トップページ > 北山研ヒストリー> 都立大赴任一年めのはなし

 1992年4月、私は南大沢にある東京都立大学工学部建築学科の講師として赴任した。都立大学はその前年に全学が南大沢に移転を完了しており、バブル真っただ中であったせいか、南仏のような美しい家並みのキャンパスであった。私は工学部棟7階に研究室をいただいた。

 この部屋には、赴任直前の3月末に千葉大学の西千葉キャンパスから、たくさんの段ボール箱に詰めた研究資料や論文を車で運び入れていた。このとき千葉大学野口研究室の学生であった阿部雅人くん(現五洋建設)と竹崎真一くん(現大成建設)とがそれぞれ車を出して手伝ってくれた(私のプレリュードと合わせて、都合3台の乗用車である)。ちなみに都立大学側で受け入れ作業を手伝ってくれたのが西川研M1だった南輝弥くん(現大成建設)であった。

 実はテルヤ(南君のこと)とは長い付き合いだった。彼は宇都宮大学建設学科の出身であるが、彼が卒業する直前まで私はそこの助手だったのである。宇都宮大学で私は田中淳夫先生や入江康隆先生のお手伝いで必修の構造力学演習を担当していたため、学生達の名前は全て憶えていた。そんななかにテルヤもいた。彼は卒論で私がいる構造研を選んだのだが、大学院は外に出たいと言って都立大学・西川研を志望して進学したのである。卒論は入江先生についたため、私は直接には指導しなかったが、同じ部屋にいるのでいろいろと話しをし、飲み食いした。彼は結城(茨城県)からディーゼルのピックアップ・トラックで通学していた。

 卒論研究もいよいよ大詰めに近づいた年末も大晦日、私は千葉大学に転出するため、西千葉に引っ越した。そのときテルヤのトラックに家財道具一式を積んで運んでもらったのである。彼は「こんな大晦日に引っ越しする人なんて、いるんですかね、夜逃げみたいですねえ。ほら回りの車が指差してますよ」と言って笑っていた。ちなみにこのとき手伝ってくれたのは、いずれも構造研の田中直樹くんと藤田崇くん(現新日鉄)である。西千葉のアパートに着くと、とりあえずコタツだけ出して、みんなでトランプをしながら除夜の鐘を聞いて年を越した。

 こんな経緯があったので、私たちが都立大学に着いて荷物を下ろしていると、山村先生から話しを聞いたテルヤが台車を持ってやってきて「北山先生、また夜逃げですか」と笑いながら、手伝ってくれたのである。

 こうして都立大学での教育・研究生活が始まった。西川先生は、私の授業担当(建築構造解析IIなど)を後期からにして下さったため、前期のあいだは丸々講義ノート作りに費やすことができた。赴任一年めは卒論生も付かないので、ひとりで研究しなきゃなあと思っていたが、どういうわけかひとりの学生が卒論生として配属になったのである。それがわが研究室一期生の池田浩一郎くんである。彼はこの年の二月か三月に外国にでも出掛けていたのか(もう忘れたが)、卒論のための研究室配属の期間を棒に振ってしまい、行くところがなかったらしい。

 ある日突然、彼はやって来た。ちょっと鼻が赤くて、たれ目気味のひとの良さそうな学生であった。そして初対面のまだ若造だった私に向かって「先生、僕を研究室に入れていただけますか」と言ったのである。私は驚いたが、多分教室幹事の深尾精一先生にでも言われて来たのであろう、私が縷々説明してそれでもいいのか、と聞いたところ「別にいいっすよお」とあっけらかんと答えたので、その日から彼は北山研の最初にして唯ひとりの卒論生となった。まさに親独り子独りのような最小単位の研究室がスタートしたのである。

 さて、それでは卒論で何をやるか(何だかこの科白はどこかで吐いたような気がするが、まあいいか)。その当時は前述のように移転後1年が過ぎたばかりで、大型構造物実験棟には未だ何もなく、機械建築実験棟には深沢キャンパスから運んで来た古い門型フレームとジャッキが転がっているだけであった。第一、試験体を作るような研究費もない。

 しかしながら幸運の女神が再び降臨した! 前年に千葉大学の野口博先生とともに申請書を作成した科学研究費補助金の総合研究A「鉄筋コンクリート構造のせん断設計法の高精度FEM解析による再構築」が、1992年に採択になったのである(この研究の分担者には、京都大学の森田司郎先生・藤井栄先生・近藤吾郎先生、福井大学の小林克巳先生、三重大学の畑中重光先生、東京理科大学の松崎育弘先生など蒼々たるメンバーが入っておられた)。

