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パリ滞在記(八木悠允)

パリ滞在記(八木悠允)


来たる2012年3月、指導教官である西山雄二氏によるセミナーがパリ・国際哲学コレージュにて開かれる。修士一年の八木と学部生平山は、先生より一足早くパリに到着した。一月あまりの期間をフランスを中心に旅行しようという心づもりである。

 ある朝 我らは船出する 頭をほてらせ
 心中には 憤怒と 苦い欲望を抱きながら
 波の脈動にまたがって 我らは進む
 有限な海の上で 無限の思いを揺らめかせつつ ―ボードレール「旅」

シャルル・ド・ゴール空港に到着したのは明け方5時。空は薄暗くくすんでいるが、空港内は賑やかである。空港から鉄道RER線に乗りパリ市内に向かう(ガイドブックには8.25ユーロと記載されているが、2012年2月現在では9.25ユーロかかる)。朝早くの電車は人寂しく、郊外の風景もわびしかった。曇り空のせいかもしれない。パリについて1週間が経つが、到着日からほとんど毎日曇り空である……。


〔つかの間の晴れ間を味わえたバスティーユ。到着日の朝は日曜市で盛況〕

宿に到着後、シテ・ユニヴェルシテール(大学都市)に移動する。留学生らによるフランス思想研究会の月例会に参加するためである。


〔cité universitaire駅からすぐ。写真のような豪奢な外見の建築が、国ごとにひしめき合っている。いわゆる学生寮街である〕

森井氏によるジッドにおける共産制の問題、小手川氏によるレヴィナスにおける他者理解についての発表はどちらも濃密な研究発表であり、白熱した議論を拝見でき勉強になった。フランス語で議論し合う留学生たちの姿は恐れ多くさえ見える。発表後の懇談会にも参加させていただき、有益な情報や助言をたくさん頂いた。参加を許してくださった清水氏、藤田氏、尾崎氏らには深く感謝申し上げたい。


〔その帰り道にて。フランスの夜空は明るい〕

到着当初はカフェにも入り難かった(テラス席でどう注文するかわからなかった)。日本にもあるマクドナルドは、おもしろ味はないが安心して入ることができる(とはいうものの、日本に比べて大変居心地がいい。席が広々として、ソファー席まであるからだ)。



そんなわけで2人でくつろいでいたところ、若者数人がノートを見せてきた。物乞いかと思い、警戒しつつノートを見るがさっぱりわからない。彼らは口では「昼時だから飲み物だけじゃだめだよ」と言っている。わかったわかったと追い払い、気がついたときには2人ともiPhoneを盗まれていた。ノートをのぞき込むときにテーブルに置いてしまったようである。うかつであった。携帯はけっして手放してはいけない。


〔盗難に関する記入書。なんと日本語〕

仕方ないので盗難証明書をもらいに警察へ。まず盗難状況などにかんする調書に記入して、それから事情聴取され、証明書をその場で受け取る。警官を待つのに時間がかかったが、それでも1時間程度で済んだ。記入書には日本語があり、事情聴取も英語が可能なので(少なくともバスティーユ近くの警察署は)、泣き寝入りせずすぐに警察に届けるべきだろう。ちなみに、われわれの遭った手口はよくある手らしく、ちょっと説明しただけですべて了解してもらえた。

携帯電話はプリペイド式のものが30ユーロ前後で購入できる(デポジットに通話料5ユーロ分込み)。われわれはiPhoneを盗まれるまえに購入していたので、かろうじて日本の携帯会社へ連絡を取り、すぐ利用を停止できた。これは情けない例だが、そこまで高額でもないので、長期滞在する場合は買っておいてもよいかもしれない。


〔街のいたるところにあるキオスク〕

買っていて良いものと言えば、長くフランス滞在なさっている尾崎氏に手札サイズの地図を頂いた。キオスクなどで購入できるものだが、細かく番地や通りが記載されていて大変便利、というかこれがないと相当歩きにくい。


〔現在のレ・アール駅付近〕

ただし、割と当てにならない部分もある。ガイドブックに比べて確かに詳細ではあるが、現実に行ってみると工事中だったりすることがあった。写真はレ・アール駅付近のもので、辺り一帯が立ち入れない。大きいFNAC(日本で言うヨドバシと紀伊國屋が一緒になったようなショッピングセンター)を探したが、見つからなかった……。

今回の旅行では研究書探しも目的のひとつである。というわけで本屋巡りも沢山したが、図書館について先に書いておこう。


〔13区の河岸にそびえ立つフランス国立図書館。「本を開いて立てたような」L字型のガラス張り超高層ビルが4棟向かい合う。それぞれの棟が「時間」「法」「数」「文字」と名付けられている。建築家ドミニク・ペローによるミニマリズム風様式。〕


〔イベントのパンフ〕

フランス国立図書館、通称BnFはひとまずフランス最大級の図書館として有名である。蔵書量のすばらしさは言うに及ばず、建築物がまず圧倒的に雄々しく美しい。写真は東館を西館側から眺めたもので、奥に見える二つの建物が東館である。西館もシンメトリーに起立しており、中庭には樹木が湧き上がるかのように立ち上がっている。一日3.5ユーロが使用料として必要だが、いくつかのイベントには入場無料、また、開館日の17時から20時までは無料で利用できる。無料では入れるテーブルに陣取り、夕方に図書利用しようとする学生たちも多く見た。多くの席が、勉強にいそしむ人びとで静かにひしめいているのは圧巻だ。3月2日には旧都立大の吉川一義氏によるプルーストの講演があり、アントワーヌ・コンパニョンを司会に堂々と発表なさっていた。



〔BSG待ちの人びと〕

BnFで検索した結果、私の探している本は近いところでパリ第3大学かサント・ジュウヌヴィエーヴ図書館(通称BSG)にあることがわかったので、早速行ってみると長蛇の列。勉強机の空き待ちの列だという。実は列はふたつあり、写真の行列の列と、もう一方は登録の列。BSGは登録しないと図書館自体が使えないのである。面倒なようだが、逆に言うと登録さえすれば旅行者でも利用することができるのはありがたい。登録のほうは列などないので、そのまま中に入って受付に利用の旨を話し、パソコンと書面に情報を記入し(旅行者の場合は自国住所と、滞在住所)、パスポートを確認してもらい、写真撮影ののちに晴れてカードが発行される(結構嬉しい)。


〔ごった返して空港のようなルーブル美術館〕

図書館とはいえ、旅行者に公共施設が開かれているのはありがたい限り。開かれているといえば、各月の第一日曜日は多くの美術館が無料になる。ルーブルへ行ってみると、観光客だけでなくフランス人も多く集まっていた。


〔日曜のデモ行列〕

日曜日は美術館が盛況な一方、多くの店が戸を閉めている(スーパーからブティックまで)。消費活動ではなく文化活動をやるべし、という風潮なのだろうか。市民マラソンや地下鉄での演奏会、賑やかなデモ行進などが町中で見られる。


〔地下鉄通路にて。街全体が、どことなくニューヨークのような雰囲気〕


〔マラソン。パリはジョギングが流行っているのか、日常的にジョガーとすれ違う〕


〔大統領選にあわせたポスターか〕


〔みんなiPhone大好き。スマートフォン率は相当高いようだ〕

パリに来て早々盗難に遭ってしまったが、対応してくれた警察は大変親切に対応してくれた。図書館の職員や街の食品店の店員も、総じて笑顔で親切である。そしてまた、驚くべき事にどこへ行っても大抵英語が通じる。観光客にそっけないとか、フランス語を話せないとあしげにされる、というのはもはや都市伝説に近いような印象だ。パリの人びとはどこでもきちんと挨拶をするし、眼があえばほほえみ合う。まぁ誰もがそうではないだろうが、滞在して一週間、多くの人からの親切のおかげで楽しんでいる次第である。



〔文責:八木悠允〕

パリ滞在記(平山雄太)

パリ滞在記(平山雄太)




2012年2月29日
今日はフランスに来て初の単独行動をする。どこに行こうか悩んだが、ポンピデゥー芸術文化センター内にある国立近代美術館行くことにする。チケットは12ユーロ。近代的な建物で、展示物のある5,6階(Niveau4、5)までは透明チューブのエスカレーターに乗る。エスカレーターに乗っている最中にパリの町並みが一望でき、エッフェル塔も確認することができた。20世紀の偉大な芸術家たちの作品が並び、所々にあるイスに座りながら、時間を忘れてじっくり堪能することができる。また、絵の前で床に座り、一心不乱に模写している人もいた。どこかで見たことのあるような絵が、実物大では巨大なもので、飲み込まれるような気がした。 

