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2017年3月フランス滞在記(パリ、レンヌ)

西山雄二(仏文准教授)

西山雄二(仏文准教授)



(「パリでは誰もが役者になりたがり、見物人に満足するものはいない。」──ジャン・コクトー)

首都大学東京の国際交流プログラムの枠組みで、今年もフランスに学生7名と14日間の滞在させていただいた。今年も充実した濃厚な毎日で、レンヌ、モン=サン・ミシェル、パリにてプログラムを問題なく実行することができた。今年でこのプログラムは終了するようだが、実に恵まれた経済的支援には深く感謝する次第である。今回の目的は以下の通りである。

①レンヌ第二大学における異文化理解と学生交流──レンヌ第二大学の講義に参加することで、学生同士が現地で交流し、実際に異文化理解を深めた。日本語クラスにて、首都大学東京や日本の文化の紹介をおこない、意見交換をする。
②フランス国立東洋言語文化大学(イナルコ)での授業見学──ヨーロッパ最古最大の日本学部(部局間協定を準備中)の授業に参加することで、学生同士が現地で交流し、実際に異文化理解を深める。
③パリの高校での授業参加──パリのジュール・フェリー高校にて授業(哲学、文学)を視察し、高校生との交流を通じて異文化理解を深める。

パリからTGVにて2時間移動し、レンヌに到着した。新しい地下鉄路線の開通のため、レンヌ駅は大規模な工事中で、駅舎のいたるところが工事用の保護壁で覆われていた。


(国際女性デーの日、レンヌ大学構内ではデモンストレーションが実施されていた。)

レンヌ第二大学では、高橋博美先生のコーディネートにより、日本語の二つの授業に参加した。「首都大学東京での学生生活」「東京の紹介」の発表を日本人学生がおこない、その後、日仏の学生が持ち寄ったお菓子を一緒に食べながら歓談した。小グループに分かれての話は予想以上に盛り上がり、若者同士の交流は急速に深まった。レンヌの学生らは私たちの退出を名残惜しそうに見送ってくれ、何人かは次の日にも会いたいと言ってくれた。


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首都大学東京で、私はフランス語初級クラスにフランス人留学生をつねに参加させている。ネイティブ学生が参加するとなまのフランス語が聞けるし、フランス語を学ぶ動機付けにもなるからだ。しかし、毎年、フランス人留学生がクラスに溶け込むことはない。日本人学生らはおとなしく臆病で、友達同士で固まるばかりで、異者を受け入れる雰囲気がないからだ。フランス人留学生もこうした状況を最後まで寂しく思い、「結局、私のことが怖いんですかね」と言いながら学期末になる。今回、レンヌの日本語初級クラスでは一瞬で私たちは歓待され溶け込んだのだが、首都大での同様の状況との相違には考えさせられるものがあった。

レンヌでは現在留学中の4名の首都大生に適宜サポートをしていただいた。毎年、留学した学生は明らかに成長する。顔つきが大人びてきて、積極的な行動力が身につき、論理的かつ主体的に話ができるようになる。そうした姿を後輩学生とともに現地で目撃できるのは良い機会となった。


(ブルターニュ広場のクレープ屋Saint-Cornelyにて)

レンヌ第二大学の副学長Lesley Lelourec氏とは二人で会食をさせていただき、今後の交流の展望を語り合った。また、国際交流課の職員らとはみんなでクレープ屋で食事する機会をもうけていただいた。毎年1回というわずかな機会だが、レンヌ大学に足を運ぶという実質的な交流の積み重ねによって、両校の関係が濃密になっていくのを実感した。


(空き時間に訪れた古都ヴァンヌ。モルビアン湾に接する港町)

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(毎年恒例のレンヌ駅での最後のお別れ集合写真。留学中の学生と迎えられる学生たちの姿にいつも深い感銘を受ける。)

フランス国立東洋言語文化大学(イナルコ)での授業見学は念願の企画で、トワイエ千賀子学部長のコーディネートにより、評判の高い日本学部の雰囲気を味わうことができた。見学したのは、「日本語文法上級」「国際関係」「仏文和訳中級」「日本の法制史」で、2−3年生クラスである(フランスの学部は3年間)。語学系の授業では日仏の言語間のさまざまな相違に気づかされた。二言語間での翻訳や解釈の作業はつねにスリリングで、知的興奮を刺激してくれる。文法構造の解釈や適切な翻訳例を聞くと日本語に対する蒙が開けてくる。日本語話者である自分がいかに日本語に無知であるか、他者に解きほぐされていく感覚は心地よい。


(フランスの随所で見られた満開の桜。イナルコ付近の公園にて。ある外国人タレントが言っていたが、「外国人は日本の四季を絶賛するように強いられることがあるけれど、四季は世界中どの地域にもある」。)

パリのジュール・フェリー高校では、ジゼル・ベルクマン氏のコーディネートにより、文学と哲学の授業を見学させていただいた。ベルクマン氏の文学の授業では、本学の鈴木麻純さんに発表の機会を与えていただいた。題材は彼女の卒論の要約である「ボードレールにおける匂い」。鈴木さんの発表は実に見事で、普段はノートなんてとらない不真面目な学生も熱心に聞き入っていたという。発表後も質疑応答が続き、どこからどんな質問が飛んでくるのかわからない難しいやり取りだが、彼女は堂々たる態度で立派に応答し、60分間の授業をやり遂げた。


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フランスの高校での哲学の授業はいつ聴講しても興味深い。フランスでは高校3年生から哲学が必修で、文系/経済社会系/理系のどのコースの学生も学習する。また、大学入学資格試験・バカロレアにも初日にその試験科目が設定されているほどである。要するに、彼らは高校3年生で哲学の学習を始めて、1年後には学修を終えて試験を受けるわけだ。


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今回見学した理系クラスでのテーマは、「人間は幸福になるためにつくられているのか」。エピクロス派の快楽主義哲学に即して、幸福の主題が展開されていく。幸福になるための障壁とは何か、という問いが発せられ、学生らからの積極的な応答によって授業が進んでいく。病気や災害によって、なかでも恐れや不安によって、人間の幸福は阻まれてしまう。しかし、人間は自分の意思でこれらの障壁を克服し、幸福を目指すことができる。すかさず学生から「犯罪者はどうなるのですか」という質問が出る。神々、死、快苦などに対する倫理的態度を述べた「メノイケウス宛の手紙」の抜粋が配布され、そこから四つの主要命題「神々を恐れるなかれ」「死を恐れるなかれ」「幸福に達するのは容易い」「苦痛はつねに耐えられるものである」が順次説明されていく。古代ギリシアの神話の宿命論やキリスト教の神の摂理と比較することで、エピクロス派の倫理的立場が明確に位置付けられる。人間は自分の意思で幸福になることができるという主張は、現在の若者にも響く主題である。古代の哲学が生き生きとした議論を通じて息を吹き返す様子を目撃することができた。


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(今回の滞在中は晴天続きで、活動しやすい気候に恵まれた。今年も八木悠允さんにパリ滞在のコーディネートをしていただき、有意義な時間をともに過ごすことができた。心より感謝申し上げる次第である。)

今回の旅程でアクシデントはなかったが(毎年何か起こっていた)、復路便ではついに困難に遭遇した。乗り換え地点のアムステルダム空港で天候不順のために、航空ダイヤが大きく乱れたのだ。パリからの出発許可が下りず、3時間遅れでアムステルダムに到着した時、東京行きの乗り継ぎ便はすでに出ていた。ごった返す国際空港で次便を確保し、KLM航空にホテル代の補償を取り付けた。代替便は東京への直行便ではなく、上海乗り継ぎの中国東方航空の便。結局、30時間近く遅れて東京に着いたところ、預けた荷物はまだアムステルダム空港だという。学生時代にアジア諸国を半年一人旅したとき、こうしたトラブルは(とくにインド一周中)何度も経験したことがある。国家の狭間を移動することがいかに不安定なものであるか(これが難民や移民の境遇でもある)、久々に再び実感することができた。

旅の終わりに、「なぜ西山先生は学生らのためにこうしたフランス滞在を自主的にコーディネートし、ここまで尽力してくれるのか」という質問を受けた。当然ながら、若い学生らとの共同の旅は大変である。事前のホテル予約などかなりの金銭的な負担を強いられるし、若者の行動に精神的に疲労することが準備段階から旅の終わりまで生じる。海外での学生引率は大学教員がもっとも避けたい仕事だろうし、実際、友人の教員からも「こんなことを自発的にやっている西山くんは頭がおかしい」とも冗談で言われる。自分の年齢も年齢だし、「今回でやめよう」と毎回思う。

ただそれでもまた、学生らとフランスに来てしまう理由は、まず、若者にチャンスを与えたいからである。若い頃比較的苦労し、チャンスには恵まれなかったので、自分が一定の立場になったいま、若者にはより多くの機会を与えるべきだと考えている。また、フランスという国や文化が、自分が誠実に向き合える場だからである。なにもフランスを手放しで賞賛しているわけではない。その美点と欠点の両方を目の当たりにしてきた私にはフランスへの愛憎が複雑に入り混じっている。ただ、自分が誠実に向き合える場をもっている人間は、そうした場を通じて他者を受け入れ、そこで貴重な経験(幸福な経験だけでなく、きわめて苦痛な経験も含めて)を贈り与えることができるのである。


(カルナック列石にて。「長生きするものより、旅をしたものはそれ以上を知る。」── アラブのことわざ)

鈴木麻純(仏文4年)

鈴木麻純(仏文4年)



「少しでも世界が広がればいい、と思って参加したフランス行きだったが、想像以上に得たものが大きかった。」――これは、4年前にこの国際交流プログラムに参加したときの、私の滞在記の書き出しである。そして、その「少しだけ広がった世界」を確かめたい、というのが今回このプログラムへの参加を決めた理由であった。約2週間の濃密な日々のなかで得た「発見」と「確認」を、レンヌ滞在や高校、大学訪問を中心に振り返っていく。

【レンヌへの帰郷】

フランスに到着してから2日目、早朝のTGVでブルターニュ地方のレンヌへと向かう。窓から見える景色の中に次第に緑が増えていき、牛や馬たちが草を食べるのどかな風景が見えてくると、ああ、近づいているんだなと感じる。パリよりずっと小さく、穏やかでありながらも、学生都市ならではの活気に満ちたレンヌという街は、2015年9月から2016年6月までの約10ヶ月間、私が留学生活を送った街でもある。今回のレンヌ滞在の主な目的は、交換留学の協定校であるレンヌ第二大学の訪問であり、先生方や国際課の方々へのご挨拶や、日本語クラスでの発表、フランス人学生との交流など様々なプログラムが組まれていたが、私にとってはそれに加えて、昔暮らした土地に帰るという「里帰り」のような意味も込められていた。

「久しぶりにこの街の空気を吸ったとき、私は何を感じるのだろう」と少しだけわくわくしていたが、レンヌ滞在中は、感慨深さに涙がこみ上げるというよりは、「ああ、帰ってきたんだな」という穏やかな懐かしさに包まれていた。むしろ、日本に一時帰国していたが、やっとこちらに戻ってきた、というような不思議な感覚だった。とはいえ、国際課の方や語学学校の先生、大学の先生などお世話になった方々、そしてレンヌに住む友人たちに再会したとき、自分はちゃんとここにいたのだという実感がじわじわとこみ上げてきたことはよく覚えている。


(レンヌ第2大学の教室より)

大学の建物に足を踏み入れたとき、そして語学学校の廊下を歩いているときに蘇ってきたのは、当時の私が感じていた不安や迷い、そして授業についていけずに落ち込んでいたときの気持ちであった。1年前の私はここで、少し背伸びをして大学の授業を履修してみた。しかし案の定、どの授業も簡単ではなく、最初の頃は特に、ついていくだけで精一杯という授業もあり、恵まれた環境を活かしきれていない悔しさや、「学ぶ」ことのできないもどかしさを常に抱えていたものだった。これじゃいけない、と自分で自分にプレッシャーをかけていたあの頃の気持ちがじわじわ蘇ってくるのを感じた。

しかし、かつてのこのような苦しい気持ちを思い出したことは、意外にもネガティヴな体験ではなく、むしろその逆であった。それは、これらの苦しい記憶もまた、今の私をつくっているものの一つなのだと再確認できたからである。聴講ではなくしっかりと履修登録をしてしまった自分を呪いながら、徹夜で単位認定課題の小論文を書き上げたことや(とはいえ聴講にするとやはりどこか気が緩んでしまうと思うので、登録して正解だったと今なら思う)、一生懸命とったノートを見返しながらテスト勉強したことを思い出すと、あの頃の挑戦と葛藤の日々が、心のどこかで、「あのときだって何とかなったんだから」と今日までの自分を支えていたのかもしれないことに気がついた。当時の苦しかった時間は今の自分へと繋がるものであり、また、自分をここまで連れてきたものの一つでもあるのだろう。この少し苦いノスタルジーが、今回のレンヌ滞在でのいちばんの収穫となった。
 
今年度は4人の首都大生がレンヌに留学しているが、彼らは全員、去年このプログラムでレンヌを訪れている。そのときは迎えられる側であり、街を案内される側であった彼らが、今度は私たち訪問者を迎え、語学学校の授業の話やバカンスの予定などを生き生きと話していた。こちらでしっかりと生活している彼らの様子を見ていると、交換留学という歴史が少しずつ、しかし確かに積み重なっていることを感じる。今年で5年目を迎える首都大とレンヌ大学との交換留学制度は、創始してくださった西山先生の手から先輩方、そして私たちへと毎年大事に受け継がれてきたものだ。そのうちの一年を紡いだものとして、この留学制度が今後も永く、良いかたちで続いていってほしいと心から願った。


レンヌの駅にて。今年の留学生4人も見送りに来てくれた。

【イナルコ見学】

3月14日、パリの国立東洋言語文化大学(Institut national des langues et civilisations orientales. 頭文字をとって、通称「イナルコ」)を訪れた。東洋の言語に特化したこの大学には、約1000人の学生を擁する日本語学科があり、日本文学や日本美術、通訳や翻訳などの授業が行われている。このイナルコ見学については、「どのように言語を教えているのか」という教授法的な視点と、「学生たちがそれをどのように享受し、学んでいるのか」という語学学習者としての視点から授業を見学することで、今後の自分の語学学習を深めたいという個人的な目的もあった。私たちが見学したのは日本語文法、国際政治、仏文和訳、日本法制史の授業であったが、以下ではそのうちの、日本語文法と国際政治の授業について、自分の感じたこと、考えたことをまじえながら綴りたいと思う。


イナルコのキャンパスは現代的で、日本の私立大学に近いものを感じた。

朝8時半過ぎ、最寄り駅に着き、近くの公園の桜の美しさに和まされながらイナルコに到着した。いちばん初めの学部三年の日本語文法の授業では、まず学生たちのレベルの高さに驚く。Amphithéâtreと呼ばれる階段教室で、先生は順番に学生たちを当てていくが、どの学生も日本語のイントネーションや漢字の読み、訳などがとても良くできていて、その完成度の高さからは、その裏にある彼らの意欲や努力が伝わってくるようだった。この日のテーマは日本語のモダリティで、「~だったはずだ」「道理で~なわけだ」などの用法について解説がなされていた。理論的に日本語を習得していない自分にとっても面白い発見が数多くある授業であり、それからしばらくはフランス語と日本語という二つの言語について、そして「翻訳」について改めて考えを巡らせることとなった。

翻訳とは単なる言語の変換作業ではなく、ある文章や言葉の芯や核のようなものを守りながら、それをそのままもう一つの言語に移植し、言葉を紡ぐことだと私は思う。たとえばフランス語を日本語に訳した場合、日本語というベールに包まれながらも、その下にはフランス語という言語がしっかりと根を張って生きていなければならない、という感じだ。また、同じくフランス語を学んでいる友人の言葉を借りると、「翻訳とは、海に潜るイメージ」だそうだ。彼は二つの言語を二つの島に例えていた。翻訳をするときは、フランス語島と日本語島の間にある海に飛び込み、海底まで言葉を探しに潜っていって、そこで意味を見つけたら陸に上がって、もう一つの言語にそれを当てはめるのだという(個人的にはとてもわかりやすいと思ったし、共感したのでここに載せることを許可してもらった)。イナルコの授業に話を戻すと、これは朝の文法の授業だけでなく午後の仏文和訳の授業でも感じたことだが、どれだけ頭をひねっても、どうしてもうまく訳せない言葉というのはある。ニュアンスをうまく映し出せない、という方が正確だろうか。しかしその訳せない部分こそが、ある言語をその言語たらしめるものであり、それぞれの言語を色づけるものなのだろう。

