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異例の積雪のフランスへ(西山雄二)

異例の積雪のフランスへ(西山雄二)


3月10日から23日にかけてフランス・パリに滞在した。目的は、国際会議「カタストロフィの哲学」の開催、国際哲学コレージュでのセミナー実施、レンヌ第二大学での学生交流と留学協定の仕事である。今回は、首都大学東京の1年生4名、2年生2名、東京大学と立命館大学の学生という計8名が同行した。


(震災から2年目の3月11日にパリに到着。先週末には反原発のヒューマン・チェーンが市内で開催されたばかり)

(今回は初々しい1年生が多数だったので、これまで一度もやったことがなかったが、観光者気分でセーヌ河の橋上で集合写真さえ撮った)

(昨年同様、到着後の昼はベルヴィルのヴェトナム料理屋でフォー)

3月初旬のヨーロッパは春の到来を告げるような暖かな気候だったが、私たちが到着した第二週目には急変して寒くなり、雪景色となった。




同行した1年生はみな初めてのパリで、最初は緊張した面持ちだったが、異国の生活に順応するスピードは早くて驚かされた。各人が独りでも街歩きや買い物を楽しんでいるようだった。パリにはさまざまな種類の孤独が交錯しているといつも感じる。だから、パリの街歩きはグル―プでも楽しいが、独りでの自由な散策の方がより適切だろう。


(街角のジャズミュージシャン)

(ルーブル美術館で独りで絵をかく青年)



(パリ最古のレストラン「ル・プロコープ」で昼食。人権宣言が起草された知識人のサロンだった。)

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国際会議「カタストロフィの哲学――フクシマ以後、人文学を再考する」@ハインリヒ・ハイネ館、パリ日本文化会館。人文学がカタストロフィを論じるという困難や躊躇が会全体のトーンをなしていた。詳細な報告は、西山の個人HP=http://www.comp.tmu.ac.jp/nishiyama/ にて。



国際哲学コレージュでのセミナー。今回のゲストは、清水雄大さんと星野太さん。



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首都大学東京と交換留学協定を結んでいるレンヌ第二大学では、日本語クラスに参加し、レンヌと東京の紹介発表を写真を交えておこなった。フランスの学生は日本人学生よりも大人びていて、堂々たる態度。その貫禄の違いに驚きつつも、日本人学生は東京の特色、首都大学東京での生活、日本の政治(反原発デモ)について発表をした。フランス側も、学生3名が自前でレンヌ市のガイドマップを作製して、このブルターニュの都市の魅力を教えてくれた。




首都大学東京に次秋から留学予定の学生らも含めて、みんなで学食で昼食をとり、レンヌ市街散策に繰り出した。レンヌ市はフランスでもっとも治安がよく、学生人口が多いため活気のある街。2時間ほどの散策で、市内の大聖堂、旧市街地、庭園、市役所、商店街などを網羅することができる大きさ。フランスの地方都市をのんびり散策するのは実に楽しい経験だった。私たちからすれば、旧来の建造物も多数残存するレンヌの街並は美しく、石畳の歩き心地はどこか懐かしい。そんな私たちの感嘆をみて、レンヌの学生は「普段見慣れた街並がなぜそれほど感慨深いのだろうか」と感じたという。




今回の交流を企画・運営していただいた八木悠允さんには深く感謝する次第である。海外に留学して現地の友人をつくることは意外に難しい。八木さんは日本語クラスのアシスタントを積極的に務め、多数のフランス人学生からの信頼を得ており、実に素晴らしかった。


モン・サン=ミッシェルの島内のホテルLe Mouton Blancに宿泊した。実は私はこの世界遺産を訪れたことがなく、今回が貴重な初体験だった。モン・サン=ミッシェルはフランス随一の観光地だが、夕方から夜にかけて、人気のない勾配の歩道を散策し、周囲の海風をゆったりと感じつつ、ライトアップされた修道院を仰ぎ見ることができた。



(名物オムレツのプラールおばさんのレストラン)

(島内の庶民的なレストランでは、「Omelettes=名物ではない普通のオムレツ」と日本語の意訳も。実に良心的で心を打たれた。)

翌日は朝9時30分の開場とともに入場し、さほど観光客がいない状態でこの名所を十分に堪能できた。ガイド付きで館内を2周すると、中世以来の人々の姿がじわじわと浮かび上がってきて感慨深かった。歴史のなかに具体的に踏み入っていき、何かを学ぼうとするにはそれ相応の時間がかかる。




(干潮時の干潟を掛け声を出しながら歩く若者集団)

(島内の猫に興奮して群がる若者観光客ら)


事故もなく無事に12日間の滞在が終了。今年もたくさんの仕事と学術交流、学生との思い出の詰まったとても濃密な滞在となった。

レンヌ第二大学での文化交流(Les échanges culturels à l'université Rennes 2)

レンヌ第二大学での文化交流(Les échanges culturels à l'université Rennes 2)


フランスでの滞在も終盤に差し掛かった頃、パリからTGVで3時間、地方都市として知られるレンヌまで足を運んだ。首都大学東京と交換留学協定を結んでいるレンヌ第二大学では、日本語クラスに参加し、レンヌと東京の紹介発表を写真を交えておこなった。





フランスの学生は日本人学生よりも大人びていて、堂々たる態度。その貫禄の違いに驚きつつも、日本人学生は東京の特色、首都大学東京での生活、日本の政治(反原発デモ)について発表をした。フランス側も、学生3名が自前でレンヌ市のガイドマップを作製して、このブルターニュの都市の魅力を教えてくれた。







首都大学東京に次秋から留学予定の学生らも含めて、みんなで学食で昼食をとり、レンヌ市街散策に繰り出した。レンヌ市はフランスでもっとも治安がよく、学生人口が多いため活気のある街。2時間ほどの散策で、市内の大聖堂、旧市街地、庭園、市役所、商店街などを網羅することができる大きさ。フランスの地方都市をのんびり散策するのは実に楽しい経験だった。私たちからすれば、旧来の建造物も多数残存するレンヌの街並は美しく、石畳の歩き心地はどこか懐かしい。そんな私たちの感嘆をみて、レンヌの学生は「普段見慣れた街並がなぜそれほど感慨深いのだろうか」と感じたという。




以下、首都大学東京の学生の感想を掲載しておく。



志村響

フランスでの滞在も終盤に差し掛かった頃、パリからTGVで3時間、地方都市として知られるレンヌまで足を運んだ。19日夜から20日朝にかけて宿泊予定のモン・サン・ミッシェルへの中継地点であることも兼ねて、レンヌ第二大学への訪問という一大イベントがあった。ここでの経験は自分のなかでも大きな意義があったこと、これを最初に記しておく。

予定時刻より少々遅れてレンヌへ到着。大学付近までメトロで行くと、まずは現在当大学付属の語学学校へ留学中の八木悠允さん(彼には大変お世話になった)の案内で学生寮を見学した。そしてその足で大学へ向かい、着いて間もなく日本語クラスへの参加の段取りとなった。最初にあちらの学生が、日本語でレンヌの紹介をしてくれた。決して上手とは言えなかったが、それまで見てきたフランス人と違い、彼らは「僕らの言葉」を使っていた。急に親しみが沸くのを感じた。アウトプットの形式が違うだけで、考えていることなんて案外同じなのかもしれない。僕たち日本学生の任務はまちまちだったけれど、僕は日本語による東京の紹介を任されていた。日本語を母語に持つ身として、西欧人の視点で見た日本語云々というのは想像に難いが、とにかく単語を強調して話すなどしてみた。伝わっただろうか?