3月5日

Auvers-sur-Oiseという村に行く。この村はフィンセント・ファン・ゴッホがその生涯を閉じた土地として有名である。パリに来て10日、初めて都会の人混みを離れる。パリのサン・ラザール駅から一時間ほどのところだが、駅の周り以外にはお店がないほどの田舎である。普通列車の切符は券売機で目的地を入力して往復分を容易に買えるが、乗車する前に打刻しないと乗っている途中で、車掌に切符確認の際に追加料金を取られるらしい。(しかし、車掌は一度も見回りには来ず、メトロ同様出口は自由に出られる。)ゴッホの描いた麦畑のあった土地を眺望し、弟テオの横に眠る墓を訪れた。この村の観光シーズンは春から秋にかけてのようだが、雲間から久しぶりの青空がのぞく日の心地よい小旅行だった。


3月6日
バスティーユ駅近くの映画館に行く。フランスに来たばかりのころはお店、ホテルなどで話しかけた際に、返された言葉の意味をくみ取ることが困難だったが、このあたりから少しづつわかり始める。映画の料金、それも学生は時間帯に関係なく安く、私が訪れた映画館は6ユーロで見ることができた。(しかも、学生である確認も取らない。)ブルヘッドという映画を見た。どうやらベルギー映画のようだが、舞台がベルギーとフランスだったので、フランス語を聞くこととフランス語字幕を体験することができた。話の核心にショッキングなものを含むので、ここでは紹介はできないが、悲しい人間ドラマを見たい方はチェックしていただきたい。パリにはたくさんの映画館があり、映画館によっては古い映画を上映したり、ジャック・ニコルソン特集、デビット・リンチ特集などをしていた。そしてアクション映画に特化した映画館などもあるらしい。また現在ポンピデゥー芸術文化センターでは、日本のマンガ・アニメを取り上げる「Planète Manga」の真っ最中で、日本のアニメ映画が上映されているようだ。

3月8日

パリにたどりついて以来宿泊していたユースを離れて、メトロの13番線のMalakoff Plateau de Vanves駅の近くのホテルに移動する。バスティーユ付近とは違い、落ち着いた場所である。ユースのときとは違いに、部屋にシャワー室、トイレが備えつきで、テレビもついていた。私はここから、続いていた神経の疲れからか風邪を引き、発熱してしまい、ホテルで動かず療養する他なくなったので、フランス語を聞き慣れるためテレビを見ていた。フランスのテレビプログラムはアメリカからの輸入物が目立ち、それがフランス語に吹き替えられて放送されていた。フランスのニュースでは、日本の地震関連(特に原発)を放送しない日はなく、日本よりも積極的に報道している気さえした。ニュース以外での番組でもJaponaisという言葉、日本の映像が見られることは多々あり、故郷を懐かしく思った。

3月10日
今日は風邪もだいぶよくなったので、有名らしいクスクス料理屋に行く。ランチ(前菜、メイン、デザート)の値段が12,5ユーロらしいのだが、土曜日だったのでランチメニューがなかった。(土日、祝日はランチなし)フランスではレストランの料理は基本的に高いが、平日の昼のランチはまだ手が届く価格であり、店の指定する曜日に特定のメニューが安くなることがあるようだ。私は鴨肉のタジン鍋を食べたが、量と言うよりもその肉の濃さから、次の日まで全くお腹が空かなかった。それから、まだ訪れていなかった有名観光スポットのエッフェル塔と凱旋門を見た。どちらも観光客ごった返していたが、その巨大な建造物は容易に眼前に収めることはできた。


3月11日
フランスでは日曜日には店が休業するが、様々な場所で市場が開かれている。市場では、肉、魚、野菜、果物、乳製品、総菜から始まり、衣類、靴、雑貨、古本などまで売られる。パリの中では田舎であるような場所の市場でも活気があり、病み上がりの身体に精気が戻るようだった。私は昼食を食べようと総菜屋のような店でパエリア200グラムと、小エビと豆などの入ったサラダを100グラムを頼むと、店の主人は、もう店じまいなのでと言っておまけで容器いっぱいに詰めてくれた。言葉の不慣れな土地での、他者の見せるやさしさは印象的で、心温まるものであり、また善意がどこにでもあることが再認できた気がした。

パリ滞在記2(八木悠允)

パリ滞在記2(八木悠允サロン・デュ・リーブル、語学学校、大統領選挙応援集会)


 3月16日から19日まで、サロン・デュ・リーブル(いわゆるブックフェア)が開催された。1989年から続いている書籍の祭典で、フランス国内だけではなくケベックやベイルート、ジュネーブなどでも開かれたことのある、国際的な知名度の高い催しである。2012年度の鳩と本を組み合わせたポスターは来仏以来たびたび目にしてきた。事前に20名の日本人作家が講演者として参加することは聞き知っていたので、楽しみにしていたイベントである。





 10ユーロの入場料にも関わらず入り口は入場を待つ長蛇の列が途絶えない。大規模な会場は、有名な出版社から知る人ぞ知る出版社までが彩り賑やかなブースを構えており、広くない通路は本を手に取る人びとでごったがえしている。例えるならば、ビックサイトのコミックマーケットのような光景ではないだろうか。実際、日本の漫画をコスプレしてアピールしているブースもあった。もちろん漫画はあくまで一部で、大部分は人文書やアートブックのブースが軒を連ねており、誰でもそれぞれのブースに並んでいる本を購入できる(ただしほとんどが定価)。フランスでは、多くの書店は出版社別に本を陳列しないので出版社の特色が見えにくいため、出版社のイメージを伝えるのにも絶好の機会なのかもしれない。



 ただし、ごく一部を除けば価格は安いわけではなく(といっても定価だが)、稀覯本が手に入るわけではない。多くの入場者の目当てはサイン会や講演会ではないかと思う。フランスの有名哲学者、作家は言うに及ばず、日本人やアフリカ系の数々の有名作家たちあちこちのブースで講演会やサイン会を開いている。これほどの数の作家を一日で目にできる機会はめったにないだろう。昨年の震災以後、フランスでは数多くの震災本が出版されており、テレビやラジオでも議論が活発である。その影響もあってか、今年は20名の日本人作家たちが講演などの形で参加していた。大江健三郎氏による震災に関する講演は満員状態で、関心の高さを肌で感じることができた。


(原発関係の書籍も)

(大江健三郎の講演)

 一般書籍の祭典が開催され入場者も多数訪れるというのは、電子書籍の話題が盛んな昨今において興味深い現象かもしれない。だが、ことパリにおいては、それも当然かと納得してしまう。街のいたる所で書物への愛情を感じさせられるからだ。電車やカフェ、公園などで読書している人を見ない日はなく、どこへ行っても書き物をしている人びとが目に入る。日本でノートパソコンを広げている人は多いが、こちらではノートを広げて何か書き付けている人が多い。とりわけ学生はノートを取ることこそが勉強だと言わんばかりに、何ページものノートを青インクの筆記体で埋め尽くしている。読み書きへの執着は大変強いようで、こちらも思わず何か書かねばと思わされてしまうほどだ。


(図書館では誰もが書き物をしている)

 そうした姿勢を猿まねしてみても、実際のところ日常生活ではまったく言葉が分らない異邦人のままである。数日暮らしてみると分るが、こちらではボンジュールとメルシーとパルドン、それにオールヴォワール(「またね」程度で、店を出るときに必ず言う)さえ言えればとりあえず生活に困ることはない。逆に言えばそれだけ喋って終わり、という日も何日もあった。加えて、パリの人びとはそれほど話しかけてはこないし、こちらが言葉に詰まると親切に英語で話してくれる(ことパリでは、フランス語でしゃべらない限り相手にされない、というのはほとんど都市伝説に近い。なによりも、電車の中の広告で一番よく見るのは英語教室の宣伝である)。このまま漫然と暮らしていても一向に語学力は向上しないと思い、短期間ではあるが試しに語学学校へ通ってみることにした。


(サント・ジュヌヴィエーヴ図書館。夜も「勤勉な静けさ」)

 学校に通う上で私が考えた条件は①短期間でも受講可能であり②できるだけ安く③パリ市内にある、というものだった。さっそくインターネットで調べてみて知ったが、パリの語学学校の数はとても多い。一般の語学学校から国営、ボランティアなど経営形態も様々だが、学校の形式としては主に3つある。語学留学を前提とした語学学校(この場合学生ビザが支給される)、パリで生活しながらも、語学力を向上させるための学校(基本的にビザは支給されない)、そして移民向けの学校である。この他には学校の形式を取ってはないものの、簡単な授業をするボランティア、家庭教師など、収入や生活、状況に応じた手段が様々にあるようだ。
 外国人の場合基本的には語学留学か、仕事をしつつ語学を勉強するパターンになる。多くの学校はその受け入れ窓口を併設しているようだ。後者の場合は短期間の受講も可能となっている場合がほとんどで、価格は週75~400ユーロまでと様々だった。授業の内容についてはホームページからは分らないことも多いので、窓口できちんと説明を受けないと「会話がしたいのに文法問題ばかりやらされる」ということになりかねないので注意したい。
 また、長期滞在している学生の多くは語学学校の用意する寮に入っているのだが、話を聞くと実は寮生がアジア人ばかりで、帰宅すると全くフランス語を使わなくなる、というケースもあるらしい。もし長期滞在を考えるならば、そのような点にも気をつけたい。短期間であろうとも、入学に際してはまずテストを受け(筆記と口頭)、レベルにあったクラスの授業を受ける流れになっている。3月の上旬はちょうど新しいクールが始まる時期だったので、申し込んだ翌週には授業を受けることができた(時期によっては入学できないらしいが、これも学校によって異なるようだ)。