私は言葉が好きだ。「言葉が好き」というのはなんだか曖昧な感じがするが、そもそも言葉というのは、本当は曖昧なものなのではないかと思う。ソシュールの記号論の話を聞いて、シニフィアンとシニフィエとの結びつきは絶対的なものではないのだと知ったときから、さらに言葉に興味を持つようになった。もしかしたら、今自分が発している言葉は何の意味も持っていないのかもしれないし、あの人の「うれしい」とわたしの「うれしい」が同じものを指していない可能性だってある。こうした曖昧なものでありながら、しかし、言葉には絶対的な力があるとも感じる。たった一つの単語でいきなり景色が開けたり、心が動いたりする。曖昧なのに絶対的で、脆いのに強い。だから言葉は面白いし、このよくわからない二面性に、私はずっと惹かれているのだと思う。


(イナルコの近くの公園にて。美しい桜に目を奪われた。なぜか桜は日本独特のもの、と思い込んでいたが、よく見てみると、いろいろなところで咲いていることに気がつく。

続く国際政治の授業では、学生による発表が二つ用意されていた。一組目はベトナムと日本の外交関係について、二組目は北朝鮮と日本の国交正常化についてがテーマであったが、発表の内容以上に、印象的だったのは先生のコメントである。発表中、その先生は時折(二組目に関しては頻繁に)指摘をしていたが、それはテーマに関する具体的なものではなく、発表の仕方についてだった。例えば、年号とともに出来事を羅列していた場合には、「ただ時系列に並べるのではなく、一つ一つに意味を与えなさい」。 Donnez le sens.「意味を与えなさい」と、彼女は何度も言っていた。そして彼女がもう一つ強調していたのが、事実をただ並べ立てるような「描写的」な発表にするなということだった。

これはそのまま自分にも当てはまることで、自分が今まで大学でしてきた発表はどのようなものだったか、と振り返るきっかけになった。授業で、ある本についてまとめて発表することになったときに、私がしたのはそれこそ「描写的」に、本の内容をわかりやすくまとめて話しただけではなかっただろうか。内容を頭に入れ、できるだけ自分の言葉で話すように心がけているつもりでも、結局は自分の声を使って本の内容を伝えただけにすぎなかったのではないだろうか。では、「描写的」ではなく、情報の提供に終わらないような発表をするにはどうしたらいいのだろう。と、しばらく考えたところで、彼女が何度も言っていた「意味を与える」ということがその答えなのかもしれないと気がついた。意味を与えるためには、その内容を一度しっかりと自分の身体と心のなかに入れて、分解し、吸収してから、もう一度創り上げて外に出す必要がある。こう書くとなんだか大げさに見えるが、自分の言葉で話すというのは本来そういうことなのかもしれない。自分の言葉で、自分で意味を与えながら話すこと。発表だけでなく、これからの勉強や、人前で話すときにも参考になる良い発見を得た授業であった。

【ジュール・フェリー高校見学】

3月17日、パリ郊外のジュール・フェリー高校を訪問し、文学や哲学、法律の授業を見学してきた。日仏間の教育制度の違いはいくつもあるが、なかでも重要なのは、フランスの高校では哲学の授業が必修であることだろう。バカロレア(大学入学資格試験)では文系・理系を問わず全員に哲学の論文試験が課せられる。近年出題された問題は、「芸術家はその作品の主人なのか」 (L’artiste est-il maître de son œuvre ?)、「我々は常に自身が欲するものを知っているのか」(Savons-nous toujours ce que nous désirons ?)、「人は自らの過去の所産なのか」(Suis-je ce que mon passé a fait de moi ?) などが挙げられるが、これらを、高校を卒業したばかりの学生たちが論述するというのだから驚きだ。

この日の哲学の授業は、「人は幸せになるためにつくられたのか」という命題に対して、エピクロスの四つの命題「神々を恐れるなかれ」「死を恐れるなかれ」「幸福に到達するのは容易なことである」「苦痛とは常に耐えられるものである」が挙げられ、それらをもとに論が展開されていた。活発で、表情豊かに話し続ける先生は、時々教室を歩き回り、生徒に質問を投げかける。それに対して生徒たちも自由に意見を述べ、質問をする。一言で言うと、とても面白い授業だった。


哲学の授業。「身体を通して」発される彼女の言葉に惹きつけられる。

なぜ面白く感じるんだろう、と思いながら、相変わらずはつらつと授業を続ける先生を見ていると、数日前にイナルコの先生が言っていた、「「描写的」になるな」という言葉がふと頭に浮かんだ。その先生は、まさしく、自分の身体と心をつかって哲学の授業をしていた。だから彼女の話は聞いていて飽きないし、彼女の言葉はすっと頭に入ってくるのだと気がつく。この授業では、「エピクロスは、ヘレニズム時代のギリシアの哲学者であり、魂の平安を得ることを理想とした」というただの知識の習得に終わるのではなく、2000年以上も前に存在したエピクロスという人の考え方をもとに、全員が自らの頭をつかって思考していた。それは、この後に見学したもう一つの哲学の授業に関しても同じで、ルソーの社会契約論を読みながら、権利や義務についてそれぞれが考えを巡らせていた。哲学を「する」という言葉が正しいのかはわからないが、これら二つの授業で見たのは、まさにそういうことだった。彼らは先生から哲学を教わるというよりも、一人一人がエピクロスやルソーと一緒に思考し、哲学をしているように私には見えた。

首都大やレンヌ第二大学の授業で、ディセルタシオン(小論文)の書き方を学んだときから、このような主体的な思考力がフランスという国を作ってきたのだということは意識していたが、それが教育の現場で、どのように実践されているかをやっと目の当たりにできた瞬間であった。以前も留学滞在記で同じことを書いたが、「国」をつくるのが、そこに住む人であり、彼らのものの考え方であり、その表明の仕方であるとするなら、それを養う「教育」の力は限りなく大きい。答えのない問題に対して、自らの頭を使って主体的かつ論理的に思考する力や、そうして生まれた考えを筋道立てて表明する力を養う哲学の授業は、フランスという国を支える、重要な教育制度なのだと強く感じた。

そして、ジュール・フェリー高校の訪問では、授業見学だけでなく、発表する機会をいただくことができた。内容は自分の卒論のテーマでもある「ボードレールにおける匂いの役割」で、『悪の華』の「万物照応」correspondances で提示されている複数の主題を分析し、それらに匂いがどのように関わっているのかを読み解くというもの。私はもともと緊張しやすい方ではあるが、フランス文学について、フランスの高校生35人の前で発表するということで、始まる前はかなり緊張していた。



しかし、自己紹介を終え、話し始めると、意外にも自分が落ち着いていることに気がついた。率直に言って、自分でも何であんなに落ち着いていたのかよくわからないが、自分の知らなかった自分が顔を出したようでなんだか不思議な感じだった。とはいえ、私が平常心で発表できたのは、クラスの雰囲気や、生徒たちの真剣なまなざしによるものが大きかったのだと思う。顔を上げると、メモをとったり、こちらをじっと見つめながら話を聞いてくれる生徒たちがいて、彼らの醸し出すその真剣な雰囲気に勇気づけられたのだろう。

質疑応答では、「どうしてボードレールを選んだのか」「なぜ匂いというテーマにしたのか」、「パトリック・ジュースキントの『香水』についてどう思うか」など様々な質問が投げかけられたが、それらの質問に答えることで、自分がボードレールに惹かれたきっかけや、匂いに興味を持つことになった作品についてもう一度考える機会にもなった。改善点や反省点は山のようにあり、発表を終えてから、「あれを言えばよかった、こうすればよかった」と小さな後悔たちがふつふつと押し寄せてきたが、それは今後の課題にしたい。何より、自分が数ヶ月間真剣に取り組んできたことを、このようなかたちで誰かに伝えることができたのは、何ものにも代え難い、本当に貴重な経験となった。


文学クラスでの発表。真剣に耳を傾けてくれた生徒たちに感謝したい。このような経験ができたことで、自分の卒論に対する思い入れが強くなったのと同時に、今後の研究への意欲が高まったように感じる。

このような発表の機会を与えてくださった西山先生とベルクマン先生、原稿の添削をしてくださったグロワザール先生、日本からあたたかく応援してくださった藤原先生、そして発表の練習に付き合ってくれた友人たちに、この場をお借りして心から感謝申し上げます。学部の終わりであると同時に修士の始まりでもあるこの時期に、このような素晴らしい経験ができたことを幸福に思います。本当にありがとうございました。

【滞在の終わりに】

滞在も終盤に差し掛かったころ、一人でポンピドゥーセンターへ行ってきた。印象に残った作品はいくつかあるが、いちばん記憶に色濃く残っているのは、5階の外から見渡したパリの景色だ。4年前はモンパルナスタワーからパリの街を一望したんだったな、と思い出すと、4年前の情景と今目の前にある情景が少し重なって見えた。


(「すべての旅には、旅人自身も気づいていない秘密の目的地がある。」──ドロシー・サンダース)

今回の滞在中は、4年前のことを思い出さずにはいられなかった。たとえば、4年前、パリで出会った女性に、「ある言葉一つをとってもね、その言葉を知る前のあなたと知ったあとのあなたは、もう同じあなたじゃないのよ」と言われたこともそうだ。あれから私はたくさんの人やもの、出来事、言葉に出会ってきた。だから自分ががらっと変わったかと言われれば、そんなことはないのだが、それでも、自分のなかで見え方が変わったことはいくつかある。最後に、それを実感した出来事を綴ってこの滞在記を終わりにしたい。

3月16日の夜、イナルコである映画の上映会があった。「ほんとうのうた~朗読劇『銀河鉄道の夜』を追って~」と名付けられたこの作品は、ある朗読劇のグループの、全国各地をめぐる旅を追ったドキュメンタリーである。その朗読劇とは、小説家・劇作家である古川日出夫が、東日本大震災後に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を戯曲化したもので、詩人の菅啓次郎、音楽家・小島ケイタニーラブ、翻訳家・柴田元幸とともに作り上げたものだ。4年前の国際シンポジウムも、テーマは東日本大震災だった。



4年が経ち、同じプログラムで再びパリを訪れ、しかし今度は全く違う角度から、震災について考えることとなった。4年前、シンポジウムが終わった後の夜のミーティングで、いつものように一人ずつ感想を言うとき、内容についてはあまり理解できなかった私は、恥ずかしながら、「そもそも、どうして答えのないものに対して問いをたてるのかがわからない」というようなことを言った覚えがある。今考えると、本当に馬鹿なことを言ってしまったと思って猛省しているのだが、当時の私にはそれが素直な疑問であった。だが、今ならそれがわかる気がする。大切なのは、自ら問いをたて、その問いに対してあらゆる角度から思考を重ねることなのではないか。必ずしも答えを見つける必要はない、というのが今のところの私の答えだ。私はこれから大学院で2年間、フランス文学を研究する。文学という「答えのないもの」と向き合っていくのだ。

菅啓二郎さんが、ドキュメンタリーのなかで、「この劇が何の役に立つかはわからないが、元来交わらない人とともに何かをすることで、これまで自分が見ていなかった世界の層が見えるようになる」と語っていた。「これまで自分が見ていなかった世界の層」という言葉が、それからずっと胸に残っている。様々な問いに対して思考を重ねたり、文学作品の世界に入り込み、違う誰かの人生を生きてみることは、その「これまで見ていなかった世界の層」を見ることを可能にし、自らを豊かにしてくれるのではないだろうか。そして、それが文学の魅力であるのだろうし、人文学のもつ強さなのだと思う。

以上のように、レンヌ訪問やイナルコ見学、高校での発表や授業見学など、約2週間、非常に密度の濃い時間を過ごすことができました。終わりであり、始まりでもあるこの春に、再びフランスに来られて本当によかったと心から思います。最後になりましたが、まずは、このような思考と発見に溢れた「旅」を経験させてくださった西山先生に心から感謝を申し上げます。そして、パリでご同行してくださった藤原先生をはじめとして陰で支えてくださった仏文の先生方、パリで面倒を見てくださった八木さん、レンヌで私たちを迎えてくれた留学生4人にも感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。


朝、アパルトマンにて。西山先生、2年生のみなさん、本当にありがとうございました。

佐藤理紗(仏文2年)

佐藤理紗(仏文2年)



はじめに

 今回2週間に及ぶフランスでの国際交流プログラムに参加させていただいた。部屋にこもっていてはもったいないと思わせるようなフランスの街並みと大学や高校の授業見学など、盛りだくさんなプログラムのおかげで非常に刺激的な時間を過ごすことができた。その中で日本とフランスというふたつの国を比較しながら、自分の日本での生活がフランスのようになったらどうだろうかということを考える機会が多かった。この滞在記ではそのことを中心に綴っていこうと思う。

フランス到着

空港から電車でホテル近くのEdgar Quinet駅に着いた。駅を出ると、ガイドブックや映画の中に出て来た景色が広がっていた。最初はよくできたテーマパークに来たのではないかという気がしてしまい、フランスにいるという実感がなかったが、石畳みの上を歩く新鮮さや、街を歩いていると聞こえてくるフランス語が、ここがフランスだと思わせてくれた。


(ホテルからの眺め)

パリ市内散策

一日目は先生に案内されながらパリの街を歩いて周った。散策を始めたのが朝8時頃だったため、お店がほとんど閉まっていた。イメージしていた活気あふれるパリの様子とはまた違った一面を見ることができた。10時頃になるとお店が開き始め、だんだんと街が活気づいていくのを感じた。

パリ市内を周って特に印象的だったのは強制収容所犠牲者記念碑だ。それはパリの中心部である、シテ島の市庁舎近くにあった。


(記念碑の壁に刻まれたメッセージ)

Pardonne. N'oublie pas... (赦しなさい、忘れないで)

メモリアルの中にはユダヤ人達に対する謝罪の言葉や自分達の過ちを忘れないといったメッセージが刻まれていた。フランスは戦勝国であるが、自分達の犯したことをしっかりと胸に刻んで同じことを繰り返さないという強い思いを持っている。日本はどうだろう。日本が外国との関係で抱えている問題はいくつもあるが、それらを過去のこととして処理してしまっているような気がする。時にそれは必要なことかもしれないが、過去は過去でも忘れてはいけない過去がある。留学中、たくさんの国の学生と会うことになる。その中で自分の国がしたことについてしっかりと自覚しておかないといけない場面がきっとあるだろう。ユダヤ人強制輸送という今のパリからは想像できないような事実を隠すことなく、受け入れる姿勢からフランスの強さと日本の見習うべき点が見えた。

レンヌ

パリで一泊した後、協定校であるレンヌ第2大学での発表に向けてTGVでレンヌへ出発した。レンヌはイル川とヴィレーヌ川が合流するところに位置する、ブルターニュ地方の中心都市。パリからTGVで2時間ほどで着く。TGVから見た景色はいかにもヨーロッパの田舎という風景で、パリの優美な都とは一転、広大な草原とそこにポツンポツンと立つ三角屋根の家がかわいらしかった。ところどころ集落があり、その中心には必ず教会が立っている。宗教が生活の中心に位置していたことがよくわかる。

そんな田舎の風景とは違い、レンヌの街は現代的な建物と木組みの建物そしてパリのような古く、装飾に凝った建物が並んでいた。建物が均整のとれた並び方をしていないせいか、パリにいたときよりも緊迫感がなく、落ち着いた雰囲気で住みやすそうな街であった。


(レンヌの街並み)

レンヌ第2大学

日本語のクラスにお邪魔して大学生活についてと東京について発表した。かなり賑やかなクラスもあったが、発表が始まるとなると必ず誰かが「シーッ」と合図し、聞く体制になる。その光景が懐かしいような気がした。小学生の頃、みんなで声を掛け合って毎回の授業を楽しみながら一生懸命に先生の話を聞いていた。だんだんと大きくなっていくにつれて、昔できていた大切なことができなくなっていたとそのとき気づかされた。また、ひとつ目のクラスでは私が一生懸命話を聞こうと思ってもフランス人同士で話しているか、フランス語ができる鈴木さんにしか話が向かず、なかなかコミュニケーションをとる隙を得ることができなかった。今まで首都大に来ていたフランスの学生は何人かいたが、彼らに自分から話しかけたり、気にしてあげたりすることはあまりできていなかった。しかし今回自分が留学生と同じような立場になってみて、彼らがどれだけ孤独で辛かったのだろうかということが少しわかった。せっかく首都大を紹介したのだからフランスから来る学生を受け入れる体制を作っていかなければならないと感じた。