授業が終わると、レンヌの学生に混じって学食でランチをとった。僕の向かいに座っていたTはまずくて食えたもんじゃないというが(「私の作った料理の方がおいしい」、と。それはぜひ食べてみたい。ちなみに彼女との会話を通して、この日たくさんの発見をすることになる)、3€程度の代金にしてはなかなかおいしかったと思う。その後図書館などを案内してもらい、街の散策に出かけた。レンヌの街はほとんどが石畳で、建築物としてはパリのような中世風情こそ薄まるものの、適度に近代化され整った景観は誰もが落ち着く安心感を湛えている。

Tとは学食へ向かう途中、八木さんの紹介で会話のきっかけを得た。日本語のクラスなんだから、と少し期待をしたがいまいちだったので、フランス語(ときに英語)を使って話を進めることになる。「僕にフランス語を使うときは3歳児だと思って話してほしい」と言うと「私に日本語を使うときはもっとちっちゃい子ね」と返すのがお茶目だった。ともかく、伝わったのが嬉しかった。それから、初対面かつ年上だったのでVous(敬称2人称:あなた)を使って話していると、「やめて」と言われTu(君)に直された。ここでは当たり前なのかもしれないけど、それでもやはり嬉しかった。<親しい間柄ではTuを使う>、参考書で見たときはただの文法だったこの規則は、肌で感じる言葉の響きとなってすっと体に溶け込んだ。



レンヌの学生には日本語が堪能な人もいた。彼らと話すのはもちろん楽しかったし、流暢に日本語を話す同年代のフランス学生の姿は興味深くもあった。けれど、Tと話すのには別の楽しさがあった。どうにか伝えようと、自然と声も身振りも大きくなる。なんとなく、生き生きしている自分がいた。

フランス語を使って会話をするのはほとんど初めてだった。街中で使うフランス語といえば、挨拶か、そうでなければ質問だ。必要な答えを得てMerci.と返すか、何を言ってるのかわからずとりあえずMerci.と誤魔化すか、いずれにせよそこで会話は終わる。そうではない会話‐身の上を話したり、お互いの意見に同調したり疑問を投げかけたりするような会話は、英語でさえほとんど経験がなかった。日本にいると、普通に学校に通って普通に暮らしていればまずもって外国語を使う機会はない。街中にいて英語で道を尋ねられたとして、それもやはり1往復ちょっとのやりとりで完結する。よく、会話のキャッチボールと言われるようなもの。なんでもないことかもしれないが、外の言葉を使ってこの経験が出来たことは大きかった。

無責任なことは言えないが、今年度の9月から、ここレンヌへの語学留学を考えている。あくまで‘考えている’段階ではあるが、どうしようもない壁に突き当たらない限り行こうという心づもりではある。今回のフランス滞在に関する諸々の面倒だけではなく、このような機会まで与えてくださった西山先生に、そして情報面でのサポート、及び激励を頂いた八木さんに、ここに感謝の念を示したい。(志村響)

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鈴木麻純

早朝、パリからレンヌへ向かう。TGVに乗って少しすると、窓の外には緑に溢れたのどかな風景が広がっていた。田舎道、という感じだろうか。ぼーっと外を眺めていると、時々、牛や馬も見える。流れていく穏やかな景色のなかに、朝日がすっと射しこんだ瞬間は、一枚の絵のようだったのを覚えている。

レンヌ第二大学に到着。日本語クラスに参加し、レンヌの学生からは、レンヌのおすすめのレストランやカフェなどを紹介する、という内容の発表があった。3人とも日本語が上手だったし、手作りの地図で場所などをわかりやすく教えてくれ、聞いていて楽しい発表だった。わたしたち首都大の学生からは、「東京について」と「首都大での学生生活について」を紹介した。わかりやすい日本語で話すように心がけてはいるものの、これは伝わるかな、ここは言い換えた方がいいかな、と発表中も頭の中は忙しかった。目を見て話すことが大事、と事前に八木さんに教えていただいたので、出来るだけ目を見て話すようにしていたら、誰を見ても、わたしの目をじっと見ながら聞いてくれていた気がする。内容が伝わったかはわからないが、終わった後に友達になったメラニーという子が、「Très bon ! とてもよかった!」と言ってくれたのが嬉しかった。

その後は全員で学食へ。前菜、メイン、デザートを数種類の中からそれぞれ選ぶ。席について食べながら、いろいろな話をした。言葉が完璧には伝わらないので、最初はなかなかスムーズにコミュニケーションがとれなかったが、何度も聞き返したり、ジェスチャーを使ったり、または英語で話したりしているうちに、少しずつ会話ができるようになっていた。話すためには、まずは何より話す意思や姿勢が必要だと感じた。しかしそれと同時に、言葉の壁は確実にあるということも改めて感じさせられた。話したいことがあっても伝わらない、相手の伝えたいことも理解できないのはもどかしい。アイコンタクトやジェスチャーなど言葉を経ずに伝わるものももちろんあるが、言葉で会話ができるようになりたい、と思った。



昼食後は、レンヌの学生たちと街を歩いた。なかには日本語がとても上手な学生もいる。相槌の打ち方や言葉の雰囲気、話し方が日本人そのもので驚いた。それまでずっとパリに滞在していて、たくさんの建物や人々、都会の空気のなかにいたので、郊外であるレンヌの雰囲気はまた一味違って、新鮮だった。レンヌは穏やかで、落ち着いていて、どこかかわいらしい建物が多い、そんな印象だ。



最後にレンヌでの心に残ったエピソードを一つ。雑貨屋や本屋などを巡ってぶらぶら歩いていると、どこからか音が聞こえてくる(わたしは最初気がつかなかったが)。その音につられて教会に入っていくと、どうやらパイプオルガンの練習をしているようだった。人の気配に気づいて弾くのをやめてしまったので、一度外に出てもう一度静かに中へ。わたしが今まで想像していたパイプオルガンとは大きさも形も音も全然違っていて、最初は何なのかわからなかったが、聴いているうちにだんだんその音に惹きこまれた。そのときの空気や風景もあいまってか、「神々しい」という言葉がぴったりの瞬間だった。たくさん入った教会の中で、素敵だと感じたものはもちろんたくさんあったが、レンヌでふらっと立ち寄ったこの教会が強く印象に残っている。(鈴木麻純)

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三浦将

今回のパリ勉強合宿では、今年度の9月から交換留学が開始されるレンヌ第二大学の学生たちとの交流会が開かれた。普段ほとんど交流することのない海外の学生とキャンパスの雰囲気を直接肌で感じ取ることができ、良い経験になりました。学生交流会ではお互いの大学生活を発表したのだが、海外の学生たちは皆眼を見つめてくる。常に真剣に私の眼を見つめて話を聞いてくる。私はあなたの話を聞いている、と眼で訴えかけてくるように感じられた。日本語を学んでいるから、と言ってしまえば簡単だが、それだけではない、日本人学生にはあまりみられない語学への熱心さが伝わってきた。そのような雰囲気での発表は、自分の一語一句に耳を傾けられている緊張感はもちろんあったが、その分真剣に聞いていてくれているという嬉しさもあり、楽しい交流会でした。



交流会の後は、学生たちとレンヌ第二大学の学食で昼食をとり、図書館などの大学施設を回ったのち、レンヌ第二大学に留学している首都大学修士の八木さんに案内してもらいながら、八木さんのレンヌでの友人の方々と教会や本屋を巡ってレンヌ観光をしました。街中に響く教会のパイプオルガンや石畳の道路、日本にいると絶対に体感できないものに常に触れ合っている状況に私はフランス滞在中ずっと興奮していました。

フランスでは日本の漫画やアニメが大人気で(特にNARUTOが大人気でした。)普通に日本でもポピュラーな僕の知っている漫画を好きな学生もいて、その話で盛り上がることもできたのでやはりコミュニケーションをとるなかで共通の趣味・嗜好とは大きな橋がかりとなってくれました。その学生とはアドレスを交換して、facebook上でも連絡をとりあっているので、とても良いフランス語の学習にも繋がっています。