 学校に通うことの最も大きな利点は「外国人が外国語で辛抱強く話しかけてくれる」ことである。耳慣れない言語でも何度か聴けば分ることもあるが、日常生活ではそこまで親切なフランス人はなかなかいない。英語に切り替えられるのがおちであり、そのたびに悔しい思いをしたものだ。また、自分で使おうと思う簡単なフレーズをネイティブ相手に発音矯正できるのも実用的だった。もちろんネイティブの独特な表現の学習や、文法も大切だが、こちらは短期間で身につくものではないだろう。授業を受けながら、長期間の語学留学ができる学生たちが羨ましく思えたものだ。たいていの語学学校の授業は、午前中から昼過ぎまでの間に終わるらしい。私の学校もそうだった。午前中に校舎でフランス語に身を浸してから街を歩いてみると、知らない言葉に囲まれているという恐怖感が薄れる気がして、街並みが改めて親しげに見える気がする。ひと月ふた月の滞在ができるのであれば、短期でも学校に通ってみることは、単なる異邦人から脱皮できる良い体験になるかも知れない。




 私は2月末から滞在しているので、パリに来てまもなく一ヶ月になる。滞在に少しずつ飽きていたある日、大統領選をひかえた中での集会に遭遇したことは今も忘れられない体験として記憶に新しい。
 3月26日の日曜日、たまたまバスティーユ近くのカフェに座っていると、ついさきほどまで車が通行していた車道にプラカードを掲げた人びとが練り歩いている。外へ出てみると、広々としたバスティーユ広場には集会につどう人びとで溢れかえっていた。大統領選の立候補者ジャン=リュック・メランション陣営の大規模な集会である。この日はちょうどパリ・コミューンの蜂起と同日であることもあり(1871年3月26日)、「早く第六共和政を!」という手振り旗が広場を鮮やかに彩っていた。



 選挙への応援集会と聞くと極めて政治的な集会をイメージするが、この日の集会はホットドッグの出店や大きなバルーンに彩られ大変賑やかで、なにも知らなければお祭りとしか思えない様相である。若者たちは広場の象徴的な塔に登って見物しているが、それを咎める者もいない。ステージでは演説前までミュージシャンが音楽を奏でており、集まった人びとはそれぞれの楽しみ方で広場にたゆたっている。自由な空気が広場を覆っているが、本来この広場は大きな交差点である。昼過ぎから夕方までの数時間は、バスティーユ付近の車の交通はほぼ封鎖されていたのだろう。


(子供も沢山参加している)

 広場まで進む行進に逆らって歩いてみたが、行列は途絶えることなく続いていた。カップルや家族連れ、ふらりと物見がてらの人まで、とにかくあらゆる人びとがにこやかに歩いている先に政治集会があるというのは、なんだか不思議な気分にさせられ、ともかく愉快だ。集会が解散してから数分後には車道に車が走っていた。見慣れた日常が戻っていく様子のなか、文字通り祭りの後のような朗らかな雰囲気を残したまま、人びとが夕日の中散らばって行くのは忘れがたい光景だった。(文責:八木悠允)

春の陽光のパリ(西山雄二)

春の陽光のパリ(西山雄二)


3月21日、卒業式の深夜、羽田空港から最終便でパリへ出発。空港では、ひとつずつ滑走を終えたゲートが消灯していき、免税店などもポツポツ閉店していき、最後に残ったゲートで薄明りの下、静かに待つ人々。夜のなかに溶け込んでいく抒情的な雰囲気の中で外国への旅立ち。そして、朝5時に誰もいないパリ空港に到着。これが早朝の着陸第一便。羽田とは逆に、朝が明けてゆく薄明りのなかで入国手続を済ませ、パリ行の列車の中で朝日が差し込んでくる。だいたいパリ市内に入る北駅に差し掛かるあたり。陽光が強くなっていくなか、市内に着いた頃には異国の朝の日常が始まっている。

パリのベルヴィルにて、すでに3週間ほど滞在している学生らと合流。暖かな陽気のパリで9日間の仕事と生活が始まった。2月の豪雪が嘘のように、3月末のフランスでは暖かく晴れた日が続いた。


(移民街のベルヴィルといえばベトナム料理のフォー)


(ソルボンヌ広場前のカフェEcritoire〔筆記用具入れ〕。暑い日に喉を潤すための定番メニュー、ミント水 Menthe à l'eau)


セーヌ河の橋のいたるところに大量の鍵。恋人たちが、「離れ離れにならないように」と願いを込めて鍵をかけて放置したもの。自転車用の巨大な鍵もある。


3月末、復活祭の時期に差し掛かると、生命のシンボルである卵のチョコレートがお菓子屋の店頭に並ぶ。


復活祭関連の音楽イベント「マタイ受難曲」@マドレーヌ寺院。夜11時30まで3時間以上の演奏。合唱隊がいまひとつの迫力で、底冷えする教会は寒かったが、雰囲気は抜群だった。


今年度のアグレシオン試験に関する関連書籍が店頭に並ぶ。哲学試験の主題は「動物」。


モンマルトルのカフェ「ヴェルパーWelper」にてジゼル・ベルクマン氏と打ち合わせ。ベルクマン氏は今年7月に来日し、首都大学東京を皮切りに日本各地で6本の巡回講演をおこなう。


リュクサンブール公園前のカフェ「ロトンド」で詩人ミシェル・ドゥギー氏にお会いした。彼は4月下旬刊行の新著『エコロジック(環境論理)』の見本を持参(Michel Deguy, Écologiques, Hermann, 2012)。冒頭に詩「マグニチュード」(『ろうそくの炎がささやく言葉』所収)が配され、東日本大震災に関する章になっている。人間とは太陽のもとで言語によって生き、死んでいく存在であるという、三重の有限性(太陽、死、言語)を共鳴させながら、人間中心主義とは異なる「環境論理」が探究されている。大統領候補の「緑の党」エヴァ・ジョリにも献本して読んでもらうと意気込んでいた。


首都大学東京とレンヌ第二大学の交換留学協定を結ぶために、3月28日、日帰りでレンヌを訪れた。パリからTGVで二時間のレンヌは治安のよい落ち着いた雰囲気の小都市。レンヌ第二大学は学生が留学するには素晴らしい大学だ。国際交流課長と副課長、語学学校責任者と和やかに面談をして、学生寮などを案内してもらう。その後、地下鉄で市内に出て、ブルターニュ風レストランで会食。これでレンヌ側は協定に署名する最終段階となった。これで2012年冬の選抜、2013年度秋からの留学交換が具体的かつ現実的なものとなった。

際哲学コレージュでのセミナー開催は今年で二年目。昨年同様、パリ批評研究センターの教室を借りて実施された。3月26日、第一回目「哲学の無償性 知性の平等」は馬場智一氏(パリ第四大学)とHye-Young Kyung氏(パリ第八大学)にコメントをお願いした(約30名の参加)。29日の第二回目は、佐藤嘉幸氏(筑波大学)に発表「新自由主義体制下の教育」をお願いした(約20名の参加)。

学生の感想1(井上優、矢代真也)

学生の感想1(井上優、矢代真也)


今回のフランス滞在には学生ら8名が同行して、国際哲学コレージュのセミナーに参加し、フランスのいろいろな現実に触れてもらった。4年前は学生はひとり、次に3人、昨年は4人と次第に同行者が増えてきた。興味深いことに、そのうちの半数以上が、私が教えている本務校(東京大学、首都大学東京)の学生ではないことだ。ほぼ初対面の彼らに私はどうやって声をかけたのか、そして、彼らはなぜほぼ初対面の私についてフランスにまで来るのか。人生の縁とは不思議だ。



初めてフランスを訪れるひとに観光案内をするのは好きだ。見知らぬ異国の風景や事象について説明することで、彼ら・彼女らは驚き、好奇心をますますそそられ、ますます知りたくなる。このことは教育現場でも同じだ。初学者に未知の風景をいかに観てもらい、その好奇心をいかにくすぐるのか。教師の力量はこうした旅の技法次第だ。旅の本質は出会いと経験の強度にあるが、教育の本質も同様である。旅を通じた学びとはいかにして可能だろうか。参加者に感想を綴ってもらった。井上優、矢代真也さんの感想をまず掲載します。