語学学校CIREFEの授業も見学させてもらうことができた。CIREFEには色々な国籍の学生がいる。クラス編成の際、コミュニケーションをとるのに必然的にフランス語を使うようにクラスの中であまり同じ国籍の人同士が固まらないように配慮されている。今回見学させてもらったのはB2のクラスで、日本人は1人しかいなかった。その中で他の学生と上手くやっていくためには言語力だけではなく、コミュニケーション力が必要だと感じた。また、外国の学生は先生の話を聞いてすぐに質問し返す瞬発力と自分から手を挙げて発言する積極性があり、日本とは違ってみんなでひとつの授業を作り上げていくという雰囲気があった。普段の大学での授業はほとんどが先生の話をただ聞くだけというものが多く、質問する時間があっても質問する学生はほとんどいない。というより、質問しづらい雰囲気がある。しかし、ここは学生の発言によって授業が作り上げられていくという感じがあり、日本の授業よりも居心地が良さそうであった。

レンヌ大学を訪問した後、レンヌ大学の国際課の方々と食事をした。留学前の手続きを担当してくださるグエナエルさんと、留学中にサポートしてくださるケリーグさんともお話しすることができた。二人とも温かく、「わからないことがあったら何でも聞いて」と言ってくださり、わからないことだらけの留学も誰か頼れる相手がいるとわかって安心した。


(大学学食の定食)

私は今年の夏から約1年この街で過ごすことになる。留学に行く前にその街を歩き、雰囲気を味わうことができたことやお世話になる大学の語学学校の授業を見学できたこと、そしてレンヌに留学中の先輩方に会って今の心境を聞くことができたことは本当にありがたかった。これからあと半年間、留学に向けて自分なりに努力しようと気が引き締まった。また先輩方の生き生きとした、しっかりとした表情がとても印象的で、ここに来て色々なものに揉まれながら生活していれば、私もこうなれるのだろうかという期待と不安が心の中に生まれた。

再びパリへ

地方からパリに戻って来ると、ピリッとした緊張感を改めて感じた。高級感のある店が立ち並び、景観を意識した均整のとれた街並みが地方の穏やかな空気とは違った、思わず身を引き締めさせるような雰囲気を醸し出しているのだ。しかし、そんな高級感あふれる街の中には日々の食事に困って通り過ぎていく人々に助けを乞う人もいる。パリはレンヌやヴァンヌよりも物乞いをする人達が多い。一見すると昼間から優雅にカフェでコーヒーを飲む余裕のある人々が集う豊かな地域に見えるが、一方でその華やかな社会から疎外されている人達がいることも事実である。しかし、彼らがもつ紙コップの中が空っぽであることはめったにない。重たい荷物を持って電車に乗り込もうとしていたら手を貸してくれたり、ホームとの段差がる電車からベビーカーを下ろすのにみんなで協力したり、駅で切符を買う観光客に「10枚一気に買った方がお得だ」と教える人がいたり、フランスは助け合いの精神で成り立っていると感じた。

パリに戻ってきた次の日は元・首都大生で現在はパリの大学院に通っている八木さんにパリを案内してもらった。先生と事前に打ち合わせをして、徹夜で色々な情報を調べてきてくれたらしく、ただ見るだけで終わりにならないように八木さんなりの解説をしてくれた。そのおかげで考えさせられることも多くあり、今回一緒にパリの街を歩いてお話しできたことは貴重な経験であった。


(サント・シャペル。「愛しすぎるということがないのと同様に、祈りすぎるということはない。」──ユゴー)

(バスティーユ広場)

(ポンピドゥーセンター)

 パリで一週間過ごすうちにたくさんの教会を見に行った。その中で一番印象に残ったのはサン・シュルピス教会だ。この教会は6世紀の大司教聖シュルピスにささげられた教会で現在の建物は16世紀にルイ13世の妃アンヌ・ドートリッシュの命で建てられたもの。6人の建築家で100年以上の歳月を費やし、パリ屈指の規模を誇る古典様式の教会を落成したが、実は正面向かって右の塔は未完成だ。内部にはドラクロワの宗教画を始めとした様々な壁画がある。それぞれ絵のタッチが違うため、比べてみると非常に面白い。まるで美術館のようである。パリにはほかにもたくさんの教会があるが、ここまで壁画が特徴的な教会は少ない。


(サン・シュルピス教会)

(ドラクロワの作品『悪魔を撃つ大天使ミカエル』)

 フランスには至る所に教会があり、その一つ一つ違う雰囲気がある。教会は日本でいうお寺や神社のようなものだが、有名な教会でも無料で入ることができるのは素晴らしいことだ。教会はすべての人に開かれた場所であるという威厳が今も保たれているのだ。

イナルコ見学

最初に見学させてもらったのは文法の授業。3年生というだけあって非常にレベルが高く、例文に書かれた漢字を先生の助けなしに難なく読んでいたのには驚いた。その授業でやっていたのはひとつの文章をいくつかのモードに分解して理解しようということだった。私たちが感覚的に使っているような言葉もしっかりと意味付けされていて、日本人よりも彼らの方が日本語の文法に詳しいだろうと思うほどであった。しかし、私たちがフランス語を勉強する際にも同じように文章を分解して一つ一つの単語の意味や役割をとらえて理解しようとする。他言語の学習はどの国でも同じところからスタートするのだ。その国の言葉を感覚的にとらえられるのはその言葉を母語とするひとだけである。日本人だから英語やフランス語が苦手というわけではなく、どの国の人も他の言語を習得する際には苦労するのだ。そう考えると、励まされたような気持になった。

二つ目は国際政治の授業。その回は学生による発表の回であった。プレゼンに慣れた様子で発表していた学生も終わった後のフィードバックでかなり先生から厳しいコメントを受けていた。ただ出来事を羅列するではなく、なぜその事実を取り上げたのか、取り上げた事実がそれぞれどう結びついているのか、意味づけをしなさいとの指摘だった。もう一つ先生からのコメントで印象的だったのは事実をただ事実として取り込むのではなく、一度自分のものにしてから説明するということだった。それは大学の授業で発表する際、ただ与えられた資料を読んで要点だけをまとめて満足していた自分にも刺さるコメントだった。

三つ目は和文仏訳の授業。こちらは日本人の先生であった。日本人が日本語を外国人に教えるというのは非常に難しい。なぜなら私たちは日本語の文法や言葉一つ一つの役割をきちんと理解せずに日本語を使っているからだ。しかし、その先生は生徒たちの質問に瞬時に答えていて、フランス人が間違えやすいポイントをしっかりと理解しているようであった。生徒たちもひとつの答えに満足せず、自分が考えてきた答えがあっているかどうか積極的に確認していこうという姿勢であった。同じ意味の文でも言い方はひとつではない。授業の中でひとつひとつ確認していくこと疑問をつぶしていけるし、使えるフレーズの幅も広がる。ひとつだけ答えを出して色々な問題に触れた方がテンポよく授業が進むが、じっくり考えていくつかのパターンを身につけていく方が応用力が身につきそうだ。

最後に見学させてもらったのは「社会と法律」という授業だった。この授業で印象的だったのは、ほとんどの学生がパソコンを開き、先生の言葉を一言一句聞き漏らさないというくらいものすごいスピードでノートテイキングしていたことだ。おそらく、生徒たちはメモではなく先生の言葉をそのままタイプしていた。そうすることで自然と先生の言葉が染みつき、わかりやすく説明する力が身につくのだろう。日本ではほとんどの授業でレジュメが配られ、そこにはメモする必要もないくらいに情報が載っている。しかし、フランスの大学ではほぼすべての授業でレジュメのようなものが配られることはないという。日本とフランスでは学生たちの学ぶ姿勢だけでなく、学ぶための基礎体力にもだいぶ差があるようだ。

『ほんとうのうた』鑑賞会

東日本大震災から5年が経った。私からしてみればもう5年という感覚で記憶の奥の方に向かいつつあるが、被災した人達からしてみれば、いつも昨日のことのような感覚なのかもしれない。私の住んでいるところは地震が発生したときには大きな揺れがあったものの、そこまで影響がなかったためなんとなく遠くのことのように感じてしまっていたが、自分のことのように受け止め、言葉を失ってしまうほどのショックを受けた人たちがいたことに自分のふがいなさを感じた。映画中の詩人・古川日出男さんの言葉はひとつひとつ魂が込められていた。ただ単に並んだ文字をそれっぽく読み上げるのではなく、その言葉に込めた感情や思いを自分の声と体で表現していた。言葉は人に大きな影響を与える。良いようにも、悪いようにも。被災地で震災を思わせる朗読劇をするのに、言葉ひとつひとつ選ぶのには相当な神経を使っただろう。自分のためではなく他の誰かのために答えのない旅を続ける。彼らがやっていることはそんな、とてもしんどいことだ。それでも彼らが続けるのは文学の力、言葉の力を信じているからだろう。人々に、忘れてはいけない、自分たちの手ではどうにも抑えることのできない力というものがあるけれども、それを乗り越えることはできるというメッセージを伝えるために彼らは言葉という手段を選んだのだ。そして、その経験を通して彼ら自身もこれまでの自分の作品との向き合い方や考え方が変わってきて、詩人や音楽家、作家として新たな自分を見つける良いきっかけになっているのだ。この鑑賞会に参加して、忘れかけていた、忘れてはいけないことを思い出す良いきっかけを得ることができた。

Jule Ferry高校見学

まず最初に見せてもらったのは職員室だ。フランスの高校の職員室には先生たち一人ひとりの机がなく、ロッカーといくつかの丸テーブルと椅子が置いてあるだけで、まるで休憩室のようである。そのため先生同士のコミュニケーションが取りやすい。フランスの先生たちは学校に来て授業をし、授業が終わったら帰りたいときに帰る。そのため、個々の机は必要ないのだ。日本の高校では、先生たちは朝早くに学校に来て会議をし、放課後も部活動を見るために遅くに帰る。部活動に力を入れている学校だと、先生も土日にほとんど休みがないような状況だ。ある先生にそのことを伝えるとありえないと言っていた。高校生のとき、勉強以外のことに時間をかけられるのはありがたかったが、先生たちからしてみればものすごい負担だったと思う。部活動で名を挙げていれば、進学できてしまうというシステムがあるからそういうことになってしまうのだろうが、それでは勉強する意味もないし、先生たちの負担が非常に大きい。授業で使う教科書も自分で決められなかったり、土日も休めなかったりするような先生たちの状況が少しでも変われば、授業の準備に時間をかけることができ、教育の質もあがるだろう。先生は立派な職業であり、ボランティアではないのだからそれ相応の給与や休暇が必要だ。日本とは違う教育の現場を見て、日本の先生たちの大変さを知った。



・鈴木さんの発表
始まる前は緊張していると言っていた鈴木さんであったが、発表の際には非常に落ち着いて、堂々としていた。学生達もそんな彼女の発表を集中して聞いていた。あれだけ話せて、質疑応答も難なくこなすことのできるほどの力があれば同じ場所にいてもきっと吸収できる情報の量も質も全く違うだろう。目標にすべき存在が近くにいることを嬉しく思う。

・哲学の授業
文系と理系2つの授業を見学させていただいた。日本の高校には哲学の授業はなく、倫理で少し触れるくらいで大学に来て哲学に触れる機会が増えたものの、それについて自分なりに深く考えるということは未だにできていないと感じる。印象的だったのは理系のクラスの授業で女性の先生が哲学を教えていることだった。そしてその先生はハキハキとした大きな声で、プレゼンをするかのように授業をしていた。教科書を持たず、教室の中を歩き回って、生徒たちと目を合わせながら自分の中にある知識や自分なりの解釈を体全体で表現する。生徒たちも先生と一緒に考え、瞬時に反応する。どんな質問が飛んで来ても、先生はわかりやすく具体的に解釈してくれる。そういう柔軟な対応ができるのは先生が知識を自分のものにしているからだろう。先生が用意した授業を受身的に受けるのではなく、生徒も一緒になって授業を作り上げていく。そこが日本との大きな違いだ。

哲学の授業は三段論法に従って行われており、生徒たちが論理的な思考力を身につけるのに適した構成になっている。フランスにはバカロレアという高校卒業試験がある。この試験には哲学も科目のうちに含まれており、ある問いについて自分の考えを述べる論述式の問題となっている。初めてバカロレアの試験について知ったときは知識だけでなく、論理性も求められるということは非常に難しいだろうと思ったが、普段の授業で自然と身についていくのだということがわかった。要点をまとめて知識として定着させる日本の学習方法も効率的で良いと思うが、高校生までに知識をもとにある問題について自分なりの意見を論理的に説明する能力を身につけることができるフランスの教育のほうが思考力が身につくという点で優っていると感じた。

フランスと日本を比べて

二週間のうちに日本にはなくてフランスにはあるものをたくさん目にした。まず全く知らない人とでも交流しやすい雰囲気があるということだ。TGVの待合室で向かい合わせの席に座っていた男性が、「中国人?それとも日本人?韓国人?」と聞いてきて、そこから少しだけ会話をした。つたないフランス語で聞き取りもろくにできないが、なんとかコミュニケーションすることができた。帰るときには笑顔で手を振ってくれ、ちょっとしたことでも会話して仲良くなれる環境はうらやましいと感じた。

次に日本と大きく違うのは労働者の立場だ。スーパーやコンビニの店員は椅子に座ってレジを打つ。しゃべりたいときにしゃべり、客に聞かれたら答えるというスタイルだ。日本はお客様優位の文化であるため、お客様に失礼のないようにということを常に考えてサービスを提供する。しかし、サービス向上を目指すがゆえに宅配業者の細かい時間割配送のような無駄な労働を生んでしまっている。空港で手荷物を預けるのにたらい回しにされたのには参ったが、日本ももう少し労働者目線で世の中のシステムを作っていってもいいのではないかという気がする。日本はなんでもきっちりかっちり決めようとしすぎて無駄にストレスを感じてしまう。日本にいるときは毎日のように電車が遅れることにイライラすることが多かった。しかし、フランスに来てからは電車が遅れてイライラすることはなかった。なぜならフランスの電車の時刻は始発と終電の時間しか決まっていないからだ。そもそもいつ来るのかがわからないので電車が遅れているという感覚もない。日本には日本のシステムがある程度構築されてしまっているため、今更大々的に変えるのはむずかしことかもしれないが、もっと柔軟になれたら、日々の生活のストレスが少しは減るのかもしれないと感じた。日本がフランスに学ぶべき点は多いのではないだろうか。

おわりに

 この滞在記の中に載せきれないほどたくさんのものを見て、色々なことを考えたり、感じたりした、非常に中身の濃い二週間だった。その中でフランスの良いところや日本の課題に気づいたり、自分の学ぶ姿勢や他人とのかかわり方について改善すべき点を見つけたりすることができた。また人と人との繋がりの大切さを強く感じた。今回このような経験ができたのはプログラムのすべての計画を立ててくれた西山先生が色々な人たちに声をかけてくださったおかげである。

最後にこのプログラムに携わってくれたすべての方に感謝申し上げたい。プログラムに協力してくださったレンヌ大学の先生方や学生、国際課の皆様、Lycée Jule Ferryの先生方や学生の皆様、留学先での生活を案内してくださり、また留学中のアドバイスをしてくださったレンヌ大学に留学中の先輩方、プログラムの全過程に同行し、サポートしてくださった鈴木さん、忙しい中パリの街を案内してくださったり、経験豊富なお話を聞かせてくださった八木さん、そしてプログラムのすべてを企画し、貴重な機会を与えてくださった西山先生、本当にありがとうございました。

田中恭平(仏文2年)

田中恭平(仏文2年)



旅のはじまり


出発の日、羽田国際空港に随分早くついてしまった。パリでは国際哲学コレージュの授業を聴講すると事前に聞いていたので、西山先生の著書『哲学への権利』をターミナルでずっと読んでいた(この本は国際哲学コレージュのディレクター経験者に西山先生がインタビューした記録とエッセイである)。その本の前書きの、西山先生の言葉に強い衝撃を受けて、そこから先は夢中で読んだ。