(レンヌ市内にある日本のマンガ書店)

僕はまったくフランス語が話せないのですが、どうにか意思疎通でき、コミュニケーションをとることができました。しかし、拙いながらもフランス語で会話してみようという意識が希薄だったのが今回の学生交流でもっとも反省すべき点でした。facebookやメールでのレンヌ第二大学の学生たちとの情報交換はこちらのフランス語の学習にもなるし向こうの日本語の学習にもなるので、今回の勉強合宿で彼らと知り合えたことが一番の財産でした。(三浦将)

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三上恵里

レンヌ大学での学生との交流は、もっと時間が欲しかったと思うくらいに充実してたのしいものだった。簡単な自己紹介のあとの両校それぞれの発表のあいまにも笑い声が起こったり、終始なごやかな雰囲気で授業が進んだ。レンヌ大学の生徒も、笑顔で身振り手振りを加えつつ、こちらを見て発表してくださり、日本語の出来不出来以上に内容がよく伝わってきた。
授業自体は短かったが、その後何人かの生徒といっしょに学食で食事をし、図書館などの学内やレンヌの街を散策した。レンヌの学生さんは日本語でコミュニケーションをとろうという意思が強く、片言ながらたくさん話すことができた。「あたたかかった」という日本語が言いづらいなど、日本語を母語とするわたしたちでは思いつかない話も聞けて、純粋にたのしむことができた。



ふつうに旅行をしていたのでは触れ合うことのできない同年代の学生と交流することは、留学を検討している人にとってはもちろんのこと、そうでない人にとっても貴重な体験だ。勉強がうまくいかなかったり、将来に不安を抱いていたり、おなじ趣味をもっていたり、様々な共通点がある学生が他国にもいることを肌で感じることで外国というものがより身近になるうえに友だちにもなれる。今後につながる人間関係を築けた、という点でも今回の交流はとても意義があったように思う。(三上恵里)


(夕暮時の色鮮やかな斜光に包まれるサンタンヌ教会にて)

学生の感想1(鈴木麻純、三浦将)

学生の感想1(鈴木麻純、三浦将)


初めてフランスを訪れるひとに観光案内をするのはいつも良い経験だ。見知らぬ異国の風景や事象について説明することで、彼ら・彼女らは驚き、好奇心をますますそそられ、ますます知りたくなる。このことは教育現場でも同じ。初学者に未知の風景をいかに観てもらい、その好奇心をいかにくすぐるのか。教師の力量はこうした旅の技法次第である。旅の本質は出会いと経験の強度にあるが、教育の本質も同様である。旅を通じた学びとはいかにして可能だろうか。参加者に感想を綴ってもらった。(西山雄二)

鈴木麻純(首都大学東京・人文社会系1年)

少しでも世界が広がればいい、と思って参加したフランス行きだったが、想像以上に得たものが大きかった。振り返ると、そこで感じた気持ちや聞いた言葉、経験は自分にとって本当に価値のあるものになったように思う。

初日は全員でシテ島やサン・ルイ島を観光し、ノートルダム大聖堂を訪れた。最初は写真などでよく見ていたきれいな街並みを純粋に楽しんだ。全ての通りに名前がついているのも、建物の造りも、日本とは全く違う景色がとても新鮮だった。それと同時に、なぜこのような建物を作ったのか、なぜこのような造りにしたのか、という疑問がいろんなものを見るたびに湧いてきた。シャルル・ド・ゴール空港からBellevilleに向かうRERの中でも、普段建築などには興味のない自分がそのようなことを考えていたのを覚えている。


(モンパルナスタワーからの眺め。このときは晴れていて、パリの街がすっきりと見渡せた。)

建築物も街並みも、その国の思想や歴史を表す。そう考えると、フランスには、至る所に歴史を表す何かがあることに気付いた。有名なノートルダム大聖堂や凱旋門はもちろんのこと、ルイ13世の像やシャルルマーニュの像、そして街を歩いているとごく普通の通りにも突然銅像が建ててあったりする。この国はどのようにして歩んできたのか、どのような歴史のうえに現在のフランスという国、そして人々が生きているのかということを意識した1日だった。


(サント・シャペルの二階。実は螺旋階段に気づかずに危うく一階だけ見て帰るところだった。)

今回訪れた場所で印象に残っているところはいくつかあるが、そのなかの一つがサント・シャペルだ。ルイ9世がキリストの荊冠や磔の十字架の断片などの聖遺物を納めるために建設された教会だ。一階の入り口のそばにある細い螺旋階段を上って2階に上がったとたん、「パリの宝石箱」と称される理由がわかった。優雅で、繊細で、美しい空間だった。ステンドグラスの一つ一つにはそれぞれ違う場面が描かれていて、この絵が表しているものは何だろう、と考えながら見て回るのはなかなかおもしろかった。帰ってきてから調べてわかったのは、15の大窓で構成されたステンドグラスは、創世記から列王記までの物語が西北から右回りに展開されているそうだ。また、ここには数日後の夜にもクラシックを聴くために訪れたのだが、荘厳なステンドグラスに囲まれた中で音楽を聴くのは初めての体験で、サント・シャペルの歴史とそこに響く音を同時に感じられた貴重な時間だった。(ただ、暖房などはないのでけっこう寒かった。)


(マルコさんおすすめのチーズ屋さん)

教会や美術館だけでなく、雑貨屋やレストランにもよく入った。最初のころは無愛想だと思っていたフランス人の店員も、何軒か訪れているうちに、お店に入ると「Bonjour.」出るときは「Au revoir.」と必ず目を見て軽く微笑みながら挨拶をしてくれることに気付く。仕事中なのに携帯をいじったり、あとに続く客を待たせていることなど気にも留めずにほかの客とのおしゃべりを楽しむ様子は日本の労働者とは大違いである。真面目に働く日本人からすると、それは不真面目で職務全うしていないように見えるかもしれないが、見方を変えると人間味がある、とも言える。フランスでは店が閉まる時間が早いこと、日曜はほとんどの店が定休日だということも、「労働者=一人の人間」なんだという考えの表れなのだと思う。そう考えると日本は「労働者」になった瞬間まったく別の人間になる、というかロボットのようになっている気がする。丁寧な接客や真面目に働くのは日本の良いところだと思うが、例えば、店側に非がないときでも客にクレームをつけられたら謝らなければならないとき。これは大げさかもしれないが「労働者=企業のために存在している人間」という印象を受けざるを得ない。「こんにちは」「さようなら」というやりとりは、店員と客ではなくて人と人としてコミュニケーションをとっている感じがして、心地よく感じた。


(モン・サン・ミシェルにて。文中では取り上げなかったが、神秘的なイメージや外観とは対称的に、中にはお土産屋さんの並んだ商店街のような通りもあり、観光客でにぎわっていた。)

他にもパリが一望できるモンパルナスタワーや、建物の造り自体がお城のようになっていて、中世の空気に触れている気分を味わえる中世美術館、ちょっと怖いカタコンブ(下写真)など、思い出に残った場所はいくつかある。そういえばオルセー美術館には、ルーブルやポンピドゥーなど他の美術館が休みの日に行ってしまったのでとても混んでいて、雪の中1時間以上並んだ。過酷だった。修行のようだった。



そして意外と印象に残っているのは、メトロ(地下鉄)の中である。人名になっていたり、和訳するとちょっとおかしかったりと、駅の名前を見ているのもおもしろかったし、周りが外国人ばかりだったのがなぜか逆に居心地がよかった。また、アコーディオンやサックス、クラリネットなど楽器を持ち込んで突然車内で演奏を始める人がいるのには最初は驚いた。何事かと思った。