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パリのさまざまな顔  井上優(首都大学東京仏文2年)

パリを訪れるのは今回で2回目であった。初めて訪れたのは5年ほど前で、その時は主要な観光名所を周るだけの観光旅行だったが、今回の旅はそれとは全く異なるものとなった。



まず、前回の滞在では見ることができなかった様々なパリの顔を見ることができ、日本との違いにたくさん気づくことができた。今回、Bellevilleという街にあるアパートに滞在したのだが、そこは中国人とアラブ人が多く住む街であった。アパートの近くには中華料理屋やベトナム料理屋、ケバブの店などが多く存在し、その風景は普通の人が想像するパリのイメージとはかなり違うものだろう。前回の滞在ではあまり気付けなかったが、フランスはやはり移民の国と言われるだけあって、様々な人種の人々が生活していた。もちろんこのBellevilleの街に限らず、カフェやメトロの中など、パリの至るところで様々な肌の色の、様々な顔つきの人を見かけた。一度にこんなに多くの人種を目にすることは日本ではできないだろう。

また、目にするだけでなく、食という形で実際に様々な文化を体験できたのも興味深かった。フランスに滞在しているからといって毎日フランス料理を食べていたわけではなく、ベトナム料理のフォーや中華料理、ケバブサンド、クスクス(下写真)など、実に多国籍の料理を口にすることができた。クスクスは北アフリカの料理だが、フランスでも多くの人々に好まれるポピュラーな料理らしい。そして、フランス人はこのクスクスをロゼワインとともに食すことが多いそうだ。移民の人々がもたらした文化が根付き、その土地の文化とも上手く溶け込んでいるということを実感でき、非常に面白かった。



また、パリと日本の異なる点として、接客の仕方が挙げられる。パリでは、ほとんどの店で、客が入って来た時には「ボンジュール」、客が出ていく時には「オ・ルヴォワール(さようなら)」という挨拶を店員が目を見てしてくれ、客も同じ挨拶を返すものとなっている。日本ではこうしたことがないため、始めは戸惑ったし、相手の目を見るのが少し照れくさくて小さな声でしか挨拶ができなかったが、だんだん慣れてくるにつれて挨拶を交わすことがとても心地よくて楽しくなった。「お客様は神様」という言葉を日本では耳にするし、実際に日本の店での接客は丁寧ではある。それでも日本の接客はどこかマニュアルに沿ったような、少なからず機械的な面が見られる。パリで体験した接客はお世辞にも丁寧とはいえないものもあったが、それでも目を見て「ボンジュール」と言ってほほ笑みかけてもらうと、単なる「店員」と「客」という関係ではなく、一人の「人」と「人」としてコミュニケ―ションを取っている気がして、とても感じがよかった。私はパリの店で交わすこれらの挨拶がとても気に入った。



また、西山先生が参加されていた国際コレージュの授業でも多くのことを学ぶことができた。コレージュの授業には2日参加したが、そこでは西山先生をはじめとする3人の日本人の方が全てフランス語で講義を行っていた。日本人がフランスのコレージュという国際的な場で、日本語でもなく英語でもなく、フランス語を使って発表している姿を見て、他の文化圏の言語を用いて自らの意見を述べることの重大さや困難さを感じた。今までそうした現場を生で見ることなどなかったので、現場のリアルさを見ることができ、自分にとってとても刺激的だった。

多少残念に思ったのは、パリで行われている国際コレージュという場なのに、フランス人など現地の人の参加が少ないように感じたことだ。フランス人から見たら外国人である日本人がせっかくパリという場所で発表しているのだから、もう少し現地の人の意見が聞けてもいいのではないかと思った。とはいえ、実際は講義の内容はほとんど理解できず、自分のフランス語力の拙さにがっかりしたが、今度パリを訪れた時は生のフランス語を少しでも理解できるようにと、フランス語を勉強するモチベーションも上がった。



もちろん、パリに滞在していて楽しいことばかりではなかった。パリの街は想像していたよりも汚れており、道にはたばこの吸い殻がたくさん落ちていたし(パリでは歩きタバコが普通で、喫煙所や吸い殻入れなど置かれていない。)、メトロの駅や道にホームレスや物乞いがたくさんいて少しショックを受けたし、観光地に行けば物売りにしつこく絡まれそうになったし、スリの被害にも遭った。それでも公園などに行くと、芝生で多くの人が寝転がって過ごしているのを見たり、サマータイムで夜になってもなかなか暗くならず、まだ1日が終わらないような感覚に陥ったりして、パリでは時間がとてもゆっくり過ぎているように感じた。日本では皆せかせか急いで街を歩いているが、パリでは人々がゆったりと過ごしていて、そこがとても魅力的だと思った。

今回の旅で、パリの様々な面をみることや、国際コレージュという学術的な場に参加することなど、単なる観光旅行ではできないことを経験することができてとても楽しかった。また、個人的には、自分のフランス語の拙さや勉強を怠っていたことに深く反省するとともに、仏文にいる自分はこれからどうすべきかを考えさせられる旅となった。今回の旅で学んだこと、感じたことを忘れずに今後の糧としていきたい。

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パリの共同生活での学び 矢代真也(東京大学文学部三年)

西山先生には二年前、東京大学で1年次にフランス語を教わったことがある。自分としては先生のフランス語クラスが大学生としての原点のようになっていて、昨年夏から交換留学生としてヨーロッパに来てからもフランス語と向き合う度にありがたく思っていた。そんな時たまたまインターネットで先生の連絡先をお見かけして、お礼を申し上げた。するとまたありがたいことに「今度パリに来ないか」と御誘いを受けたので、大学の授業が都合のつく限りで御邪魔させて頂くことにした。誘って下さった西山先生は勿論のこと、途中参加・途中退出の上、単独行動(以下の写真を参照のこと)を多々とるという非常に迷惑なことをしたにも関わらず快く接して頂いた今回の参加者の方々にも本当に感謝申し上げたい。

今回のパリでの滞在中、学びという活動について考えることが多かった。先生が国際哲学コレージュで開催されたセミナーが「哲学の無償性、知性の平等性」と題されていたということもあるのだが、それだけではなく、むしろそのおかげで学ぶということについて深く考えさせられた滞在になったように思う。

中でも特筆したいのが、参加者の方々と日々を過ごしたことである。参加者の方々は所属・専門・年齢どれも様々な人ばかりで、その非均質性・バラバラさから多くのことを学べた。もちろん他分野を専攻されている方から教わることばかりだというの当然なのだが、異なるバックグラウンドを持った人々と生活をすることは様々な面で刺激的であった。というのは共同生活というのは一緒に暮らす他人のことを知らなければ成り立たないし、自分のやり方を通す訳にはいかなくなり、必然的に他人のやり方を理解することになるからである。生活の中での色々なやり方というのは実は大いに異なっていて、しかも他人に見せるということが殆どない。そのような自分の経験に基づいて形作られた非常に個人的な方法を殆ど初対面な人々と共有し、その共同体にとって最適なものを作り出していくという過程は本当に非日常であり学びの連続だった。この中でこの一連の学ぶという行為には単に学ばせてもらうということだけではなく、教えるという面も含まれていることに気付いた。というのは先ほど述べたように共同体という一つのまとまりの中で、ある目的に向かって何かをする時には各人のやり方を擦り合わせることになる。その中で自分のやり方を説明し他人に伝えることと、他人のそれを聞き理解することがほぼ同時に行われているように感じたのである。


La Gaîté Lyrique(総合文化センターのような所で一つの展示、そのテーマに沿った講演・コンサート・演劇等が企画される) での "2056"という50年後の未来がテーマの展示、それに伴う講演・コンサートに行く。写真は展示の一部。ビニールハウスは未来の植物栽培のモデル。天井から所狭しとぶら下がっている白く細い布は未来の雨か。

