚えているが、冷たい大雨のなかを八王子市の中心街まで行って舛田くんには研究発表して貰い、私自身は他のセッションの司会をやってそれぞれの研究の評価付けを行った。残念ながら舛田くんの研究成果は表彰されなかったが、参加賞みたいな賞状を貰って帰ってきた。それは今でも7階の北山研究室に吊るされている。

 舛田くんには2003年11月頃に、修士論文の研究としてPCaPC圧着接合の立体柱梁接合部実験を担当して貰うことに変更した。そういう訳で、12月からは実験の計画や試験体の設計とこの解析研究との二足の草鞋状態となった。なかなか大変だったと思う。だが、残念ながらこの解析研究の進捗状況は思わしくなく、ギリギリまでトライしたもののJCI年次論文に投稿するには至らなかった。それでも舛田くんには精一杯努力してくれたと感謝したい。
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  写真 舛田くんの賞状(研究奨励賞)


9. ハワイ・マウイ島へゆく


 この年の11月2日から4日にかけてハワイ・マウイ島でUS-Japan Seminarが開催され、それに出席した。これは平成15年度の日米科学協力事業として日本学術振興会とJCIの援助によって開催されたワークショップで、日本側の代表者は千葉大学の野口博先生が務められ、アメリカ側のカウンター・パートはカリフォルニア大学バークレー校のFilippou教授であった。課題名は「コンクリート構造システムの崩壊機構の解明と崩壊防止に関するセミナー」で、その内容をひと言でいえば、最大耐力到達後のRC構造物の軟化域での挙動を主としてFEM解析によって把握しようというものであった。

 このワークショップの母体となったのは、野口博先生を委員長とする「塑性域の繰り返し耐力劣化と耐震性能研究委員会」というJCI研究委員会であり、私は幹事を務めていた。ここでの活動を端的に示す研究軸ツリーをここには示しておく。ぱっと見るとたった一本の木に過ぎないが、これを作るまでに結構な時間と討論とを要したのであった。

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  図 JCI野口委員会の研究軸ツリー

 マウイ島でのUS-Japan Seminarに話を戻す。参加者は日本からは野口博先生、北山、白井伸明先生(日大)、中村光さん(名古屋大学、土木)、鈴木計夫先生(阪大)、田辺忠顕先生(名古屋大学、土木)、檜貝勇先生(山梨大学、土木)、河野進さん(京大)、金子佳生さん(当時東北大学)、衣笠秀行さん(東京理科大学)、斉藤成彦さん(山梨大学、土木)などが出席し、アメリカ・欧州側からはFilip C. Filippou、Zdenek Bazant、Laura Lowes、Tom Hsu、Frank J. Vecchio、Kaspar Willamなどの錚々たるメンバーが出席した。

 私の発表内容は、加藤弘行さんが担当した鉄骨ブレース補強RC骨組の静的載荷実験とCANNYによる立体RC建物の地震応答解析の結果である。このワークショップの主題が、耐力到達後の軟化域での挙動を把握・追跡するということにあったので、私の発表の地震応答解析において、建物が最大耐力に到達したあとに耐力低下を起こした原因について質問が集中した。だが解析自体は加藤弘行さんが実施しており、私は詳しいことを承知していなかったため(なんだか怪しげな政治家の答弁みたいですな)、精確に回答することができずに困ったことを今でも憶えている。

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  写真 会議の様子          会場となったマケナのリゾート・ホテル

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写真 バンケット(派手なアロハが北山) 最終日の晩餐会(鈴木計夫先生と)

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 会議後の集合写真

 このワークショップでは、FEM解析を行う際に重要となる材料の構成則の研究で非常に著名なバジャーン先生やスー先生、RC部材を対象とした修正圧縮場理論(Modified Compression Field Theory)の提唱者として名高いベッキオ先生などにお会いして、お話を直接伺うことができた。それまで彼らの多くの論文を読んでいたが、生身の「人間」に触れることが出来て大いに有益であった。