最後に、今回のフランス滞在を通じて最も強く感じたのは、人との出逢いは財産だということだ。フランスの空気や人々に触れて、国際シンポジウムやセミナーに参加して、そしてなにより、この12日間のなかで知り合った方々とのお話のなかから、今まで自分が知らなかった世界や生き方や価値観など、多くのことを学んで、考えさせられた。今後の自分がどうなりたいのか、何をしたいのかという道標のようなものを得ることができた気がする。この出逢いがなかったら、パリでの毎日がこんなに充実したものにはならなかっただろう。向こうで出逢ったたくさんの方々、そしてこの貴重な機会を下さった西山先生、本当にありがとうございました。



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三浦将(首都大学東京・人文社会系1年)

西山雄二准教授のお誘いでフランスのパリで開かれる国際シンポジウムに同行させていただくことになったのが、昨年の春。今年の3月までの10か月間はあっという間でした。日本の羽田空港から約13時間のフライトを経て、フランスのシャルル・ドゴール空港に到着。パリは珍しく雪が降っていて凍えるほど寒い。30分ほど電車に乗って無事パリに到着しました。ベルヴィルにある宿泊先のアパートはかなり広く、過ごしやすくて快適でした。到着日の3月11日から14日までの4日間、僕たち学生は自由にパリを見学することができ、私はノートルダム大聖堂、オルセー美術館、凱旋門を観光。



「ゴシック建築の女王」と讃えられるノートルダム大聖堂のステンドグラスやフライング・バットレス、オルセー美術館の「日傘をさす女」、「星降る夜」、ルーブル美術館の「サモトラケのニケ」「ミロのヴィーナス」には感嘆の一言。美しさに私は足を縫い付けられたかのように絵画や彫刻の前から動くことができませんでした。特に「ミロのヴィーナス」のふくよかなボディラインは必見。失われた両腕の造形を想像するのも楽しみのひとつでした。



しかし、決してパリは一般的な日本人の持つ、美しく華やかでおしゃれなイメージだけの街ではない。それを僕は凱旋門で痛いほど思い知ることになる。忘れもしない凱旋門。ルーブル美術館を背にテュイルリ公園を直進し、オベリスクを横目にシャンゼリゼ通りへ。華やかなブティックやカフェが大きな通りに立ち並び、通りはかなり賑わっていた。カフェでお茶をしつつ、歩いて凱旋門前に到着。凱旋門の写真を撮っていた僕たちは突然声をかけられた。それはフランス人男性だった。日本語と早口な英語で親しげに話しかけてきたその男に、僕たちはパリ滞在3日目ということもあり、かなり気を許してしまった。手を出してくれと頼まれ、素直に手を差し出す馬鹿が2人。いきなり腕にミサンガを巻きつけられ、茫然とする僕たち。結局1人20€請求され、一緒にいた友人と占めて40€盗られてしまいました。さらにその後も友人と別れて1人で街を歩いていると老婆に小銭をせがまれる、署名してくれと寄ってきた学生にサイフを盗られそうになるなど、その日はかなり危険な一日でした。しかし、この日で学習したのが幸いしてその後は何も大きな事件は起きませんでした。



また、お昼には、向こうで知り合ったパリ在住の尾崎さんの御友人・マルコさんという日本人の方が働いているル・プレヴェールというレストランに連れて行っていただきました。折角フランスに来たのだからコース料理を食べていったほうがいいと尾崎さんに勧められたからです。店内の雰囲気もかしこまりすぎず雑多すぎず、他のフランス人スタッフも気さくで感じの良い人ばかりだったので、入店した時から私はこのレストランが気に入っていました。ランチは前菜・メイン・ワイン込みで14€ほど。この後色々な飲食店に行くのですが、かなり安い。オーナーの方が海外旅行好きなようで日本やインドの香辛料や素材を使った創作料理も多いそうです。私はこのレストランが本当に気に入ったので翌晩ディナーにも行きました。

16日に開かれた国際シンポジウムでは、ナンシーやジゼル・ベルクマン、東京大学の小林教授等、豪華な参加者同士の討論会を拝見し、これまで学ぶことのなかった「哲学」の断片に触れることができ、とても良い経験になりました。ナンシーやベルクマンの発言も西山雄二准教授に用意していただいた同時通訳のおかげで討論全体においていかれることはありませんでした。一般の入場者たちとの質疑応答を聞いていても、「哲学」という学問が必修化されているフランスとほとんど触れることのない日本との思考すること=哲学することの意識の違いを痛感するものでした。宿泊先のアパートで首都大学の教授やフランスに留学している修士や学生の方たちを招いて開かれたフェット(立ち飲みパーティー)でも早稲田大学からの留学生である渋谷さんともお話させていただいたのですが、とても楽しそうに哲学の話をされていて、自分の好きなことに打ち込む姿に憧れました。


(最終日のお昼は北アフリカ料理屋でクスクス。写真は前菜のシーチキンのブリック)

今回のパリ勉強合宿では、出会いがキーワードになりました。尾崎さんや渋谷さん、同行者の東京大学の近藤さんといった人間関係での出会いはもちろん、普段足を運ぶことのない美術館での数々の名画、彫刻との出会い。芸術の予備知識のない私でも、見ていてやはり感じるものがあり、予備知識がないからこそむしろ本能で、野性的な感覚で作品に触れることができました。フランスでの出会いは私にフランス語圏文化へのさらなる関心と挑戦することの重要性を教えてくれました。多くの人と対話することで自分の中の物事を受け入れる容量が少し広がった気がします。1年生の最後にこのような貴重な経験ができ、大変嬉しく感じるとともに、誘っていただいた西山雄二准教授には感謝の念が尽きません。(三浦将)

学生の感想2(志村響、三上恵里)

学生の感想2(志村響、三上恵里)



(モン・サン・ミシェルへの階段にて)

志村響(首都大学東京・人文社会系1年)

3月11日早朝、フランス、パリはシャルル・ド・ゴール空港に到着した。日本との時差8時間を加味すると、パリへの到着時刻と東日本大震災発生時刻が偶然の近接を得たことは見逃せない。そんなことを考えながら、ほの暗く心地よい間接照明のなか慎重に歩を進めた。まず気になった、というより意外だったのは、すれ違う人々の半数近くがアフリカ系の黒人だったということ。いかにもフランス人らしい(これには注意が必要だ)白人はそれほど多くはなく、アジア系や出自の予想もできない人々がひしめき合い、まるでそこはフランスの入り口というよりは地球の入り口のようで、ベタではあるが、いかに自分が今まで限定された世界にいたかを痛感した。


(Belleville、アパルトマン周辺)

季節は冬だった。日本の既に暖かい空気を受け入れた体には少々応える低く冷えた曇り空の下、スーツケースを引きずって、後に見慣れることになる景色のなかをすたすたと歩く。宿は思っていたより小奇麗で十分に広く、その後2週間弱に渡る活動の拠点としては申し分なかった(旅を終えた今になって思うことだが)。

パリは色々な顔を見せてくれた。最初に見る景色と二度目に見る景色、誰かと見る景色と一人で見る景色、昼の景色と夜の景色、それは色調も違えば意味合いも違う。どの街とあれそうではあるが、意図的に景観を保たれ、街全体が工芸品と化したパリでは、一層それは色鮮やかであった。


(夜のセーヌ川越しに眺めるエッフェル塔)

文化が違えば常識も異なり、常識が違えば非常識と呼ばれるものの範囲が変わる。常識‐モラルとは、人が気にとめない(あるいは無視することが出来る)ものと、物珍しさから思わず視線を送ってしまうようなものとの間に一線を引くものだろう。だからここでは、日本では考えられないようなことが日常的に、とくに誰の気を引くでもなく起こる。それは地下鉄の音楽隊であったり、「J’ai faim(腹が減った)」と訴える物乞いであったり、仕事中に急に歌い出す店員であったりするのだが、そういったものにいちいち注意を払うのは、それは僕らが異邦人(etranger)だからかもしれない。