環境音楽のコンサート。川とか風といった自然の音と電子音をアーティストがその場で混ぜる。気持ちいいのでみな床に座ったり寝たり思い思いに鑑賞していた。

講演会場。講演者はソルボンヌ大学の教授らしいのにガラガラ。意識の電子化や身体の機械化などの技術による不死への試み、それに伴う哲学・認識の変化の話。

しかし多様な人々を含む共同体を形成される、しかも上に述べたような学びがその中で生まれ続けるようなそれが生まれるというのは本当に難しいことである。多様性が束ねられるということは軋轢が生じるということでそれは不和の原因に他ならないからであり、その一方で学びというのは相互間の多様性に依存している側面があり多彩さが少なくなれば学びも少なくなるからである。この難しい対立の中でリーダーであった西山先生は大きな役割を果たされていたように思う。もちろんそれは単純にリーダーとして指示を出すとかミーティングを仕切るということも勿論ある。しかしそれ以上に大きかったと思うのは先生が各人に共同体の一員としての責任を求められていたことだ。リーダーが何から何まで決めてしまうと参加者それぞれはただその指示に従うだけになる。勿論ここでもリーダーからの学びは発生するのだが、それではいわゆる「授業」と同じものになってしまう。リーダーを中心として自分たちの責任を常に確認しなおすことで共同体としての形を保ちながら個人個人の間でも学ぶということが実践されていたように感じる。本当にあのアパートではこのような特殊な学びが連続していた。以上のような生活をベースにして今回のパリ滞在は過ぎていったのだが、この生活に毎日立ち戻ったからこそ普通とは違う特別な滞在が出来たような気がしてならない。


パリ郊外で開催された CHORUS という音楽祭に行く。移動サーカスのような会場で演奏が行われていた。この後ろに見えるようなパリ中心部では見られない現代高層建築の真ん中にいきなり会場が設営されている。

内部はこのように非常にクラシックな造りになっている。会場外の高層建築とのギャップが大きく、タイムスリップしたような感覚。非常にうきうきする。

ベルギーのバンド。イスや机や箱、フライパン等を改造して作った楽器をそれぞれ叩いている。楽しい音楽。「昨日フランス語の学校に行ってきました!」と言いながらフランス語で歌ったりしゃべったりしていた。ベルギーの複雑な言語・民族環境もテーマのようだ。

留学生との懇親会では本当に素晴らしい経験をさせて頂いた。その理由は参加されていたのが本当に最前線にいらっしゃる方々であったことに尽きる。ここで最前線といったのは戦場の一番辛いところという意味である。この戦いには、就職等の社会への参加といった問いを含む外部との戦い、自分の専門における殆ど「自分との」といっていい内面的な戦いという二つの側面があると思う。この懇親会で感じたのはその戦いが前々から話に聞いてはいたが、相当辛いものらしいということだ。拠るところが少ない留学生として、終わらせなけければ終わりはない論文執筆の中で日々頑張ってらっしゃる院生の方は学部生として気楽に勉強している自分からすれば雲の上のような存在である。さらに正直に言えばその困難な状況は、大学院進学という選択肢がある学部生としての自分に強烈な不安を投げ掛け、自分にこんなことが出来るのだろうかという問いについて今一度考える機会となった。

しかし皆さんと話している中で本当に嬉しかったのは人文学について話される時の楽しそうな表情だ。好きな本について、やらなければいけない仕事について語る先輩方の顔は本当に楽しそうで聞いている自分も何故か幸せな気持ちになってしまった。この感覚は正に内面的な戦いの成果・報酬であり、この困難な状況を打ち破る希望であるように感じた。これが確認できたことは自分にとって本当に収穫だった。

コレージュでのゼミもまた自分にとって貴重な経験だった。それについてはこのコロックがアジア人研究者によって主導されていたという点が大きい。母国語でない言葉で書かれたものを研究して母国語でないそれで表現するという行為はどう考えても 相当の意志がなければ成しえない難業である。それをこなしながら言語の問題を超えて自らの問題について議論を重ねていく方々の姿はパリというフランス文化における特別な場所、一般の建物と区別がつかなかった正にパリの内部というべき街中の会場においてより一層頼もしく見えたのである。

これは学生懇親会で感じたことと同じように非常に嬉しいことだった。フランス語非母国語者としてフランス文化を勉強している中で日々その意義について自問することが多かったのだが、今回フランス語で発言されていたアジア人研究者の方々の姿を見てその姿、身振りからある種の凄みを漠然と感じることが出来たのである。この凄みは母国語を流暢に喋るのとは全く違う、当然ながら外国語としてフランス語を相当に勉強され更に専門的な研究も深く行われている事実から発生していたように思う。この凄みがパリというフランス文化のど真ん中で発生していること、これが自分にとっては感動であり、懇親会と同じように希望に見えたのだ。

留学も半ばを過ぎ新鮮味も薄れ、帰国がちらつき焦りが空回りしていた自分にとって今回の滞在は本当に価値のあるものになった。重ね重ねにはなるがお世話になった方々にもう一度心からお礼申し上げたい。

学生の感想2(吉田直子、平山雄太、松本雄図)

学生の感想2(吉田直子、平山雄太、松本雄図)



(オデオン付近のカラフルな雑貨屋Sabre)
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光と影、その総体としてのパリ――異邦人の視点から 
吉田直子(聖心女子大学大学院)

パリはなにもかもが大きい。街なかの彫像がとても大きい。教会やら美術館やら、いろんな建物がとても大きい。それはトランジットで初めてパリに立ち寄ったときの感想ではあったけれども、その印象は二度目の訪問となった今回も変わることがなかった。



今回さらに付け加わったことがあるとするならば、パリの春の陽の光のやわらかさだろうか。狭い敷地に、空に向かってそびえ立つビルに囲まれたニューヨークのマンハッタンのような、日当たりの悪さを感じさせる街ではなく、いつも陽の光を感じることができる街。広い土地にゆったりと建ち並ぶクラシカルな建物群を写真におさめるときも、青い空が必ず一緒に写りこむ。ニューヨークや東京と違い、パリは空が見える街だ。公園では、日光浴をしたり、本を読んだりしながらくつろぐ人々がたくさんいたが、広さがあるので混みいったふうに感じることもなく、陽の光は皆に平等に降り注いでいた。私も何度か公園で時間を過ごしたが、陽の光の、突き刺すような痛さではなく、つつみこまれるような心地よさを楽しんだ。何より西日のやわらかさに非常に和まされた。

オルセー美術館では、特に2階部分に展示された絵画に、いつも美術館で観るときのそれとは何か違うものを感じた。なぜそう感じるのか、最初のうちは見当がつかなかったのだが、その理由はすぐに分かった。そこは自然光のもとで絵が観られるようデザインされたフロアだったのである。いわゆる名画は、蛍光灯の下で観るものだと思っていた私の眼には、自然光に照らされたそれらの絵はまた趣の異なるものに映った。一言でいうなら絵がやわらかく感じられた。もちろん一般的な美術館では、強い光によって貴重な絵が傷むことのないよう、非常な繊細さでライティングを施しているわけだが、それとはまた違う、名画の別の顔を観た気がした。サント・シャペルの、ため息が出るような荘厳なステンドグラスも素晴らしかったが、サクレ・クール寺院の、万華鏡のようなステンドグラスもとても美しかった。丘の上にある寺院だから、どのステンドグラスにも光に溢れていた。あれも陽の光がないと、魅力が半減してしまうもののひとつだ。


(パリ市の「光の宝石」と呼称されるサント・シャペル教会のステンドグラス)

一方、光を感じさせるそうした重厚さ・壮麗さのそばにある、血のにおいとも泥のにおいともいうべき、いわば影を感じさせるものの存在もまた強く印象に残った。例えばオルセーでは、血が噴き、引き裂かれた身体が転がる戦いの場面や死を感じさせる作品、あまり牧歌的には見えない労働者の姿を描いた作品が、私にはどうにも目について仕方がなかった。貴族の生活を描いた美しく華やかな絵や農村ののどかな風景、戦いの場面であっても勝者の雄姿を描いた絵が並んでいた印象の強かったロンドンの美術館とはその点が大きく違っていた。

さらに今回、治安がそれほど良くないといわれるBelleville地区に滞在したことで、ある街が「危険」であるとはいったいどういうことなのか、ということがずっとひっかかっている。Bellevilleの地下鉄の駅から地上に出ると、昼夜を問わず身体がぐっと緊張する。もちろん自分がどう見ても女であり、また日本人に見える存在であるという事実は非常に大きい。「日本人=狙い甲斐がある」(私個人が“いい獲物”かどうかは別として)というレッテルを貼られた存在であることに起因するリスクは確かにある。ただそのことを抜きにしても、例えば私が明らかに日本人に見えず、狙い甲斐の全くなさそうな風貌だったとしても、私はこの街を危ないと感じるのだろうか、もしそうならばこの街の何がそうさせているのか、ということをずっと考えていた。街ゆく人々の肌の色が違うからなのか、建物の落書きが多いからなのか、道端のゴミが目につくからなのか、よく分からないにおいがするからなのか、言葉が分からないからなのか。いずれにしても、美しいというよりは澱んだ、秩序というよりは混沌、symphonyというよりはcacophonyの中に多様な価値を見出そうとする共生社会の構築の可能性について学んでいる身としては、異質なものに向けられたわが身の、反射的ともいえる身体反応に対するなんとも言えない割り切れなさにずっと囚われ続けている。