 成田からハワイに向かう飛行機のなかでお酒をしこたま飲んでしまった。ハワイに着くまでぐっすり眠れば酔いも醒めるだろうと思っていたのだが、意に反して意外と早くハワイに到着してしまい、酔っ払ったままの状態でオアフ島の税関に入ってしまった。これはまずいなあと思ったのだが、案の定、入国審査官から怪しい奴(怪しからん奴か?/なんせ向こうは朝ですからね)と思われたらしく、その場所で延々と質問攻めに遭うことになった。入国の目的や身分を聞かれるのはまあ当然としても、お前は結婚しているかとか、ワイフは今どこにいるのか、などまで聞かれて大いに冷や汗を流した(例によって英会話に四苦八苦したためでもある)。そのためだろうか、やっと入国のお許しを得た頃には酔いもさめ果てていたのであった。

 このハワイ行きでは日程が短かったこともあって、帰国の途に着くまで時差ボケに悩まされたことをよく憶えている。日本に帰る晩には全く眠れずに、もうヤケになってビールを飲んだり読書したり、太平洋上に輝くお月様を写真に撮ったりしながら朝を迎えた。出発の時間になったときには、ああこれでやっと日本に帰れる、と嬉しかった。

Hawaii2003-7 Hawaii2003-8
   写真 ホテルの部屋にて           写真 ホテルの部屋から撮ったお月さま


10. 建築学会での活動


 RC関連では、壁谷澤寿海先生を主査とする『限界状態と性能評価小委員会』での指針案作りが大詰めを迎えていた。私は梁部材の実用的性能評価手法を担当したが、ひび割れ幅関連の部分を前田匡樹さんにお願いしたほかはほとんど独りで原案を作成したので、結構大変であった。しょっちゅう、うんうん唸っていた記憶がある。

 だが、大学院生時代から取り組んできた梁降伏変形の定量評価に関する研究の集大成として、その定量評価手法を曲がりなりにも提案できたことはとても嬉しかった。姜柱さん、香山くんと実施したサ形骨組実験の成果も反映させることができた。

 ただ、そうして提案した方法(曲げ、せん断、接合部パネルからの主筋の抜け出し、および梁部材からの主筋の抜け出しの4つの変形成分を求めて足し合わせる、というもの)による評価精度が、統計的に導かれた菅野式(1971年に青研の先輩だった菅野俊介さんによって提案された経験式で、非常に簡単な式)によるそれとほとんど同じであったことには、正直言ってがっかりした。(自分としては)こんなに精緻に積み上げたつもりだったのに、そしてその結果として相当複雑な評価手法となったのに、偉大な先輩な仕事とはいえ三十年以上も前の研究とやっと同程度であった、ということがショックでもあった。

 2003年7月頃には査読も終わって最終原稿は出来上がっていたと思う。ただし最後の評価例だけは評価手法が確定しないと取り組めないため、ギリギリまで作業していたようだ。その成果は「鉄筋コンクリート造建物の耐震性能評価指針・同解説(案)」として2004年1月に出版された。

  AIJ_RCguideline2004
 写真 出版された指針(案)

 PC関連では中塚先生を主査とする『PC部材終局性能・設計法小委員会』において、PC梁部材の限界状態の設定とその構造性能評価について本格的に取り組み始めた。ノートを見ると、プレストレス率によってPC梁部材の限界状態をいくつかに分類するというアイディアが既にあったことが分かる。またPC梁部材のひび割れ幅を実測した実験はほとんどなかったため、これが我が社での今後の実験研究のひとつのテーマになって行った。

 同じようにPC柱梁接合部パネルの限界状態の設定についても検討しており、接合部パネルのせん断ひび割れ幅についてもそれまで測定していなかった。ただし接合部パネルの斜め方向の変位計の出力をひび割れ本数で除すことにより平均ひび割れ幅を求められると考え、そのような検討を岸田慎司助手にお願いした。また、これ以降に実施する接合部実験では接合部パネルのせん断ひび割れ幅を測定するようになった。



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