上に述べたように、いかにもフランス人らしい人ばかりではない(ただ、街中では空港で見たほど黒人は多くないし、場所によっては白人だらけのところもあるみたいだ)。外見からその人がフランス人であるか否かは判断出来ないし、そもそもどういう人をフランス人と呼んだらいいかという問題にも遡ってしまうから、判断そのものにあまり意味もなければ必要もない。けれど、“パリに住んでいる人たち(パリジャン?)”に一定の共通点を見つけることは出来た。街の景観や匂い、天候はもちろん大事だが、そこに住む人々の身ぶりや口調や足並みの速さ、こちらも同じくらい大事だ。彼らは陽気で、よく喋り、けれど他人にねちねち干渉しない。つまり、自分のやるべきことをわかっているし、そうでないことはやらなくてもいいことを知っている。そして他人にもそういう世界があることを自然に受け入れている。悪く言えば冷たいけれど、嘘を塗りたくったような人間はここにはいない(少なくともそう見えた)。みんなすごく人間的で、何より楽しんでいる。

カメラを携え美しい街並みに息を漏らす傍ら、僕の注意の多くは“言葉”に向けられた。無機質な文字の羅列が、素っ気ない音の連続が、突然意味を帯びて親しげに笑う。そういう瞬間をひたすら愛した2週間だった。言葉を学ぶということは、それにより記述される世界への切符を、それを使う人々と意志を交わす権利を、獲得することである。そんな当たり前の事実を(けれど日本にいては遠すぎる感覚を)、初めて身に染みて実感した。


(Gare de Fontainebleau-Avonの駅舎)

滞在中のある日、自由時間を活用して、パリ郊外の街Fontainebleau(フォンテーヌブロー)へ、一人赴いた。『異国の客』というフランスでの生活を綴ったエッセイの著者、池澤夏樹(『星の王子さま』の新訳を機に知った)が当時その住居を構えた土地だ。来仏前にこれを読み、ぜひ機会があればと思っていた。しかし往路にて、乗り慣れたメトロでGare de Lyon(リヨン駅)まで行ったはいいものの、そこから先は国鉄だったのでどこで切符を買ったらいいのか、何番線から乗ったらいいのか、わからないことばかりで何かと苦心した。そして言葉が通じない不自由と悔しさは、こういう時にとりわけ顕著になる。聞き取りに自信がない者は不用意にフランス語を使わない方がいい。Oui, Nonで答えられる程度の質問ならともかく、いつ?どこ?いくら?こういう重要なことは、差し迫った時であればなおさら英語で聞くのが無難だ(案内係の人はフランス語で聞いても英語で返してくることがある。アジア人への対応マニュアルだろうか)。しかし、滞在初日から数日で学んだこの教訓を活かし英語で駅員に尋ねるも、フランス式発音に則った英語で返され余計混乱した。環境にこそ慣れたとて、耳ばかりは慣れないものだ。それはそうとなんとか切符を入手し、乗り込んだ電車に揺られ40分、目的地へ到着した。

Fontainebleau-Avonという名のその駅の周辺はがらんとしていて、中心部へ向かうにはバスに頼ることになる。けれど予備情報もなかったので、どこからどのバスに乗ったらいいかわからずまたしても躓いた。さらには出発前こそ気持ちのいい青空だったのに、着いた頃には雨で心が折れた。ちょうどそんな時、聞き慣れた、くっきりとした母音が耳に入った。異国で出会う母語は、例えるなら雨宿りだ。一人でいればなお一層、不意に安堵が訪れる。彼らは案の定日本の方で、二人いた内お一方はフランスに住んで長いという。彼がもう一人の方を案内するという名目で、観光に来たとのこと。バスの乗り場を教えてもらえただけでなく、降りた後までご一緒させていただいた。フォンテーヌブロー宮殿を見て回り、昼食までご馳走になった。たくさんのご厚意に恐縮する僕に、気にすることはないと彼らは言う。出国一週間ほど前、無鉄砲にも何の計画も立てず、一人で被災地の視察に行ったときも似た経験があった。旅の縁は、何事にも代えがたい思い出を残してくれる。

曇り空。思えば初日からほとんど毎日がそうだった。この国の天気は文字通り気まぐれで、晴れたかと思えば急に雪が降り出したり、そんなだから陽と雨の同居は珍しくもなんともなかった。けれどどう転んでも結局、曇り空に落ち着いた。低く冷たく、一様に白みがかったグレーの空、が、ベースだった。

帰国から一日が経つ朝、カーテンを開けると見慣れた空模様。
いつもならため息をつくところだが、思わず胸を撫で下ろした。


(曇り空のサンジェルマン・デ・プレ)

〈追記〉
私事になりますが、滞在中に誕生日を迎え一つ年を重ねました。このような節目に、2週間にも及ばない短期間では考えられないほど濃密で、充実した経験を積むことが出来ました。これは何より、この旅へのお誘いを頂いた(正確には無理な申し出を受け入れていただいた)西山先生のおかげであり、彼が骨を折り様々な面倒を被ってくださったことによるものです。この場を借りて厚くお礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。(志村響)

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三上恵里(首都大学東京・人文社会系1年)

まずはじめに、フランス語を履修していたわけでもなく、仏文志望なわけでないにもかかわらず、今回同行させていただき本当にありがとうございました。直近の大学生活だけでなく、10年後の自分にも影響を与えるのではないか、というような大きな経験をさせていただきました。



ことばも文学もわからないわたしが、そもそもなぜフランス行きを決意したかというと、海外の大学や海外そのものに興味があったということ、学問を糧にしている方たちの活躍の場を見てみたかったことなど様々な理由があげられるが、いちばんの要因は『いろんな人と関わりたい』ということである。パリの街並みなど、初めての海外だったわたしにとって新鮮なことはたくさんあったが、ここでは”人”にスポットを当てたい。フランスで知り合うことのできた素敵な方々ももちろんだが、まずは2週間弱いっしょにすごした人たちについてすこし書いておく。
普段の学生生活の中では交友関係は狭まっていて、サークルなどといった共通点がなければ大学内でも知り合うことはむずかしい。今回のフランス滞在の大きな要素のひとつは、ほぼ初対面の人と共同生活をすることにあったと思う。年齢も大学も専攻も境遇もちがう人たちに毎日「ただいま」という生活を送り、また、なにも知らない土地をその初対面の人と歩き回るのだ。”ふつう”にしていてはできない体験である。そのなかで、自分の中では得ることのできない考えに触れたり、感じ方を共有することができた。同行者のみなさんにもとても感謝している。



つぎに、フランスで知り合った方について書こうと思う。多くの人と知り合うことができたが、そのなかでも強く印象に残ったのはマルコさんと呼ばれる日本人シェフの方だ。マルコさんのお店で食事をし、チーズやワインを選んでもらったあとカフェでお話ししたのだが、わたしとはまったくちがう彼の生き方は聞いていてとてもたのしかった(人それぞれの生き方があるのは当たり前のことだが、こうもちがう生き方に出会うことは意外とすくない)。人の生き方に大きな影響を与えるのは、だれかの生き方なのではないか。その”だれか”が架空の人物であることも、出会ったことのない人、すでにこの世にいない人であることもあるかもしれないが、やはり目の前にいる生身の人間の持つ力は大きい。そんなことを考えた1日になった。