フランス語は何一つ分からず、個人的な事情からパリ観光に関心を向ける心の余裕がないことははじめから分かっていたにも関わらず、それでも今回参加させてもらった理由はただ一つ、国際哲学コレージュの実際を観てみたかったからである。私は以前、生涯教育論の立場から、ポスト資本主義社会における「知識社会(Knowledge society)」の可能性を説いたUNESCO(2005)の『Towards Knowledge Societies』と、P.F. Druckerのマネジメント論との比較を考えるための一事例として、このコレージュを取り上げたレポートを書いたことがあった。それは知識社会というテーマの切り口に困っていたときに、たまたま手元にあったコレージュの情報の助けを借りて苦し紛れに書いたレポートであった。だから現実のコレージュの活動に触れることで、あのとき自分が頭の中だけで考えたことのリアリティをこの目で確かめておきたかったのである。


(Les Arts Décoratifs内、Japonisme のコーナーに展示されていたAlbert Louis Dammouseの1876年の作品。日本らしさは確かに感じるものの、やはり日本のものには見えない。)

残念ながら、今回私は西山先生の1回目の講義しか聴講できなかったが、コレージュは経済合理性を支える歯車としてのヒトを育てる教育をずらす場であるという私の憶測は、あながち間違いではなかったように思う。そして教室では、話者の母語がフランス語か否かを意識させないほどの勢いでフランス語が飛び交うさまにとにかく圧倒された(言うまでもなく私には全く理解不能だった)。加えて、第二外国語としてフランス語を使用する人々が、例えばある問いについて、フランス語の枠組みで考えることはもちろん重要なのだが、同時にその問いを母語の枠組みの中でも考察を深めることの重みについて改めて考えさせられた。ネイティブ並みにフランス語を操ることのできるエトランジェの存在意義とは何か?という問い、と言い換えてもいいかもしれない。その講義の前日に催された日本人留学生との交流の場では、「すべての翻訳は意訳である」という話題で盛り上がっていたのだが、その話にも通底するトピックであるように思われた。

ここ数年来、海外旅行に行ってもあまりおみやげを買わなくなって久しい私の唯一のおみやげは、街歩きの最中に立ち寄った本屋で偶然見つけた、読めもしないフランス語の本である。2012年版、18€。以前西山先生が朗読されていた、Michel Deguyの「Magnitude」と題された詩が載っていた。今回の旅の痕跡を刻むことを目的に、せめてこの詩のあとに続く彼の短い論考ぐらいは、そう遠くないうちに原文で読めるようになりたいと思っている。



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「異邦人になること」 平山雄太(首都大学東京仏文4年生)

 私は日本人であり、日本の教育を受け、日本の慣習で生き、日本語を話す。そして、それらを一度忘れなくてはならない場所にいた。それは一つのアイデンティティの危機であり、苦しみに満ちたことである。私にとっての最初のパリ滞在はそういったものだった。パリでは英語も通じることも多いが、もちろんフランス語で話さなくてはならず、私にとっての外国人である人々の間で不慣れ行動をすることを強いられた。

 そして、私は体に溜まる疲労とストレスから風邪にかかり、発熱してしまった。だが、体から熱がひいていくと同時に、染みついていた日本の感覚もまた抜けていくような気がしていた。異文化圏で生活することは、ぼんやりとしか覚えていないような幼少時代を再び体験することに近いのではないかと思う。子供が親や兄弟の動作、話していることを真似し始めるように、まるで知らない場所で、他人の振る舞いを見ながら、選びようもなくそれを真似、少しずつ学んでいく。そこには、不安や苦痛が伴うが、それを超える好奇心と必要性が行動を可能にしてくれる。そして、徐々に新しい眼差しを獲得していくのである。



 その新しい眼差しはフランスに対しては言うまでもないが、日本に対しても持つことができる。それは、私はフランスにおいて異邦人であり、二つの文化圏で揺れ動く人間だからである。買い物一つをとっても、それは感じ取ることができる。例えばフランスの主要な食品であるパンは日本と比較してとてつもなく安い。それは政府が補助金を出していることや、フランスが農業国であることが要因だろう。他にも、生活必需品やワイン、日本にとっての輸入品だがフランスにおいては国産品となるものは安く、様々な施設への入場、娯楽などに学生割引が適用される。一方で、特にパリに言えることだが、世界有数の観光地であるためカフェ、レストランの飲食の値段は高く、また日本には数多くあるファストフードのような店が少なく、日本からの輸入品である漫画は日本円で700~800円ほどの値段だった。そのように値段に差異が生まれるのは、政府の方針、法律、需要、生産性、輸送費などが複雑に絡みあっているからである。つまり、それはその国が、何を守り、次の世代まで残そうとしているのか、その国に住む人々が何を欲しているのかを現しているのである。

 日本で生活しているときには、あたりまえのものとして受容しているものが、フランスで生活することで異常であると感じたり、また日本の美しい山並みが思い出されたり、フランスでは人々が自然に微笑んでいるように感じたりしながら、互いの国の心地よい点、また不満に思う点を発見していった。別の国があること、その国には私たちと違った基準で生活している人がいること、頭で理解することは容易だが、それを自国にいたまま実感することは難しい。だが、私はその実感をこのフランス滞在で持つことができた気がしている。それは、この世界にある自分にとっての未知なものの手触りであり、可能性そのものの確かな手ごたえである。



 今回のゼミ合宿では、西山先生の国際哲学コレージュのゼミに出席したり、西山先生の仕事に関係する打ち合わせに同席したり、レンヌ大学との交換留学協定の打ち合わせで一緒にレンヌ大学を見て回ったり、非常に濃密な時間を過ごすことができた。それらは、ある仕事が計画から、準備期間を経て、実現された瞬間のものと、まさにその準備期間にあたるものであり、貴重な経験であった。全てのものごとは、ある日突然に起きるのではなく、少しずつ手順を踏んで実現されているということを再認することができ、それはこれから先の人生で再び振り返り、活かすことのできるものになると思う。

 そして、国際哲学コレージュであるが、日本にいてはなかなかできない、生身の人間が今そこで身振り、手振りを加えながら話すフランス語にさらされ続けることとなった。彼らのフランス語を追い、どういった単語を並べているのかは分かるが、それが意味として入ってこず、非常に苦労したが、ゼミに出席していたフランス人の人たちの態度は印象に残った。彼らは、一つ一つの質問、意見が非常に長く、またその身振り、手振りが非常に大きく、その手が何度も胸から前に押し出され、伝えたい何かを胸から取り出して、必死に出来る限り分かりやすく伝わるようにしているようだった。それは、これを言わずにいられないという情熱を感じさせるものであり、気が付くと決断を先に引き伸ばしたり、重要な物事を曖昧にしてしまったりする性格の自分を叱咤しているようだった。



 私が今回のフランス滞在で、自分の見知ったもの以外のものの存在の実感と情熱の萌芽を手に入れることができたように感じる。そして、これは終わりなどでなく、始まりとして、自分の望むものを具体的に思い描き、行動していきたいと思う。

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文学、そして哲学をまったく知らない男のフランス滞在記
松本雄図(首都大学東京・航空宇宙システム工学2年)

タイトルにあるように僕はフランス文学、そして哲学を全く知らない。しかし何故、首都大学東京都市教養学部人文・社会系、国際文化コースフランス語圏文化論(長い…笑)の西山先生の出張にご同行させて頂きフランスに行ったのか? 私の滞在記を書かせて頂きます。

実は僕、航空宇宙コース所属の学生なのですが、2年生の11月ごろから仏文への転部を考えていました。理由は…南大沢に残りたいから…そうなんですシスデザは3年から日野なんです… 嘘です!! 嘘ですよ本当に!!笑 まあこんなこと書いていいのかわかりませんが、数学や物理がとても苦手で、そして2年生の時に通年でとっていたフランス語の授業がとても楽しかったんです。

それは谷川かおる先生の「星の王子さま」を和訳するという内容の授業でした。そこで星の王子さまに魅了された僕はいっきにフランス語が大好きになってしまっていました。だからフランス文学を全く知らないというのは嘘です。サンテグジュペリだけは知っています。
お前、何回嘘つくねん!? 正しいツッコミです。
そこで、単純な僕は「仏文に転部しよう!」と決意しました。
その時に谷川先生や仏文の教授方に相談に乗って頂いていました。西山先生とはそこで知り合ったんです。そんな僕を西山先生は会って2回目くらいの時に「3月にパリで国際哲学コレージュがあるんだけど君、来ない?」、と。迷いました。しかし行くと決めました。これが僕が今回参加したわけです。