深夜の便に乗り、翌朝未明シャルルドゴール空港に降り立つ。空港では卒業生八木さんの歓待を受け、パリ市内モンパルナスのダンフェール=ロシュロー駅近くのホテルへ。荷物を置き、さっそく市内散策に繰り出した。5区デカルト通りにある国民教育省の施設、その近くの『方法』というカフェを見る。本の中で読んだ街並みが一気にリアリティを持ち始める。黄色のテントがせり出した本屋(ジベール)、ソルボンヌ大学、マルシェで買ってかじったいちご、サン=ミシェル通りの散策は快楽に満ちている。なんてリッチな気分だろう。パリの街には広場がある。関係が生まれるための場所がある。権力と民衆、団体と団体、孤独と孤独、自己と他者、スペクタクルと観客が、広場で出会い、関係を持つ。だからパリは広いと感じた。公園で憩う人々にも余裕を感じた。すべての街路には名前が付いている。サルトルやカミュ、ピカソ、エリュアールがいたカフェ、ジャンケレヴィッチが住んでいた家。地図を見ながら歩くだけで、この都市に集積してきた歴史が一挙に並置されているかのような気分になる。



セーヌ川が見えるカフェで、エスプレッソを飲んだ。トリュフ・チョコレートとの組み合わせが抜群で、安くて美味しい。一服が終わると、シテ島の突端部にある強制収容所犠牲者記念碑に入る。入り口には内側がトゲのようにせり出した鉄格子がある。その向こうではセーヌ川の水がすぐ近くでたゆたっている。近くて、遠いセーヌ川。虐殺されていった彼らが鉄格子越しに見ていた最後の風景なのだろうか。地面のタイルまで、その溝が鉄格子に見えてきた。施設の中には、フランス国内で連行されたユダヤ人の数を血のように赤い文字でカウントした図や、虐殺された人々の名前を記した巨大な墓碑があった。壁面にはエリュアールやサン=テグジュペリの詩が刻まれている。特に印象的だったのは、入り口頭上に刻まれた「赦しなさい、忘れないで」という文字だ。その文字をくぐってメモリアルを出る。戦後秩序の中でフランスは戦勝国であり、ユダヤ人はマイノリティであり、そしてここはパリのど真ん中である。それに比べて日本が過去の戦争を反省していないなどと言っているのではない。そうではなくて、彼らは反省や政治的アピールを超えて、犠牲者の痛みを、二度と繰り返したくない悪夢を、ナチスドイツではなく人間そのものの内に潜むあの凡庸悪を、刻みつけ、覚えておこうとしているということだ。海外から来た我々にもそれが一目で伝わる。「愛するあの人が世界から消えた私たちの悲しみ」と「そういう世界が悲しい」という2つの次元が二重になっていた。だから立場を超えて、私にも痛み(悼み)の片鱗のごときものを共にできるのかもしれない。



さて、しばらく歩き、ノートルダム大聖堂の横の道を歩いていたときだった。向こうから3人の女性たちが、何かを叫びながら、アンケート用紙のようなものを貼り付けた板をもって僕に突進してきた。あっけに取られていると、僕を取り囲んだ。私は出発前のミーティングで彼らの手口を聞いていたから、あまりにも言われた通りの展開に驚いた。先生や女子たちはもう先に行っている。男子二人は最後尾を歩くことになっていたのだ。彼女たちのひとりが私のポケットの中に手を入れ、私の財布を掴んだ。私は彼女の手首を掴んで「これは僕のものだ」と言った。通じたのかどうかは分からない。私は彼女があまりにも必死なので、刹那、この財布を彼女に渡そうかと思った。実は、現金はすべて別の封筒に入れてリュックの奥にしまってあったから、この財布を渡しても実害はあまりない。それより、このまま手を掴んでいる方が危険かもしれない。自分が彼女くらいの歳のとき、ぬるま湯の中で育ったこと、彼らについて抽象度を下げて考えたことなど、まるで無かったことを恥じる。彼女はどうやら小銭入れかなにかを開けようとしているらしい。そこに入っている何ユーロかの小銭で彼女たちはその日暮らしをしているのだろうか。しばらく揉み合っていると、他の二人は走って逃げてしまった。それに気づいたのであろう。彼女は最後に強く引っ張って駆け出した。私の財布は地面に落ち、それを拾いあげると、「この財布はここに落ちていたのよ。だから私が拾ってあげたんだ」と私に念を押した。私は「分かった」と言い、それ以上追うことはしなかった。その後に入ったノートルダム大聖堂で、聖人たちそれぞれに割り振られた豪奢なチャペルを見つめながら、大聖堂の横で起きたスリまがいの経験のことを私はずっと考えていた。昼食はケバブだった。藤原先生と夕食を食べ、フライトの疲れが私を強制的に連れ去った。

レンヌへ

朝起きて、レンヌ行きのTGVを待っていると、駅の中で興味深い機械を見つけた。自転車と充電器が一体になっている。これは、「携帯の充電をしたいとき自分で自転車を漕ぐ機械」である。観察すれば誰でもすぐに分かることだが、トイレは有料(パリ市内の路上にある自動洗浄式のものは無料、お店では注文をするとコインがもらえるところもある)だし、歩行者は赤信号で止まらないこともある。地下鉄のドアを開けるのも最終的には人力(自分のタイミングでボタンを押す)である。レジを打つ店員さんは椅子に座っているし、メトロには始発と終電以外の時刻表がない(だって数分おきに電車はくるのだから!)。パリを動かしているシステムは、あくまで人間性が失われない範囲に厳しく留まっている。車が一台も来ていないとき、人間が赤信号をひたすら待っているというのはパリにおいて珍しいだろう。私も日本の小売店でバイトをしていたときずっと違和感を感じていたことだが、なぜ日本では店員がずっと立たされているのだろうか。そこには「神となったお客様」のための過剰な自己規制以外の何があるというのだろう。本当にお客様は店員が立っていないと無礼だと感じるのだろうか。フランス人なら迷わず椅子に座り、お客さんが来ていないときには隣のレジの同僚と世間話を始めるに違いない。社会と心に「ゆとり」があるからだ。日本には、過度な労働が無駄を生んでいるところがやはりあるのだろう。フランス的な思考とは「個人として主体的されど合理的に考えてから動き、自己決定したからにはその責任は自分で取る」という、しなやかさのことだと思った。


(自転車と充電器が一体になっている)

レンヌに着くと、パリとはまた全然空気がちがっている。レンヌ第二大学の日本語クラスでは東京についてフランス語で発表した。原稿の暗記を頑張ってきたのだが、結局直前になってあきらめて、原稿を読んでしまった。私は暗記をするのが苦手である。もっと正確に言えば、外国人の前でミスをするのが怖いのだ。しかしその後学生たちと話すと、ミスをしても良かったんだということが分かってきた。なぜなら、彼らの歓待が非常に温かだったからである。それどころか、彼らと話す中で、これから1年間、留学生活をこの大学で送るのだということが実感を伴って感じられた。食堂でご飯を食べたり、寮を見せてもらう中で、そのリアリティはますます強くなった。思いのほか我々の発表は好評で、あとでもっと話そうと、メールアドレスを渡してくる学生もいた。ブルターニュの蜂蜜をおいしいブリオッシュにつけて食べさせて頂いた。おすすめのフランス映画を書き出して教えて頂いた。私は彼らレンヌ大学の学生たちにこれほど親切にしてもらったことを決して忘れない。次はこちらが出迎える番である。




学内には、世界女性人権デーだったこともあって女性の権利を訴える張り紙を掲げている学生たちがいた。掲示板には、「中古車を安価で譲ります」「語学の家庭教師やります」「ライブやります」「○○まで行くけど、車の相乗り△△ユーロ」という張り紙が所狭しと並んでいる。図書館に行くと、日本では手に入りにくいフランス語の書籍が膨大に並んでいた。留学に行くまでにはこれらを少しずつでも読み進めていける語学力を準備しなければという焦りに駆られた。しかしそれと同時に、レンヌの街を歩く中で、私の知らない世界がまだまだ、ほとんど無限に広がっている、その世界が渾然と私に触れてくるというような高揚に包まれていた。買い物、プレゼン、値切り交渉、授業の受講、なんでもフランス語でスマートに出来るようになりたい。比喩ではなく、本当に語学が身を助けるということがあるかもしれず、逆に言えば、語学が不十分だったために損をすることが実際にあるのだろうと思う。これからはまさに背水の陣である。誰もが知っていることだが、どんな語学(語が苦)にも一定の苦しみはつきまとう。さあ、それを引き受けよう。


(レンヌはとても美しい街だった)

翌日、語学学校CIREFE校長のサラユンさんの歓待を受け、B2クラスの授業を見学する。日本にはない授業展開に驚かされた。先生はヒントとルールだけ与えて、後は学生の自由で、例文をどんどん作らせる。発音に訛があっても気にせず自分から発言していく海外の学生の姿勢に驚いた。私は本当に臆病なので、外国語での会話が極端に苦手であり、コロンビアからきた学生たちの姿勢を見習うべきだと思った。



そのあと、国際課のケリーグさんとグウェナエルさんにガレットをご馳走になった。ケリーグさんは日本が大好きだそうで、「漫画喫茶」のことや「東京スカイツリー」のことを話した。3週間後にはケリーグさんは日本にまた旅行に行くという。私はこのお二人から学んだことがある。それをここに書いておきたい。お二人はブルターニュに産まれて、この地方独特の名前もあって、ガレットやクレープやシードルなど地域の名産品をこよなく愛していた。グウェナエルさんはそういうブルターニュの特色をひと通りお話しくださったあとに、「私たちは幸運ね」と付け足した。僕は地域をこんなに愛していただろうかと我が身を振り返る。ブルターニュの人々は、自らを育んだ土地をこよなく愛し、誇りに思い、それでいて、日本人をみんなで歓待してくれた。これが本当の国際人の姿なのだと思う。フランスの思想をかじって、日本を斜に構えて見ているだけの今の私はただフランスにかぶれているだけだ、とそう思った。留学で私が学ぶことは多そうである。(2017年秋からレンヌ・パリ間TGVは、2時間以上を要する現在と比べて、約1時間30分にまで短縮されるという情報も教えていただいた。)

ブルターニュ地方


(ヴァンヌの城壁の美しさは筆舌に尽くしがたい。)

美しき都市ヴァンヌに行く。街の全てが絵葉書のようだった。この街の東半分だけが実に美しい城壁に囲まれていて、真ん中には13世紀に建造されたサン=ピエール大聖堂がある。城壁のそばには17世紀に作られた洗濯場が残っている。その全てが美しく、夢中で写真を撮った。ヴァンヌは、今はモルビアン県の県庁所在地だが、大西洋に通じる良港のためにガリア・ローマ時代の古くから栄えた歴史ある街である。6世紀にはブルターニュ半島の統一を目論みたワロッシュがここを拠点にした。9世紀中頃にノミノエ伯によって統一されたブルターニュ公国は、ここヴァンヌを首都に定める。1532年にブルターニュ公国がフランスに併合されるときも、その調印が交わされたのはここヴァンヌだった。ひとつの国が、ここで始まり、ここで終わったのだ。おみやげ物屋さんで、昨日、国際課のケリーグさんが言っていた白黒ボーダーシャツの意味が分かった。あれはブルターニュの旗がモチーフだったのだ。この旗には、何度倒されても立ち上がる不屈の意志を示す「テン」がシンボル化されて描かれている。ノア通りがバレンシア広場に出るところにあるヴァンヌ夫妻の像のあるイタリア料理屋「バレンシア」で昼食を取った。本当においしかった。



西山先生の運転で、レンヌからモン・サン=ミッシェルまで連れていって頂いた。途中でコンブール、メンヒルの巨石、ドル=ド=ブルターニュ、ディナンなどを巡り、フォーマットは似ているがどこか違うフランスの村の個性に目を凝らした。近場のホテルにスーツケースを置いたあと、モン・サン=ミッシェルまで歩くことにした。だんだん近づいてくる。角度が少しずつズレて行き、大きくなってくる。30分以上かけて外から眺めることができるのだ。徒歩での接近が個人的にオススメである。辺りは青空と海の境目が溶け合うように、雲ひとつなかった。


(天気が良ければ、モン・サン=ミシェルへは歩いての接近がおすすめ)

(モン・サン=ミッシェル最上部にある食堂の内装)

モン・サン=ミッシェルに着くと、迷路のように張り巡らされた細い路地を登っていき、音声ガイドに従って修道院内部を順次見ていった。最下層はロマネスク様式、その上がゴシック様式、その上がフランボワイアン様式やネオゴシック様式になっている。文字通り、建物「の上に」建物を建てていったのである。そしてその建設はまさに壮絶なものだったことは想像に難くない。まずこの湾から吹き付ける海風に何百年と耐えなければならない。木は朽ちる、金属は高速で錆びる、ファサードは火事で焼け落ちる。そのたびに、たゆまぬ信仰がここを再建修復したのだ。だから様式が、その都度変わる。さらに言えば、ここは要塞でもある。英仏百年戦争は、百年とは名ばかりで、1336年から1453年まで、117年に渡って展開した。この戦争中、ペストでヨーロッパの人口は激減した。そんな中、モン・サン=ミッシェルは民衆の物理的、精神的な拠り所となり、決して落ちることがなかった。強い印象を残したのが修道院の食堂である。この部屋の壁面には、(音声ガイドによると50以上の)細長い大きな窓があるのだが、それらが入り口からは見えないように、ひとつひとつが、アーチ柱の死角になっている。この仕組みによって、部屋の外部からかなりの自然光を取り入れているのに、入り口からは光源が見えないのだ。これによって神秘的な光線が部屋内部を照らし、その奥に十字架が見えるようになっている。

パリへ

レンヌからパリへ。現地の交換留学生の皆様からの暖かいお見送りを受ける。本当にありがたかった。パリへのTGVの中では私の持っているスーツケースを後ろからさっと手で支えてくれる若者や、ベビーカーをみんなで持ち上げて電車に乗せたり降ろしたりする乗客たちを目の当たりにした。モン・サン=ミッシェルの階段でも、自発的に老人の荷物を運ぶ黒人の若者を見たことをここで思い出す。このような文化が日本にあるだろうか。ないわけではない。しかし、日本でもし他人のベビーカーに手を触れようものなら、迷惑そうな顔をされ、不審に思われることも多いのではないだろうか。しかし奇妙なことに、助ける人数が増えてくると、今度は手助けをしない人の居心地が悪くなってくる。日本はベビーカーの人がいるから助けるというより、「助ける人が多いから助ける」という原理なのだろうか。日本人は、自分の内から、どうしても湧き上がるような素直な気持ちを元に、善悪を判断して、率直に動くことが苦手だと思う。パリに着くと、レ・アールからすぐのアパートへ。ここにしばらく棲みつくことになる。




パリでは八木さんにサントシャペル教会やコンシェルジュリー、ポンピドゥー文化センターをガイドして頂いた。マレ地区で、名物のひよこ豆コロッケが入ったユダヤ風サンドイッチ「ファラフェル」(上写真)を食べて、高品質の様々な茶葉が買える店「マリアージュ」でみんなと別れる。この日の夜は、ナタリー=ペラン先生による国際哲学コレージュの講義(会場はアンリ4世高校)に西山先生に連れていって頂いた。受講者は我々3人だけで、知的好奇心、考える喜びに酔うような濃密な体験だった。西山先生が、ペラン先生の哲学者フランソワ・シャトレの教育論についての授業をその都度翻訳してくださり、感銘を受けた。内容には立ち入れないが、これほどの衝撃を味わったことは人生で初めてかもしれない。この体験は私の人生のメルクマールであると同時に、これからの希望である。


(サントシャペル教会の巨大なステンドグラス。教会の二階中央に立ち、正面がキリストの受難、向かって左は旧約聖書、向かって右は新約聖書、裏のバラ窓は最後の審判になっているそうで、いつまでも見ていたくなる。)