最後に、今回の小旅行の同行者のなかでおそらくもっともフランス語ができなかったであろうわたしの視点から書きたい。なにも読めない、なにも聞けない、なにも話せない、という疎外感を味わうかと思っていたが、疎外感というべき”はじき出されている”という感覚はほぼなく、むしろ”未知に包まれている”といったある種の心地よさを感じた。もちろん今回は日本人の、しかもフランス語のできる同行者が複数名いた、という安心感もあろうが、ひとりでルーヴル界隈を散策したときもバスティーユで迷子になりかけたときも、意外と心細さは感じなかった。むしろ、身振り手振り、覚えたてのフランス語の単語(実際に使えたのは3つぐらい)、苦手な英語、そしてなにより表情でなんとか伝えようとすることのたのしさを知ることができた。人間味あふれるフランスの、ことばの通じないたくさんの人との”交流”は、病み付きになりそうなたのしさであった。もちろん、いつかは言語を介した交流をしてみたいと思ったのも事実だが。(三上恵里)


(モンサンミシェルの猫と身振り手振りの”交流”)

学生の感想3(土橋萌、藤井淳史)

学生の感想3(土橋萌、藤井淳史)


土橋萌(首都大学東京・法学系2年)

私にとって今回は4回目のフランス滞在だった。前回は高校生の時、サンテチエンヌという街で10ヶ月過ごし、そのうち3週間はパリにも滞在した。今回途中2日間はサンテチエンヌにも遊びに行ったので、今回の滞在は非常に懐かしいものだった。以前パリに来た時は人に連れられて観光名所を回ったのでメトロや道などを全く覚えていなかったが、今回は自分で回らなければならない。あまり地図には強くないので不安だったが、勧められて買った黄色い表紙の地図のおかげで、パリで行動するのにまったく困らなかった。自分がどこにいるかは通りの名前を見ればすぐ分かる。またメトロは切符の値段が一律で、駅は間隔が短く、路線図はとても分かりやすい。パリは、初心者でも小心者でも怖気づかずに気軽に歩き回れる街だった。

都会のアパルトマンに滞在するのははじめてだった。中はとても落ち着ける空間だったが、「外」に驚いた。表の通りは整備されているが、通りに面したラクガキいっぱいで汚いドアを一歩入ると、水はけの悪そうなガタガタの中道に沿って、小さな部屋がごみごみと詰め込まれているようだった。これは倉庫なんじゃないかと思うような平屋、壊しかけ(?)の壁もあった。部屋の窓から覗くと隣の部屋の窓が近い。感じたのは、かなり不規則に建物が建てられているということ。日本のマンションやアパートのように四角い建物を効率よく詰め込むというのではなく、いろんな形の積木を重ねていったらこうなりました、という感じ。「フランスらしさ」がこういうところにも滲みでている。



いろんな場面で「フランスらしい」と感じる、その「フランスらしさ」を私は今回、はじめて自分の中で言語化できた気がする。私の思うフランスらしさとは、「適当なところでテキトー」、もしくは「テキトー」。「適当なところ」とは「人間らしさを失わない範囲」である。

たとえばファッション。日本人の多くはかなり服装にこだわって、頭の先から爪先までしっかり考えつくされた格好をする。そのままお人形にできそうなくらい完璧。それに対してフランス人は、どこか抜けている服装をしている人の方が多い。オシャレな感じに「ハズしている」のではなく、抜けている。ロングコートなのにリュックとか、服はかっこいいのに運動靴とか。

それからお店などの対応。今回帰りに、空港にあるマカロン屋さんでお土産を買おうとした。そこの店員は2人で、お客が選んだマカロンを店員が詰めて、お会計をしてくれる。ところが、1人のお客とトラブルがあったようで、そのお客と店員1人が話をしていた。しばらくすると、ほかのお客に対応していたもう1人の店員(そこの責任者のようだった)も、そちらに行ってしまった。今度はその店員とお客が話をしはじめる。対応してくれる店員がいないため、お客の列が進まない。正直急いでいたので早くしてほしかったのだが、責任者でないほうの店員はもはや話を聞いているだけなのに、並んでいるお客の対応をしにこようとはしない。それに対して責任者のほうも、ほかのお客に対応しろと指示したりしない。結局話し合いが終わるまでお客に対応する店員はおらず、買うまでにかなり時間がかかった。効率よく店を回転させる、お客をさばく、といったことを考えていないようである。トラブルが起きた1人のお客に店側が対応をするというよりは、2人と1人で話し合うといった体だった。どこか抜けていて、立場よりも人間として行動するフランスらしさ。



それから、私はサンテチエンヌに行った時、街の中心に出かけようとしていた。バスとトラムを乗り継いで、上手くいけば30分ほどで着く。私はあまり時間がなかったので早く行きたかった。バスまではよかったのだが、トラムの駅に行くと、なぜかトラムではなくバスが停まっていた。まさかと思って聞いていると、やはりその日はデモがあるということで、トラムが動いていなかった。結局バスに乗ったり歩いたりで、街の中心に着くまでに1時間かかった。デモやストライキといった表明活動は、私は重要だと思う。それでも「予定通りにいかない」ということがかなり腹立たしかった。「無駄なく、効率よく行動」できないことが腹立たしかった。パリとサンテチエンヌやレンヌなどの地方都市を比べると、やはりパリよりも地方の方がかなりゆっくりと時間が流れている。こんな場所で生きていたいとも思う。けれど、一方でやはり日本(東京)の精密さにも感謝している。しっかりとした時刻表、事故等以外では遅れない電車、必ずいる駅員、壊れていない券売機に改札機。きれいな建物。清潔なトイレ。機械的だけれど対応が丁寧な店員。日本(東京)は、緊張感をもって、一定の空間をできるだけ美しく、完璧にしようとしているように見える。それから、立場や形式を固定しようしているように見える。予想できない自然を予想し制御しようとして人間の文明は発達してきた。予想できないことをなくし、全てを自分の統制下に置くことが人工的であるということなら、日本(東京)はかなり人工的な場所だ。「まぁそういうこともあるでしょ」というような、人間のゆるさがあまり出てこない場所。全てが予測できて便利であるということと、人間らしいゆるさのあるゆったりした生活というのは両立しないのだろうか。両者のバランスが上手く取れた中庸な環境は存在しうるかもしれないが、両立することはないのかもしれない。



ヨーロッパ的な街並みはすごく好きだけれど、4回目になるとさすがに感動も薄れてくる。建物の大きさや、ロマネスク様式やゴシック様式や、ステンドグラスや、物そのものにはあまり何も思わなくなってきた。けれど毎回「よくこんなものを作ったなあ」と思うのは変わらない。特に教会はどこのものであってもすばらしいと思う。当時貧しい人々が圧倒されたであろう、現在の私たちですら感服する壮大で美しい建築。人間の知性はすごい、と思うばかり。今回は、私はレンヌの教会が一番だった。

レンヌ大学ではかなり日本語が堪能な学生がいて驚いた。それだけ日本が好きで、日本のことを知りたいと思っている学生が多いことに驚いた。高校生の時にフランス人の高校生と交流したことがあるが、日本人との交流にこんなに積極的ではなかった。レンヌ大学はその土地柄もあってか、とても静かだった印象がある。学食がすさまじく混み合うほど学生がいるのに、彼らはどこで遊んでいるのだろうと思った。パーティをしたりするのか、そもそも日本の学生の大多数と違って、毎日真剣に勉強しているのだろうか。(土橋萌)

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藤井淳史(首都大学東京・人文社会系・社会学2年)

国際会議への出席、国外の大学生との交流という名目で参加させていただいたおよそ2週間にわたるフランス旅行であったが、ほぼ観光目的での参加であったことを白状しなければならない。実際、セミナーが開催されているにもかかわらず、のんきにカフェで読書をしているありさまであった。パリの街並みは東京と比べ、一層汚らしく、不衛生なうえに、道行く人もまばらで、日がさすことは少ない。華やかなイメージとは裏腹に、パリ街並みは、どこかやさぐれていて、それゆえに誰でも居場所を見つけることができる。地下鉄でサックスを吹き鳴らす者もいれば、自作テープをもちこんで、カラオケを興ずる者もいる。路上生活者はもちろん多いが、船上生活者なんてのもいる。日本とは違ったかたちの無関心がそこにはあった。