まずは、今回のメインである国際哲学コレージュ。正直、フランス語の聞き取りなんて全然できない僕にはあの場でどんな議論が繰り広げられていたのかは、まったくわかりませんでした。唯一聞き取れた言葉といえば、「comme ça」「そんな感じ」それだけでした。しかし、雰囲気は十分に感じ取ることができました。コレージュというものが日本でいう大学の授業とは違うということだけは知っていましたが、日本でずっと育って日本の教育をずっと受けてきた僕にとってコレージュとは、新鮮というか初めての場所でした。

まず、場所はよくわからない路地にある建物。外に立て看板なども一切ない。建物への入り方さえわからない。(フランスの建物は道路に面した門にコードがあり、そこに暗証番号を入力するらしい)建物の二階に上がるとゼミ室のような小部屋があり、そこでコレージュは行われた。西山先生はフランス語で発表をしている。と、生徒側の人がいきなり挙手(生徒という表現が正しいのかはわからないが)。そして質問。それがいつの間にか生徒同士で議論をし始めて教える側の先生を無視し始めそこで熱い議論が交わされていた。また、西山先生が「なにか質問はありますか」といえば、「いったいどんだけ意見あんだよ」と思うほどの長い質問を繰り出す生徒。日本の大学でまずあの風景はあり得ない。少なくとも僕が今まで生活してきた場所ではあり得なかった。確実にコレージュに参加している生徒は能動的に先生の講義を聞いていた。だから自分が思っている事と違えば意見を出し合える。勝負できる。これがコレージュに参加してみて一番思ったことだった。

この合宿にはパリに留学している日本人留学生との懇親会もあった。タイトルにも書いたとおり僕は「哲学とはなんなのか?」ということすら知らなかったので(こっちはほんと笑)パリで哲学を学んでいる服部さんと沢山お話をさせて頂いた。そこでわかりやすく哲学を説明して頂いた。やはり自分とは全く違う分野でも本気で頑張っていたり何かに取り組んでいる人と接触するのは、とても刺激になり自分を奮い立たせてくれる。懇親会では小田剛さん(後述)というユニークな方にも出会った。あまり会話もしていないのにいきなり自分が作っているフランス語の教材を勧められた。ただ、実際、小田さんの教材「虎と小鳥」はとても凄い。フランス語がうまくなりたい方は一度ググってみては? この飲み会は総じて楽しいもので、あっという間に時間は過ぎていった。(注:フランスでは飲酒は16歳から) その翌日まで「サロン・ド・ヴァン」というワインの見本市が近くでやっているということを教えていただき、翌日にはフランスで年に2回しか開かれないワインの見本市に行くことができたのでした。

そんなこんなで僕のパリ滞在は「あれ、もう最終日か」という感じで過ぎていった。今回一番感じたことは、こんな年になって改めて実感するなんて恥ずかしいことだが、人と人との繋がりがどれだけ貴重か ということ。今回僕は、この合宿で初めて出会った方々に何度も何度も助けられた。

僕はパリで解散後、一人でマルセイユ、アルルと南仏を旅したのだが、TGVを予約していなかった僕は、パソコンを貸してもらいインターネットでチケットが売切れ間近だということを知らなければ、南仏に行けなかっただろうし、大きなスーツケースを小田さんのご自宅で預かって頂いていなければ、(コインロッカーがほとんどないフランスでは)南仏の旅をエンジョイできていなかっただろう。そして携帯電話を貸していただけなければ、その荷物をもってきていただく為の待ち合わせもできなかっただろう。本当に今回は“旅”をしたんだな。という気持ちになれた。とても楽しい時を過ごすことができ大満足の12日間でした。


港町マルセイユ

マルセイユに来た最大の目的イフ島からの風景!

イフ島にはお城があり、そこは監獄として使われてました。なんと日本人に遭遇!

田舎町アルルではゴッホを偲びました。 ここはとても皆さん優しかった! 有名なPont Van-Gogh!

夜のカフェ!Café la nuit!

学生の感想3(成瀬莉沙、八木悠允、尾崎全紀)

学生の感想3(成瀬莉沙、八木悠允、尾崎全紀)




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わたしのゼミ合宿  成瀬莉沙(浜松医科大学1年生)

今回、ちょっとしたご縁から西山先生のフランス行きに同行させてもらった。この訪問の目的は、国際哲学コレージュに参加することと、自分とまったく違う分野の世界の方々から刺激をもらうことであった。わたしにとってパリはとてもなじみ深い土地であったが、今まで親に連れられてしか訪れたことはなく、今回はほぼ全ての行動が自分の責任においてなされることに対して不安もあった。その一方でおよそ5年ぶりとなる訪問であったため子供のころの自分の感覚と今の自分の感覚の違いを感じることが楽しみでもあった。



久しぶりにヨーロッパに来てまずその治安の悪さに驚いた。その原因として街の汚さ、貧困層の多さ、盗難などの犯罪の多さなどが挙げられるであろう。わたしは先生方より先にヨーロッパ入りしパリで自分一人で過ごす日が3、4日あったため十二分に警戒しなくてはならないという意識をもって来たつもりであったが、ずっと日本で安穏と暮らしてきて警戒心が薄れていて危ない目にあいそうにもなった。

私が今回旅したフランスやイタリアの人は基本的にジプシーに対して優しくなかった。ジプシーが路上で寒そうな様子で座り込んでいても、赤ちゃんを連れていても、電車で施しを受けようと乗客のあいだをまわっていても、彼らを見ようとすらしない。その存在を完全に無視している様子であった。ヨーロッパに来てしばらくは私自身ジプシーに対してどのような態度をとっていいのかわからず非常に困った。私も大勢の人と同様に彼らの前を何事もないかのように通り過ぎていたが、心の中ではジプシーに対して非常に後ろめたさを感じていた。

その一方で、街で道に迷ったり、一人で重い荷物を運んでいたりしたら、ヨーロッパ人は私にとても親切に対応してくれた。お店に入るときにはBonjour! 出るときにはAu revoir を欠かさない。道端ですれちがっただけなのに挨拶してくれる気さくな人もいた。この対応の差はいったい何なのか今後考えてみたいテーマとなった。



国際哲学コレージュでは学びの場を実際に自分の目で見ることができて本当によかった。コレージュから学んだことは言語の重要性と授業への意欲的な参加姿勢の2点である。コレージュではフランス語を母国語としない人であっても皆が流暢なフランス語で議論やコメントをしているのを見て、とても感心した。英語以外の言語を研究や発表、討論の手段として使いこなすことは私の日常生活には程遠く、その様子に衝撃を受けた。

西山先生の『哲学への権利』にも書いてあったような、授業中に聴講者が意見や疑問を発表者に投げかけ、活発な議論をする現場も目にすることができた。聴講者一人ひとりの発言がとても長かったことには驚いた。また、現地のフランス人のうちの数人は発表をすべてノートに書き取ったり、パソコンにうちこんだりしていて、日本の教育現場との違いもみてとることができ、これは受動的な教育しか受けてこなかったわたしには新鮮に映った。



最後に、今回のゼミ合宿では非常に素晴らしい出会いに恵まれた。共同生活を送る中で首都大の方をはじめとして、現在留学している院生や学部生の方などと接して、その知識の豊富さ、日々の努力の様子を間近で感じることができたことは、他大学との交流がほとんどない単科大学で過ごす私にとってはたいそう刺激を受けるものであった。それぞれが自分の道にむかって努力されていて、毎日を漠然と過ごしてきた自分を恥ずかしく思った。これを契機に一般教養を深め、語学を習得したいと思うようにもなった。まずは薦めてもらったバルザックやスタンダールの本を読んでみようと思う。今回、このゼミ合宿に参加させてくださった西山先生、わたしを受け入れてくださった方々、すべての方に感謝したい。

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「どこに行っても同じ、沢山のマルセル通り」の方へ
――未完のままのなめらかで透明なデッサンのように
八木悠允(首都大学東京・仏文修士1年)

 一月ほどの旅行であったが、さまざまな発見と収穫に満ちた旅行になった。この機会をくださった方々にまずお礼を申し上げたい。
 今回の渡仏が私にとっての初めてのヨーロッパ経験だった。だから、はじめの一週間は異文化に身を投じる事への新鮮な驚きと不安とで瞬く間に過ぎたように思う。この期間に日本人留学生達の勉強会に参加し、日本人が異言語で議論を交わし合う行為のリアリティに直に触れることができたのは、振り返ってみてとても幸運なことだったと分かる。この出会いがなければ、一人で図書館へ足を向けることができたかも怪しい。


(空は抜けるような青空で、陰も強くのびていた)