イナルコ見学

ヨーロッパ最古の日本学部を有する東洋文化の研究機関イナルコ。ここで日本語文法の授業、国際政治(ベトナム・北朝鮮)の授業、和文仏訳の授業、日本憲政史の授業を順に聴講させて頂いた。学生のノートテイキングの速さ(パソコンにタイプする)、授業への積極的な参加には本当に驚かされた(日本のように先生が準備して来るレジュメに頼るのではなく、先生の言葉を一文字も書き逃さないという態度がこれを可能にする)。とくに和文仏訳においては、分からないことがあったらすぐに手を挙げ、よりベターな解法があるのではないかと先生に対して学生が問う。翻って、先生も学生のプレゼンテーションを止め、無自覚な前提からもう一度問い直すことで問題の射程を厳密にしようとしていた。歴史を扱っていてもディスクリプティフ(事実の並列的な描写)に終始するのではなく、個別具体的な事件とそれが歴史の流れの中に置かれ今の国際関係にどういう意義を持ったのかを有機的に繋げようとしていたように私は思う。そういう厳密で慎重な研究の結実ともいうべきなのが、イザベル=コヌマ先生による最後の授業で、西洋による上滑りの近代化という文脈で語られがちな日本憲政史を「西欧化ではない近代化」というテーマで、明治欽定憲法の成立過程を通して、凝り固まった歴史の糸を、もう一度解きほぐしていく様を見せて頂いた。

パリの街

限られた空き時間に費やしたパリでの散策はとにかく、私にとって冒険と興奮で満ちていた。フランス語に訳された日本の漫画や、バンドデシネの店で立ち読みしたり、スーパーのモノプリでパニーニを焼いてもらって伸びるチーズに舌鼓を打つ。国立図書館やリシュリュー通りの旧図書館、アラブ世界研究所ではその蔵書と建物自体のクールさが決して褪せることのない印象を残した。カタコンブ(地下納骨堂)では無数の髑髏を見て、先ほどモンパルナス墓地でみてきた(キスマークに祝福された)ボードレエルの墓との違いに愕然とする。摂氏14度の地下世界の中、人骨で作られた柱の合間で、壁に掘られた偉人たちの、死についての箴言を読む。異世界で死が私に語りかけているかのようだった。


(シャルル=ボードレエルの墓、キスマークがついている。ここにはサルトルもデュルケムも眠る。偉人たちがひしめいているのだ。)

(しゃれこうべと人骨で壁ができていた。)

パリには規則がある。地平線の先の消失点まで軸線が貫徹されたリヴォリ通りやヴォージュ広場、ヴァンドーム広場が調和の美を体現していることもさることながら、そういう都市計画がある街路は同時に実利的でもある。セーヌ川と平行する道にはセーヌの流れにそって、直行する道にはセーヌから離れるにつれて、番地が増えるのだ。この一分の隙もない都市計画の原理さえ頭に入れておけば、パリにおいて日本人旅行者が迷うことは劇的に少なくなるだろう。というのも、地図すら持たず、通りの名前さえ分からないという絶望的状況に追い込まれたとしても、右手を奇数番地、左手を偶数番地にしてまっすぐ進むと(これでどこにいても番号が若くなる方向に進んでいくことになる)、必ずセーヌ川に出るからだ(もしでないとすればそれは東に進んでいることになるから、太陽を確認して右に一度だけ曲がれば結局セーヌに出る)。エスカルゴ型に区が配置されたパリを、自分の脚を使って、エスカルゴ型に駆け回ってみて、やっと分かったことは、こういうパリの機能美だった。美しい街は、歩きやすい街でもある。


(消失点がどこまでも遠くに見える。)

ジュール=フェリー高校見学

パリ郊外にあるジュール=フェリー高校を見学。高校の先生たちは授業とそれに関係する仕事が終わると日本でいう部活動など自分の専門外の業務に時間を取られることがない。運動をしたい高校生は地域のクラブに入るのだ。「先生とは、本質的に、授業を展開するプロである」。この大原則がしっかり生きているように思った。だから、我々が聴講した理系哲学の授業(エピクロス)、文系哲学の授業(ルソーの社会契約論の原典読解)は対話を基礎としていながら、自分で考える独立性と、先生の巧みな誘導があった。(自分の頭と身体に一度テキストを染み込ませるためには、このプロセスが欠かせない。日本の「高校倫理」とフランスの「哲学」は教える情報は重複していても、全く別の科目である、と「痛感」した。)

そして、ジゼル=ベルクマン先生の文学の授業において、ボードレエルの『万物照応』についての発表をフランス語でなさっていた首都大学の鈴木麻純先輩に最大限の敬意と謝辞をここに表したい。フランス人学生のどんな質問にも当意即妙に返答し、第二外国語を母語のように流麗に操る姿を見せていただき、及ぶべくもないが、これからの私の学業における指針になった。

終わりに



パリの最後の夜、ジャズバー「サンセット・サンサイド」で本場のジャズを聴いた。ビートが身体の芯まで響く。なんて贅沢で幸福な時間だろう。楽器の生演奏を聴く感動を私は忘れていた。本当はまだ書き足したいことが山ほどある。たとえば、明治大学教授の管啓次郎先生を迎えた映画上映会『ほんとうのうた〜朗読劇「銀河鉄道の夜」を追って〜』をイナルコでみんなで鑑賞した。高等師範学校におけるジャン=リュック=ナンシーらの講演会にも連れていって頂いた。このような、ひとつひとつが濃密で、とても詳しくは書ききれなかった体験たちが、私に学ばせてくれたことの大きさは、やはり測り知れない。もう成人だというのに実に恥ずかしいことだが、旅をすることで分かったのは自分の未熟さ、そして経験の少なさ、浅さである。それはいまだに鋭い痛み(自責の念)となって、帰国した今も脳幹で響いている。自分が今までどれほど自分の抽象世界の中に安住し、思考は他者の上辺を撫ぜるだけであったか、その後悔が今はひたすら鈍痛となっている。



(高等師範学校の中庭。若きエリート学生らが悩める青春時代を過ごしてきた庭。「あちこち旅をしてまわっても、自分から逃げることはできない」──ヘミングウェイ)

二年生でフランス語へと進路を翻して以来、ひたすら付け焼刃、暗記、速度、情報を求め、理解した気になってきた。旅に連れ出されて初めて意味が分かった自分自身の言葉は驚くほど多い。いままで私が迷惑をかけ続けてきたにも関わらず、さりげなくそれをフォローしてくださっていた人々(その筆頭は両親だと思う)に、遅ればせながら感謝申し上げます。これからは、身近な誰かを笑わせ、他者に助けを求め、さもなくば生命活動を維持できないような、弱い人間であり続けたい。そして、その自覚を持って生き続けるのは本当に難しい。だからこそ、また旅に出たい。

謝辞

この滞在を可能にして頂いたすべての人に御礼申し上げます。藤原先生、仏文教室の皆様、現在留学中の諸先輩方、八木さん、中山さん、同期の皆様、班長、樹、原稿の添削をしてくださったダヴィドさん、ソニアさん、ベルアド先生、パリ・レンヌで出会った全ての方に感謝します。とりわけ本プログラムの全てを設計してくださった西山先生と、お金を援助してくださった本学国際科の皆様には感謝の言葉もありません。またこの場を借りて、初等文法も怪しい状態で仏文科に飛び込んだ私に発音の矯正を施して頂き、文法の心を学ばせて頂き、今期で退官されます大久保康明先生に御礼を申し上げます。ありがとうございました。


堀部美妃(仏文2年)

堀部美妃(仏文2年)


【初めに】
まず、これまで留学はおろか旅行ですら海外に出たことのなかった私に、フランスという文化や社会において、自分の最も興味をそそられ、憧れていた国に行ける機会を与えて下さったこの国際交流プログラムと、そして、現地で2週間という長い間、共に暮らし、私たちが帰国する最後まで、十分すぎるほどのお力添えをしてくださった西山先生には、心から感謝を申し上げたい。

率直に言って、海外に出たことのない私にとって、自分が日本から何万キロも離れた遠い異国の地にいるということがパリについてからもしばらくは実感としてもてなかった。しかし、自分とは外見も言語も異なる人々に囲まれることで、異国の肌触りを少しずつ感じていった。そして不思議と、そのような環境に身を置くことに居心地の悪さは一切なかった。目に映るものすべてが優雅で、買い物の時に現地の人々とちょっとした挨拶を交わす場面も当たり前にあり、出会う人々はみな朗らかであった。また、日本とは根本的に異なる価値観でつくられた物や仕組みを街のいたるところで見つけることもできた。もちろん、それは私たちが見学した学校教育の現場も例外ではなかった。とにかく、フランスに来たのだという実感はそれらの様々な発見との出会いを通して、強い刺激として次々に感じられたのだった。これから、2週間の滞在の中で、私の中に強い刺激として残ったことを述べていきたい。

【métro】


(ホームに到着したmétro)

(パリのmétroの路線図)

私がフランスに着いてまず最初に圧倒されたのは、フランスの主な交通手段の一つであるmétro(地下鉄)である。1号線から14号線まであり、パリ万博にあわせて1900年から開通がすすめられた。そしてその一番の特徴は「時刻表が存在しない」ということだ。示されているのは始発と終電の時間の表であった。日本では一日の運行状況がすべて細かく何時何分発と細かく決められており、日本人はそれを参考にして目的地への所要時間や乗り換えの予定を決めるものである。それがフランスでは細かくは決められておらず、ホームにある掲示板では次の列車とその次の列車があと何分で到着するかの分数が表示されていた。

また、パリ市内を走るmétroには経由する駅の数や移動距離に伴った価格設定はなく、一時間半以内なら一枚1.8ユーロ(我々が使用したのはリーズナブルな10枚セットのカルネ、1枚あたり1.45ユーロ=180円前後)の乗車券で好きなだけ駅を乗り継ぐことができる。日本の電車は切符だと乗り換えのたびに乗車券を買わなければならず、複数の鉄道を使えば使うほど、運賃は高額になる。このフランスのmétroのシステムはとてもシンプルなものだが、利用者にとっては非常に明快で合理的なシステムであると感激した。

もう一点私がmétroで感激した点は新聞である。パリのmétroの改札前や駅構内にはだれでも自由に無料で手に取ることのできる新聞が置かれている。日本のフリーペーパーほどの厚さではあるが、内容のメインはCMではなく、その時に知るべき出来事の大まかな内容が簡潔にまとめられていた。人々は出勤前や通学前にmétroでこの新聞を読んで出かけるのである。フランスでは、デモ運動やストライキ運動などにみられるように、大人や学生を問わず個人が政治に対する考え方を主張しあうが、そうした姿勢は日本ではあまりない風潮である。この積極的な姿勢は、政治の現状にだれでも気軽にアクセスすることできるこのような新聞システムがあることも一つの要因なのである。

【強制収容所犠牲者記念碑】

パリ中心部のシテ島に立ち寄った際、あるメモリアルを訪れた。これは、フランスからナチスの強制収容所に強制送還され、犠牲になった20万人もの慰霊のために1962年に建設されたものである。


(強制送還されたユダヤ人の各区当たりの人数を示した壁画)

建物の中には、ユダヤ人の大量虐殺にまつわる資料や犠牲者の一覧がびっしりと壁に記された部屋があった。しかし、私が何より印象的だったのは、岩の壁である。そこにはユダヤ人の悲惨な過去について、現代を生きる私たちへの訴えが、ヘブライ語で岩の壁に赤い文字で一面に刻まれていたのである。それはまるで、犠牲になった数えきれないほどの魂の叫びを目の当たりにしているようで、かなりショックを受けた。以下はその文字の抜粋である。

「虐殺されて夜と霧の中へと沈んでいった20万人のユダヤ人の思い出が生き続けるように。
 彼らはこの大地の果てまで行ってしまった。彼らはもう帰ってこない。
 赦しなさい、忘れないで。」


(このメモリアルの出入口に記されていた言葉、PARDONNE N’OUBLIE PAS(赦しなさい、忘れないで))

ユダヤ人の大量虐殺を歴史的なタブーとみなし、喪に服し、口をつぐむのではなく、あえてしっかり目を向けるため、忘れないように、このパリの中心部に、このようなメモリアルを建てたということ、それこそが、この歴史的悲劇に対してのフランス流の抵抗、そして、誠実な態度なのかもしれない。

【サブカルチャー】



フランスには本屋とマンガショップ(上写真)、雑誌屋それぞれが別々に店を構えていて、また、法律系や社会系、扱うテーマごとに本屋の店舗が分かれていることも少なくない。街のあちこちに見られるマンガショップもマンガ・アメコミ・BDと3つの主流があり、日本のマンガが一定の数を占めていた。昔の作品だけでなく、日本の比較的最近の写真もたくさんあったのには驚いた。私の中で、外国での日本のマンガの普及はこちらとはかなりタイムラグがあると思っていたからである。しかし、後日、レンヌの大学生と2日目に交流した時も、彼女は、日本の女子の中で最も人気の高いマンガの一つである『うたのプリンスさま』(2010年~)という作品のグッズを持っていた。また、レンヌの日本語のクラスでの私たち首都大学生からの東京についての発表の中で、昨年夏に日本で公開された「君の名は」の話題が上がったときも、多くの学生から反応があった。このように日本のマンガへのフランス人の関心の高さは日本に負けておらず、その普及はフランスでも飛躍的に進んでいるようである。

レンヌ大学

【日本語クラスでの学生との交流】


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日本語クラスでのプレゼンで、私のグループは首都大について発表した。1つ目のクラスでは少し緊張したが、2つ目のクラスでは少しリラックスして話せたので良かった。

テーマごとに2グループに分かれ、東京について発表する班と、私たちの通う首都大学での学生生活について発表する班に分かれた。私は後者の班で、自分が首都大学でどのような講義を受けているのか、ランチタイムの過ごし方、放課後のサークル活動、大学祭について発表した。東京組の発表も、それぞれが街を絞り、その街の魅力について発表していて、とても面白かった。日本語クラスの学生もこちらの発表に反応しながら注意深く聞いてくれて、嬉しかった。

交流では1つ目のクラスで私の参加したグループの子はみんなが思い思いに手作りのお菓子を振舞ってくれたり、間違えながらも懸命に日本語で話そうとしてくれた。初めて会った外国人が目の前で頑張って自分の母国語を話そうとしてくれている、言葉は完璧に通じなくても、それだけでもとても嬉しかった。私たちはフランス人のネイティブの前ではミスを恐れたり、正しい発音をできる自信がないからと「話す事」だけでなく、自分の思った事を「伝える事」すら放棄してしまいがちなのだと気づいた。だから、今日いつもと逆の立場、つまり自分が日本語のネイティヴで相手と交流するという立場に立った時、そんなミスや不安がどれほどどうでもいい事か、もったいない事かを痛感するいい機会になった。

【petit annonce】


(だれでも自由な目的で人を募ることができるpetit annonce)

(相乗り旅行専用のpetit annonce.行先と募集人数、費用や連絡先を掲示)

レンヌ大学を訪れて、首都大の学生課のようなところを通りかかった時に目に入ったのがこのpetit annouceである。この掲示板は大学側からの連絡事項ではなく、いわば学生による学生向けのなんでも掲示板のようなものである。家庭教師の依頼からルームシェアの募集、車を譲ったりといった日常的な連絡が行われていた。中には近日行われるデモの告知や、相乗り旅行者を募集するため専用の掲示板があった。SNSが普及したこの時代でも、大学内にこのように良い意味でアナログな学生の出会いの場があるのはとても粋な事だなと感じた。日本の学生は気心の知れた友達としか旅行に行かない。そうなると、友達と旅行に行くという行為に重きを置いてしまい、他の人の予算や意向を気にして、本当に自分の行きたいところにいけない事もある。しかし、日本にもこのシステムがあれば、最初は少し勇気が出ないかもしれないが、知らない人とはいえ同じ大学に通う人と、自分が本当に行きたいと思う場所に本当に行きたいと思う人と行けるのだ。そして、サークルや部活の外にも友達の輪を広めるチャンスにもつながる。凝り固まった人間関係ばかりに気を取られずに、日本の大学でも、このようなアバンギャルドな試みを試してみたら良いのではないか。

【モン・サン=ミシェル】


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モン・サン=ミッシェルは、708年にアヴランシュの司教オベールの夢に大天使ミカエルが現れ、ミカエルを祀る聖堂をここトンブ山に建てたことが発端とされている。ミカエルが三度オベールの夢に現れ、夢の中でオベールの頭蓋骨に指で穴を開けこの聖堂の建設をした逸話は有名である。英国との百年戦争にも不落の強さを見せ、軍事建築物の1つとしてみなされるようになり、1979年にはユネスコの世界文化遺産にも登録された。潮の満ち引きによって山そして頂上にそびえる修道院が海に浮かび上がるその神秘的な姿から、現代では観光地としても人気が高い。