(シャトレ駅構内での弦楽団)

街歩きもそこそこに、かねてより楽しみにしていたルーブル美術館にいってみた。その広大さゆえ、そのすべてを見て回ることなど到底できなかったが、いくつかの名だたる名画や彫刻などをこの目で拝めたのは幸運だった。美術などまったく素養もないのだが、音声ガイドを借り、立ち止まって、絵をじっと見つめていると、幾世紀をも超えて今なお人々を魅了する「美」を感じることができた気になった。




長期滞在ゆえに、日用品を買い揃えに行くこともあった。スーパーで売っているものなどは、日本、フランスでさして違はないが(せいぜいチーズの種類が豊富なのと、レジ打ちの態度が悪いくらい)、fnac(日本で言うヨドバシ)で見た日本アニメの豊富かつ最新のラインナップには驚いた。そういえば、道行く人をよく観察してみると、DSを持った子供や、ウォークマンを聞きながら通勤する人までいる。観光という視点から街を見るのと、生活という視点から街を見るのとでは全く違う風景がそこにひそんでいることを認識させられた。






フランスの宿はひとつひとつの壁が薄かったり、洗濯機の乾燥がほとんど意味をなさなかったりなど、日本製の品質の高さというか、日本人の几帳面さをあらためて思い起こさせてくれた。これもすべて、良い意味でも悪い意味でもフランス人の「いい加減さ」の現れなのだと思えば興味深いものであるが。

さまざまなものを見聞きし、触れることのできた今回の旅であったが、惜しくらむは、自分がフランス語を全く話せなかった点である。せっかくフランスにきたというのに、とっさに出てくるのは「thank you」ばかりであった。次回来る機会のためにも、フランス語の勉強に全身全霊をもって取り組もうと思う。このような、自身の見識、および常識を広げるという貴重な体験を積む機会を与えてくださった西山先生にはただただ感謝である。

学生の感想4(横田祐美子、近藤伸郎)

学生の感想4(横田祐美子、近藤伸郎)


横田祐美子(立命館大学・文学研究科哲学専修・博士前期課程2回生)
「フランス滞在記――パリでの知的な出会い」

2013年3月、縁あって首都大学東京の西山雄二先生率いるフランスゼミ合宿に参加させていただいた。日本でフランス現代思想を勉強してきたものの、今回が私にとって初の渡仏であると同時に初の海外経験であった。そのため、私自身が設定したこのフランス滞在における目標は、近い将来留学することになるだろうこのパリの雰囲気や生活様式などに慣れること、そして自身が研究対象としているジョルジュ・バタイユの足跡をほんの少しでも辿ることであった。また、国際会議「カタストロフィーの哲学」において、ジャン=リュック・ナンシーの姿を拝見することができるのもこの旅におけるひとつの楽しみであった。

パリでの生活に関していえば、日本でしか生活したことのない者にとって多少の不便さを伴うものである。到着してすぐ、重いスーツケースを持って階段を昇り降りすることでエスカレーターやエレベーターの有難さを身に染みて感じたり、いたるところにトイレや自販機がないために最初は困ったりした。ある意味、パリはまったく「バリアフリー」ではない。メトロの階段で足を引き摺りながら杖に頼って歩く老人を横目に、車椅子の方はいったいどうしているのだろうかと案じた。だからといって、パリのひとびとが不親切だとも感じなかった。次に通るひとのために扉を手で押さえて待ってくれていたひとは数多くいたし、メトロの車内が混んでくると自発的に席を立つひと、あとから乗り込んできたひとに席を譲るひとを何度も目撃した。設備としては日本の方が機能的ではあるし、多くのひとが利用しやすいように作られている。しかし、見知らぬひとに対する気遣いなどの面ではパリの人々に学ぶところが多くあるように思う。世界の大都市のひとつであるパリのひとびとに対して、先入観から冷たいという印象をもっていた私だが、良い意味で裏切られる経験だった。勿論、カフェや美術館の券売所で不機嫌な店員も多いが、何かをきっかけにすぐに笑顔になることも多い。いわば、パリのひとびとの対応は日本のように機械的な丁寧さによるものではなく、「ひと対ひと」の人間らしいものであるといえる。



パリに着いてから3日目、私は西山先生に教えていただいた情報を頼りに、地図を片手にバタイユの足跡を辿ることにした。バタイユの主著『内的体験』の「刑苦」の章のなかで印象的な場面、フール通り(上写真)を横切りながらバタイユの頭の中に「不可能」が爆発したその場所へと向かった。フランス滞在における醍醐味は、やはり自分の研究対象である思想家が生きていた街に身を置き、その空気を感じることができるということである。こればかりは日本でいくら彼の作品にのめり込もうとも体験することはできない。私は哲学という領域でバタイユを論じていきたいと思っているため、彼の人生や生活環境などが彼の思想に与えた影響からバタイユを論じるつもりはないが、それでもパリに来たからには彼が歩いたであろう道を自身の足で踏みしめることに得も言われぬ感動を覚えた。それは高揚感といったものではなく、私が書物を通してしかその存在を知らなかったひとりの思想家の実在にほんの少し接近したような、やっとその面影を垣間見たかのような、静かでありながらも強い感覚であった。こうして、バタイユが雨でもないのに傘を差して歩いた郵便局側の通りをぼんやりと見つめながら、私はバタイユの痕跡に初めて触れることができたのである。


(バタイユが住んでいた家の玄関前)

3月16日、国際会議「カタストロフィーの哲学」2日目には日本で現代フランス思想に携わる者なら誰でも知っているジャン=リュック・ナンシーが登壇するとあって、内心高揚感に溢れていた。とはいえ、バタイユ論である『無為の共同体』は読んでいたものの東日本大震災に関連して書かれた『フクシマの後で』は未読のままであった。日本から遠く離れたこの地で、かの大震災と原発問題についてどの程度のひとびとが関心をもち会場にやってくるのかを知らずに出席したが、会場は満席かつ熱気に溢れていた。それだけで、あまり震災や原発について白熱した議論を目にしていない関西在住の私には驚きを与えるものであった。震災や原発問題についての議論は日本国内においても事故以来取り上げられつづけているが、私自身この件について自分の考えを表明したことはなく、あまり易々と語りたくはない話題でもあり、はっきりいえば避けていた。語ることで何になるのだろう、外野から問題として取り上げるだけでは被災者の方々にとっては冷やかしのようなものに過ぎないのではないか、などと考えていた。



しかし、登壇者の方々の発言を通して、人文学に身を置く者のひとりとしてこの問題を語らねばならないこと、人文学が「カタストロフィー」というものに対して何を為しうるのかを真剣に考えねばならないことを学ぶことができた。欲をいえば、「カタストロフィーの哲学」という名のもとで、登壇者の、特に大御所の先生方のより哲学的かつ概念的な議論を拝聴したかったとは思うが、今後自分なりにこの問題について考えていくことで補完したいと思う。ジャン=リュック・ナンシーが「カタストロフィー」について語る際にバタイユの文言である「水のなかに水があるように」という表現を用いていたのが私としては印象的だった。

今回、西山先生や東京の学生の皆さんとフランスでご一緒させていただいたことで、単なる観光では絶対に得ることのできなかった経験を共有させていただくことができた。西山先生の助言がなければバタイユの軌跡を辿ることも、国際会議に参加することもできなかったように思う。また上に記していないことだが、レンヌ大学を訪問したことによってメールを交換しあうフランスの友人たちにも出会えた。これらのすべてのご縁に感謝申し上げたい。