 このお陰で、野口先生は研究分担者の私に研究費を配分して大いに助けて下さった。実験に必要なこまごまとしたものは何もなかったので、この予算によって準備することができた。4口の電工ドラムを幾つか購入したのだが、野口先生への感謝の気持ちを込めてその表面にマジックで「北山研究室・千葉大学野口博教授科研費」と記載したことをよく憶えている。

 さらに国庫補助か何かの予算で大型構造物実験棟に静的載荷装置一式を納入することが認められた。やったあ、これで実験ができる、と大喜びした。大型構造物実験棟に設置する静的載荷装置は鉄骨フレームとジャッキおよびそのコントロール・システムから成っており、その設計等は当時芳村研の助手をされていた津村浩三先生(現弘前大学准教授)が中心となって進められ、この年の秋くらいには納品されたように思う。これで器は出来上がった。では、研究の内容はどうするか。当時私はコンクリートの構成則に興味があり、M. Collinsのようにひび割れたコンクリートの圧縮強度の低減を調べてみたかった。しかし彼のようなRC平板を対象とした実験装置(Membrane Tester)は望むべくもない。

 そこで注目したのが、野口先生が実験していたように、コンクリートに通した鉄筋を引張り、その付着作用によってコンクリートにひび割れを発生させた後、ひび割れに平行な方向に圧縮載荷するという方法であった。これをRC平板ではなく、今まで誰もやったことがないRCの塊(直方体)に対して適用することにした。試験体が直方体のため、これを圧縮破壊させるためには200tonf近い軸力を作用させる必要があり、試験体の上下面のレベルを如何に出すかというような細かいことに腐心した。

 その点、池田君はなかなかのアイデアマンであり、かつ手先が器用であったので、随分助けられたように思う。この200tonfの圧縮力を支える鉄骨架台を設計し、なけなしの研究費を使って作製したのだが、実験棟に搬入していざ反力床にPC鋼棒で緊結しようとしたところ、そのための孔がジャッキ芯と250mmずれていることが分かり愕然とした(よくある単純なミスですが)。

 ただよく考えてみると、試験体が水平方向に移動するような力は作用しないので、反力床の上に置いておくだけでも大丈夫だろう、ということになった。こうしてわが研究室最初の記念すべき?実験は無事に終了した。ちなみにこの鉄骨架台はとても立派だし、費用もかかったので実験棟に保管していたが、2008年3月に大型構造物実験棟の載荷装置を更新するに際して、大掃除を行ってついに廃棄した。


写真1:北山研での最初の実験 加力装置 中央の灰色が試験体(小さい!)


 さて次は、池田君が普段使う研究室のことである。学生さんがひとりでひと部屋、というわけにもいかないので、当時学生がたくさんいた西川研から数名の学生がこの部屋に入って一緒に勉学することになった。そのなかに池田君の同級生であったT君がいた。このひとは相当の豪傑で悪い人間ではないのだが、ひとを食ったところがあって辟易とした憶えがある。特に、彼がクラブか何かの友人を研究室に連れ込んで昼間っからビールを飲んでいるのを見たときには、さすがの私も激怒した、「お前、そんなことしていいのか」と。

 しかしながらそんなことを言う私も、夜になると研究室で遅くまで、時には朝まで学生諸君とお酒を飲んだものである。当時は独身で若かったので、学生気分がまだ抜け切っていなかったのだろう。だが、楽しかった。その筋の学生達からは「バーきたやま」なんて呼ばれていたようである。よく実験を手伝ってくれた香山恆毅くん(彼はその後、北山研の卒論生となった)などは、酔っぱらって私の部屋のところかまわずつまみ類を置き散らかしたので(本棚にバナナの皮がぶらさがっていたりした)、翌日しらふに戻った私は、酒臭い部屋でその片付けに苦労した。

 多摩センターのカラオケにもよく行ったな。終電を過ぎて、しょうがないのでタクシーで研究室まで戻って、またお酒を飲んだりした。池田君の卒論の試験体は、橋本にある東急建設技術研究所で作って貰ったのだが、そのときの担当者だった磯雅人さん(現福井大学講師)ともよくお酒を飲んで、大学に泊まったものである。


写真2: ビール片手に池田君と北山研究室にて(すでに出来上がっています)

 このようなはなしは、現在の学生諸君には想像もできないことかもしれませんが事実です。まあ、私も成長したんだと思います、あはは。



Copyright (C) 2009 KITAYAMA-LAB. All Rights Reserved.