実際に行ってみると、対岸から出ているモン・サン=ミシェル行きのバスの半数は日本人であったといっても過言ではなかった。モン・サン=ミシェルのスケールや修道院の歴史に圧倒されながらも、同時に観光客である前に、留学生としてフランスの中の日本人を客観的に比較するいい機会としてもここを訪れていた。私たちはこれまでの4日間の滞在で西山先生と移動中に市内散策をしたり食事で店に入ったりするなかで、フランスの「声かけの文化」のようなものを曲がりなりにも身に着けた。それは入店の際の“Bonjour(こんにちは)”や、何かをしてもらった時、品物を受け取るときの“Merci(ありがとう)”、お店を出るときの“Au revoir(さよなら)”、なにか迷惑をかけた時の“Pardon(すみません)”など、フランス人はどこの国の人にも必ずこのような声掛けを、きちんと相手の目を見て伝えてくれる。フランスのガイドブックや旅行サイト、フランス旅行経験者のブログなどにも、簡単なあいさつはしたほうが良いとよく使う簡単な挨拶を紹介していた。

 しかし、日本人観光客は店に入るときも出るときも終始無言でお礼も“Thank you”というくらいであった。「郷に入っては郷に従え」ということわざは、その地での賢い生き方を見出す知恵を語ったものだが、私は郷に従うことにもう一つの良い点があると考える。それは、郷に従うことで、旅行の醍醐味をよりしっかりと肌で感じることができる、ということである。これはこの2週間を振り返って思ったことの一つで、日本人としてその地におもむき、日本人を貫いて帰ってしまうのは、もったいないことだと私は思う。その地の名所をガイドブックのみに従って回るのではなく、話せなくても現地の人とできるだけ接して、その地の文化を真似してみたりすることで、ガイドブックからは感じ取ることのできない現地の空気を感じられるのではないか。日本人は旅行の際の下調べを入念にする人が多い。だからこそ、その旅行をもっと素晴らしいものにするために、その関心を、異文化理解の方向にも向けてほしいと思った。

【再びパリへ】

モン・サン=ミシェルを境に二週間の滞在の半分が終わった。レンヌからパリへ来て、ようやく最後の大移動が終了した。とにかく歩き、様々な地域のフランスらしさを感じた前半。ひとくちにフランスと言っても街の雰囲気や人々の雰囲気はそれぞれ違った。これは様々な場所を訪れた事で得られた収穫であろう。また、そこにはいろいろな景色や食事があり、食事はどれも未知だったが、とても美味しく楽しかった。


(1週間借りたアパートでの夕食)

また、先ほども述べたように、モン・サン=ミシェルなどで日本人観光客の様子を見ていて、自分たちがこの一週間の滞在で、1人で朝食も買えるようになったし、挨拶もちょっとした声かけも肩に力を入れずに自然に振舞えるようになったと感じた。その分、フランス人から私たちはフランス語に精通した外国人と間違われる事もあり、困惑してしまったが、この旅が終わるまでには、会話のレベルも、自分たちの挨拶のナチュラルさくらいにもっと踏み込んだ日常会話ができるレベルに近づけていきたい。

フランス国立東洋言語文化大学(イナルコ)

フランス国立東洋言語文化大学(略称:INALCO)は、もともと17世紀に創設された、フランスにおける最古・最大、そして最良の語学系大学である。

【Jean Bazantay先生の3年生の文法の授業】



見学した「文法上級」の授業では、日本語において評価のモダニティとされる「はず」と「わけ」が今回のテーマだった。講義の中で先生がしきりに強調して印象的であったのは「文脈を想像しましょう」ということだった。ただ単に日本語の例文とフランス語を読むのではなく、その時の状況や話し手の気持ちを想像しやすいように感情を込めて読むことで、よりその日本語が自分の母語でいうどんな絶妙なニュアンスを含んでいるのか理解しやすいからだ。この発想に深く共感できたので、自分の普段の勉強にも取り入れたい。

【日本人の鈴木先生の仏文和訳の授業】



これは日本人の先生が担当されている仏文和訳の授業だ。あとから二年生向けの授業と聞いて、学生の質の高さに本当に驚いた。間違えることを恐れず、別の答えをできるだけたくさん探す。そうすることで、彼らは「より自然な日本語」を追求していた。日本の学生を一般化することはできないが、日本では作文や英訳の授業では答えを理解しやすいようにできるだけシンプルにしようとして、他の答えを見つけたがらない傾向がある。しかし、たくさん間違えて、さまざまな答えを出し、より自然なものを追求する、これは語学を学ぶ者のあるべき姿だと自分の至らなさを痛感した。

日本語の難しさも知ることができた。その理由は日本語には「助詞particule」があり、フランス語にはないからだ。ある生徒がこんな間違いをしていた。「この仕事を手伝ってあげられないので、他の人に頼んでください」が正解なのだが、「この仕事は手伝ってあげられないので」と訳している生徒がいた。「を」と「は」の一文字の違いで、こんなにも文章の印象が異なってしまう。しかし、その意味の違いは絶妙で、どうして「は」ではいけないのか、「を」がふさわしいのかを説明するのがいかに難しいことか、またそれをフランス語で納得のいく解説をする日本人学校の先生の大変さも知ることができた。

また、ほかにも国際政治や法律の授業にも出てみて、学生のノートテイキングのやり方にも日本とは全く違う特徴があるなと思った。みんながパソコンやノートを使って教授の話している言葉を一言一句漏らさずに残そうとしていた。見ると、フランス人の学生のノートは単語だけを抜き出して図で簡略化されたものではなく、筆記体の文章で真っ黒だった。この2週間の滞在の中で私が最も衝撃を受けたことといっても過言ではない。すべての授業で一言一句を写すことは本当に大変だと思う。しかし、そうやって一言一句教授のロジックの手法を写すことで、自分がプレゼンしたり自分の意見を述べるときの力になるのだ。フランスの学生のプレゼンや、授業の食いつき方を見ていて、相手の話している話題を理解した上で意見を述べたりする力は、そのような講義を受ける姿勢から身についた力なのだ。私も自分のプレゼン能力や、ロジックを鍛えるために、日本に帰ったら早速実践してみようと思った。

【映画『ほんとうのうた』の鑑賞会】

3月11日の大震災を受けて、菅啓次郎さんをはじめとするアーティストの方が集まって日本各地で行っている朗読劇を追った、ドキュメンタリー作品「ほんとうのうた」の鑑賞会がイナルコで行われると聞いて、私たちも参加させていただいた。

「3・11以来、物書きや作家は言葉を失い何も書けなくなってしまった。しかし、そういう時だからこそ、物書きなど様々な分野のアーティストが力を合わせて、発信者としての役割を果たす必要があるのではないか、言葉の力で人々の気分を変え、慰めをもたらすことができるのだから」と菅さんは仰っていた。

作品を鑑賞してみると、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は自分の大切なものと他人の大切なものの「重さを秤にかけるという行為」について、そして、「ほんとうの幸い」について考えさせられる作品だ。私がこの映像作品の中で特に印象に残っているのは、朗読劇後半、菅啓次朗さん演じるカンパネルラが銀河鉄道を下車する際の古川日出男さん(ジョバンニ)との掛け合いと、ラストの場面だ。ジョバンニはカンパネルラに、「僕たち、ずっと一緒だよね」ということを何度もなんども確認し合う。しかし、カンパネルラに見えている世界と自分が見ている世界がどんどんすれ違っていく中での、古川さんの迫真の演技に思わず息を飲んだ。また、銀河鉄道から現世に戻ってきたジョバンニがカンパネルラの父親に謝りに行くシーンは本当に心が締め付けられた。父親は泣くことも憎しみを露わにすることもせずにただ、「大丈夫だよ」というだけだった。

私はこの場面に、この四人がこの作品を朗読する意味が集約されているのかもしれないと感じた。震災の時、たくさんの人々が亡くなった、そしてその一方、助かった人もいる。もちろん、助かった方の全員に当てはまることではないが、なんとか生き残った人の多くは自分の大切な人を失い、自分が生き残ったことに罪悪感に苦しんでいたはずだ。もしくは、自分の大切な人ではない赤の他人の誰かが戻ってきて、肝心の自分の大切な人が帰ってこない、そんな不平等な悲しみに、必死に堪えていた人もいただろう。泣きたくても泣けないという場面に直面した人間が、もう一度心から泣いたり笑ったりするためにはどうしたらいいのだろうか。それは簡単に答えが出る問題ではないだろう。しかし、菅さんが仰っていたが、元気な時に何かのために祭りをするのではなく、何かすがるものを見出すために祭りをすることも必要なのではないかという考えに私も深く共感できた。自己を奥に押し込み、沈黙を貫くことだけが鎮魂ではないのだ。いくら辛くても、まず何かすがるものを見つけないと、何ともちゃんと向き合うことができない、この朗読劇はそのきっかけになりうる可能性を秘めたものだったのである。

高校見学

【高校の職員室】



訪問したジュール・フェリー高校の職員室は、机と椅子、個人用のロッカー、給湯室のような簡易な台所があるだけで、個人のデスクや大量の教科書などはなかった。好きな時に来て好きな時に帰る、日本の大学の非常勤講師室にそっくりだと西山先生は言っていた。もスーツを着ている先生はおらず、ラフな私服、女の先生も皆とてもオシャレだった。

【授業見学】



まずはじめに、仏文の先輩として、そして、今回のプログラムのサポーターとしてこのプログラムに参加してくださっていた鈴木麻純さんの発表を聞かせて頂いた。テーマは麻純さんの卒論のテーマであるボードレールの詩に登場する「匂い」についてであった。麻純さんの話すフランス語は速度も発音も本当に素晴らしく、高校生も興味を持ってして麻純さんの発表を聞いていた。個人の努力でここまで達する事ができるのかと感動してしまったし、自分のこれからの良い目標になった。


(日本では珍しい女性の哲学の先生。2限目のテーマは「人間は幸福になるためにつくられているのか」についての授業だった。)

そのあとも文学と哲学の授業にいくつか参加させてもらったが、どの授業も本当にすばらしいものだった。先生は教科書などをほとんど見ずとも、教えたい内容を説明していた。説明、というより、熱弁しているように私には見えていた。そして、生徒も先生の説明で大事だと思ったことは一言一句逃さず書き取って、考え、思ったことや分からなかったことを反応として先生に伝える。先生はまたその生徒の質問を決して否定せず、分かりやすいほかの思想や参考書の例を挙げながら柔軟に対応し、納得へと導く。生徒の質問は様々であったが、ちゃんと授業に食らいついて、自らの理解をその都度確かめながら授業に参加しているからこそ、そうして即座に的を得た質問ができるのだ。それだけではなく、単に意味が分からなくなっても、それを聞く勇気、また聞きやすい授業の雰囲気作りも徹底されているなと感じた。良い授業をクラス全員が作り上げているという空気がひしひしと伝わってきて、自分も高校時代にこのような授業を受けたかった。

【最後に】


(春もすこしづつ近くに……。イナルコの近くの公園にて)

 この二週間は私のこれまでの人生の中で最も濃度の濃い、充実した時間であり、これからの私の人生にもきっと大きい影響を与えるという確証がある。帰国の前々日の夜に、お忙しい中合間を縫って私たちと一緒に同行してパリを案内してくださった八木さんも含め全員で夕食で反省会をした。そしてそこで、八木さんや西山先生が仰っていたことを私の記憶にずっと留めておくために、私の滞在記の一番最後に遺しておきたい。

「わたしたちは、ここに来て得たもの、感じたことを、知識として留めておくのか、教養に活かすのか、しっかり考えなきゃいけない。」

 フランスに来るために、私たちは本当にたくさんの人の力を借りてきた。それはこのプログラムを設けて、補助金を出してくださった首都大学東京、八木さんの現地でのガイドやサポート、交流や授業見学を取り計らってくださったJule Ferry高校やレンヌ大学、イナルコ大学の国際課の方や先生方、お邪魔させていただいたクラスのみなさんの力があって、この留学は成立した。そのことをしっかり心に刻んで、この二週間で私がフランスで見て、感じてきたことを、今後の学生生活の中に教養としてしっかり活かしていきたい。

そして最後に、冒頭にも述べたが改めて、この二週間という長い間、フランスに一度も来たことのない私たち仏文の学生の、フランスに対する理解を深めるためだけでなく、私たちがフランスについてもっと興味を持って調べたり考えたくなるような示唆をたくさん与えてくださり、なおかつ帰りの飛行機ではたくさんの想定外のトラブルに見舞われながらも、最後まで安全で快適な留学に尽力してくださった西山先生には本当に心からの感謝を申し上げたい。

山本樹(仏文2年)

山本樹(仏文2年)



まずは、今回の国際交流プログラムを計画・実行され、私たちに貴重な経験を与えていただいた西山先生にお礼申し上げます。

このたび、国際交流プログラムに参加させていただき、大変すばらしい経験を得ることができた。毎日が自分にとって新しいものばかりで、とてつもなく濃密な二週間をまとめるのは大変難しいため、印象に残ったことを中心に記していく。

日本時間3月6日深夜、私たちは羽田空港を出発し、現地時間早朝にパリ・シャルルドゴール空港に到着した。私にとって初めての飛行機、初めての海外と不安が大きかったが、想像よりは苦痛を感じず、快適な時間を過ごすことができた。睡眠もしっかりととることができ、ワクワクとした気持ちでパリの地を踏んだ。

到着してすぐ、ありがたいことに本校卒業生でフランスの大学院で学ぶ八木悠允さんに出迎えていただき、一同は鉄道でパリへ向かった。券売機ではクレジットカードでの支払いが一般的なことや、日本でいう改札制度も非常に簡素であることに驚いた。初めての海外に対する実感があまりにも湧かなかったのだが、パリ市内を散策している間に、パリの人々は赤信号でも車の通行がなければ平気で横断する様子を見て、いきなり、自分は生まれ育った日本ではない、「フランス」という異文化圏に来たという実感が沸いた。景観規制によってきれいに高さが揃えられた建物、石畳の道路、右側通行の車道と慣れない光景に戸惑いながらも、ゴシック建築の代表とも評されるノートルダム大聖堂にたどり着いた。建物内部ではミサが行われており、何とも言えない空気感が伝わる。荘厳な装飾がきらびやかなステンドグラスに照らされるなか、信者たちが熱心に祈っており、宗教が日常生活に密接であることを肌で感じる。


(ノートルダム大聖堂)

モンパルナスのホテルで一泊ののち、TGVでレンヌへ向かった。モンパルナスを出てほどなく、車窓がパリの大都市から広大な畑の中にポツンポツンと家がある程度の風景へと変わる。私が青森県の実家に帰省しているような錯覚さえ覚えるほど広々とした光景を眺めているうちに我々を乗せたTGVは2時間半かけて終点・レンヌへと到着した。

レンヌではこのプログラムの最大の目的である、レンヌ第二大学との交流が行われる。その一環として、仏文科の学生は2つのグループに分かれ、大学の日本語クラスで「東京」と、「大学生活」についてのプレゼンをした。本番ではかなり緊張して、たどたどしい発表になってしまったが、現地の学生たちは熱心に聞いてくれたようで、反応もしてくれたため、楽しく発表をすることができた。発表のあと、ディスカッションを兼ねて、現地の学生にこちらをフランスのお菓子やジュースでもてなしていただいた。事前に用意してくれたのであろう日本語の質問や、こちらが分かるように質問を簡単なフランス語に言い換えてくれたりと、ありがたいことに、見知らぬ日本人と話そうとする意欲が非常に高く感じた。彼らの多くは漫画・アニメをきっかけに日本に大いなる関心を抱えており、日本語学習へのモチベーションの高さを体感した。果たして私はフランスに対してどうであるのかと考えてしまったほどだ。私のつたないフランス語で学生たちは納得してくれたのかは定かではないが、とても充実した時間をすごせたと思う。


(レンヌ第二大学での発表)

翌日、語学学校(CIREFE)の校長に校舎の案内をしていただいたのち、授業を見学させていただいた。本校からの留学生である新井さんの在籍するB2クラスの授業で、1つ印象に残ったことがあった。学生たちのヒアリング能力の高さである。飛び入り参加の身である私は到底授業の内容を理解するには至らなかったが、留学生たちは先生の言ったことに積極的にレスポンスをしようとしていた。世界各国から集まった学生たちのフランス語を学ぼうとするモチベーションが非常に高さにただ圧倒されるばかりであった。