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近藤伸郎(東京大学4年)

「師弟関係というのは,基本的に美しい誤解に基づくものです。その点で,恋愛と同じなんです。」―内田樹『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)より

いま,この文章をドイツのベルリン行きの電車の中で書いている。今年の3月で僕は大学を卒業する。今回,僕は卒業旅行の一環として西山先生のゼミの学生たちとともに,フランス合宿に参加させていただいた。1・2年生が中心ななかで,僕は4年生。僕は過去にアルバイトで塾の講師をしていて,そのときに面倒をみていたのが高校3年生だったから,僕のもと教え子だちはいま,ちょうど大学1・2年生になっている。そんな子たちと同じ歳の子たちと合宿に参加させてもらった。なので,僕は少し年配のお兄さんでありながら,一方で彼ら彼女らと対等に旅をしている,そんな少し変わった存在だった。

僕の学生生活はさまざまな師匠に恵まれていた。そして,さまざまなところに連れ回してもらい,勉強させてもらった。西山先生はそういう僕の師匠たちの一人で,そういう縁で参加を了承してもらった。感謝している。一方,フランス自体に来ようと思ったきっかけは,また別の師匠にある。彼は震災を期に急に日本からいなくなってしまった。日本というどうしようもない国に帰ってきたくない彼に会いにいくことが今回の旅の目的だった。だから,僕は,西山先生一行よりも先に,一人でパリ入りすることにした。無事に(?)その彼とも落ち合うことができて,成り行きから2泊3日のレンタカーの旅でブルターニュ半島をカンペールQuamperまで行き,カキ(huître)食べ比べを楽しんだ。(なんと贅沢な! ところで,ヨーロッパでレンタカーを借りて色々と旅するというのは,情報も少なく思ったより大変なことだった。なので,旅行記が役に立つかなと思い,自分で書いてみた! http://ameblo.jp/kon3-kitsune/ ちなみに,フランスの後に行ったドイツでもレンタカーを借りたので,独仏乗り比べ体験記になっている。こちらもなんと贅沢な!)

パリでの滞在や観光のことなど,感想は色々とあるのだけれど,おおかた他の学生たちに任せることとして,シンポジウムの感想を中心に書くことにしたい。西山先生の発表で一番印象に残っているセリフ,それは,カミュの『ペスト』を引いた「誠実さとは自分の仕事をすることfaire mon métier」という言葉だった。誠実さとは何だろう,そして自分の仕事とは何だろう。先にフランス入りして再会を果たした彼と話したこと,そして,話したことはまぁそうだろうなという予想どおりのことなのだけれども,それはすごく簡単に言えば,「人はそれぞれに「自分の仕事」を持ち,それぞれの世界で身の丈に合った生き方をしている」ということだった。同じ首都大学東京の宮台真司先生の本『14歳からの社会学』の中では〈世界〉と〈社会〉という概念が説明されている。僕たちが通常イメージしがちな「世界」という言葉は,実はこの区分で言えば〈世界〉ではなく〈社会〉の方にあたるのだろう。〈社会〉はコミュニケーション可能なものの全体で,〈世界〉はそんな〈社会〉をも超えた,ありとあらゆるものの全体という定義なのだから。そして,ハイデガーの言葉を借りるに,〈世界〉は〈世界〉している。〈世界〉という海のなかに,〈社会〉という島が浮かんでいるイメージだが,我々は〈世界〉を知れないのかというと,そうではなく,〈社会〉に,いわば暗号の形で〈世界〉はメッセージを送ってくる。ただ,僕たちはその暗号を送ってくるのは誰か知ることができるのだろうか。その暗号の主と通信することができるのだろうか。アインシュタインはスピノザの神を信じていたという。その神は大きなテコさえあれば「アルキメデスの点」から地球を持ち上げることができるのだろう。暗号の主とはそういった存在で,でも一体どうして?

僕のなかで,さまざまな概念がつながってくる。僕が西山先生から学んだ大きなことの一つに,ジャック・デリダの『条件なき大学』(月曜社)がある。そのなかで,哲学・人文学の役割が説かれていて,それは神の前での信仰告白(profession)でしかないかもしれないと本人はパフォーマティブに言ってのけるのだが,でも一方で,それは全ての大学教授(professor)の仕事(profession)でもあり,あたかも全て(=「ありとあらゆるものの全体」=〈世界〉?)を問う「かのように(as if)」,「条件なき」言論「活動」をすることなのである。西山先生は,震災の前から,およそ役に立たないとされる哲学・人文学を学ぶ「権利」があると主張し,「活動」されてきた方だ。僕は(これもまた全く別の師匠から教えてもらったのだが)シモーヌ・ヴェイユの『根を持つこと』を援用して,僕たちには全てを問う「義務」こそがある,と修正したい。ヴェイユは言う。義務は権利に先行する,と。なぜなら,権利は他者からの承認を必要とする。一方,義務は勝手におっぱじめることができる。そう,自分の主体性で。だから,承認の共同体(古市憲寿『希望難民ご一行様』)に甘んじることなく,「終わりなき夢に落ちていけ!」

今回のシンポジウムは震災2周年のメモリアルとして開かれたものだ。東日本大震災の惨事(カタストロフィー)を前にして僕たちには何ができるだろう。それは,「役に立たない」と言われている人文学に何ができるだろうと問い続ける西山先生の〈問い〉だ。もちろん,その〈答え〉はないのだけれど,でも〈問い〉を問い続けること。それこそが人文学の役割である。でも,そこで終わってはいけない。大切なのは,個別具体的な現実をどこまでも追いかけていくことなのだから。

僕たちはありとあらゆるもの(=〈世界〉?)を問い,そこに主体的に関わり続けることなんて可能なんだろうか。「条件なき大学」はある種の信仰告白に過ぎず,現実は「条件だらけの大学」に支えられていると糾弾するのは,今回のシンポジウムにも登壇されていた藤田尚志先生だ。(西山先生が編纂した『哲学と大学』(未來社)という単行本に所収論文「条件付きの大学――フランスにおける哲学と大学」より。)僕の問題意識として,この問題に重なるのは,ずっと気になってきたテーマでもある,システムと主体性の問題だ。これらの問題は,フーコーとサルトルの論争(1966年)やルーマンとハーバーマスの論争(1968年)に根を発した。全てを問う主体もまたシステムの生成物であり,そういう僕の発言もまたシステムの生成物という無限後退に陥る。だからこそ,かのように(as if)のロジックが利いてくる。村上春樹がエルサレムで行った有名な「卵と壁」のスピーチもこれと同じ問題だ。ただ,「卵」の誠実さなんて本当にあるのか。システムとしての「壁」の泥臭さのなかにまみれながら,一つ一つ他者に向けて,自己としての主体の誠実な「仕事」を示していくことでしか,「卵」の存在証明はできないのではないか。

最後に,僕のなかでは,法学部で勉強した法哲学のリベラル・コミュニタリアン論争も似た問題であることを一言述べておく。リベラルな主体(民主主義的活動の基盤になる)を負荷なき自己(unencumbered self)ではなく,共同体(community)における公民的徳(civic virtue)をもった存在として位置づける(situated)。そこで必要なのは,熟議(deliberation)であり,こちらの方はコミュニケーションの問題に還元されてしまう。

日本に帰ってきたら,気がつけば,大学を卒業していた。僕は大学1年生を3回もやった「ベテラン大学生」だから,これから社会人になるのは,なんだかくすぐったい感じがある。これから〈世界〉に向けて,自分の「仕事」をやっていけるだろうか。そう思おう。その暗号は今回の旅で手に入れたのだから。

"Le plus important est invisible", Saint-Exupéry, Le Petit Prince.