 カフェで珈琲を飲み、スーパーやマルシェで買い物をして、図書館で勉強する。そんなふうに旅行者風情がパリの学生の生活をまねたところで、言語という壁は逆に、彼らに溶け込むことができないという現実に気づかせてくれた。これは単に否定的な意味だけでなく肯定的な意味で、今まで学んできた言語のリアリティを感じられたということである。日本から遠く隔たった国の言語を日本で学ぶには、ある種の想像力が必要とされるように私には思われる。実際にどのように使われているのか、どんな人々がそれを使い生活しているのか。おそらく多くの人々は映画や音楽の表層を通じてそれを想像するのだろう。そのような想像力に長けていない私は、すぐ隣にいるフランス語で談笑する人々の会話ではじめて、フランス語を生々しく感じることができた。

 また、文学研究の上で作品に登場する場所に赴くことは、当初考えていた以上に役立つ経験となった。例えば私は「どこに行っても同じ、沢山のマルセル通り」というくだりを単純に画一的な現代への批判だと読んでいた。しかしその通りに行ってみれば分かるが、それらマルセル通りは、長く保たれてきた伝統的なパリの都市風景の例に漏れず、文字通りとても似通っている風景なのである。私が研究しているミシェル・ウエルベックの小説にはいくつもの現実風景が描写されているが、偏った想像だけではとんだ誤解をしかねない。非常に単純な話ではあるが、作品に向き合う上ではこのような照らしあわせは、文化理解の度に応じてなされねばならないと肝に銘じることになった。


(「どこに行っても同じ、沢山のマルセル通り」のひとつ)

 最後に、研究者の最前線の活躍を目の当たりにできた幸運について。他の学生達と合流した後、西山雄二教官には数度の哲学コレージュでの講義に誘っていただき、参加することができた。哲学コレージュは無償の学校であり、誰にでも開かれた場であるので、出席することはもちろん誰にでも可能である。しかし語学的に未熟な私には議論についていくのもなかなか難しい。西山教官にはテーマや議論を解題して頂き、氏がコメンテーターをなさっていた会では質問を通訳して頂くことでなんとか参加することができた。

 このような公的な場のみならず、多忙な滞在中にもかかわらず、西山教官は学生である私達の散策に喜んで同行してくださり、町並みの歴史などを語ってくださった。忘れることができないありがたい思い出だ。この滞在中に西山教官のご友人である馬場智一氏の送別会が開かれた。多くの留学生達が集い、氏との別れを惜しまれていた。そうした友愛の会合の翌日に、西山教官と馬場氏のお二人がコレージュの壇上で同席している姿は、プロの研究者が外国語のロジックの中で応答するという孤独な格闘の姿であった。学問を通じて友愛と孤独が同居した不思議な共同体は、いまだ印象深く心に残っている。

 異国の言葉の世界に身を置き、どう動くべきか。そしてどう応答するべきか。その厳しさと魅力に取り憑かれた旅だった。追憶するたびに、道中に出会ったドガのデッサン展示が思い出される。優美で陰鬱な彩りの奥にある、なめらかで透明なデッサンはまさに下書きと言うべきであり、完成の見えない未完の完成品だった。つまるところそれは旅の本質ではあるまいか。


(オルセー美術館。公共建造物は総じて天井が高く梁が美しい)

 振り返ってみると、旅は常にそうであるが、長いようで短い滞在だった。その短期間が充実したものになったのは、西山教官、同行した方々、出会った方々からの暖かく時に教育的な助言や談話のおかげである。最後に再び、感謝の意を込めて締めくくりたい。どうもありがとうございました。

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『哲学への権利』から、哲学の「責任」へ
――国際哲学コレージュを中心とした合宿に参加して 
尾崎全紀

 勁草書房『哲学への権利』付録DVDの特典映像「旅思」を見ていて、この数年間を更にさかのぼり、一気に、約十年にわたる歳月を回想するモードに入ってしまった。
 2008年4月に、彼との最初の出会いの場だった新宿のジュンク堂も、明日で閉店。
 最初の出会いから、更にさかのぼること数ヶ月、2007年12月15日のこと。

 私事にわたるが、世紀の変わり目頃に始まった、半分以上は、実家が巻き込まれたので、否応なく、しかし、ほんの少しは、自発的にコミットしていた、大阪は堺の権力闘争(政治闘争・裁判闘争)が、ちょうどその頃、一息つける状態になっていた。少し落ち着き、やはり自分本来の(?)フィールドである学問の世界をパトロールしようとして、大学界隈を徘徊していた時、一枚の張り紙が目に入る。90年代前半、学部生時代を過ごした早稲田で、鵜飼哲と絓秀実の大学改革についてのシンポ。その後の二次会、三次会で、ノンセクト・ラディカルの事件史について、議論しながら、朝まで、七、八人で飲み明かし、 鵜飼哲をJR国立駅まで送って行った。

 ほとんど全ての日付を忘れる私が、その日付だけは、はっきり覚えている。よほど強烈な夜だったのだろう。思想や学問や研究と、運動や事件や政治が、私の中で、思いもかけない形で、接続・交差した瞬間だった。すっかり私は、鵜飼哲のファンになり、新宿のジュンク堂に行ったのは、まずは、彼を見るためだったと思う。

 また、その年の秋、私は、「哲学への権利」のあとがき冒頭にも登場する駿台予備校大阪校時代の恩師・表三郎と十数年ぶりに再会し、(私も含む)その教え子を中心に、勉強会を始めるか始めないかの頃だった。先輩・茨木千尋がその時手にしていたのが、デリダの『名を救う』。訳者には、小林康夫と知らない名前。その名をジュンク堂のチラシに見て、どんな人間なのか、を知るため、というのが、千円払った二つ目の理由である。

 イベントが始まり、その知らない人間に、私は出鼻をくじかれた。ああ、研究者の世界で、今も、こんなに格好いい師弟関係があるんだ。素直に、いい話だなぁ、と感動した。(このイベントの内容や雰囲気については、阪根タイガースのブログ等を参照してくださいませ)

 イベントが終わり、お目当ての鵜飼哲は、所用があるので、二次会には参加できないとのこと。ちょうどその時、さっきのトークイベントでの真剣な表情とは全然違う人懐っこい笑顔で、「ねぇ、一緒に、飲みに行かない? おごるよ。」と知らない人が声をかける。初対面のくせになれなれしい奴やなぁ、と思うが、断る理由はない。

 Et c’est ainsi que je fis la connaissance de Yuji .

 そうこうするうちに、『哲学への権利』の上映運動が始まる。
 この先は、別に、わざわざ私が書く必要もないだろう。

 勉強会をやってる最中、今、自分が学生だったらやりたいであろうことを、学生にすすめてきたのだが、まさか、自分が彼と一緒にパリで過ごすことになろうとは、夢にも思わなかった――昨年の春までは。 

 3月11日14時46分、世田谷の9階で地震に遭遇し、公民館で夜を明かし、次の日、原発のニュースを聞いて、その足で、実家 のある大阪を通り越して、新幹線で、福岡へ。福岡から沖縄へ、沖縄から香港へ飛び、16日には、ロンドンのヒースロー空港に居た。
 この件についても多くを語る必要はないだろう。

 昨春以降、いつも思い出すのは、駒場上映会での小林康夫の言葉「哲学の責任をどうやって実行するかを考えなければならない」という言葉だ。確か、その時の話は、今の世界の惨状に哲学は責任があるのだ、というような話だったと記憶している。もちろん、その発言は、一昨年のもので、昨年春のこととは、もちろん、直接、関係はない。しかし、その主張を敷衍すれば、今回の出来事にも、哲学は責任がある、ということになる(はずだ)。

 一昨年の春、私は同意した。
 そう、だから、今、再び、同意する。
 その責任を、私は、引き受ける、と。
 それが私の仕事であり、私の考える「世界統治」の形である。

 この一文は、彼との馴れ初めを気の向くままに綴ったものでは全くなく、小林康夫の仕事への(駒場上映会に続く)二度目の応答であり、鵜飼哲への自己紹介を兼ねた様々な御礼の挨拶文であり、一年以上会っていない知人・友人達への消息文であり、最後にこれが最も重要なことだが、私の人生で二度目の決意書である。

 一度目は、約二十年前。一人でもやる、と書いた。
 今回は、仲間どころか、既に、兄弟まで(姉妹も)いる。
 世界倒置、じゃなかった、世界統治くらいの仕事は、楽勝に違いない。
 今頃、彼と彼の院生とゼミ生の乗った飛行機は、どの辺りを飛んでいるだろうか。
 ようやく入り日だ。私も、そろそろ帰って寝ることにしよう。

     2012年3月30日 午後9時過ぎ(パリ時間)
     シャルル・ド・ゴール空港のターミナルにて

(注)個人的には、自分が意識的に言語を使って(?)ものを考えるようになったのは、「哲学」がきっかけではあったが、社会科学や歴史のような、具体的・世俗的なものを取り扱う手続きにも関心がある自分としては、学問、思想、学問、研究、もっと言えば、思考の責任、と言ってもよいかもしれない。