午後は国際課の職員の方々と一緒にガレット(ブルターニュ地方独特のそば粉のクレープ)をいただいた。国際課の方にも、漫画・アニメをきっかけに日本に対して高い関心を持つ職員がいた。彼は近く初めて来日するそうで、桜を見るのが楽しみなのだと意気揚々と語る。彼は日本に満足してくれただろうか。フランスは年間8200万人もの観光客が訪れる観光大国である。対して日本は近年になり、海外観光客の誘致に力を入れている。そのかいもあり、2013年には長年の目標であった年間1000万人を突破し、2015年には2000万人に迫った。今後オリンピック開催に向けて、増えていくものと考えられるが、受け入れる側の態勢は十分だろうか。彼らが困ったときには助けることができるだろうか。特別にフランスが海外の人間に優しいかといえばそういうことでもないが、今回海外に渡った人間として、また海外のことを学ぶ学生として、そういった問題を考えていくきっかけを得た。レンヌ第二大学では、学生の皆さんはもちろん、先述のCIREFEの副学長や、国際課の職員の方々に大変暖かい歓迎をしていただき、とても光栄に思った。


(レンヌ第二大学国際課の方と頂いたガレット)

翌日、私たちは日本でもおなじみのモンサンミシェルへ。この日も天気に恵まれ、青空のもとで見学をすることができた。西海岸、サン・マロ湾に浮かぶ小島にそびえるこの場所には、ツアーで訪れたと思われるかなりの数の日本人観光客の姿があった。修道院のふもとにある狭い路地には、お土産店などが立ち並び、非常に多くの観光客でごった返していた。カトリックの巡礼地のひとつであり、「西洋の驚異」とも評される修道院はゴシック様式が主なのだが、ロマネスク様式など、ところどころ別の建築様式が見られる。修道院の最上部には、この修道院の建設を命じたといわれる、大天使・ミカエルの金の像が構える。個人的にはこの場所を訪れることを非常に楽しみにしていたのだが、日中の様子と夜にライトアップが施された様子と、モンサンミシェルの様々な表情を見ることができた。この景色は忘れることは無いだろう。


(モンサンミシェル)

次の日、フランス西部の町々に後ろ髪を引かれるような思いでパリへと戻る。モンサンミシェルからの経由地であるレンヌでは、本学からの留学生である、新井さん、大山さん、西さん、中野さんにレンヌ駅でお見送りしていただいた。私たちのレンヌ滞在中にはレンヌ第二大学での授業見学など、様々な場面で大変お世話になった留学生の方々には、この場を借りてお礼申し上げます。


(レンヌ駅で留学生の方々と)

パリではイナルコ(INALCO 国立東洋言語文化研究所)、昨年本学にて講演していただいたジゼル・ベルクマン先生の勤務するJule Ferry高校の授業を実際に受講する機会をいただいた。

イナルコでは日本語文法(3年生)、国際政治、仏文和訳、社会と法律の4つを受講した。中でも、日本語を扱う2つの授業が興味深かった。
文法の授業は、3年生を相手としたこともあり、かなり踏み込んだ事項を扱っており、この時間では、「はず」・「べき」をテーマとしていた。教科書のフランス語の文を指名された学生は即座に日本語に訳していく。そのレベルの高さにまずは驚かされるのだが、「はず」・「べき」といった母国語とする我々でも説明に困るような文法事項をやすやすと理解したうえで、即座に先生に質問を飛ばしていく。先生もそれに答えると同時に、プラスアルファのことも付け加える、それに質問をする・・・といったように、文字通りのキャッチボールが行われていた。教鞭ととるBazantay先生も、「日本語訳をするときには、文脈を想像しよう」としきりに学生に呼びかけ、一人で場面を演じたりと、非常に楽しく受講することができた。

仏文和訳の授業は、日本人の鈴木先生が担当していた。学生は私たちと同い年である二年生とのことだ。入学から一年と少しだけの日本語学習経験ながらも、こちらも、日本人から見ても難しいと思われる内容であった。フランス語に限った話ではないのだが、日本語の「てにをは」といった助詞が母国語に存在しないという難しさを抱えながらも、間違いを恐れず果敢に回答しようという意識が見えた。


(イナルコ近くの公園で 桜と松が植樹されていた)

Jule Ferry高校では、日本にはない「哲学」の授業を二つ受けた。一つ目は理系のクラス。女性の先生が担当していることは少し意外だった。「人間は幸福になるためにつくられたのか?」という問いについてエピクロス派の考え方から考えていた。この授業で一番驚いたことは、先生も学生も教科書を持っていなかったことである。先生は授業中も何も見ずに授業を続けており、学生は先生が話したことをノートにとり続けていた。教科書がないため、テストや大学入試の際にはこれを見て勉強するのだろうか。さらに、ノートをとり続けるにとどまらず、先生に質問を次々と飛ばす学生もいた。先生の発言が主体であるためか、流れが非常にスピーディで、活気を感じた。二つ目は、入試を控えた文系の三年生のクラス。こちらの授業では、ルソーの「社会契約論」を用いていた。先生を中心に、楽しく明るい雰囲気のもとで授業が行われていた。

「日本にはない」というように書いたが、エピクロス派、ルソーといったところは、日本の高校でも現代社会や倫理でも学ぶ。しかし、フランスの高校哲学は、一つ一つの事柄においてより深く学ぶことができた。さらに、明確な教科書が存在していないことから分かるように、先生の口から、体から、まるで「人生」という大きなことさえ学ぶことができるように感じた。

フランスで数多くの授業を受ける機会をいただいたが、どの授業でも、学生が前のめりであるように感じた。学生から質問がない授業は一つとなく、先生もそれらの質問に回答し、付け加える形で授業が進んでいく様子が印象に残った。テストや入試のための勉強にとどまらず、自分のためになるように学んでいこうという意欲が見えた。比べたくはないが、自分は今までテストで良い点数を取るため、いい評価をもらうために勉強していたような気がしてならない。今回の滞在を通して、自分でもっと学びを深めていけるように感じたため、自分の今後の学びに生かしていけたなら、個人的には今回の滞在が良かった、自分のためになったというように胸を張って言えるだろう。間違いなく、フランスでの授業見学は自分にとって刺激となった。あとはその経験を今後の学生生活に生かすのみだ。

パリでは授業見学の他にも、限られた時間だが市内散策もすることができた。エッフェル塔や凱旋門といったパリの象徴ともいえるスポットの他にも、さまざまな場所を回った。私が最も印象に残ったのはオルセー美術館である。建物は1900年のパリ万博に合わせて鉄道駅兼ホテルとして作られたため、非常に広々としており、大時計も残されている。19世紀印象派の作品が多いため、宗教的なテーマからは比較的距離があり、我々日本人にとっても受け入れやすく、人気の高い美術館のひとつである。印象派の展示コーナーにはマネ、モネ、ルノワールといった印象派の大家たちの名画が、グレーの壁と濃色の床板によって際立てられる。


(オルセー美術館内装 奥に見えるのが大時計)

(ロダン・地獄の門)

今回の滞在の中で、とてつもないほどたくさんのことを経験することができた。今回のプログラムに関わっていただいた方に改めてお礼申し上げたい。プログラム全体をコーディネートしてくださった西山先生。レンヌでの発表原稿を添削していただいたベルアド先生やフランス人留学生の皆さん。レンヌ第二大学で暖かく迎えていただいた先生方、国際課職員の方々、学生の皆さん。レンヌ第二大学へ留学中の先輩方。パリでお世話になった八木さん。さらに、本プログラムへ一緒に参加して、私たちをサポートしていただいた鈴木麻純さん。

二週間近く様々な経験をともにした参加者の皆さん。皆さんのご協力なくしてこれほど実りある滞在期間へとすることはできなかった。最後に、本プログラムへの援助にお礼を申し上げます。この後もこのような素晴らしい経験ができる機会があり続けることを願います。


(凱旋門から 建物の高さがほぼ揃っていることがよく分かる)

直井つばさ(仏文2年)

直井つばさ(仏文2年)



はじめに

大学生活も2年が過ぎ、折り返しの時期に当たる今、この国際交流プログラムに参加させていただいたことはとても貴重な経験となった。2年間で学んできたものを応用し、これからの2年間で学ぶべきもの、深めたいことを自覚できる滞在となった。

フランスへ

深夜の飛行機便でフランスへと発つ。羽田からシャルル・ド・ゴールまで12時間ほどのフライトである。機内で過ごす時間はあまりに長い。そのため、シャルル・ド・ゴール空港に着くと、やっと1日が終わったかのような感覚に陥るが、まだ朝の5時であるというからなんとなく落ち着かない。しかし、疲労を感じることがないのは、見るものすべてが新しいフランスの街に緊張し、同時に期待していたからだろう。

そのまま電車に乗り込みパリへと向かう。7時頃、ふと窓の外を覗けばまだ暗く、寒さを感じさせる風景が広がる。出発前の日本では春めいた陽気が続いていたので、冬に戻ってきてしまったように感じる。それから車内を見渡すと、これから仕事に向かうであろう人々が増えていて、少しずつざわつき始めている。私たち日本人旅行者をちらちらと見る彼らの視線が気になる。外の人間に向けられるその視線を受けるたびに、とうとうフランスに来たのだなあ、と思う。長い1日と、2週間の滞在の始まりを感じさせる車内であった。

レンヌ第2大学での交流

首都大と交換留学協定を結んでいるレンヌ第2大学を訪れる。ここでは2校間の交流の一環として、日本語を履修する学生たちのクラスに参加させていただく。まず私たちが「東京」と「首都大での学生生活」についてプレゼンを行い、私たちの暮らす町、生活について紹介する。この発表は日本で、フランス人留学生のソニアとダビッド、仏文教室のベルアド先生に協力してもらい適宜、発表内容や原稿、発音のアドバイスを受けながら準備してきたものだ。しかし、やはり「発音は間違っていないだろうか」、「この内容で関心を持ってくれるだろうか」と不安は付きまとう。学生たちが静かに、だが関心をもって発表を聞いてくれているのが伝わってきた。しかし不思議と、この不安は発表が終わっても消えることはなかった。

発表後はレンヌの学生たちが用意してくれた焼き菓子をつまみながら、質問を交わす。私たちのフランス語も彼らの日本語もまだまだ未熟で、お互いに日本語とフランス語の両方を使いながら慎重に、探るように話した。フランス語で適切な表現が見つからず不安に感じる。同じように不安になりながらも言葉を探し、言葉を待つレンヌの学生の姿はまるで鏡に映る自分を見ているようである。しかし、このフランス語に対する不安を感じるたびに、それ以上のもどかしさを覚え、もっとフランス語で話したい、という思いが強まった。


(レンヌ第2大学の学生との交流風景)

(クスクス屋にて)

高校での哲学授業

フランスの高校には必修科目に哲学がある。哲学はフランスの大学入試に当たるバカロレア試験の受験科目の1つだ。(受験生に与えられる問題は論述式の問題が3題。このうち1題を選択し、これを4時間かけて考える。) パリ郊外の高校で、この哲学の授業を2コマ見学させていただく機会があった。おそらく日本の高校では見られないだろう授業風景は、非常に興味深いものだった。教師が教科書を一切見ないのだ。最初に教師は学生に主題を提示し、それをクラスで共有する。この日のテーマは「人間は幸福になるために作られているのか」である。この問いを考えるために、幸福こそが生きる目的と唱え、快楽主義で知られる古代ギリシアの哲学者・エピクロスの言葉が応用される。このように歴史に名を残す哲学者たちの考えは、彼らフランスの高校生にとって、それ自体が学ぶべき対象ではなく、問いに答えるために使う手段の1つにすぎない。考える主体は、自らにある。

哲学の授業と耳にすると、日本の倫理の授業が想像されたがそれとはだいぶ異なる。自分の高校時代を振り返る。教育課程の中で倫理に割かれる時間があまりに少ないためだろうか、「誰が」、「何を考えたか」という倫理の歴史を学ぶばかりで、私たち自身が考える時間はなかった。また、この高校の学生は積極的に質問する。この質問によって哲学は抽象的な問いからより実生活に近い、具体的な問いに応用される。生徒の質問によって授業がより充実した内容になっていくのが実感できる。ここで見た授業は、「哲学のやり方」、「考え方」を体に覚えさせていくような体力を使うものであった。

西洋美術に触れる

多くの作家が訪れ、古くから芸術の都と称されてきたパリは魅力的な美術館をいくつも有する。例えば、あのルーヴル美術館は近代の美術専門の博物館の始まりとされている。美術館の歴史の始まりを持ち、1度は鑑賞したいと思う作品が集まるこの街で、ルーヴル美術館、オルセー美術館、そして国立近代美術館(ポンピドゥーセンター)といった美術館に歩いて行ける場所に滞在していたことは幸運であった。限られた時間の中でも様々な作品を鑑賞する機会が得られた。

オルセー美術館には印象派の代表作品がずらりと並ぶ。マネ、モネ、ドガ、セザンヌ、ルノワール。彼らによって描かれた風景画の中には、滞在場所のアパルトマンからここオルセー美術館を訪れるまでに歩いた通りや、道中で目にしてきたセーヌ川が描かれた作品がある。印象派の画家たちが画材を片手に、かつてのパリを歩いた姿が想像できる。

どの作家の作品もそれぞれに心惹かれるものがあるが、私にとってルノワールは特別であった。彼の作品を観るのはこれが2度目である。初めて目にしたのは昨年6月に国立新美術館で行われたルノワール展だ。その時は展覧会の担当学芸員であり首都大で教鞭をとる横山先生にガイドして頂いた。当時は、印象派やルノワールに関する知識は全く無く、絵を目の前にガイドを聞き、未知のものをひたすらに吸収した。また、このプログラムへの参加が決まっていなかったこの時は、次はいつルノワールの作品が観られるのかも分からず、この感動を忘れまいと何度も作品の前を行ったり来たりしたのを思い出す。案外早い再会となった。作品の前に立つと、あの時のガイドが頭の中で蘇る。「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は、モンマルトルのダンスホールの様子を描いた作品だ。この絵のモデルはルノワールの友人たち。彼らはルノワールが画材をアトリエから運ぶのを喜んで手伝ったという。そのダンスホールがあるモンマルトルの街も先日歩いた。日本で学んできたものが目の前の絵や、フランスの街並みとしっかりつながる。わずかな知識ではあるが、それが活きているのを実感することは心地よいことであった。


(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)

パリには国立ドラクロワ国立美術館、ジャックマール・アンドレ美術館、エスパス・ダリ・モンマルトルといった小美術館も豊富にある。中でもジャックマール・アンドレ美術館はこれまで見てきた美術館とは異なる。この美術館は、アンドレとその妻ジャックマールによるコレクションが集められた邸宅であった。階段の床は歩くと小さく軋む音をたて、かつて2人が暮らしていた時そのままに家具が配置されている。壁紙はカラフルで、それ自体が美しい。こうした個人美術館を訪れるのは初めてだった。私が日本で見てきた美術館の多くは、どんな作品も邪魔せず、観客が絵に集中できるようにとの配慮から館内は白で統一されていた。しかし、彼らにとって絵は生活を彩る装飾の1つであったようで、お気に入りの作品が家中に散らばる。


(ジャックマール・アンドレ美術館)

作家が集まり、多くの作品が生み出されたパリ。彼らの作品を後世のパリに残すために美術館の歴史は生まれ、美術を愛するパリの人々によって多様な美術館が生じた。「芸術の都・パリ」を肌で感じた。

サクレクール寺院を訪れて



フランスの街を歩いていると、ふとした瞬間にミサを知らせる教会の鐘の音が聞こえてくる。中でも小高い丘の上にあるサクレクール寺院の鐘はモンマルトルの町によく響く。この寺院は1870年の普仏戦争敗北や、その翌年のパリ・コミューンの内乱で亡くなった多くの兵士や市民を追悼するために政府の支援を受け、建てられた。完成したのは1914年。比較的最近できた寺院のため、建物の外観をはじめとして、様々なところで近代的な一面がみられる。その一つが、寺院に入って正面にあるモザイク画だ。アール・ヌーヴォーを思わせるタッチで描かれている。中央にはキリスト。すぐそばにはジャンヌ・ダルクがキリストに両手を広げてサクレ・クール(聖なる御心)を捧げる。そしてその周りを取り囲むのは実に様々な人種、民族の人々。建立の背景に普仏戦争などがあるためか、兵士の姿も多い。そして左手には着物姿の日本人女性も見える。他の教会やカテドラル、修道院にはまずない、エキゾチックな画である。私はこのモザイク画にキリスト教とフランスの姿を重ねた。キリスト教は民族を選ぶことなく、すべての人々に開かれた普遍宗教である。また、フランスもヨーロッパを代表する他民族国家である。現代のキリスト教とフランスの在り方を見ているかのようであった。



そして、フランスを訪れた最初の日に私たちが強制収容所犠牲者記念碑を訪れたことを思い出す。フランスは、このサクレクール寺院完成後の第2次世界大戦でユダヤ人迫害の加害者となった。ドイツによる占領後、フランスのユダヤ人に降りかかった暗い歴史はこのメモリアルの他にもマレ地区を始めとし、パリのところどころで感じられる。印象深いのは、記念碑の壁に残された赦しと決して忘れないというフランス国民が、同じフランス国民であるユダヤ人を強制所に送った歴史を忘れることはないだろう。サクレクール寺院の天井を飾るモザイク画のような国の在り方が続くこと、そしてその国家がキリスト教のようにあらゆる人に開かれたものであることを願った。


(記念碑に刻まれた「赦しなさい、忘れないで」の言葉)

おわりに

2週間の国際交流プログラム参加は、私に多くの貴重な体験をさせてくれた。しかし、このフランスでの充実した滞在は多くの人のご厚意とご協力によって成り立ったものである。ここでお世話になった方々にお礼をさせていただきたい。まず、今回の滞在に同行し、フランスでの生活をサポートしていただいた麻純さん、お仕事の合間をぬってパリの街を愉快に案内してくださった八木さん、そしてレンヌでのプログラムにご協力いただいた留学中の3年生の皆さん。先輩方には様々な形でお力をお借りした。次に藤原先生には、フランスでも変わらず私たち学生を温かく迎えていただいた。また、レンヌ第2大学、イナルコそして高校訪問については、招いてくださったすべての教職員の皆様と、レンヌ第2大学での発表にアドバイスをくれたベルアド先生とソニア、ダビッドに深く感謝する。そして、国際交流プログラムに携わり私たち学生にこのような素晴らしい機会を与えてくださった皆様、とりわけ、このプログラムを計画、準備し2週間にわたりお世話になった西山先生には格別の感謝を申し上げたい。



吉田あんず(仏文2年)

吉田あんず(仏文2年)



今回、西山先生の国際交流プログラムに参加させていただいた。前までは映画や本でしか知らなかったフランスをこの大きな機会をいただくことによって直に触れてみたいという思いから参加を希望をした。これからフランスで自分がどのように感じたのか、日本とどのように違ったのかを書きたいと思う。その前にこの大きな機会を与えてくださった西山先生、羽田空港から滞在中大変お世話になった鈴木麻純さん、八木悠允さん、レンヌ中ガイドをしてくださった中野慎太郎さん、西あかねさん、新井実里さんに感謝の言葉を述べたいと思う。

レンヌ大学見学

私達ははじめに校内を見学した。少人数用の教室がたくさんあり、集中しやすそうな空間が形成されている。カフェテリアなども充実しており、バゲットなどが売っているしコーヒーが安い価格で売られている。学生は朝からこういった場所に集まり、コーヒーを飲みながら意見交換をしたり勉強をしたりしていた。図書館も見学させていただいたが、一階にはグループ討論ができるスペースがあり二階には飲食禁止私語禁止の部屋があるなど分けられたスペースの中で意図にあった学習ができるようにつくられている。昼食も大学の学食をいただいた。量がとにかく多く、味もとても美味しかったためどんな人でも満足できるものだった。特にフリットは山盛りにのせてくれるし温かくて美味しい。



そのあとはプレゼンと交流会だった。私の発表は大学についてということで首都大学での生活をフランスとは違う点を踏まえて発表した。皆さんとても真面目に聞いてくれていた。その後の交流会では日本とフランスの違いがよくわかるものとなった。私の経験上日本では外国の方との交流を苦手とする人が多く、こういった交流会が日本であったときには上手くいかないことが多かった。だから、逆にフランスに来て、フランスの方に受け入れてもらえなかったらと最初は心配していた。しかし皆さんとても優しくしてくれて、色んな質問をしてくれたり、自分に興味を持ってくれたので話しやすかった。手作りのお菓子を一人一つは作って来てくれて、とても美味しかったし感動した。帰るときもとても名残惜しそうで、お菓子を持って帰るように勧めてくれた。自分はこの交流を通して益々日本の外国人に対する冷ややかさを痛感した。これは学生に対するだけではない。新宿や渋谷では多くの外国人が働いているのを目にするが言葉がまだあまり通じない彼らに対してあからさまに嫌な態度をとる客を何人も見て来た。こうした面では日本はフランスに学ぶべき点がたくさんあると思った。


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次の日は授業見学だった。フランスの授業を見学するチャンスは二度とないかもしれないくらい貴重なものだったので、しっかりと学ばさせていただいた。授業の構成自体が面白く、まず机の並べ方がコの字の真ん中に横に並べられるという形状で日本ではあまり見られない並べ方だった。こうすると後ろの人が白板を見られないということもないし、コの字の中心のスペースを無駄にすることもないのでとても良い。自分が一番印象に残っていたのは単語テストで、先生が出した問いに対して1人ずつ小さな白板に答えを書いて一番早くあげた人にポイントが付くというものだった。こうしたゲーム形式の授業は面白いし学生も楽しんで学んでいる感じがとてもよかった。

イナルコ見学

イナルコ大学では4つの授業を受けさせてもらった。まず文法の授業は大教室の授業だった。しかし学生も主体的に参加していく形式で、ここではフランスの学生の積極性が垣間見られた。教授もとても面白い授業をされる方でとても興味深かった。ここで自分が一番印象に残ったのは「文脈を想像して読みなさい」ということだ。例えば「窓が開いているから寒い」というだけの文章でも教授はオーバーになるべくわかりやすく身振りを加えながら読む。文法を教えているだけなのにまるで本当に寒そうだ。しかし確かにその場を想像しないでただひらがなを追っているだけの学生はアクセントやリズムが単調になりがちで意味は分かるけれど日本に来た時に通じるかどうかは微妙だった。これは同時に自分たちがフランス語を読むときも単調になってしまっているかもしれないということで、文法を勉強するときでももっとフランス人に直接語りかけるように学ばなければなければならないと思った。

和文仏訳の授業もとても面白かった。テキストのフランス語を読んで日本語訳にして読むという形式だった。日本と違うのは一問を一人が解くのではなく、一問に対して自分が考えて来た回答を一人一人答えて正しい文法かどうかをチェックするというところで、これにより、より多くの学生が授業に参加しようとするところがいい。この授業で日本語の微妙なニュアンスの違いがよく分かるようになった。例えば「どの道を行っても」という文章があるのだが、1人の学生が「何道を行っても」でも良いのかという質問をした。確かに疑問詞「何」はフランス語でいうquelという意味につながるのでそれでも合っている気がする。しかし日本では皆、「何」という語は「道」にはつけない。当たり前のように思えても実際は不思議なことで日本語が難しい理由の1つだ。そのことを改めて感じた。

次の国際関係の授業は学生によるプレゼンだった。日本の国際関係についてだったがベトナム、朝鮮との比較だった。この授業もとてもレベルが高くてまず教授がとても厳しい。学生が発表している合間、合間にコメントや批判を加えていく。この授業を通して如何に日本の教授が優しいのか思い知った。この教授は発表の最初の方で既に批判をいれてくる。しかしそれはとても理にかなった批判で、事実を並べ立てるのではなく、自分の見解やどのような解決法が考えられるのかを述べるべきだというものだ。自分もプレゼンをする時に事実ばかり述べがちになってしまうので気をつけようと思った。

最後の授業は日本の法制史についてで、自分は一番この授業に感銘を受けた。今まで日本では日本の法制はヨーロッパのコピーと教えられてきていたが、当のヨーロッパでは日本の法制とヨーロッパの法制は成長しあっていて互いに互いの良い点などを踏まえつつ出来上がっていったということを文献を踏まえて実に論理的に明快に教えてくださった。ヨーロッパもまだ法制の地盤が固まっていたわけではないというコメントが心に残っていて、ふつうだったら自国を基盤に他国の法制が作られたと言ってしまいそうだけれど、ちゃんと事実をもとに教授自身の見解を述べているところが素晴らしかった。イナルコ大学の授業は授業自体もとても面白く勉強になったが、それだけでなく学生の態度やモチベーションが自分にとってすごく刺激になり、もっと沢山学ばなければならないと思った。
映画「ほんとうのうた」上映会

今回イナルコ大学では映画のイベントにも参加させていただいた。2011年私達日本人には一生忘れることのできない大きな災害である東日本大震災があった。今回の映画では、そのことをきっかけとして宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を題材に朗読をして本当の幸せとはなんなのかを見つけることがドキュメンタリーという形で描かれていた。東日本大震災は私が体験した初めての大災害だ。電話はつながらなくなり、テレビはいつものプログラムを変更、東北地方の人々は取り残されることとなった。そんな中で考えられることとはなんなのか。私がその朗読の中で心に残ったのは、主人公の親友が助けた男の子の言葉だ。彼は自分だけ生き残ってカンパネラが死んでしまったことに深い後悔をしていた。それはテレビでみた津波で母親を亡くして生き残った少女が自分だけ生き残り母親を助けられなかったことを悔いる姿とリンクした。しかしカンパネラの父は自分の息子の友人が生きるという選択をしたことを肯定する。きっとこれをみた被災者の方の心にもこの言葉は響いただろうと私は思った。また誠実に1つのことにきちんと向き合っていけば必ず伝わるということも学んだ。簡単には諦めてはいけない。映画の中に出てきた人たちは色んなやり方を常に求めて、常にどのようにすれば伝わるのかを追い求めていた。そのことをこのドキュメンタリーを通して感じた。

フランスの高校見学

高校ではまず鈴木さんの発表を見た。とても難度の高い論文なので高校生に理解できるのだろうかと思ったが、彼らの中には哲学がしみ込んでいるかのようで話に聞き入って質問などをしていたので驚いた。授業中もまじめにノートテイキングを行っていて、レベルの高さがうかがえた。



その後、理系の哲学と文系の哲学の授業を受けた。公民とか倫理とかはあるが哲学という授業は日本ではまず見られない。理系の哲学では教師が教室中をうごきまわって生徒の様子を見ながらアクティブに授業を行っていた。そのアクティブさはあまり日本の授業では見られないものだったので驚いた。内容はエピクロス派についてで、人間は幸福になるために作られているのかどうかについてだった。エピクロス派というもの自体は知っていたが具体的な内容までは分からなかったのでとても面白かった。たとえばドラックを使ったとして最初は快楽だが後に悪い効果が出てくるので、これはエピクロス派の教えに背くこととなる。このように身近に置き換えてみることでとても分かりやすい授業だった。


(食堂で高校生と同じ定食をいただく)

文系の哲学では社会契約についてだった。法を根拠づけるものがなんなのかを考えてみる。ここでは、「どんな状況で人間は自分の権利を渡してしまうのか?」など生徒からの素朴な質問が沢山あって自分も勉強になった。生徒の方々はとても大人の雰囲気で高校生の段階ですでに自分の意志を持っているということを感じさせた。質問も積極的にしていて、考えも洗練されていた。
パリ散策

フランス到着の初日、朝五時にパリに降り立った時はとにかく感動した。薄暗い中で見たきれいな建物や背の低い信号、石畳の小道、全てが日本とは違く見えて、ついにフランスに来たということ、映画や教科書の中に出てきた風景を目にすることができるということに喜びを感じた。



ノートルダム大聖堂
ステンドグラスで有名なノートルダム宮殿はとにかく荘厳だった。正面にはたくさんの彫刻が施されていて魔よけのためのガーゴイルも印象的。鐘は三年前に修復されたらしく12世紀の頃のリアルな音を奏でている。裏側にはフライングバットレスという支えるための支柱がたくさんついていて、表とはまたちがった趣で歴史の重みを感じさせた。中に入ってみると中のシャンデリアの光と外の光が融合してステンドグラスを照らしてより魅惑的な空間となっている。この宮殿では各々の聖人のチャペルがあり好きな聖人の前で祈りをささげることができる。自分は聖人の子供の頃のチャペルが気に入った。小さい聖人たちの像がたくさんあってとてもかわいらしい。何百年も前から神に祈るために人々が懸命にこの大聖堂を作り何百年も前から祈りが続いてると思うと感慨深い気持ちになる。

強制収容所犠牲者記念碑
パリの中心地にはユダヤ人を追悼するモニュメントがあり印象的な場所の一つだ。中に入ると収容人数が図で示されていて、いかに残酷な空間で生活をさせられていたのかがよくわかる。扉に「忘れないで」と書かれているのが特徴的で、フランスが未だユダヤ人に対し深い後悔の念を持っていることが伝わった。

ヴァンヌ散策
ヴァンヌはフランスに来て初めていった港町だった。着いた瞬間さわやかな海風と潮っぽい香りが漂ってきてとても気持ちのいい街だ。歩くとまるで「魔女の宅急便」の世界を歩いているようなそんな気分になれる。街自体はとても小さいがきれいな建物だけでなく教会や洗濯をするところなど生活に根差したものがたくさん見られるのでフランスのリアルな生活を垣間見ることができた。



カルナック遺跡
紀元前5千~3千年に当たる旧石器時代に定住し牧畜農耕を行っていた共同体の人々によって作られた。地方の伝説では聖コルネリがローマ兵を石に変えたといわれていたりケルト族の聖堂といわれたりしている。これらの話はメネク列石の近くの受付にある本で読むことができとても面白かった。自分的にはローマ兵が石にされてしまった話が気に入った。列石を少し遠めからみて整列したローマ兵がどんどん石にされていく姿を想像すると少し怖いけど面白い。石を触るとローマ兵が何か話しかけてきそうなそんな気がした。



モン・サン=ミッシェル
708年大天使ミカエルからのお告げをうけ、聖オベール司教が建設したモン・サン=ミッシェルはフランスで随一の巡礼地である。周りを砂浜で囲まれていて(満潮時は海になる)、外観だけでも圧巻だ。自分が行ったときは快晴だったので、青空にはえて、まるで空に浮かんでいるかのようにみえた。中に入るとまずお土産屋が小さい坂に沿ってたくさん並んでいる。日本の観光客が多いせいか日本語で書かれているお店もたくさんあってとても面白い。坂を上りきると海が一望できる小さい通りがある。海が地平線まで広がっていてすごく開放感がある。かもめと同じ目線なのが新鮮だ。修道院の中は身分によっていろいろな部屋に分かれている。自分が好きだったのは騎士の間というところだ。大きな暖炉が壁側に備え付けられてあって、ここでフランスの兵士たちが暖を取っていたのかと思うと時代の壮大な流れを感じた。

フランスと日本の違い
今回フランスに来て一番大きな違いを感じた一つに労働者と消費者の関係性の違いが感じられた。日本ではとにかく消費者目線ですべての仕事が行われている。客の立場を常に考慮し働かねばならない。これはとても重要なことではある。例えばレジなどでもお客様に対して失礼だからと日本の店員は必ず立って営業をする。しかし別の目線からみるとエネルギーを無駄にしているとも思える。逆にフランスは労働者目線になりすぎているところがある。店に入り何か買おうとしても前の客が店員と話しているとそれを待たなければならない。これは労働の効率を下げているといえる時もある。どんなに後ろに人が並んでいても彼らは彼らの話し合いをやめない。ここで国民性の違いが感じられた。

もう一つに物乞いの存在がある。日本ではホームレスでも金銭を要求してくることはめったにない。しかしフランスでは街を歩けばすぐにモノやお金を要求してくる人たちに会う。その人たちと自分たちの違い、またフランス内での大きな格差に驚いた。またテロに関しても多くのことを感じた。自分たちの滞在中にいくつかのテロが行われていたと帰ってきてから知らされたが、フランス国内にいるときは全くその気配を感じなかった。それはフランス人がテロに屈服しないという固い思いを持っているのだということを聞いて、日本人とは違う抵抗の仕方、これがフランスなのだ、と改めて思い知らされた。

今回このプログラムに参加させていただいて他国と自国の違いを改めて感じた。そして肌でフランスという国を感じることでいろいろなことを学ばせていただいた。改めてこの機会をくださった西山先生、いろいろなところを見学させてくださった先輩方に感謝の気持ちを述べたい